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番外編 優しい春の嵐
フウ、と一つ長い息を吐き出して、熊谷はガスバーナーの元栓を閉じた。
作業台の上には、今日一日かけて制作したガラス細工の動物たちが、所狭しと並んでいる。その数は、普段の倍以上だ。
朝から丸一日工房に籠もり、これだけの数の作品づくりに没頭していたのには訳がある。
今から五日前。
熊谷は、人生初のインフルエンザに罹患した。
体力や免疫力には自信があったのだが、診察してくれた月村曰く、「もういい歳だっていう証拠だよ」とのことで、その言葉の方がショックだった。
結局丸三日間は、高熱でベッドから出られず仕舞い。
熱が下がってからも、「無理は禁物!」と麒麟が目を光らせていたので、今日になってようやく、熊谷は制作を再開出来たのだ。
「……やべぇ、もうこんな時間か」
壁の時計を見上げると、深夜二時をとうに過ぎていた。
バーナーの火が消えたことで、冷たい空気が足元から一気に舞い上がり、全身を包み込んでくる。
作業中は集中しているので気にならないが、真冬の工房は酷く寒い。
時間が時間なので、尚更だ。
さすがにこの時間なので、麒麟も怜央も夢の中だろう。
リビングのエアコンが利くまでに、先に風呂を済ませてしまおう。
寝るまでの段取りを考えながら、リビングへ続く扉を開ける。
すると、真っ暗ですっかり冷え切っているはずのリビングには明かりが灯り、室内も充分に温められていた。
こんな時間に一体何故、と思わず扉口で立ち尽くす熊谷の耳に、クスリと悪戯っぽい笑い声が飛び込んできた。
「無理は禁物って言ったのに、結局こんな時間まで作業してんだから」
声のしたキッチンへ目を向けると、カウンターの向こうに麒麟が立っていた。
パジャマ代わりのTシャツにパーカーを羽織って、小鍋をかき混ぜている。
「もしかして、ずっと起きててくれたのか?」
「いつまで経ってもベッドが冷たいから、眠れなくてさ」
「……悪ぃ」
決まりが悪くて頸を擦った熊谷を見て、麒麟が再び肩を揺らして笑った。
コンロの火を止め、鍋の中身を二つのマグカップへ注ぐ。漂ってきた甘い香りは、ホットミルクだ。
二人分のマグカップを持ってキッチンから出てきた麒麟が、その内の一つを差し出してきた。
サンキュ、と有難く受け取って、二人でソファへと並ぶ。
ホットミルクを一口含んだ麒麟が、懐かしむように目を細めて、甘い息を零した。
「なんか、懐かしい。俺がここに来たばっかりの夜も、眠れなくてホットミルク飲んだよね」
「あの時はまだ寝室も無くて、俺もお前もこの部屋で寝てたな」
ある日突然やって来た、見ず知らずのΩの少年。
警戒したハリネズミみたいに、あの頃の麒麟はまだトゲだらけで、危なっかしくて。
そんな麒麟が、熊谷にとって生涯のパートナーになるなんて、出会った日には想像もしなかった。
「俺も、いつかの勝吾さんみたいにホットミルク作れるくらいには、成長出来たってことかな」
「お前はむしろ、もうちょっとペースダウンして欲しいくらいだ。こちとら年々歳感じるようになって、焦ってんだぞ」
守ってやりたいと思っている熊谷の方が、気づけばいつも、年下の麒麟に支えられている。
麒麟も今では、すっかり頼もしい青年になった。
繋いだ手に、いつの間にか縋ってしまっているのは、きっと熊谷の方だ。
そんな熊谷の胸中を察したのか、麒麟が甘えるように肩へと凭れかかってきた。
「どれだけ必死に走ったって、俺は勝吾さんには追いつけない。月村先生みたいに、勝吾さんと同い年には、絶対なれないんだよ」
「お前は、すぐ月村に並びたがるな」
「だって悔しいじゃん。どんなに頑張ったって、俺は先生みたいに、落ち着いた大人になれないからさ」
熊谷の肩に頭を預けたまま、麒麟がムスッと頬を膨らませる。
こういう表情は、熊谷から見るとまだまだ幼くてホッとする。
口に出すと余計に不貞腐れそうなので、黙っておくことにするが。
「お前が月村みたいなヤツだったら、きっと番にはなってねぇよ。あんなサディストは、月村一人で充分だ」
「俺も流石に先生には勝てないから、勝吾さんの飲み友達の座は、おとなしく譲ることにする。でも俺は、勝吾さんの背中をこの先もずっと追いかけるから、勝吾さんにも安心して背中預けて貰えるようになりたい」
初対面でも印象的だった、麒麟の意思の強そうな瞳。それは今、一層輝きを増して、熊谷を真っ直ぐに見つめている。
こんなにも頼もしい、年下のパートナーが居るだろうか。
「……何言ってんだ。お前には、もうとっくに頼りっぱなしだろうが」
コツ、と肩口の頭へこめかみをぶつけると、嬉しそうな笑い声が返ってきた。
「実はそう言ってくれんの、ちょっと期待してた」
「ここに来たときから、お前は充分すぎるほど、いつも俺を振り回してくれてるだろ」
「……それって、褒め言葉?」
前髪の下から八の字に寄せた眉を覗かせて、麒麟が渋い顔で見上げてくる。
少し癖のある前髪を指で払って、形の良い耳朶を辿り、そのまま首筋へと手を滑らせる。
そこへ熊谷だけの証を刻み込んだ日から、気づけばもう随分経った。
麒麟が熊谷の元を訪れていなければ、今頃はまだ、一人で工房に篭ったまま、悔恨に囚われ続けていたかも知れない。
ある日偶然舞い込んできた、春の嵐のような麒麟が、熊谷の過去も何もかも、全てを包み込んで攫ってしまった。
残ったのは、共に過ごす、陽だまりのようにあたたかな時間。
隣に座る麒麟の肩を抱き寄せて、熊谷は痕の残る頸へ唇を寄せた。ピク、と麒麟の身体が小さく跳ねる。
「言わなきゃわからねぇなら、身体に教えてやろうか?」
「っ……それ、ずるくない?」
熊谷がしばらく寝込んでいたこともあり、こうして触れ合うのも少し久しぶりだ。
スルリと悪戯にパーカーの裾から手を滑り込ませると、麒麟が「降参」とばかりに熊谷の首へ抱きついてきた。
「……無理は禁物ってさっき俺が注意したのに、結局無理させる羽目になるかも」
「そいつは楽しみだな。こっちは病み上がりだから、リードしてくれよ?」
「任せて。明日一日ゆっくりしてていい分、朝まで寝かせないから」
反論は聞かない、とばかり、麒麟から深く唇が重ねられた。
強い風に煽られるように、熊谷の中の欲求もあっという間に燃え上がる。
そして今夜もきっと熊谷を思う存分翻弄して、麒麟はまた今年も、熊谷の元にあたたかな春を運んできてくれるのだ。
出会ったときから、決して変わることなく。
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