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1-1 アキヒコ
ピピピッ、と目覚まし時計が鳴り始めた。いつも早めにアラームを設定してある。
暖かいベッドの中から腕を伸ばして、亨 がそれを止めるんが、半分寝ぼけた視界に見えた。
ううんと眠そうに甘くうめいて、俺に擦り寄ってきた亨の体は裸のままで、さっきまで眠っていたせいで、すごく温 かった。
「アキちゃん、もう行かなあかんの」
ぼんやりとした、甘える猫みたいな声で訊ねてきて、亨は俺の体に腕を回してきた。こっちも裸のままやったから、抱きつかれると素肌が触れて、気持ちよかった。
それに、ついうっとり目を閉じかけてから、俺は天井を見上げた。カーテンから漏れた薄い冬の朝日が、寝室の天井を細い線になって伸びている。六時やった。
「まだ早すぎやって。なんでいっつもこんな朝早うに目覚ましかけんの」
遅刻しそうになって、ばたばた走って大学に行くんは、格好悪いから、俺は嫌なんや。早めに起きて、風呂にも入って、朝飯もちゃんと作って食うて、普通に歩いて駅まで行きたいねん。
お前が来る前は、七時に起きれば余裕で間に合うててん。学校が十時からやし、九時に部屋出たら余裕やった。駅前で買ったコーヒーを、ゆっくり飲んでから、課題の絵に取りかかるのが日課やってん。
ぶつぶつと文句を言う口調で説明する俺に抱きついて、亨は頬にキスしながら、にやにや聞いていた。聞いてるのかどうか怪しかった。長い指をした亨の手が、ふたりぶんの体温のこもる布団の中で蠢いて、俺の体を撫でてきた。
「まだ時間あるやん。もう一回抱いて」
興奮してきてるのに触れて、亨は耳元で誘う、囁くような声になった。その声が耳に心地良うて、何となく頭がぼうっとする。
俺は亨が誰なんか、実はよう知らん。
こういうのを、いわゆる行きずりの相手って言うんやろか。それを認めたないけど、とにかく亨が、どこの誰とも分からへん、名前しか知らん相手で、いつの間にか俺の下宿に居着いてるんは、ほんまや。
クリスマス・イブの夜、俺は半年付き合うてた、美大で一年の時同じクラスやった女に振られた。可愛い娘 やていうのに、俺はまんまと騙されてた。はんなりした京都弁の彼女が、子供の頃からの憧れやった東山の某ホテルで、イブの夜を過ごしたい言うんで、そうなんやと思って、俺は一部屋予約した。そしてクリスマス・プレゼントにと思って、彼女のために描いた絵をあげたら、あの娘 は怒った顔をして、これだけ、と訊いた。
これだけ?
他に何が要るんや、と。
まあ、そんな訳で大喧嘩になり、結局は金目当てやったらしい悪い女への恋が、真冬の冷や水で一気に冷めて、彼女はぷんぷん怒って帰り、俺はホテルの眺めのいいバーでやけ酒を飲んだ。
やる気満々やったのに、それがキャンセルになって、お預け食うた気分やったんが、まずかったのか。
亨はそこのバーテンやったんや。にこにこ笑うてる顔が愛想良くて、聞き上手やった。酔っぱろうて自分が何を喋ったか、考えると怖い。
店の閉まる時刻の、大きな窓から見える東山の空が、白々としてくる頃まで飲んで、俺は酔いつぶれていたらしい。らしい、というのは、その時点での記憶が、すでにもう無かったからや。
その朦朧と理性のない頭で、俺は亨に頼んだらしい。寂しいから、一人にしないでくれと。
それを素直に聞き入れたとのことで、亨は店の支払いを立て替えて、バーテンの制服を脱ぎ、シーツに一本の皺もつけてないホテルの部屋のチェックアウトまでして、タクシーで俺を下宿まで連れて帰ってくれた。
倒れはしないものの、泥酔したままやった俺は、部屋に着くなり亨を寝室に連れ込んだんやて。そやけど、その話は、嘘やないかと思う。
だって、今だかつて女としか付き合うたことのない俺が、男相手に寝ようと誘うもんやろか。そんなん変やろ。
たぶん亨は、酔っぱろうてた俺を寝かせようとして、ベッドに連れて行ったんやろう。それで何かなし崩しに、そういうことになったんや。
亨は男の目から見ても、何や、ぞくっと来るような、綺麗な顔をしていた。何がどうという説明はできへんけど、目の前でにこにこしてるだけで、そそるというか、なぜかエロくさい。ちょっと触りたいっていう気分になってくる。
素面なら、それを我慢したやろうけど、なにしろベロンベロンに酔ってたんや。理性がおねんねしてて、アキちゃんの手は正直やった。やりたい言うから、やっただけやでと、亨は悪びれもせずに教えてくれた。
それを翌朝、というか、翌日の昼下がりに、やっと惰眠から目覚めて聞いた俺の、頭の痛さというたら、今までの人生で一番酷い二日酔いのようやったけど、それでいて体のほうは途方もなくすっきりしていた。
たぶん。よっぽど、すっきりするような事を、眠りこける前にやったんやろう。
亨はそれからずっと居着いている。体の相性がいいと言うて。昼となく夜となく俺を誘って抱かせ、もちろん朝でも誘う。ちょうど今みたいに。
「アキちゃんの大学って、もう冬休みなんちゃうの。なんで毎日学校行くの。美大ってそういうところなん?」
指先で誘う愛撫をしながら、亨はぼんやり不満そうに訊いてきた。そう訊ねる唇が、もう俺の唇に触れそうやった。
「学校行って、なにやってんの。遊びに行こうよ、俺と」
絵を描いてるんやと、答えようとしたけど、亨がキスしてきたので、答えられなかった。柔らかい唇は甘く、今までしたことがある、誰相手のキスより気持ちがよかった。そんなことするのは変やないかという気はしたが、やめようという気がせえへん。少なくとも部屋に籠もって、誰も見てへん限りは。
そのうちこれが、人が見てても平気になったらどうしようかと、ちらりとそんなことが頭をかすめた。
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