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1-2 アキヒコ

 それに気づいたみたいなタイミングで、亨は唇を離した。そして何となく色の薄い明るい色の目で、じっと間近に俺を見た。気まずうなって、俺は言い訳みたいな口調で言うた。 「絵を仕上げなあかんねん。課題やし。それに、出来上がったら引き取り手が決まってる」 「アキちゃんて絵描きさんなん? 学生なんちゃうの」  足を絡めてきながら、亨は分からないというように、眉間に(しわ)を寄せていた。  正体が分からないことに関しては、お互い似たようなもんやった。  亨が知ってるんは、俺が本間暁彦(ほんまあきひこ)という名で、京都の山ん中の美大に通う日本画専攻の画学生で、出町柳(でまちやなぎ)の親名義のマンションの、最上階の部屋に下宿してるいう事だけや。  エントランスの自動ドアは顔認証。部屋の扉も、ポケットに鍵を入れてるだけで勝手に(じょう)が開き、エアコンが入る。そういう部屋や。  俺の絵がお気に召さへんかった、あの女を追い出してから、俺は部屋の鍵を変えた。何十万もかかった。あの女が鍵を返していかへんかったからやし、返せと頼むくらいなら、金を払ったほうがましやった。エントランスの登録者リストからも、もちろん、あの可愛い顔を削除済みや。  その後に空いている居住者の登録枠は、まだまだ余裕があった。なんせ4LDKや。普通は五、六人の家族で住むもんやろう。  その空いた枠に、亨の綺麗な顔を登録しといてやるのは簡単やった。電話一本かけて、来いと言うたら、業者はいつでも飛んでくる。俺がというより、俺の親が、それだけの力を持ってるからや。  新しい鍵は、五個も渡されていた。亨はそれを見てたし、知ってるはずやけど、鍵をくれとは言わへんかった。部屋の鍵だけもらっても、いっぺん外に出てもうたら、もう戻られへんシステムなことを、亨は理解しているからやろう。  エントランスの扉が、登録されてへん顔を拒むからや。俺が部屋にいて、インターフォンから解錠すれば、大きな(くも)りガラスの自動ドアは客を迎え入れるやろうけど、昼間ひとりで部屋にいる時に亨が外に出かければ、ひとりでは戻られへん。  こいつはいつまで、ここにいるつもりなんやろ。鍵くれって言えば、一個持たせてやったかもしれへんのに。 「学生やけど、おかんに頼まれて、絵描いてやってんねん」  気恥ずかしさを隠して、俺は白状した。  マザコンやってバレる。うちは母ひとり子ひとりで、それでも苦労してるようには見えへん母親に、俺は逆らえへん。美大に入って、実家を出たふりはしてるけど、でもまだおかんの持ってる部屋に住んでる。週に一度は、用事がなくても電話してる。亨が来てからは、まだ一回もしてへんけど。  だって、電話でおかんに、アキちゃん、なんも変わりはあらへんか、と、いつものように、はんなりと()かれたら、なんて答えていいかわからへん。  元気にしてるよ、名前しか知らん男を部屋に引っ張り込んだけど、綺麗な顔してて、行儀もええやつよ、せやから心配いらへんよ、なんてな。  俺はもう死にたい。 「アキちゃんのお母さんて、なにしてはる人なん。ここの持ち主も、お母さんなんやろ。ものすごいお金持ちなんや」  亨は悪気もないふうに()いてきたけど、俺は答えたくなかった。  なんでお前とベッドでいちゃつきながら母親の話をせなあかんねん。そこまで悪趣味ちゃうわと内心毒づいたけど、でも俺は単に、お前んちは金持ちやなという話をされるのが嫌なだけやった。  亨もあの女みたいに、この部屋とか、俺の車が気に入っただけで、財布に入ってる万札の数で俺を選んだんかと思えて、気が滅入ってくる。  しかしどうも、そうではない。  例のクリスマスの昼過ぎに、二日酔いの頭でくらくらしながら、俺が事の次第を亨から聞き、まず最初に思ったことは、こいつに払ってもらった飲み代を返さなあかんということやった。  どんだけ飲んだか憶えてへんのやけど、自分が大酒飲みやってことは良う知ってたし、それに、開けるボトルの値段なんか気にしたことあらへん。にこにこと愛想のいいバーテン服の亨に、がんがん注がせて、がぶかぶ飲んでた。そやから伝票にはいっぱい(けた)が並んでたはずなんや。  幾らやったと()くと、亨は忘れたと言うた。忘れたというか、知らん。もともと見てへん、と。それでどないして払たんやと訊くと、亨は自分の服を探して、ごそごそとポケットから無造作に、いかにも高級そうな黒革のカードケースを出してきて、そこからさらに、真っ黒いクレジットカードを出した。  これで(はろ)てん。なんでも買える魔法のカードやでと、亨は子供みたいに、にこにこして言った。カードには英字で、トオル・ミズチと刻印してあった。それが亨のフルネームやった。水地亨(みずちとおる)というらしい。  亨は見た目、俺とほとんど同い年くらいに見えた。ちょっと年下かもしれへんけど、時には年上のような気がするときもあった。だけどとにかく一、二歳の差しかないように思え、それがホテルのバーテンで、なんで限度額のない黒いカードを持てるんか。  想像するのは嫌やった。それはどうでもいい事と思いたい。分かると何か、嫌な目にあいそうな気がした。これは長年の(かん)や。度を超えて金をたくさん持ってるやつには、二種類しかいない。善人のような顔をした悪党か、悪党らしい顔をした悪党かや。  それで俺は亨に素性を尋ねず、立て替えてもらった飲み代も、まだ返していない。  それを取り立てるつもりではないやろうけど、亨には去る気配もなかった。ただ一日家にいて、退屈やねんと文句を言うだけやった。俺の素性を知りたいらしかったが、うるさく(たず)ねてはこない。とにかく俺が、抱いてやってる限りは。 「ほんまにあんまり時間ないねん、亨。叡電(えいでん)は電車の本数ないんやから。やるなら、早くやろ」 「車で行けばええやん、ついでに連れてってくれたら」  渋々のような口調でいながら、亨は嬉しそうに(またが)ってきた。まるで自分が突っ込まれるような気がして、俺は複雑な気分やった。  そやけど亨はそういうことはしない。入れられるほうが気持ちええんやって。女みたいなやつ。いっそほんまに女やったら、なにも悩まんで済んだのに。  俺が毎度悩んで気が萎えるので、亨はそれをやるのに必要な支度は全部自分でやった。まるでそういう商売のやつみたいやと毎度思うけど、案外ほんまにそうかもしれんという気がして、怖くて訊いてみたことはない。  なんか付けな痛いから言うて、亨はよりによって、ベッド脇のサイドテーブルに前の女が残していった、マンゴーの匂いのするボディクリームを使った。匂いが気に入ったらしい。  彼女が半年かけて使うても、ちょっとしか減らへんかった、その淡いオレンジ色のやつは、亨がきてからたった一週間でほとんど空になっていた。新しいのを買いにいかなあかんと言う亨の話を聞いて、やりすぎやないかと俺は反省した。  女とかて、そこまでやらへんかった。たぶん、そこまで気持ちよくはなかったんや。亨と抱き合う時ほどには。  震いつくような息をついて、亨がいかにも気持ちよさそうに、ゆっくりと俺を呑んだ。それは確かに、やばいような気持ちよさやった。呑まれながら、学校行かなあかんと、俺は自分に言い聞かせていた。  学校行って留守にしないと、こいつと一日中、部屋でやりまくってる。そうに決まってる。  それはやばい。絵も仕上がらへんし、何もかも滅茶苦茶になる。おかんにも言い訳できへんし、俺が振られたショックで大学に顔出さへんようになったって言われたら、腹が立つ。 「アキちゃん、めちゃめちゃ気持ちいい」  泣きそうな声で亨が教えてきた。それに俺は頷いて、自分の上で身悶えて励む亨の顔を見た。  なんて綺麗な顔やと、何度目かで思った。こうして喘いでる時が、いちばん綺麗や。いつもの微笑んでる顔もいいけど。今のこの顔が、いちばん、すごくいい。  それに触れたい気がして、片手を伸ばして頬に触れると、亨は切なそうな顔のまま、頬を擦り寄せてきた。 「アキちゃん、俺、もう、イキそう。朝やからかな。めっちゃ弱い、みたい……」  亨のよがり方は身も蓋もなかった。見てると何の(つつし)みもなく(よろこ)(あえ)ぐようで、こっちが恥ずかしい。その恥ずかしいのが、またええんやと亨は言うのだが、その通りかもしれへん。そんなに気持ちええのかと思えてきて、なにか胸に来るものがある。  それをどう言うたらええのか、俺にはいつも分からへん。  自分が何を感じてるのか、自分でもよう分からへん。ただもう胸がざわつく。これ以上なく近くにいるのに、まだ遠いような気がして。 「亨、場所変わってくれ」  一瞬、戸惑ったような顔をした亨を布団の上に押し倒して、繋がったまま体位を変えた。亨は薄茶色の目で俺を見上げて、ちらちらと不安げな視線をした。 「どしたん、アキちゃん。気持ちよくなかったん?」 「そうやない。ただ、お前を突きたくなっただけ」  俺がそう言うと、亨はちょっと、恥ずかしそうな笑い方をした。 「そうかあ。ほな頑張って」  照れ隠しみたいに、そう答え、亨はぎゅっと俺の手を握ってきた。  変な癖やと思うけど、亨は時々手を繋ぎたがった。別にこうして体が繋がってない時でも、亨は時々思い出したみたいに、手を握ってきた。  それには何故か、心を満たされる。酔いつぶれて寂しいと言った俺を、亨は哀れんでるのかもしれへん。 「ごめんな、アキちゃん。俺、女の子やったらよかったのになあ。そのほうがええんやろ、アキちゃんは」  なんでそんなこと急に言うんやろ、亨は。おかしな事言うなあと思えたけど、済まなそうに言われ、また胸につまされた。 「そんなん、今さらどうでもええねん。黙っといてくれ」  ほな、キスしてと、亨は言わなかったが、淡く喘ぐように開かれた薄赤い唇が、そう言うてるような気がした。その唇を貪りたくなって、俺は誘われるまま亨にキスをした。

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