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08:後輩の忘れ物
「松田さん、大変ですよ! 速水さんのデスクを見てください!」
切迫した声で、同じ営業部の女性社員が言う。
速水は入社2年目を迎えたばかりの若い男性社員だ。
速水が新卒で入ったばかりの頃は、松田が教育係として熱心に指導をしており、今でも松田が面倒を見ている。
玲は、そんな2人を過去の自分と松田の姿に重ねて、何かと気にかけていた。
「げっ! 何やってんだアイツ……っ」
松田は速水のデスクに駆け寄り声を上げた。
そこには、自社名が印刷された水色の角2号封筒があった。
速水は午後の打ち合わせで使う資料一式や契約書が入ったそれを忘れていったのだ。
部署内がざわつき始める。
それもそうだ。
今日のプレゼンの相手は大口の見込み顧客なのだ。
契約が取れなければ、部署の月間目標に影響が出てくる。
相手はアプリ開発で品川にオフィスビルを構えるほどの企業だ。
松田と速水の頑張りにより、全フロアに自社のウォーターサーバーが導入されることになっていた。
既に相手方の総務部担当者からは合意を得ているため、今日は責任者を前に、形だけの簡単な説明と、契約が取り交わされる予定だ。
速水がこのような案件にあたるのは決して初めてではないし、松田と共に念入りにロールプレイングや資料作りを行っていたので、誰も心配せず、速水を送り出した。
しかし、資料はここにある。
困惑する声は広がるが、具体的な解決策は何も上がってこない。
主任である玲より上の立場の係長も、腕を組んで遠巻きに見ているだけだ。
先方の責任者は忙しく、今日はようやくアポを取ることが出来たのだ。
今日を逃せば次がいつになるか分からない。
仮契約が白紙になる恐れもある。
(何とかしないと……)
玲は頑張ってきた2人の落胆する顔を見たくなかった。
動揺を隠して、至って冷静な顔で指示を出す。
「松田、取り敢えず速水に電話して。本当に資料を忘れたのか事実確認。デスクに置いてあるのは予備の可能性もあるし」
玲の凛とした声にハッとした松田がすぐさま指示に従う。
速水と先方との約束の時間まで、あと25分。
「坂井くん、届ける場合を想定して、封筒の中身、不備が無いか直ぐにチェック。雨で濡れないようにビニール袋に入れてくれる?」
「花村さん、置きっぱなしの封筒に気が付いてくれてありがとう。悪いんだけど、駄目もとで自転車便が間に合うか問い合わせて下さい」
「山本さん、先方の最寄りのコンビニで、FAX受信できる所を調べてくれない? 契約書は複写用紙だからコピー用紙じゃマズイんだけど……無いよりはマシだからさ」
玲は淡々と周囲に指示を出していく。
その横で速水と電話をしていた松田が「え~!」と声をあげる。
「新代さん、どうしよう!」
聞くと、速水は誤って別の封筒を持って出てしまったらしい。
社員旅行の副幹事になっていたため、旅行会社の水色のよく似た封筒と取り違えてしまったようだ。
更に悪いことに、速水はこの取引の後、私用で直帰の予定だった。
会社の備品であるタブレットやPCは、情報漏洩を防ぐために自宅に持ち帰ることは禁止されている。
つまり、松田の手元にはタブレットもPCも無いため、メールで資料を送ってやることも出来ない。
「新代さん、自転車便ダメでした……」
「雨の影響で道が混んでて、タクシーも捕まりません」
「速水くんの徒歩10分圏内に、FAX受信可能なコンビニは無いです」
次々と残念な知らせが舞い込んでくる。
(詰んだ……)
残り23分。
車を飛ばしても、雨で渋滞した道では30分はかかる。
身体が脱力しそうになる。
(いや、“資料を忘れたから”とドタキャンするより、数分遅れても取引できた方が、心証は絶対に良い!)
「松田、速水と話していいか?」
そう言って通話中の松田から受話器を受け取る。
「お疲れ様、新代です」
努めて明るく声をかける。
『に、新代さん、申し訳ありません、ど、どうしましょう……』
泣きそうな声で謝罪する速水に、すっと息を吸ってから芯のある声で言う。
「……速水、大丈夫だ。現時点で、まだ先方を困らせた訳じゃない。対処できる。
少し遅れるかもしれないけど、書類は必ず届けるから、雨に濡れない所で待ってろ。身嗜みが一番大事だ。
あと、約束の時間5分前になったらロビーで待たせて貰え。“雨で遅れます”とか変な嘘をついて、お忙しい相手に“時間管理が出来ない奴”ってレッテルを貼られる方が良くない。
お前まだ若いから“緊張し過ぎて忘れ物しちゃいました”って言った方が可愛げがある。
上手い謝罪の仕方やトークのコツは、得意な松田から聞いておけ。じゃあな」
隣で会話を聞いていた松田に受話器を返し、坂井から封筒を受け取る。
(確か駐輪場に、置きっぱなしのカギの無い自転車があったはず……)
信号や渋滞が多い道では、車より自転車の方が早いことはままある。
最低限の連絡事項を伝えてフロアを出ようとした時、玲の上司である無能な“バ課長”こと細川と鉢合わせてしまった。
他人に厳しく自分に甘い細川は、1度説教を始めると、ねちっこくて長いのだ。
「……新代、そんなに慌てて、何か問題でも?」
細川が細い目をさらに細めて、嫌味ったらしい声で玲に問う。
まともに受け答えをしていたら遅れてしまう。
「いえ、“まだ”何も問題は起きていません。ただ、問題になりそうな事案があるので対処中です。では」
玲は一気にまくしたて、まだ何か言いたげな細川の横を颯爽と走り抜けた。
階段で一階まで駆け降り駐輪場に付くと、目当ての自転車が……無かった。
側にいた管理員の男性に声をかける。
「すみません、ここに自転車がありませんでしたか?」
「ああ、ずっと放置されてて古かったから、先週、業者に出しちゃったよ。あれ、もしかして兄ちゃんの自転車だった?」
ごめんよ、と謝る男性を横に、膝から崩れ落ちそうになる。
(だめだ……本当に詰んだ……)
自転車ならばまだ望みはあったが、走ったところで到底間に合わない。
先程まで降っていた雨は上がり、雲の切れ間から太陽が覗いている。
あと1時間でも早く雨が上がっていれば、タクシーの1台くらい捕まえられたかもしれないのに……。
急いで速水に連絡を取り、先方に謝罪し日を改めるよう伝えるべきだ。
肩を落とし、オフィスへ戻ろうとする玲の背中に、誰かが声を掛けた。
「乗ってくかい? ハニー」
すぐそばの通りに、路肩に寄せたバイクに跨がる、陽気な大男が居た。
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