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第1話

「あっ、あ、も……無理……っ! イク…────ッ!」  ビクビクと全身を跳ねさせて、(はるか)は見知らぬ男に身体を貫かれたまま、もう何度目かわからない絶頂を迎えた。  パタパタと悠の腹に白濁が散るのを見て、悠に挿入していた男と、それから悠を取り囲んでいた複数の男たちから、口や顔、胸元に次々に精をかけられる。  内心では酷い嫌悪を感じつつ、それでも全てを恍惚とした表情で受け止めた後、ようやく監督からカットの声が掛かって、悠は思わず長い息を吐いた。  男相手のAV男優という仕事にはそこそこ慣れてきたつもりだったが、さすがに一度に五人もの相手と絡むのは初めてで、今回の撮影は肉体的に相当キツかった。  自分のものと、他の男優たちの体液で汚れた身体のまま、ぐったりとベッドに横たわって動かない悠に、「ユウ君、お疲れ様。大丈夫?」と、撮り終えた映像のチェックをする傍ら、監督が軽い調子で問い掛けてくる。 『ユウ』という呼び名は、悠がこの業界内で使用している男優名だ。 「……お疲れ様です。正直、五人も相手するとか聞いてなかったんで」  嫌味を込めて悠が気だるい声を返すと、監督はわざとらしく驚いた顔を見せた。 「あれ、一応マネージャーに話しておいたはずだけどな。聞いてない?」 「……聞いてないっす」 「それは申し訳なかったなあ。でもまあ、これも経験ってことでさ。お陰でイイ画録れたよ」  全く悪びれた様子もなく、監督はあっけらかんと笑い飛ばした。  ……所詮はΩの扱いなんてこんなモンだ…と、悠はこれまで幾度となく味わってきた理不尽さに眉を顰める。  悠が所属しているプロダクションは、地方に事務所を構える、業界内では決してメジャーとは言えない小さなプロダクションなので、仕事が貰えるだけ有難いのだが、一人のマネージャーが所属する男優全ての対応に当たっている為、今回のように撮影内容が事前にきちんと説明されていないことが、これまでにも何度かあった。  だがΩの自分がそのことに不満を漏らせば、恐らく契約ごとあっさり切られるのは目に見えている。  何せ、悠のように身体を売り物に、少しでも稼ぎたいΩなんて山ほど居るのだ。  だから例え今回のようにキツい現場に当たっても、運が悪かったと泣き寝入りするしかないのが現状だった。  撮影時の行為で快感を感じたことなんて、一度もない。だが仕事上、どれだけ嫌悪感を覚えてもカメラの前では行為に感じ入っている男を演じなければならない。だから悠は撮影の際、いつも『ある記憶』に縋りつくようにしていた。  悠が初めて発情期を迎えた日に、たった一度だけ、悠は一人のαと身体を重ねた。悠がセックスで快感を覚えたのは後にも先にもこの一度きりで、それ以来、悠はこの業界に入ってからも、行為の際は必死でそのときの快感を思い出しては、記憶に残る感覚を追うようになっていた。  けれどこうして撮影をこなす度に、悠の身体も記憶も、全てが徐々に汚されていくようで、いつしか過去の記憶も思い出せなくなるような気がして、まるでどこまでも離れない影のような不安に、悠はいつも密かに怯えていた。 「……シャワー、浴びてきます。お疲れ様でした」  怠い身体をどうにか起こして、悠は監督に軽く会釈してからシャワールームへ向かった。  撮影前はメイク担当のスタッフに綺麗に整えて貰っていた襟足が長めの明るい茶髪も、首元のネックレスも、身体中が最早誰のものかわからない体液にまみれていて気分が悪い。  私物だったネックレスは強引に引きちぎって脱衣所のゴミ箱に投げ捨て、悠はいつも撮影後そうしているように、この日も触れられた感触ごと全て洗い流すべく、熱い湯で念入りに身体を洗った。  御影(みかげ)悠、二十四歳。  この業界に足を踏み入れて、五年の歳月が経とうとしていた。  撮影スタッフに事務所の入ったビルまで送ってもらい、マネージャーにこの日の撮影の終了報告を手短に済ませて、悠は古びたオフィスビルを出た。  Tシャツの襟元に引っ掛けていた度の入っていない眼鏡をいつものように掛けて、悠は子供の頃から変わらない猫背で足早に歩き出す。  男同士のAVで、おまけに大手プロダクションに所属している訳でもないとは言え、AVに出るようになってからは何となく、悠は外を出歩くときには素顔を隠すのがクセになっていた。  有難いことに、多少目付きは悪いものの、そこそこ恵まれた容姿の悠は、「生意気そうな顔が乱れる様が良い」と一部の層には好評なようで、今では悠単体ではない作品も含めると、多い時は月に二、三本ほど出演依頼がくることもあった。悠が所属しているプロダクションの規模を考えれば、その本数は、最早トップと言っても良いレベルだった。  当然、仕事が来れば来るほど収入も増えるので、その点は素直に有り難い。けれど、同時にそんな悠を同じプロダクションの男優たちが良く思うはずはなく、事務所に行けばいつも刺すような視線があちこちから飛んでくるので、悠は日々居心地の悪い思いを抱えていた。そもそもやりたくて始めた仕事でもないのに、気付けば同僚たちからは一方的に疎まれている。事務所に居ても、撮影現場でも、Ωの悠へ向けられる視線はいつだって蔑むようなものばかりだ。  仕事が増え、それに伴って収入が増える一方で、一体いつまで自分はこんな仕事を続けるのだろうという虚しさが、悠の中で日に日に積もっていく。  定期的な収入が得られず、困窮しているΩも多い中、仕事内容はともかく今のところはどうにか生活に困らない程度には収入があるだけマシだと、割り切るしかないんだろうか。 (……つまんねぇ人生だな)  心の中で吐き捨てて、悠は今日の夕食と、切れかけの煙草を買う為に事務所からほど近いショッピングモールへ向かった。小さなプロダクションなので、撮影には私物のアクセを使用することも多い為、安くてそれなりにカメラ映えするものも買い足しておきたい。  店内に入る前に、悠はまず入り口の脇に設けられた喫煙スペースへ立ち寄った。平日の為か、喫煙スペースは貸し切り状態だった。  デニムのポケットから煙草とライターを取り出して、慣れた手つきで火を点ける。  吸い込むと、メンソールが鼻の奥を刺激して、悠は眼鏡の奥の目を細めた。相変わらず、どれだけ吸っても美味いとは思えないと眉を顰めながら、悠は背後の壁に凭れ掛かって、薄い唇からゆっくりと煙を吐き出す。  好きでもない煙草に手を出すようになったのは、今はもう事務所を去ってしまった先輩男優から勧められたのがきっかけだった。煙草の味は、悠は決して好きにはなれなかったが、撮影の度に飲まされる精液の味を消すのには、煙草が一番手っ取り早いと教わったからだ。  不味い煙草で不味い精液の味を中和することに意味があるのか、と悠は毎回思うのだが、色々試してみた結果、確かに煙草以上に雄臭さを消してくれるものは見つからず、悠は惰性で喫煙を続けていた。  何度か煙を吐き出しながら、ユラユラと立ち上って消えていく煙を見上げていた悠の視界の隅に、ふとチョロチョロ歩き回る頭が飛び込んできて、悠は思わず視線を下げた。  一体どこから来たのだろうか。三、四歳くらいの男児が、いつの間にか悠のすぐ傍でジッとこちらを見上げていた。 「………?」  軽く辺りを見渡してみたが、保護者らしき人物の姿は見当たらない。  真っ直ぐに向けられる視線に何となく居たたまれない気分になって、悠は一先ず傍の灰皿に持っていた煙草を放り込んだ。  全く見覚えのない子供なので知り合いでないことは確かだし、だとしたら迷子か?、と悠が問い掛ける前に、 「おにーちゃん、まいご?」  長い睫毛を瞬かせながら何故か悠の方が先に問い掛けられて、思わず凭れていた壁からズル…と肩が滑る。 「はあ……? なんで俺が迷子なんだよ」 「だって、ひとりぼっちだもん」  自分だって一人だというのに、男児は人懐っこい口調で言ってのける。  こんなにも幼い子供に言われた「ひとりぼっち」という言葉が、チクリと悠の胸を刺した。 「一人で悪かったな。俺は好きで一人で居るんだよ」  目の前の男児に向けて、というよりは、むしろ自分自身に言い聞かせるように呟いて、悠はヤンキーよろしく腰を落として屈み込むと、男児と目線を合わせた。  まさかこの歳で一人でこんなところに来たわけではないだろうし、何よりこんな調子で見知らぬ相手に平気で声をかけて、連れてかれても知らねぇぞ…と悠は少し呆れた顔で溜息を吐く。 「お前こそ、一人で来たワケじゃねぇんだろ? 誰と一緒に来たんだ?」 「おとーさんたち」 「その『おとーさんたち』は、どこに居るんだよ」 「わかんない」  フルフルと首を振りながらあっけらかんと答える男児に、「お前こそ迷子じゃねぇか!」と悠は堪らず突っ込んだ。  その声に驚いたのか、それまでケロリとしていた男児の顔が、途端にふにゃりと歪んで泣き顔になる。そこで悠もしまった、と慌てて男児の髪をくしゃりと撫でた。 「悪い、怒ったワケじゃねぇから。……お前、名前は?」 「……くまがや、れお」  宥めるように声音を和らげた悠に、男児は鼻を啜りながら涙混じりにそう名乗った。 「れお、か。イイじゃん、ライオンみてぇで強そうだ。『おとーさんたち』の名前は、言えるか?」  悠に名前を褒められて気を良くしたのか、小さな手の甲で涙を拭って、『れお』がコクリと頷く。 「くまがやしょーごと、たちばなきりん」 「……立花、麒麟……?」  聞き覚えのある珍しい名前に、まさか…と悠が思わず目を見開いたとき。 「怜央!」  ショッピングモールの自動ドアから、細身の青年が飛び出してきた。 「おとーさん!」  青年に向かって駆け出す男児につられるように、悠も腰を上げる。 「勝手に店出ちゃ駄目だって言っただろ!」  男児を窘めながらも安堵したようにその身体を抱き上げる青年の姿が、悠の記憶の中にある高校時代の立花麒麟とピタリと重なった。  悠が高校二年だった頃、クラスメイトの中で悠を除いては唯一のΩだった、立花麒麟。同じΩだったことに加え、珍しい名前の所為もあって、悠はよく覚えている。 「スイマセン、ご迷惑おかけしました」  気付いていないのか、それとも覚えていないのか、息子を抱いたまま悠に向かって深々と頭を下げる立花に、悠はポツリと零した。 「……立花」 「え?」  突然名を呼ばれて驚いたのか、息子と同じ長い睫毛を瞬かせながら暫く悠の顔を見詰めていた立花が、やがて「あっ」と思い出したように声を上げた。 「もしかして……御影?」 「なんだよ、覚えてんじゃん。全然気づいてなかったから、忘れてんのかと思った」 「覚えてるよ。ただ……高校の時から随分印象変わってるから、すぐにわからなかった。眼鏡、掛けてなかったよな?」 「ああ、コレ伊達だから」 「髪の色も違うし、あとなんか痩せた?」 「お前だって相変わらず細ぇだろ」 「いや、何ていうか……ちょっと疲れて見えるから」  立花の鋭い指摘に、悠は思わず一瞬言葉に詰まる。特に仲が良かったワケでもないし、もう何年振りかに会うのに、悠を『ひとりぼっち』だと言った怜央といい、勘の鋭い親子だと悠は密かに眉を寄せた。 「御影は、ずっとこの町に住んでるのか?」 「高校辞めてちょっとしてから、こっちに越してきた。此処なら知り合いに会うこともそうないだろうと思ったしな。……だからまさか、立花に会うとは思ってなかった。お前こそ、いつからこっちに居るんだよ?」 「俺が住んでるのは、隣町なんだ。今日はたまたま買い物に来てて────」  そこで不意に、携帯の着信音が会話に割り込んできた。「ちょっとゴメン」と怜央を地面に下ろした立花が、その手をしっかり繋ぎながら、ポケットから取り出したスマホに応答した。 「もしもし、勝吾さん? 怜央、見つかったよ。……うん、連れてくから、先買い物しといて」 「もう一人の『おとーさん』か」  通話を終えたスマホをポケットに戻す立花の項に薄く残った、番の証を見つけて、悠は揶揄い混じりに笑う。悠の思惑通り、どこか照れ臭そうにさり気なく項を押さえながら、立花は「うん」と小さく頷いた。  立花は、悠が高校の頃とは随分印象が変わったと言ったが、悠から見ればそれは立花も同じだった。  容姿こそ悠のように変わってはいないが、少なくとも悠の記憶にある立花は、もっと他人を寄せ付けない針のような雰囲気があった。けれど今、悠の目の前で息子を見詰める立花からは、随分と柔らかい印象を受ける。  悠とは違って、立花は良い方向に変わることが出来たんだろうと、隙を見てまた逃げ出そうとする息子の手を引く立花を眺めながら、悠は微かに目を細めた。 「……御影の方は、今どうしてるんだ?」 「どうって?」 「仕事、とか……」  お互いΩだからか、少し躊躇いを含んだ問い掛けに、悠は立花と手を繋ぎながらもあちこちに興味を示してキョロキョロしている怜央を一瞥してから軽く肩を竦めた。 「……子供の前じゃ言えねぇ仕事」 「えっ、それって……」 「AV。これ以上はツッコミ禁止な。教育上良くねぇだろ」  無理矢理話題を打ち切る悠に、立花が何かを言いたげに眉を顰める。 「……じゃあ、本郷(ほんごう)は?」  最も聞きたくなかった名前が立花の口から零されて、悠は反射的に険しい顔で「知らねぇよ」と吐き捨てた。 「学校辞めてから、全く会ってねぇし」  テレビや町中のあちこちに貼られたポスター等で、その姿や名前は嫌と言うほど見ているが。  今や海外でも活躍しているピアニスト、本郷一哉(かずや)。  恐らく、日本国内の大半の人間はその名前くらいは聞いたことがあるのではというほどの有名人で、悠にとっては最もその名を聞きたくない人物だった。 「でも、御影が学校辞めたのって、本郷との────」 「ストップ。俺、担任にもまともに退学理由言わねぇまま辞めたのに、何で俺が学校辞めた理由、お前が知ってんだよ?」  ついキツい口調で言葉を遮った悠に、立花が申し訳なさそうに眉を下げる。 「……ゴメン。御影が退学した後、御影が学校辞めたのは本郷の子供妊娠したからだって、クラスの連中の間で噂になってたんだ。それがホントなら、子供、どうしたのかと思って……」 「────死んだよ」 「え……?」 「やっぱ俺には子育てとか向いてなかったわ。その点お前は、そんなしっかりした息子育てて凄ぇよ」 「御影……」 「ホラ、『おとーさん』待ってんだろ。また迷子になる前に、連れてってやれよ」  悠たちの会話の内容がわからずつまらないのか、次第に不機嫌そうな顔になっている怜央を視線で示して、悠は立花に店内へ戻るよう促した。本心は、悠の方が本郷の話題から早く逃げ出したかったからだった。 「それじゃ、俺もう行くわ」  軽く片手を上げて、先に店内へ入ろうとした悠の背に、「御影!」と立花の声が飛んできた。 「……何だよ?」 「あ、あのさ……! 連絡先、交換しよう?」  突然の申し出に、悠は思わず足を止めて面喰う。 「……何で。お前、そんなキャラだっけ?」 「いつもはあんまり自分からこういうこと言わないけど……でも、何か御影とは交換したいと思って。折角偶然会ったんだしさ」  嫌?、と窺うように軽く首を傾ける立花からは何故か断れないオーラを感じて、悠は結局立花の申し出に応じることにした。 「俺、マメじゃねぇからあんまり交換する意味ないぞ、多分」  お互いの無料通話アプリにそれぞれ相手の名前が追加されたのを確認してから、悠は肩を竦めて見せる。だが、立花は満足げに頷いて微笑んだ。 「実は俺もマメに連絡するタイプじゃない。けど、繋がってるだけでも安心することって、あるだろ。これで何かあっても、いつでも連絡取れるし」 「何かって何だよ」  思わず悠も軽く肩を揺らして笑ってから、今度こそ「じゃあな」と言い残して、悠は店の自動ドアを潜った。その悠と入れ替わりでドアから駆け出していったガタイの良い男が、背後で「麒麟!」と呼ぶ声がして、悠は思わず肩越しに振り返る。視線の先で、立花と怜央を纏めて逞しい腕に抱え込む広い背中が見えて、痺れをきらしたらしいもう一人の『おとーさん』の姿に悠はつい口元を綻ばせた。  見ているだけで幸せな空気が伝わってくる家族の姿は、今の悠には余りにも眩しすぎて、まるで自分とは別世界の光景を見ているような気分だった。  静かに三人に背を向けて、悠はそっと自身の腹へ掌を宛がう。  ……もしも悠の元で子供が育っていたら、悠もあんな風に幸せになれたんだろうか。  もう今は痛むはずのない腹部が、微かに疼いたような気がした。   ◆◆◆◆◆  ────高校生活二年目の五月。  本郷一哉は、クラス内でも特別目立つ存在のαだった。  父親は世界的に有名なバイオリン奏者で、母親は同じく世界でも名の知れたピアニストという、音楽家のサラブレッドの本郷は、母親と同じピアニストとしてこの頃から既に、国内のあらゆるコンクールで賞を総なめするほど、音楽界では注目されていた。  おまけに容姿端麗、文武両道と、αの中でもその特徴が如実に表れた本郷とは、悠は高校二年で同じクラスになった。  二年にして生徒会長を務めるほどのエリート性とカリスマ性も持ち合わせていた本郷は、クラスの中でも大抵生徒たちの輪の中心に居て、Ωである悠とは最も遠い場所に居る相手だった。  育ちが良いからなのか、比較的物腰も柔らかで、モデル並に背も高く、幼少期からピアノを続けているため手も綺麗で指も長いと、クラスの女子の殆どは、本郷に惚れ込んで騒いでいたように思う。  丁度、二年に上がって最初の中間テストが近付いていることもあり、本郷から勉強を教わろうと休み時間のたびに、本郷の周りには人だかりが出来ていた。  そんな輪の中からいつも外れていたのが、悠と、そしてクラスでもう一人、悠と同じΩである立花だけだったのだ。  立花とは、Ω同士だとお互い認識はしていたが、別に仲が良かったわけでもない。特にこれといった会話をすることもなく、悠にとっては単なるクラスメイトの一人、という関係だった。  Ωだったからなのか、生まれて間もない頃に施設の前に置き去りにされ、実の親の顔も知らずに施設で育ってきた悠は、今では母親的な存在である施設長に言われるまま、高校へ進学した。だが、αにもβにも馴染めず、クラスでも常に一人で過ごしている自分が進学した意味なんてあったんだろうかと、悠は毎日多くの生徒に囲まれている本郷の姿を見るたびに、何とも言えない陰鬱とした気分になっていた。  そんな悠を、本郷が時折生徒たちの輪の中からチラリと見詰めていることに気付いたのは、いつだっただろう。  最初は、単なる偶然だと思って、悠も特に気には留めなかった。  だが、日を重ねるごとに、本郷が悠に視線を向けてくる機会は次第に増えていき、さすがの悠も明らかに自分が何故か本郷から見られていることは、意識せざるを得なくなった。しかも視線に気づいた悠と目が合う度に、本郷は形の良い唇をほんの僅かに綻ばせるのだ。  特に声を掛けてくるでもなく、本郷はいつも、周りの生徒に悟られないよう、実にさり気なく悠の方を見遣っては、視線が合うと笑みを零す。  施設育ちのΩであることを憐れまれているのか、輪の中に入れないことを嘲笑われているのか……本郷の意図がわからず、悠はいつもジロリと睨み返してその視線をかわしていた。  本当なら、「何か言いたいことでもあるのか」と掴み掛りたいところだったが、さすがにクラス一……いや、下手をすれば校内一人気のある本郷相手にΩの悠がそんな行動に出れば、それこそ大炎上モノだ。だから結局、悠はモヤモヤとした気持ちを抱えながらも、黙って本郷の視線にひたすら耐え続けることしか出来なかった。  どうせ向こうも何か言ってくるワケでもないのだから、きっとその内本郷も飽きるだろうと、悠は思っていた。────中間テストが始まるまでは。  その後の悠の人生を大きく左右する出来事が起きたのは、中間テストの最終日だった。  丁度二時限目の、英語のテストが始まって間もないとき。悠の身体に、これまで感じたことのない異変が起きた。  突然動悸が激しくなり、それと同時に身体がまるで燃えているみたいに、みるみる熱を帯び始めたのだ。シャーペンを握る手に力が入らなくなって、悠は初めて味わう感覚に激しく動揺した。  それが、人生で初めての発情期だとわかったのは、テスト中であるにも関わらず、クラス中のαや、同じくαだった試験監督の教師までもが一斉に悠へ視線を向けた瞬間だった。 (マズイ……!)  何をどうしたら良いのかもわからなかったが、とにかくそのまま教室に居続けることが出来ず、悠はフラつく足取りで教室を飛び出した。  さすがにテスト中ということもあって生徒たちは追っては来なかったが、試験監督の教師が悠の後を追って教室を出て来る気配がしたので、人気のない場所を目指して夢中で走り、どうにか教師をまいて息も切れ切れに辿り着いた先は音楽室だった。  試験中なのでてっきり施錠されているかと思いきや、運よく鍵が開いていて、悠は室内に滑り込むとすぐに扉を閉めた。そのまま部屋の隅、音楽準備室に続く扉の前まで這うように移動して、悠はぐったりと壁に凭れ掛かった。  とにかく身体が火照って仕方がない。何もしていないのに下肢がズクズクと疼いて、制服の上から恐る恐る自身へと手を伸ばすと、其処は充分に熱を帯びてガチガチに固くなっていた。 「……ッ、なん、だよ……コレ……っ」  テストを抜け出して、おまけに校内で、そんなことはいけないと頭ではわかっているのに、考えるより先に手がベルトにかかり、気付けば悠は下着の中に手を差し込んでいた。 「は、ぁ……っ!」  緩々と軽く扱いただけで、悠は呆気なく達した。掌にねっとりと絡みつく自身の体液に後ろめたさが込み上げてくるのに、同時にまた達したばかりの下肢にも熱が込み上げてくる。 (……なんで、治まらねぇんだよ……っ)  Ωの発情期は理性なんてあっという間に飛んでしまうほど強烈だと聞いてはいたが、余りに急激な身体の変化に、思考が追い付かない。  片手で性器を握り込んだまま、縋るように壁を引っ掻いたとき。 「……やっと見つけた」  不意にガラリと開かれた扉の向こうに立っていた本郷が、いつも悠と目が合ったときと同じように、口元に薄い笑みを浮かべて呟いた。 「ッ、本、郷……?」  あられもない姿で呆然と呟く悠に足早に歩み寄って来た本郷が、ポケットから取り出した鍵で、音楽準備室の扉を開けた。 「お、前……なんで、鍵……」 「俺の特権」  あっさりと答えて、本郷の手が悠の腕を掴む。その刺激にも思わず甘い声が漏れて、悠は咄嗟に片手で口を覆った。 「こっちだと、内側からも鍵掛かるから」  弛緩した身体を呆気なく準備室に引き込まれて、悠は抗うことも出来ないまま、本郷に組み敷かれていた。いつの間に脱いだのか、ちゃっかり自分のブレザーの上着を悠の身体の下に敷いている抜かりのなさが、却って憎らしい。  そもそも、どうして本郷は此処に居るのだろう。 「本郷……お前、テストは……?」 「一教科くらい、どうとでもなるよ」 「っ、む……っかつく……」  何でもないように答える本郷が腹立たしいのに、ワイシャツをたくし上げられると開いた唇から熱い呼気が漏れた。 「な、んで……俺、なんだよ……っ」  裸の胸を掌で撫でられて身を捩りながら、悠は熱に濡れた瞳で本郷を見上げる。  言葉を交わしたことなんて、多分一度もなかったハズなのに、今目の前に本郷が居て、悠に触れている理由がわからない。そしてそんな本郷に全く抗えず、むしろ触れられることを期待している自分自身も、全く理解出来なかった。  本郷の手が動く度にビクビクと全身を震わせる悠に目を細めて、本郷が耳朶にやんわりと歯を立ててきた。 「御影、いつも俺のこと睨んでただろ」 「そ、れは……っ、お前が、見てくる、から……ッ、あ……っ!」  本郷の長い指が、すっかり濡れそぼった悠の性器に絡んで、悠は思わず背を撓らせた。クラスの女子たちがいつも「綺麗」と絶賛している手を、本郷が躊躇いなく汚していくその背徳感にもゾクゾクした。 「……御影。発情期のとき、どうすればラクになるか、知ってる?」  穏やかな口調で問い掛けながら、本郷の手があっさり悠の制服のスラックスを下着ごと取り去る。そのまま脚を割り拡げられて、悠は小さく息を呑んだ。 「な……っ、おい……嘘、だろ……ッ」  自らも前を寛げた本郷に腰を抱えられ、悠はその先の行為に怯えた声を上げた。心は恐怖と不安で拒絶しているのに、身体は本郷を欲して疼いている。 「い、やだ……止め……────ッ!!」  悠の制止の言葉を無視して、本郷が悠の中に挿り込んできた。悠自身ですら触れたことのない箇所を貫かれているのに、痛みどころか、自慰なんて比べものにならないほどの快感の波が悠の全身を駆け抜けた。 「あっ、ぁ…────っ」  強すぎる快感に、言葉は喘ぎにしかならなかった。 「……ッ、御影、気持ちイイ……?」  焦らすようにゆっくりと悠の中を突き上げながら、本郷が問い掛けてくる。耳に心地良い低さの本郷の声が悠の鼓膜を擽って、無意識に何度も頷き返した。  いつも大勢の生徒に囲まれている本郷が、今は悠の中に居る。奇妙な優越感が、更に快感を誘った。  Ωの発情期というのは、結局誰が相手でも、こんな風に身体中が溶けてしまいそうなほど気持ち良くなってしまうんだろうか。そうだとしたら、例え偶然でも気まぐれでも、今悠を抱いているのが本郷で良かったと、何故か悠はそう思った。  普段は性欲の欠片も無さそうな、端正な顔に確かな劣情を滲ませて、本郷が悠の身体を次第に激しく揺さぶる。  幾度も絶頂を迎えた悠の中で、微かに息を詰めた本郷が達し、薄れていく意識の中で、悠の唇に、柔らかい何かが触れた気がした。      本郷と身体を重ねたのは、この時が最初で最後だった。  悠の意識が戻ったとき、汚れていたはずの身体は綺麗に拭かれ、乱れた着衣も元に戻っていて、悠は一瞬夢を見たのではと思ったほどだったが、起き上がると同時に体内から溢れてきた本郷の精が、確かに二人が身体を重ねたことを証明していた。  そしてその日以降、発情期を抜けるまで学校を休んだ悠が一週間ぶりに登校すると、相変わらず本郷の周りには女生徒を中心とする人だかりが出来ていて、その中から本郷が視線だけを送ってくる日々がまた始まった。  本郷の方は、悠が発情期を迎える前と変わらない様子で、相変わらず他の生徒の目を盗んで悠へと視線を向けてきていたが、悠の方は以前のように視線を返すことは出来なかった。  案の定、テスト中に悠と一緒になって本郷が教室を飛び出したことはクラスでもあらぬ噂の種になっていたし、冷静な頭で考えれば考えるほど、あのときどうして本郷がわざわざテストを捨ててまで悠の元へやって来たのかがわからなかったからだ。  以前は単にΩであることを小馬鹿にされているのだろうとしか思っていなかった本郷の視線も、今となっては益々その真意がわからなくなっていた。  ひょっとして、実は本郷から好意を抱かれていたんだろうか、と思わず考えてしまい、さすがにその思考には我ながらドン引きした。本郷ほど引く手数多のαが、悠みたいな身内も居ないΩに好意を抱くワケがない。それにいくら発情期だからとは言え、わざわざテストを投げ出してまで本郷が悠を抱くメリットなんて、何一つ思い浮かばない。  元々、Ωということで周りから孤立していた悠は、発情期の一件の所為で益々教室内の居心地も悪くなった。  もしも次にまた発情期が来たら、そのときはどうなるのだろう。  自分の意思で身体が思い通りにならないのは嫌だと思う反面、本郷との行為で味わった、意識が飛ぶほどの快楽に僅かな期待を抱いている自分が居る。  確かにあのとき、悠だけを見て欲情していた本郷を思い出すと、胸が詰まって息苦しくなった。  ずっと良い印象を持っていなかった本郷に、たった一度身体を重ねただけで心まで引き摺られるなんて、冗談じゃないと思っているのに……。  そうして悠が日々悶々としながら本郷の視線に耐え続けている内に、気付けば期末テストも終わって学校は夏季休暇に入った。  Ωの発情期のサイクルは、平均三、四ヶ月おきだと言われている。  初めての発情期を五月の後半に迎えた悠は、早ければ夏休みが明ける前に発情期を迎えるはずだったが、悠の身体を襲ったのは二度目の発情期ではなく、激しい吐き気だった。  最初は食あたりか何かかと、施設でひたすら寝て過ごしていたものの、一向に症状が治まる気配はなく、施設長に促されて訪れた病院で、悠は衝撃の事実を突きつけられた。 「妊娠、十週に入ったところですね」  悠の腹にエコーを当てながら医師に告げられた言葉に、悠は思わず絶句した。 (……妊娠……?)  心の中で何度反芻しても、全くピンとこない。それでも、「ほら、わかります?」と医師に見せられたエコー画面の中では、小さな心臓が確かに規則正しく脈打っていた。 「……これ……俺の腹の中、なんですか……?」  呆然と問い掛ける悠に、医師は「そうですよ」と笑う。  悠の体内で確かに小さな命が息づいているのに、悠はそれを喜んでいいのかわからなかった。それが医師にも伝わったのか、エコーの機械を片付けて、医師が悠に向き直った。 「……確か、まだ高校生ですよね? 出産するとなると、当然このまま学校生活を送るのは難しいでしょうから、相手の方とよく相談して、決めてください。中絶するとなると、同意書も必要ですから」 「中絶……」 「あなたの年齢を考えると、産まないという選択も必要ですよ。産んだ後、本当にその子を育てていくことが出来るのか、よく考えてください。勿論、それ以前にきちんと避妊することが一番大事ですけどね」  発情期に流されて、本郷との行為が命を授かることに繋がるということを考えていなかった悠の胸に、医師の言葉が深く刺さった。  ……本郷は、ちゃんと理解していたんだろうか?  仮に理解していたとしても、ピアニストとして将来有望な本郷が、出自もわからない悠との間に子供を作ったりすれば、それは本郷にとって足枷にしかならないんじゃないだろうか。  単に自分の血を引くαを産ませたかったなら、本郷にはもっと見合った相手が幾らでも居るはずだ。  だとしたら、悠との行為はやはり単なる気まぐれで、悠が例え妊娠しようが、そんなことは本郷にとってはどうでも良かったんだろうか。  悠だって別に本郷に好意を抱いていたわけでもなければ、ましてや本郷との子供が欲しいなんて考えたこともなかったのに、どうでも良かったのかと思うと胸の奥が重苦しく痛んだ。  悠の中に宿った命は、そんなことなど知らずに、静かに今も鼓動を刻んでいるのに────  どう考えても、妊娠したことを隠したまま学校生活を送ることは不可能だし、中絶することを選んでも基本的には同意書に相手のサインが必要だと医師から説明を受け、悠は散々悩んだ結果、二学期の始業式の早朝に登校し、本郷の机の中に一枚のメモを忍ばせた。  いつも登校してくればすぐに他の生徒に囲まれてしまう本郷を、目立たないように呼び出す術が、それしか思い浮かばなかったからだ。  医師からは、相手が不明だったりサインが貰えない場合、相手のサインがなくても中絶は可能だと言われていたので、本郷には伝えないという選択肢もあったのだが、悠の心の片隅に、本郷に中絶を止めて欲しいという思いがあった。生まれてすぐに両親から見捨てられた悠とは違うのだと思いたかったのだ。  けれど、一体どう切り出すべきかと悠は妊娠を知った日から延々悩み続けたものの、結局「これだ」という答えが出せないまま放課後を迎え、そして指定した屋上へ続く階段の踊り場に、本郷はやって来た。  取り巻きたちには上手く説明してくれたのか、誰かがついてきている様子もなく、悠は思わずホッと息を吐く。  そんな悠の心中など知らない本郷は、先に踊り場で待っていた悠の姿を見ると、綺麗な二重の目を細めて微笑んだ。 「まさか始業式早々、御影からラブレター貰えるなんて思わなかったよ」 「どう考えても、そんな内容じゃなかっただろ」  呑気な本郷の冗談に、悠は呆れをたっぷり含ませた溜息を吐いた。 「え、これってどう見てもフラグじゃないの?」 『放課後、屋上手前の踊り場で待ってる 御影』と悠が走り書きしたメモ用紙をヒラリと掲げて見せる本郷の手からメモを奪い取って、悠はそれをぐしゃりと手の中で丸め込んだ。 「あ、酷い。記念に取っとくつもりだったのに」 「そんな冗談聞く為に呼んだワケじゃねぇんだよ」  別に冗談じゃないんだけどな、と肩を竦める本郷の本心が全く読み取れず、悠はやはり黙っておく方がいいのだろうかと言葉に詰まった。  何度も口を開きかけては視線を落としたり、項を擦ったりと落ち着かない悠に、本郷はそこでやっと口元の笑みを引っ込めて真顔になった。 「……御影がわざわざ俺を呼び出すなんて、ただ事じゃないのは確かだよね。何があったの」  本郷の優しい口調に、どうしても悠の中で淡い期待が生まれてしまう。  無意識に片手を腹に宛がって、悠は躊躇った末、静かに口を開いた。 「……俺、妊娠してんだってさ。夏休みに、具合悪くて病院行ったら、医者に言われた」  言い終えてからチラリと本郷の顔を窺い見ると、さすがの本郷もこの報告は予想外だったのか、驚いたように目を見開いていた。 「……妊娠?」 「今、十週目らしい。いきなり言われても、未だに実感湧かねぇわ」  唖然とした本郷の呟きに、やはり望まない妊娠だったと言われているようで、悠は渇いた声で取り繕うように笑って見せた。 (……やっぱ、言うんじゃなかった)  顔に張り付けた笑顔の裏で、悠は激しく後悔する。  本郷にこんな顔をさせるなら、最初から黙って一人で決断すれば良かったのだ。  考えてみれば、悠だけならともかく、本郷だってまだ学生なのだから、病院でも言われたように、この先すんなり子育てなんて出来るワケがない。  今更本郷を呼び出したことを悔やむ悠に、本郷が止めを刺した。 「それ……ホントに俺の子?」 「……は?」  想像していなかった問い掛けに、悠の顔から笑顔が消える。  妊娠が予想外だったと言われることはある程度覚悟していたが、まさか本郷以外の誰かとも関係を持っていることを疑われるなんて、思ってもいなかった。  勿論、発情期の度に何人もの相手と身体を重ねるΩは大勢居る。けれど、悠は初めて発情期を迎えて校内で本郷と身体を重ねた後、施設の小さな個室に篭ってひたすら発情期が過ぎるのを待っていた。本郷との行為は何度も思い出しはしたが、他の誰かと交わりたいなんて、考えもしなかったのに。  ……結局本郷にとって、所詮は悠も誰彼構わず身体を重ねる大多数のΩの一人だったというワケだ。  そう思った途端、これまで散々悩んだ自分が馬鹿馬鹿しくなって、悠は喉の奥から自嘲めいた笑いを絞り出した。 「ハハ……そういやそうだよな。Ωの子供なんて、所詮誰の子だかわからねぇよな」 「御影、そうじゃなくて────」  俯いたまま自棄気味に吐き捨てた悠の肩に伸びてきた本郷の手を、悠は咄嗟に強く払い除けた。 「触んじゃねぇよ! ……お前の子なワケなかったわ。呼び出して悪かったな」  本郷に背を向けたまま口早にそう言い残して、悠は一気に階段を駆け下りた。背中に「御影!」と叫ぶ本郷の声が聞こえたが、それに気づいた複数の生徒たちが本郷の元へ向かっていき、悠はその流れに逆らうようにしてそのまま学校を飛び出した。  ……望まれた妊娠でも無ければ、本郷が父親である可能性すら疑われた。  一気に全てが馬鹿馬鹿しく思えて、悠は施設長にこれまでの謝礼を綴った書き置きと貯めていたバイト代の半分を一緒に置き、その日の内に施設を去った。  発情期に流されて、本郷と交わったことを激しく悔やんだし、少しでも本郷に期待を抱いた自分にも腹が立った。  高校も辞め、本郷に繋がるものは全て断ってやろうと、相手欄は空白のままの中絶手術の同意書を握り締めて病院へ向かったが、いざ病院の前まで来ると、どうしてもそこから先に足が動かなかった。  悠が本郷を嫌っていても、本郷に望まれていなかったとしても、悠の中に宿った命にそれを押し付けてしまったら、悠を捨てた親と同じになってしまう。悠の握る同意書は、一つの命を消してしまう書類なのだ。  罪のない命を消すくらいなら、苦労してでもせめて子供だけは育てたいと、悠は結局中絶しないことを決意して、新たなバイト先を必死に探した。  発情期を迎えたΩを雇ってくれる先はそう簡単には見つからなかったが、この際業種は問わず、どうにかビル清掃のバイトが決まって、その初出勤の日。  ……悪いことというのは、何故立て続けに起こるのだろう。  清掃中、突然激しい腹痛に襲われた悠は、余りの痛みに動けなくなり、救急搬送される途中で意識を失った。  そうして搬送先の病院で目を覚ましたとき、既に悠の体内から胎児は居なくなっていた。  一体何が起きたのかわからず呆然とする悠に、医師は淡々と告げた。 「残念ながら、進行流産で胎児は助かりませんでした。検査の結果、体質的に不育症の傾向があるかも知れません。出産が不可能ということはないですが、一般的なΩ男性と比較すると、胎児が発育しにくい確率が高いと考えてください」  シンコウリュウザンってなんだよ。  フイクショウって?  ……まともに子供が産めないΩなんて、何の価値があるって言うんだ。  知らない間に悠の中から居なくなっていた胎児の顔も見られず、今後の未来までも断たれるような医師の言葉に、最早涙すら出なかった。  結果的に唯一の本郷との繋がりだった胎児も失い、完全に道を見失った悠は、地方へ移り住み、そこからはただひたすら暗い坂道を転がるように、AV業界へと堕ちていった。

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