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第2話

  ◆◆◆◆ 「……っ」  悠は、身体の怠さと夢見の悪さに、小さく呻いて目を覚ました。  発情期でもないのに、全身が重怠くて熱っぽい。  ここ一年くらいは、撮影の次の日になると、悠はほぼ必ずと言って良い程微熱が出るようになっていた。この日も這うように六畳の1Kアパートの隅に置いたラックから体温計を取ると、測った体温は三十七.五℃。  昨日の撮影がハードだったからというのもあるのだろうが、悠も気付けばAV業界に足を踏み入れて五年。悠もそうだったが、特にΩの場合は十代でこの業界に入って来る人間も多く、現に悠の所属しているプロダクションにも、つい最近十八になったばかりの少年が新しく二人加わったとマネージャーから聞かされていた。  彼らと比べれば、悠はこの業界では「若い」とは言えない年齢に差し掛かっているし、こうして体力的に限界を感じている辺り、そろそろ辞め時なのかも知れないと、悠は布団に転がって重い息を吐いた。  悠がプロダクションに入った当初、悠に煙草を勧めてきた先輩は、Ω同士ということもあってか、事務所内では唯一悠に話しかけてくれる存在だったのだが、そんな彼も丁度今の悠の年齢になったとき、ある日突然事務所を辞めたことを聞かされて愕然としたのを覚えている。  せめて挨拶くらいはしたかったが、彼がどういう事情で事務所を辞めたのかも悠には聞かされなかったし、この業界を去るということは、こちら側の人間とは一切縁を切りたいものなのかも知れないと、漠然と思った。  恐らく悠も、辞めるとしても男優仲間にはきっと告げることはしない。もっとも、悠の場合はかつての先輩のように話をする同僚なんて、一人も居ないのだが。  けれど、もしこの業界から退いたとしたら、今の悠に残された仕事なんて、一体何があるのだろうか。逃げ込むようにこの業界に飛び込んだが、結局ズルズルと続けている内に、いつしか悠にはもうこの業界に縋りつくくらいしか、残された道もなくなっているような気がする。  喉が渇いていたので水が飲みたかったが、正直取りに行くのも億劫なほど身体が重い。こういうとき、『ひとりぼっち』ということが思いの外堪えるのだと、昨日初対面の幼い子供に言われた言葉を思い出す。  久しぶりに高校時代の夢を見た所為もあって、なかなか布団から起き上がる気になれなかった悠の枕元で、スマホのメッセージ着信音が響いた。 『立花:御影、おはよう。昨日はありがとう』  マメではないと言っていたはずの立花から早速連絡が来て、熱の所為なのか、悠は何故か少し心強く感じた。  繋がっているだけでも安心するってこういうことか、と立花の言葉が蘇る。 『御影:ハヨ。ありがとうって、何が』  布団に横になったまま悠が返すと、すぐにまた返信が来た。 『立花:連絡先教えてくれたこともだけど、怜央のこと。名前、褒めてくれたって凄く喜んでたから。怜央、ライオン好きなんだ』 『御影:別に、思ったこと言っただけだから偶然だ。それよりお前の息子、もうちょっと警戒心持たせた方がイイんじゃねぇの。全然知らない俺に普通に話しかけてきたぞ』 『立花:そうなんだ? 怜央、基本的には自分の喜ぶことしてくれる人にしか寄って行かないんだけどな。だからいつもお世話になってる病院の先生とか、俺からしたら凄く頼りになる良い先生なのに、注射されるから嫌だって怜央はいつも近付きたがらないし。御影が、子供の扱い上手いんじゃないのか?』  立花からの返信に、ふとスマホを持つ悠の手が止まる。  別に子供が好きなわけではないが、高校まで施設で育った悠には、周りに大勢の兄弟が居るような環境が普通だった。自分より年下の子供の面倒をみるのは当たり前だったし、確かに扱いには慣れている方だとは思う。  だが、それとは別に、昨日悠をジッと見詰めて声を掛けてきた怜央を見たとき。もしも悠の子供が無事に育っていたら、こんな感じだったんだろうかと悠は思ってしまった。だからつい無意識に相手をしてしまっていたのだが、曇りのない怜央の目には、もしかしたら悠が失くしたものを、見透かされてしまっていたのかも知れない。  悠の返信が途切れたことで立花は何かを察したのか、悠の返事を待たずに別の話題を振ってきた。 『立花:ところで、御影の今の仕事、av……って言ってたじゃん?』 『御影:なんで小文字だよw』 『立花:いや、ちょっと声控えめにした方がいい話題かと思って……』  そもそも文字なんだから意味ないだろ、と心の中で突っ込んで、悠は思わず微かに笑う。  高校時代に勝手に抱いていた立花のイメージが昨日と今日とで随分と変わって、こんなことなら高校時代、もっと立花と話しておけば良かったと悔やんだ。 『立花:それって、撮ったり裏方だったりする方? ……それとも、自分が出る方?』 『御影:出る方だよ』  あっさり答えた悠に、今度は既読マークが付いた後、立花からの返事が暫く途切れた。スマホを握って返信に困っている様子が想像出来て、悠は苦笑する。  AVに出演していることを明かして、別に良い反応が返ってくるなんて端から期待していないし、自ら「やりたい」と思ったことではないにしろ、この業界に足を踏み込んだのは悠自身なのだから、同情されるのも御免だ。  だが、立花が返事を躊躇った理由は、悠が想像していたようなものとは違ったらしい。 『立花:……あのさ。御影の事情とか何も知らない俺がこういうこと言うの、余計なお世話かも知れないんだけど。俺のパートナー、昔弁護士やってた人だから、結構その手の業界の裏側とかも知ってるらしくて……大手のプロダクションとかならまだ安心だけど、そうじゃないトコは仕事の内容も違法スレスレだったり、中には裏でその……色々危ないトコと繋がってたりする事務所もあるみたいだから、気を付けた方がイイって』 『御影:なに、お前のパートナーって元弁護士なのかよ。すげぇな、エリートじゃん』 『立花:心配してるのに』  昨日、ほんの一瞬すれ違って後ろ姿しかまともに見えなかった体格の良い男の姿を思い出しながら、悠が敢えて茶化した返事を送ると、立花からはメッセージに続いて怒ったキリンのスタンプが送信されてきた。  心配、なんて言葉を貰ったのは、一体何年ぶりだろうか。恐らく、悠がまだ施設に居た頃、施設長から言われたのが最後のような気がする。  体調が優れないときなどでも、基本的に自分から周りに頼ることをしない悠のことを、親代わりの施設長だけはいつも「心配だ」と気に掛けてくれていた。親の居ない悠に、唯一親と同じような愛情を与えてくれたのが、施設長だった。  そんな施設長にまともに挨拶もせずに施設を出てきたことを、悠は今でも申し訳なく思っていた。施設長は変わらず元気で居るだろうか…なんて、悠に思う資格はないとは思っていても、立花とのやり取りで思い出さずには居られなかった。 『立花:なんか……昨日御影に会って思ったけど、昔の自分見てるみたいな気になってさ』 『御影:お前もAV出てたのかよ』 『立花:そういうことじゃなくて! ……すぐそうやって誤魔化す。だから心配なんだよ』  折角あれだけ幸せそうな家庭を築いているのに、わざわざ真逆の世界に居る悠なんかに構うなんて、立花も相当なお人好しだと悠は小さく溜息を吐く。  他人と関わるなんて面倒なだけだと思っていたはずなのに、立花とのやり取りに忘れかけていた安心感を覚えてしまうのは、熱で弱っているからなんだろうか。  このまま話していると、これまで散々胸の奥に詰め込んできた数々の本音が零れ出してしまいそうで、悠がどうやって話題を逸らすかと考えていたとき。丁度良いタイミングで、仕事用のもう一台の携帯が着信音を響かせた。   『御影:悪い、仕事の電話来たから、またな』  一方的に会話を打ち切って、悠はスマホを枕元に置くと、布団から這い出して延々と着信を告げている携帯に手を伸ばした。 「……もしもし」  応答すると、相手はプロダクションのマネージャーだった。 『朝から悪いな、ユウ。まだ寝てたー?』  安っぽいホストのような見た目のマネージャーは、相変わらず口調まで安っぽい。さっきまで立花とのやり取りで少し晴れかけていた気分が、マネージャーの声一つで一気にまたズンと重くなって、悠は携帯を耳に当てたまま顔を顰めた。 「……いや、起きてましたけど」 『あ、そう? ならイイんだけど、なんか声擦れてっから。風邪でもひいた?』 「昨日の撮影ハードだったんで、その疲れじゃないっすかね」  皮肉たっぷりに告げた悠の言葉も、頭の軽そうなマネージャーには全く響かなかったようだ。少しも悪びれた様子のない笑い声が、スピーカー越しに返ってくる。 『あー、そういやユウは五人相手とか初めてだっけ。まあお前ももうこの業界長いし、そのくらい余裕だろ』  余裕じゃねぇから熱出てんだよ、と心の中で反論し、悠は心底げんなりする。悠の仕事内容を詳しく知らない立花には心配されるのに、同じ業界の人間からはこの扱いだ。けれど結局今の悠の居場所は、この業界にしかない。  そんな悠の心中など知らないマネージャーは、軽い調子で続ける。 『ところで本題なんだけどさー。ちょい間詰まってて悪いんだけど、明後日急に撮影入ったから、朝九時に新宿行ってくんねぇ?』 「は……? 明後日?」  AV撮影は大抵スタジオ等を借りて行うのだが、悠の住む町には最寄りのスタジオが少ない為、撮影の際には都内や隣接する他県まで出向くことは珍しくない。だが、これまでは一本分の撮影が終わると、次の撮影までは最低でも一週間は間を置いて次の予定が入る、という感じだったので、今回のようにたった数日しか間がないケースは初めてだった。 「……それ、どういう内容なんすか」  昨日のようにまたハードな内容だとさすがに身体がキツイ。不安を覚えて問い掛けた悠だったが、自らが所属するプロダクションの杜撰さは今に始まったことではなかった。 『こっちにも急に話が来て、まだ待ち合わせ場所と時間しか連絡貰ってねぇんだよ』 「それ、幾らなんでも怪しすぎだと思うんすけど」 『一応相手はデカいトコだから、ウチとしても簡単に断れねぇんだわ。詳細は現場で説明あるらしいから、取り敢えず遅刻厳禁でヨロシク』 「ちょ……っ」  訝しむ悠の言葉は一切受け付けられず、言いたいことだけ捲し立てて、マネージャーからの通話は一方的に切られた。 「……っざけんなよ、クソ……!」  苛立ち紛れに携帯を投げ捨て、悠は怠い身体を再びドサリと布団に沈める。  立花は、悠が所属しているような小さなプロダクションは色々と気を付けた方がイイと言っていたが、気を付けろと言われても、5年間この調子でやってきたのだから、今更どうしようもない。  本当なら今すぐにでも辞めてやると言いたいのに、辞めた先に何もない悠にはその踏ん切りもつかない。そんな自分が、酷く情けなかった。   ◆◆◆◆◆  マネージャーから指定された通り、朝の九時に新宿駅に到着した悠は、相変わらずの人の多さに早くもうんざりしていた。  撮影の為に都内に来ることはこれまで何度もあったが、東京に戻って来ると嫌でも過去のことを思い出してしまう。  高校時代に同じクラスだった連中は、悠自身も全く顔を覚えていないし、それはきっと向こうも同じだろう。……ただ一人、本郷を除いては。  思い出した傍から、駅の構内にデカデカと貼られた、今月発売されるらしい本郷のアルバムの宣伝ポスターを見つけてしまい、悠はつい眉を寄せる。相変わらず、ほんの少し目尻の下がった女性受けの良い甘いマスクでピアノに向かっている本郷の姿は、今の悠には最早別次元の住人のように思える。  今や世界でも名の知られる存在になった本郷も、きっともう悠のことなんて覚えていないだろうし、ピアニストとして多忙な日々を送っているであろう本郷に遭遇する可能性なんて、きっとゼロに等しい。そう思っているのに、撮影で東京に戻ってくるたびに本郷のことを思い出してしまう自分自身が、悠はとても憎かった。  有り得ないと思っていながら、心のどこかで「もしかして」と本郷に何かを期待しているなんて、絶対に認めたくない。第一、子供を残せないかも知れない悠には、世界を舞台に活躍するαの本郷と関わる資格すらないというのに……。  思いを断ち切るように、悠はポスターの前を足早に通り過ぎると、この日の待ち合わせ場所である駅の出口へ向かった。  今回の撮影の話をマネージャーから聞かされたときにも違和感は感じたが、集合場所に着くとその違和感は一層強いものになった。  悠がこれまで経験してきた撮影では、誰かが遅刻したり何か特別な事情がない限り、集合場所にその日の撮影に携わる監督やスタッフ、男優が集まり、複数のワゴンで撮影場所まで移動するのがお決まりの流れだった。大抵は監督の車に悠と相手役になる男優が同乗するケースが多く、移動する車中で撮影の段取りの説明や、打ち合わせなどをある程度済ませておき、現場では細かい最終チェックをして撮影に臨む。  だが、この日集合場所に停まっていたのは、ファミリーカーとして町中でよく見かけるミニバンが一台きりだった。 「あ、ユウくん? どうも、今日の撮影アシスタントの松本です」  一瞬場所を間違えたのかと引き返しかけた悠に、ミニバンから降りて来た目の細い青年が声を掛けてきた。どうやら、この場に居るのはアシスタントだと名乗ったこの松本という男一人だけのようだ。 「あの……監督とか、他の人は……?」 「ちょっと到着が遅れてるみたいで、取り敢えずキミだけ先に現場入りさせるように言われてるんだ」 「え、俺しか来てないんすか?」 「現場で落ち合おうって話になってるから、一先ず乗って」  松本に急かすように背中を押され、悠は半ば押し込まれるような形で車の二列目のシートに乗り込んだ。車内には本当に誰も居らず、見たところ機材も一切積まれていない。  訝しむ悠を他所に外から車のドアが閉められ、運転席に乗り込んだ松本は早々に車を発進させた。 「あの……俺、今日の撮影内容、何も聞いてないんですけど、どういう内容なんすか?」  募る不安に耐え兼ねて後部座席から問い掛けた悠に、松本はフロントガラスの向こうを見据えたまま口を開く。 「俺はあくまでもアシスタントだから、内容は現場で確認して貰える?」 「……もしかして、『そういう』企画モノか何かですか?」  元々撮影内容をちゃんと知らせてくれない事務所だが、中には敢えて撮影直前まで内容を伏せられて、斬新な反応を撮るという撮影に当たったことも過去にはあった。今回もその手の撮影なんだろうかと思ったのだが、松本は「まあ心配しないで、リラックスしてて」と曖昧に悠の質問を受け流して笑った。  撮影内容を教えて貰えないのなら、特に他に話すこともないまま、車は駅から十五分ほど走ったところで静かに停車した。松本が開けてくれたドアから車を降りた悠は、目の前の建物に思わず目を見開く。  連れて来られたのは、飲み屋街の一角にあるショークラブだった。 「……ここで、撮影するんすか……?」  スタジオや、時には屋外ロケというのは経験があるが、さすがにクラブを借り切っての撮影はこれまで経験したことがない。  昼間ということで電飾も点いておらず、ひっそりと静まり返ったクラブを前に呆然とする悠に、松本は「もしかしてこういう場所、初めて?」と笑み混じりに問い掛けながら、勝手知ったる様子でシャッターの下りた入り口の脇にある、従業員専用らしいドアを押し開けた。  初めて?、というのは、来るのが初めて?、という意味だろうか。それとも、こういう場所での撮影は初めて?、と問われているんだろうか。……答えは「どっちも初めて」だが。 「控室こっちだから、入って」  松本に促されて、悠は躊躇いがちにドアを潜った。  まだ悠たち以外には誰も到着していないのか、店内はシンと静まり返っている。控室までの道中にチラリと見えた店の中は、シート席が並ぶ客席に向かい合うような形で、ステージが設けられていた。  場所が場所だけに撮影内容の予想もさっぱり浮かばず、悠の気分は鉛のように重くなっていく。  そんな悠を控室まで連れて来た松本が、「そんな緊張しなくてイイって」とまだ衣装もメイク道具も何一つ用意されていない控室の椅子に、悠を強引に座らせた。 「ユウくんはいつも通りにしててくれればイイから」  いつも通り、と言われても、撮影内容も相手も、何一つわからないまま初めての場所に連れて来られて、緊張するなと言う方が無理な話だ。大体、見たところスタッフも松本以外誰も居なければ、機材などが運び込まれている雰囲気もないこの状態で、本当に撮影なんて始められるんだろうか。  頼りにはなりそうにないが、念の為マネージャーに一度連絡した方がいいだろうかと、悠がボディバッグから携帯を取り出したとき。まるでそのタイミングに合わせたように、いつの間に淹れたのか、松本が悠の目の前に紙コップに入ったカフェオレを置いた。  思わず松本の顔を見上げた悠に、ニ…と狐みたいな笑顔が向けられる。 「緊張しなくてイイけど、撮影はちょっと長引くだろうから、水分補給しっかりしといて」 「はあ……どうも」  水分補給、と言われるといつもならお茶か水だぞ…、と思いながらも、悠は取り敢えず一言松本に礼を述べた。 (……そもそも、コーヒー系好きじゃねぇんだけど)  大抵の現場では、飲み物や菓子類など、男優が好みに合わせて自由に選べるように、複数の種類の飲食物が用意されている。だがこの控室には、他には一切飲み物も用意されていないようなので、悠は仕方なく松本が用意したカフェオレを喉に流し込んだ。  その様子を見届けて、松本は空になった紙コップを手に、「他のスタッフに到着連絡してくる」と控室を出て行った。  閉まった扉を見詰めながら、一体今回の現場は何なんだ…、と悠はテーブルに肘をついた。  スタッフの一人や、相手役が多少遅刻してきたりすることは何度かあったが、監督も相手役も主要スタッフも、その誰もが指定時刻に遅れてくるなんて初めてだ。しかも、マネージャーは今回の相手を「大手」だと言っていた気がするのだが、大手ならこれだけの大遅刻も許されるんだろうか。悠は「遅刻厳禁で」と言われた気がするのに。  本当に、何もかも理不尽だ、と悠は文句も含めてマネージャーに確認してやろうと、改めて携帯を握った。着信履歴からマネージャーへ連絡しようとして、そこでふと、悠は奇妙な感覚を覚えた。  携帯を操作する指先に、上手く力が入らない。 「………?」  指先どころか、次第に全身にも力が入らなくなってきて、携帯の液晶に表示された文字もぐにゃりと歪んで見え始める。 「……な、んだ……コレ……」  何度目を擦ってみても、視界はどんどんぼやけ始め、悠はまともに座っていられなくなり、ぐったりとテーブルに倒れ込んだ。  眠い、という感覚を覚えるより先に、勝手に瞼が落ちてくる。  自分の身体に一体何が起こっているのか全くわからないまま、とうとう悠は瞼を持ち上げることすら出来なくなり、そのまま意識は泥の中へと沈んでいった。 「ん……」  目を覚ました悠が真っ先に感じたのは、身体を纏うヒヤリとした空気と、それから背中に触れる冷たい金属の感触だった。  徐々に焦点が合う視界に飛び込んできたのは、剥き出しの自身の下半身。 「……っ!?」  一気にそこで意識が覚醒し、咄嗟に隠そうとした悠の腕でガチャリと金属音がして、そこでやっと、悠は自身の腕が拘束されていることを知った。  松本に控室へ通されて、苦手なカフェオレを飲んだところまでは覚えているが、そこから先の記憶が全くない。ただそのときは確かに服もちゃんと着ていたはずだが、今の自分は下着さえ身に着けていなかった。  自分の置かれている状況が全く理解出来ず、呆然と顔を上げた悠はそこでまた驚きに身を竦ませた。  どうやら今悠が拘束されているのは、クラブ内のステージ上のようで、普段はダンサーが使うのだろうか、天井まで伸びた細いポールに後ろ手に手首が拘束されている。おまけに首にもレザーの首輪が嵌められていて、その鎖もポールに巻き付けられているらしく、身動ぐたびに首元でジャラ…、と冷えた金属音がした。  そして何より悠が驚いたのは、そんな悠を客席から見詰める、スーツを着た何人もの男たちの姿だった。  皆一様に同じ仮面で目元から鼻先までを覆っていて、それぞれの顔は全くわからない。だが、仮面越しにもまるで値踏みするようにジッと悠へ向けられる視線を全身に感じて、悠は思わずゴクリと息を呑んだ。 「おっと、どうやら『商品』のお目覚めのようですね」  ステージ脇から、やはりスーツと仮面を纏った男が、マイクを片手にゆっくりと悠の元へ歩み寄ってくる。 (……『商品』……?)  呆然とその姿を見上げるが、仮面の所為でやはりそれが誰なのか、判別することは出来なかった。そもそも、ここに居る人物全員が、悠の知らない人間である可能性も高い。 「……『商品』って、どういうことだよ……」  マイクを持つ男を睨みつける悠の首から繋がった鎖が、男の手で不意に強く引っ張られて、息苦しさに悠は小さく呻いた。 「……口の利き方に気を付けろ。お前はこれからΩとして『飼って』もらう身だ。ちゃんとお客様に顔を見せろ」  悠の耳元で低く告げて、男は悠の顎を捕らえると強引に客席の方へと向ける。  ……『商品』? 『飼う』?  男が何を言っているのか、さっぱりわからない。  もしかして、これが今回の撮影なんだろうか?  そう思って店内に視線を巡らせてみたが、視界に入る限り、カメラなどの撮影機材は一切置かれていない。それに何より、客席から延々と注がれている男達の視線は、正しく『商品』を品定めするソレだった。 (……違う。コレは撮影なんかじゃない……)  そのことに気付いた瞬間、ゾクッと全身を悪寒が駆け抜けて、悠は無駄な足掻きと知りながらも必死で身を捩った。考えてみれば、駅前で松本に拾われたときからおかしかったのだ。……いや、そもそもあの男が本当に「松本」という名のアシスタントだったのかどうかすら、今となっては怪しい。  その怪しい相手に用意されたカフェオレに、まんまと口をつけてしまった自分の愚かさを今更悔やんだ。 「……ッ、放せよ、くそ……っ!」  ガチャガチャと手首の拘束具を鳴らして訴える悠の首の鎖が、再びグイッ、と男に引かれる。 「ぐ……ッ」  苦しさに顔を顰める悠の鎖を握ったまま、男は客席に向き直った。 「この通り、少々気性が荒い面はありますが────」  言いながら、突然男が身を屈めて悠の背後から何かを拾い上げた。客席に見せつけるように掲げられた、卑猥な形のバイブレーターに、悠はまさか、と身を強張らせる。 「……このまま絞め殺されたくなかったら、大人しく脚拡げろ」  脅しのように首元の鎖を引かれて、悠はギリ…と奥歯を鳴らした。何とか悪態を吐くのは堪えたものの、自ら脚を開こうとはしない悠の両脚を、男が強引にM字に割り拡げた。  客席に見せつけるような格好で悠の後孔が露になり、あちこちから熱を帯びたどよめきが起こって、悠は羞恥と嫌悪から堪らず顔を背けた。  そんな悠の態度には構わず、男はローションを纏わせたバイブを悠の孔へ、ゆっくりと挿入していく。 「────ッ!」  カメラの前で挿入されることにはもう慣れていたが、こんな風に不特定多数の人間の目の前で痴態を晒す耐え難い恥辱に、悠は唇が切れるほど強く噛み締めた。  どうして自分は、こんな目に遭っているのだろう。  Ωはαを産む為に、裏社会で売買されているらしいという話は噂話として聞いたことはあったが、まさかそれが事実だった上に、悠が売られることになるんだろうか。  そんなはずはない、自分は確かにマネージャーからいつものように仕事を受けただけのはずだ────そう思ったとき、ふと脳裏に、ある日突然事務所から姿を消した先輩の姿が浮かんで、悠は愕然とした。  今の自分と同い歳で、同じΩで、そして悠に何も告げずに突然去ってしまった先輩。……もしかしたら、彼は悠に何も言わなかったのではなく、今の悠と同じ状況になった結果、何も言えずに姿を消してしまったんじゃないのか────  同時に立花から受けた忠告も思い出し、悠の中でバラバラだったパズルが全て組み上がった。それは同時に、悠の未来が絶望に染まった瞬間でもあった。  このまま本当に売られたとして、子供が産めるかどうかもわからないΩの悠に、何の希望があるというのだろう。今の生活にすら希望なんて見出せずにいるというのに、見ず知らずの誰かの元に売られるくらいなら、それこそいっそ死んだ方がマシだと思えた。  バイブを挿入されたまま、ただひたすら唇を噛み締めて震える悠の隣で、男がマイクを持ち直して声を張る。 「最近までAV男優だった『中古品』ですが、その分調教のし甲斐はあるΩです。繁殖に使うも良し、お客様好みに調教して愛玩するも良し。────では、『新品』ではないことを踏まえて、百万から参りましょう」  男の言葉を待ち兼ねていたように、客席から次々に「二百!」、「三百!」と声が上がって、悠をかけたオークションは勝手に盛り上がり始める。次第に釣り上がっていく金額が、売買の生々しさを物語っている気がして、悠は可笑しくもないのに笑いたくなった。 (……立花、お前の忠告、正しかったわ……)  折角、こんな悠を「心配だ」と気に掛けてくれていた立花とも、もうこれっきり連絡も取れないかも知れない。結局、悠はどこまで行っても『ひとりぼっち』だ。  渇いた口の中には、切れた唇から溢れた血の、錆びた匂いが広がっていた。 「二千五百! 二千五百から上、いらっしゃいませんか!」  マイクを手に会場内へ呼び掛ける男の声に、悠はハッと我に返る。  子供が産めないかも知れないことなど知らずに、悠に二千五百万もの金額を提示した恰幅の良い男が、客席で興奮気味に立ち上がっている。仮面越しなので顔は全くわからないが、今の悠の姿に明らかに興奮している様子の男に、嫌悪感から吐き気が込み上げてくる。  ……こんな人生、もう懲り懲りだ。  何処の誰かもわからない、あんな男に買われてこの先生きるくらいなら、この場で舌でも噛んで死んでやる……! 「他にいらっしゃらないようなので、二千五百万のお客様、こちらへ────」  マイクを持つ男が客席の方へ歩み寄っていくのを見て、悠が既に血の味しかしない舌へ歯を立てかけたとき。 「────五千」  店内に、静かだがよく通る声が不意に響き渡った。  一瞬の沈黙の後、これまでとは違うどよめきが店内を包む。悠も思わず、声のした方を呆然と見遣った。  視線の先で、スラリと背の高いスーツ姿の男が静かに椅子から立ち上がる。 「ごっ……五千……! 五千が出ました……! 五千から上は、いらっしゃいますか!?」  オークションを仕切っているマイクの男も思わず言い淀む金額に、先ほど悠を競り落とした気になっていた男は悔しげに呻きながらも、渋々腰を下ろして引き下がった。  最早悠には、飛び交う金額がとっくに理解の範疇を超えていていまいちピンと来ない。ただ、明らかに悠には見合わない、とんでもない額が提示されたということだけはわかった。 「いらっしゃいませんね! それでは……」  司会の男に誘導されるよりも先に、五千万もの高額を提示した客の男が、片手に大きなアタッシュケースを提げ、長い脚でゆっくりとステージの方へやってくる。他の客と同様、顔は仮面で隠されているのに、ただ歩いているだけでも全身にただならぬオーラを纏ったその姿に、店内に居る者は皆息を呑んで見守ることしか出来ないようだった。  そんな周囲の視線など全く気にした風もなく、男は躊躇いなくステージに上がるなり、司会の男の前にアタッシュケースを下ろした。 「キャッシュで五千万。確認して貰って構わないけど、その前に先ずはこの下品な玩具、早く抜いて貰えないかな。こういうのは趣味じゃないんだ」 「は、はい……!」  穏やかな口調ながら、妙に威圧感のある客の声に気圧されたのか、司会の男は言われるがまま、慌てた様子で悠の中からバイブを引き抜いた。その刺激に微かに息を詰めた悠の裸体に、客の男は見るからに高そうなスーツの上着を脱いで躊躇いなく被せた。 「あと、俺以外の人間に拘束されてるのも気分が悪いから、その拘束具も外してくれる?」 「も、勿論です!」  完全に客の言いなりになってしまっている司会の男によって、悠の首と手首の拘束も漸く解かれた。  司会の男は、客の男の口調に反した迫力やオーラに圧倒されているようだったが、悠は全く別の理由で呆然と目の前の客を見上げていた。  思わず見入ってしまいそうな、スラリと高い背に長い脚。穏やかな口調に、耳に心地よい声音。それに顔の大半は覆われていても、唯一見えている形の良い唇。  ……嘘だ。そんなことがあり得るワケがない。  何度も自分にそう言い聞かせても、そのどれもが、悠の記憶の中にハッキリと残っているものと一致していて、勝手に鼓動が速くなる。  言葉を失う悠の目の前で身を屈めた客の男の長くて綺麗な親指が、血に濡れた悠の唇にそっと触れた。 「……やっと見つけた」  忘れられない『あの日』と同じ言葉を零した男の唇が、緩く弧を描く。  ……見間違えるはずもない。その唇は、悠が高校時代、毎日のように見ていた本郷のものだった────

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