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第3話

 遠くから、優しいピアノの旋律が聞こえてくる。  全身をフワフワした綿に包まれているような心地良さの中、悠がゆっくりと瞼を持ち上げると、聞こえてくる旋律が一気に大きくなった。  優しくて、耳に心地良い中にも確かな存在感を放つその音は、奏でる男の口調とよく似ている。否応なしにテレビなどで何度も耳にしたことがあるこれは、本郷の奏でるピアノの音だ…と、悠はすぐにわかった。  生で聴くのは初めてだったが、テレビなどで聴くよりも、本郷の演奏はずっと耳障りが良くて、けれど静かな迫力もあった。  何だか色々なことがありすぎて、悠は長い夢を見ていたような気分だった。正直今のこの状況も、まだどこか現実味がない。  そもそもいつ意識を失くしたのかも思い出せないが、目覚めた悠は、どこのホテルのスイートルームだと言いたくなるような、広すぎるベッドに寝かされていた。  何も身に着けて居なかった身体には、肌触りの良いバスローブが着せられている。  ピアノの音は、壁の向こう側から聴こえているようだ。だとしたら此処はもしかして本郷の自宅なんだろうかとぼんやりと思って、益々これは夢の続きなんじゃないかという気持ちになってくる。  自分がまさかあんな怪しい闇オークションにかけられるなんて思いもしなかったし、そんな場所へ本郷が現れたことも、未だに信じられない。学校を辞めてから、完全に真逆の世界に居たはずの本郷と出会うことなんて、もう二度とないだろうと思っていたのに────  聞こえてくるピアノの音に耳を傾けたまま、悠がまだどこか夢見心地で微睡んでいると、不意に音が途切れた。もっと聴いていたかったのに、と思わずベッドの上で軽く身を起こしたとき。ガチャリと部屋のドアが開いて、相変わらずモデル顔負けの容姿の本郷が、目を覚ました悠を見て安堵したように笑みを零した。今はもう仮面もスーツも纏っていない、私服姿の本郷を目の当たりにして、何かの間違いでも夢でもなかったことを実感する。 「もしかして、俺のピアノの音で起きちゃった?」  問い掛けながらゆっくりベッドへと歩み寄ってくる本郷に、一体どんな顔をすれば良いのかわからず、悠は「いや……」とだけ答えた。むしろ本郷が奏でる心地良いピアノの音に聴き入っていたとは言えない。 「気分、どう?」  ベッドの縁に腰を下ろして、悠の頬へ長い指でそっと触れてくる本郷に、心臓がドクリと大きく跳ねて、悠は咄嗟にその手から逃れるべく、軽く頭を振った。 「……いいワケねぇだろ」 「確かに、あんな目に遭ってればそうだよね。……此処は俺が借りてるマンションなんだけど、御影、ステージの上で気を失ったんだよ。多分薬も飲まされてたんだろうし、疲れとかショックとか、色々あったんじゃないかな」  苦笑混じりに肩を竦めた本郷が、行き場を失くした手をヘッドボードへ伸ばした。  そう言えば、自分を競り落とした相手が本郷だとわかった瞬間、もう何が何だかわからなくなって、そこで意識が途切れたような気がする。 「取り敢えず、このバッグと着替えだけは取り返せたよ」  そう言って手渡されたのは、控室だと誘導された部屋に置いたままだった悠のバッグだった。 「着替えは洗濯して、今乾燥機にかけてるけど、バッグの中身はわからないから確認して」  促されてバッグを開けてみると、財布やスマホなどの悠の私物は全て無事だったが、仕事用の携帯は入っていなかった。意識を失ったとき、手に持っていた所為もあるのかも知れないが、そうでなくとも、恐らく抜き取られていた気がする。  騙されて、ワケのわからないオークションにかけられた時点で、悠はプロダクションから見限られたのだ。  本来ならそれでもう居場所もなくなって、悠の人生なんてこの先何の希望もないはずだった。それなのに──── 「……何でお前が、あんな場所に居たんだよ」 「御影が学校を辞めてから、ずっと探してたんだよ」  大事な物を見詰めるように、愛おしさを滲ませた顔で本郷が答えて、心臓が勝手に煩くなる。それを鎮めるように無意識にバスローブの合わせ目を握り込みながら、悠は本郷の言葉を鼻で笑い飛ばした。 「今じゃ日本どころか、世界でも名前の売れてるピアニストのお前が?」  きっと毎日忙しくしているであろう本郷が、何年も前からずっと悠のことを探していたなんて、信じられるワケがない。そう思わないと、思い上がって妙な期待をしてしまいそうになる。  捻くれた物言いを返した悠に、本郷は少し困ったように眉を下げた。 「確かに、俺は御影が退学した頃には国内でコンサートにも参加させて貰ったりしてたし、親とは音大に進むことも約束してたから、どうしても音楽との両立になってしまって、その間御影をずっと一人にしてしまってたことは否定しない」 「……別に、俺はそもそもお前に『一緒に居てくれ』なんて頼んだ覚えもねぇよ」 「そうだね……一緒に居たかったのは、俺の方だ。御影と最後に話したとき、驚いて咄嗟に誤解を招く言い方をしてしまったことは、ずっと悔やんでたよ」 「誤解? 本心の間違いだろ。お前だって結局、俺も大半のΩと同じで発情期に誰彼構わずセックスするような人間だと思ってたんだろうが」 「そうじゃないよ」  過去のやり取りを思い返して吐き捨てるように言った悠の両肩を、本郷の大きな手が不意に力強く掴んだ。離せ、と言いかけて見上げた本郷の顔から見慣れた笑顔が消えていて、悠は思わず押し黙る。 「あのとき俺が言いたかったのは、本当に俺との子が御影の中に宿ってるなら、凄く嬉しいってことだったんだ」 「嬉しい……?」  思いがけない言葉に、悠は呆然と本郷の言葉を繰り返す。 「……なんで、俺なんかとの子供が出来て嬉しいんだよ……」 「『俺なんか』って、俺が毎日御影のこと見てたの、御影だって気付いてたじゃないか。好きな相手との子供なら、嬉しいに決まってるでしょ」 「は……?」  好き?  ……誰が? 誰を?  そんなこと、高校時代一言も言われた記憶がない。  唖然と見詰め返すことしか出来ない悠の顔を見て、本郷が困惑げに苦笑した。 「もしかして、自覚なかったの?」  自覚なんて、あるワケがない。大体、本郷の口から直接聞いた今も、全くといって良いほど実感が湧かなかった。  特別秀でたところなんて何もないΩの悠が、本郷みたいに何処に居ても目立つ存在のαに好かれる理由なんて、一体誰が思いつくのか教えて欲しいくらいだ。 「そんなモン……信じられるワケねぇだろ。お前、学生の頃からあれだけ人気あったのに、そんなヤツがΩの俺を好きになるとか、意味わかんねぇし」 「俺が好きなのは、御影のそういうところだよ。……俺の周りに居る人間は、殆ど俺の見た目に音楽を重ねて見てくる。俺が純粋にピアノを聴いて欲しいと思っても、あの頃のクラスメイトたちも、今の俺を取り上げてくれるメディアも、先ずは俺の容姿に注目する。そんな中で、御影はいつも俺をうんざりした目で見てた。それが逆に、俺には凄く新鮮だったんだ」 「……それなら、立花だって俺と同じΩだし、お前のことチヤホヤしたりしてなかっただろ」  立花の名を聞くと、本郷は何かを思い出したように「あー……」と苦い顔で一瞬天井を仰いだ。 「立花は、御影とはちょっとタイプが違ってたかな。二人とも、クラスに馴染もうとしてなかった点では似てるけど、立花は俺だけじゃなくて、αをとにかく毛嫌いしてた気がする。βだって結局はαに便乗したがるものだし、立花はそんな奴らと関わって堪るかっていうピリピリしたオーラが出てた。……だけど御影は、一見一人で居たいように見えて、心のどこかではそれを寂しがってるように見えたんだ」  本郷といい、立花親子といい、どうしてこうも同じようなことを言うのだろう。自分はそんなにも、寂しそうな空気を滲ませているんだろうか。 「どうにか御影が妊娠を確認した病院は突き止められたけど、それっきり健診にも中絶にも来ていないって言われて、凄く心配になったよ。だけど、御影が育った施設に行っても、突然出て行ったっきり行き先もわからないって言われるし、全然行方がわからないまま時間が過ぎて……ある日、御影がAV業界に居ることを知った。生活費の為に裏でこっそり身体を売りものにするΩは少なくないけど、子供が居るのにAVに出演するっていうのは考えられないし、そもそも御影はAV業界なんかに進んで手を出すとも思えなかったから、もしかして子供に何かあったんじゃないかと思ったんだ」 「………」  的を射すぎている本郷の言葉に、悠は黙って唇を噛むことしか出来なかった。数刻前にも散々噛み締めていたそこは、少し歯を立てただけでもピリッと鋭く痛んで、また薄らと血が滲む。  悠のことなんてもうとっくに忘れてしまっているだろうと思っていた本郷が、わざわざ病院や悠の育った施設まで調べて回ってくれていたなんて、思いもしなかった。もっと早くそのことを知っていたら、悠の人生は変わっていただろうか。今からでも、溢れてくる血液みたいに、いっそ真実を全部零してしまえたらどんなに楽だろう。  だが、もう七年も前に空へと還ってしまった小さな命も、AV業界に足を踏み入れてしまった過去も、悠の中から決して消し去ることは出来ない。 「……子供なら、俺が殺したよ。そもそも俺自身、親に捨てられてんのに、まともな子育てなんか出来るワケねぇだろ」  立花に話したときのように、失った命を自らの口で再度殺めた悠の腹が、軋むように疼いた。思わず腹に手をやった悠の様子を見逃さなかったのか、本郷が小さく溜息を吐く。 「相変わらず、御影は嘘吐くの下手だよね。そんな話、俺が信じると思ってるの」 「お前が勝手に俺のこと買い被ってるだけだろ。こんな俺に五千万も払うとか、お前こそ正気かよ」 「言ったでしょ、俺は御影をずっと探してたって。俺も海外公演なんかがあったりして、なかなか御影の元に辿り着けなかったけど、丁度御影の所属してるプロダクションが今回の闇オークションにΩを流すらしいって情報を貰ってね。正直、チャンスだって思ったよ」 「五千万とか、俺みたいなΩに出す額じゃねぇだろ」 「あんなの、俺のポケットマネーで充分だよ。というか、むしろ俺としては二億くらい出すつもりだったのに、二千五百万ごときで御影を落札しようなんて、あのタコ親父は許せないね」  世間の女性を虜にしている小綺麗な顔で、本郷はしれっと言ってのける。二億なんて、悠からしたらもう宝くじの世界だ。むしろ、そんな額にならなくて良かったと心底思う。 「ってか、論点はソコじゃねぇんだよ。……アレって、どうせ合法な取引じゃねぇんだろ。お前、世界中で顔も名前も知られてんのに、あんなモンに関わったことが世間にバレたりしたらどうするんだよ」   いくら客として参加していた人間が皆顔を隠していたとしても、本郷ほど有名な男なら、圧倒的な存在感や雰囲気で、バレてしまっても不思議じゃない。実際悠だって、仮面越しにも間違いなく本郷だと気付いたくらいなのだ。  けれど、そんな悠の心配を余所に、本郷は目を細めて幸せそうな笑みを浮かべた。 「あー……やっぱり好きだなあ。御影のそういうところ」 「……はあ?」  噛み締めるように言われて、また煩く跳ねる心臓の音を誤魔化すように、悠は僅かに顔を背けて敢えて呆れた声を返す。 「わかってる? あの時、御影の方が遥かに危険な状況だったんだよ。あんなオークションに手を出すような連中に、まともな性癖の人間なんて先ず居ない。そんな連中に競り落とされてたらどうなってたかわからないのに、御影は自分じゃなくて俺の心配してる。……そんな御影が自分の子供を殺すなんて、絶対に有り得ない」 「………」  学生時代も、世界で活躍するピアニストになった今も、本郷は誰に対しても当たり障りなく接するし、必要があればリップサービスだってすることも、悠はメディアが垂れ流している本郷の情報を見聞きして知っている。  今は自分で作曲も手掛け、他のアーティストに楽曲を提供したりもしているらしいし、TVCMにも何本か出ていた気がするので、確かにそんな本郷にとっては、数千万なんて大した額ではないのかも知れない。  けれど悠にしてみれば、有り得ない程高額な借りを作ってしまったことになる。  それに、数年ぶりに再会して、いきなり「好きだ」なんて言われても、すんなり受け止められるワケがない。初めての発情期を迎えたあの日みたいに、呆気なく本郷に捕らわれて、そうしてまた一人になるなんて、もう二度と御免だった。 「……助けて貰ったことは、素直に感謝してる。けど、正直五千万もの金、俺には一生かかっても返せる自信なんかない。出来る限り返してぇとは思うけど、取り敢えず分割で────」 「ちょっと待って。あれは俺が御影を取り戻したくて払っただけだから、別に御影に請求するつもりなんかないよ。それに御影、仮に返すにしたって、アテあるの?」  問われて、そう言えば悠はもうプロダクションとの契約を切られたも同然なのだから、今は無職なのだということを思い出す。返答に詰まった悠に、本郷が更なる追い打ちをかけてきた。 「ちなみに、悪質なプロダクションから無事御影も助け出せたから、これまでの御影の出演作品も、販売元に掛け合って全部販売は差し止めて貰ったよ」 「……差し止め? ……って、そんなことどうやって……」 「世の中、コネと金さえあれば、大抵のことは解決出来るんだよ」  爽やかな笑顔でサラリと腹黒い発言を零す本郷を、悠は唖然と見詰め返すことしか出来なかった。  さすがに五年もこの業界に居たので、単体以外の共演作も含めれば、出演作品は結構な本数になっているはずだ。それを全部差し止めたのだとしたら、もしかしたら……いや確実に、悠を競り落とした以上の額を、本郷は支払っていることになる。 「好きな相手が他の男と絡んでる作品が世に出回ってるなんて、我慢出来ないでしょ。俺、好きなものに対しては、執着心と独占欲の塊なんだよね」  そう言ってベッドから腰を上げた本郷が、不意に壁際のクローゼットの扉を開けた。その中に置かれた棚を見て、悠は思わず絶句する。  棚一面に、悠がこれまで出演した作品の数々が恐らく全て、ジャケットが見えるようにズラリと陳列されていたのだ。 「なっ……何だよ、それ!? お前、全部差し止めたって……」 「自分用には、ちゃんとキープしてあるに決まってるでしょ。どこの誰が見てるかも知れない御影の姿を、俺だけが知らないなんて許せない。……一番気に入ってるのは、三作目の学園モノかな。他にも学園モノは何本かあるけど、この作品だけは御影にブレザーじゃなく敢えて学ランを着せてくれたところが、とても高評価だ。まだ不慣れな頃だったからかな、御影の初々しさもコンセプトに合ってて凄くイイ」  悠ですら、いちいち内容なんて覚えていない作品が殆どだと言うのに、ジャケットを眺めながら事細かに感想を述べられて、恥ずかしいやら後ろめたいやらで、悠は布団の中に潜り込みたくなった。まさか本郷が、悠の出演作品を全てチェック済みだったとは……。  自分の裸体のジャケットが並ぶ棚を直視していられず、視線を背けた悠の元に、クローゼットの扉を閉めた本郷が再び戻って来た。 「どう? 少しは俺の想い、伝わった?」 「……むしろちょっと引いたわ。やっぱお前、正気じゃねぇよ」 「手堅いなあ。そういうところも、御影の魅力ではあるんだけど。……ただ、どの作品も全部、御影が微塵も気持ち良さそうに見えなかったのは、辛くも嬉しくもあったかな」 「……どういうことだよ?」 「本当に気持ちイイときの御影を、俺は知ってるから」  否応なしに本郷との行為を思い出して、悠はギクリと僅かに肩を揺らした。撮影のたび、たった一度の本郷との行為をいつも思い出していたことを見透かされているような気がして、本郷の顔が見られなかった。  今でも覚えているのは、悠だけだと思っていたのに──── 「本当のこと、話してくれる気になった?」 「……本当のことって、何だよ」  本郷が子供のことを聞いていることはすぐにわかったが、悠は態とらしく白を切る。頑なな悠に、本郷は「頑固者」と苦笑した。 「まあでも、俺もそう簡単に御影が心を開いてくれることはないだろうと思ってたから、気長に待つよ。やっと俺の元に取り戻せたことだしね」 「ん……? ちょっと待てよ。『俺の元』って、まさかこのまま此処に居ろってことか?」 「だって俺は御影を変質者の集まりから助け出したわけだし、御影は仕事がなくなったから収入もなくなるよね? それならここに居た方が生活にも困らなくてイイでしょ。元々俺も、御影を見つけたら責任取ってちゃんと養ってくつもりだったし」  何でもないことのように言う本郷の言葉に、悠は困惑する。  確かに本郷の言う通り、悠は次の仕事を見つけない限り収入もないし、Ωがまともな働き口を見つける苦労は、これまでにも散々味わっている。だから本郷の申し出はΩにとっては有難いことこの上ない話なのだが、悠はオークションでも言われたように、元AV男優の『中古品』だ。  そんな悠を傍に置いていることが世間にバレたら、本郷の名前に傷がついてしまう。そのことを、本郷はちゃんとわかっているんだろうか。  黙り込んだ悠の頭にポンと大きな掌を置いて、本郷が微笑む。 「取り敢えず、時間も時間だし何か食べようか。今シェフを呼ぶよ」  ベッドから立ち上がった本郷がスマホを取り出すのを見て、「シェフ!?」と悠は思わず聞き返す。 「ん? 何か苦手な食べ物とかある?」  スマホを片手に首を傾げる本郷のズレっぷりに、悠は有り得ねぇ…と小さく首を振った。 「シェフって……ここお前の家だろ? もしかして、飯の度にシェフ呼んでんのかよ?」 「仕事の都合で外食が多いけど、自宅で食べる場合は、実家に居た頃からシェフに頼んでるかな」  それが何か?、とでも言いたげな本郷の視線に、悠は最早溜息しか出なかった。やはり本郷と悠とでは、住む世界からして違いすぎる。 「御影は、食事とかどうしてたの」 「そんなモン、自分で作るに決まってんだろ。外食なんか金勿体ねぇし、精々面倒なときは総菜買うくらいで、基本は自炊だよ」  呆れた口調で返した悠を見下ろす本郷が、途端にパァッと顔を綻ばせた。 「御影、料理出来るの?」 「料理っつても、別に人並みだけど────って、うわ……っ!」  言い終わる前に、本郷の手が悠の細い手首を掴んでグイ、と強く引っ張った。そのまま強引にベッドから引き摺り出され、扉の向こうへ連れて来られた悠は、目の前に広がる光景に目を瞠った。  先ず目に留まったのは、一体何十畳あるのだろうかと思うほど広いリビングダイニングの中央に置かれた、立派なグランドピアノ。  そのピアノを境に、寝室側には高そうなソファと、巨大なテレビが置かれていて、反対側のダイニングスペースには立派なアイランドキッチンが備え付けられていた。  目の前の壁一面をカーテンが覆っているが、もしかしてカーテンの向こう側は全部窓なんだろうか。  余りの広さと豪華さに軽い眩暈を覚える悠の手を引っ張って、本郷はそのままピカピカのキッチンへ向かう。 「ある程度の食材は冷蔵庫に入ってるはずだけど、何か作れる?」  漸く悠の手を解放して、本郷は悠の家にあるものの倍はありそうな冷蔵庫の扉を開けた。背後からそっとその中を覗き込んでみると、そこには『ある程度』どころか、数週間は困らないのではと思えるほど、様々な食材がビッシリ入っていた。ついでに見せて貰った野菜室や冷凍庫も同様で、チルド室には悠がテレビや雑誌でしか見たことがない最高級の肉も入っている。 「……どこのレストランだよ……」 「俺は飲み物以外は全く自分で触らないから、食材の調達なんかは基本的にシェフに任せてあるんだ」 「こんな立派なキッチンもあんのに、勿体ないにも程があるだろ……」 「だったら、今日は御影が何か作ってよ」  冷蔵庫に軽く長身を預けて微笑む本郷に、悠は「え?」と目を見開く。 「……お前みたいに舌肥えたヤツを満足させられるようなモンなんか、さすがに作れねぇよ」 「御影が作ってくれるんなら何でもイイからさ」  そう言われても、どうせ外食でもその辺のファミレスなんかにはきっと行かないであろう本郷に振る舞う料理なんて思いつかない悠が渋っていると、「あ、そうだ」と呟いた本郷が、不意に身を屈めて悠の耳許へ顔を寄せてきた。 「五千万が給料ってことで、作って?」  耳許で、甘い声音で強請られて、ゾクリと背が震える。  そんな高給なら益々作れるか、と思うのに、本郷の声に強請られると拒み切れず、結局悠はバスローブのままキッチンに立つことになってしまった。  とは言え、やはりそんな大層な料理は悠には作れないので、キッチンにある食材を改めて確認して、無難に肉じゃがを作ることにする。肉は肉じゃがにしてしまうには勿体ない品質のものだったが、メニューが平凡な分、せめて材料くらいは豪華でもいいだろうと開き直ることにした。 「AVに出てる姿より、そうやって料理してる御影の方がずっと色っぽいね」 「………っ」  じゃがいもの皮を剥く手が思わず滑りそうになって、悠はキッチンカウンターに凭れ掛かりながらジッとこっちを眺めている本郷をジロリと睨み返した。何だか、学生時代を思い出して懐かしい気持ちになる。 「気ぃ散るから、出来るまでピアノでも弾いてろよ」  どうしても本郷の視線が気になってしまうのも本音だったが、それ以上に、さっき途中で途切れてしまった本郷のピアノがもう一度聴きたかった。  そんな悠の心中に気付いたのかどうなのか、本郷は残念そうに肩を竦めた後、すんなりピアノの前に移動した。  広いリビングに、優しいピアノの音色が再び響き始める。さっき聴いたのとは違う曲だったが、慣れない場所で料理をする悠の心を解してくれるような穏やかな曲調に、悠は手を動かしながら聴き入った。  楽譜も見ていないのに、流れるように鍵盤の上へ指を滑らせて音を奏でる本郷の背中を見ていると、本当にピアノを弾くことが好きで楽しんでいる様子が伝わってきて、悠は密かに目を細めた。  容姿云々ではなく、自分の音楽を純粋に聴いて欲しいと言っていた本郷の気持ちも、今なら少しわかる気がした。  肉じゃがが程よく煮込まれた頃、仕込んでおいた炊飯器から丁度米が炊き上がった音が鳴る。 「凄くイイ匂いするんだけど、もうそろそろそっち行ってもいい?」  本郷の弾く曲が突然、お馴染みの料理番組のテーマ曲に変わって、悠は思わず笑いそうになった。 「いいけど、マジで大した出来ばえじゃねぇから期待すんなよ」 「俺にとっては御影の手料理ってだけで、永久保存モノだよ」  本郷が出してくれた器に白米と肉じゃがをそれぞれよそって、ダイニングテーブルに運ぶ。思えば誰かと一緒に食事をするなんて、施設に居た頃以来だ。  悠の向かいに腰を下ろした本郷が、目の前に並んだ至って質素な食事を見て、その目を輝かせる。 「こんなにインスタ映えする料理ってある!?」 「フツーにあるし、むしろこれはインスタ映えしねぇよ」 「俺的には五百万『いいね!』余裕だと思うんだけど」 「俺はお前の感性がわかんねぇわ……」  様々な角度からスマホを翳して撮影に夢中になっている本郷は無視して、悠は「いただきます」とさっさと先に箸を取った。  良い肉を使ったお陰で、その分いつもよりは多少味は豪華になっていたが、それでも所詮は悠が作ったものなので、肉を除けばやはりごくごく普通の肉じゃがだった。  だが、満足いくまで撮影した後、「いただきます……」と丁寧に手を合わせ、随分と勿体ぶって肉じゃがを口にした本郷は、元々少し下がり気味の目尻を更に下げて、心底幸せそうに破顔した。 「……最っ高に、美味しい……!」 「大袈裟過ぎだろ。絶対、お前が普段食ってる飯の方が美味いに決まってる」 「そんなことない。俺、これまで特に食事に拘りとかなかったんだけど、料理の味って、値段とか腕前とかじゃないんだって今初めて知ったよ。……これまでの人生で、一番幸せな味がする」 「………」  どう考えても高級レストランや一流シェフには敵わない味のはずなのに、例えお世辞だとしても、『人生で一番』という本郷の言葉に、胸がギュッと詰まった。  このまま本郷の元に居てはいけないと思う一方で、こんな料理で本郷が幸せになるのなら、いくらでも作ってやりたいという気にもなる。この場に、無事に育った子供が居たらどれだけ幸せだっただろうと考えてしまい、悠の胸は一層苦しくなった。  胸の痛みを打ち消すように黙々と箸を進める悠と、それとは対照的に一口一口噛み締めるように味わって食べる本郷。そんないびつな空気の中に、ふと携帯の着信音が割り込んできた。鳴っているのはテーブルの端に置かれた本郷のスマホだ。 「ああゴメン、多分仕事の電話だ」  名残惜しそうに一旦箸を置いた本郷が、スマホに応答しながらテーブルから少し離れる。 「────もしもし、お疲れ様。今日は無理言ってゴメンね。……え? 今から?」  スマホを耳に押し当てる本郷が、壁の時計を見遣って少し眉を顰めた。 「……わかった。今から出るよ。……ああ、よろしく」  通話を終えた本郷が、小さく溜息を吐きながら、申し訳なさそうな顔で悠の傍へと戻ってきた。 「ゴメン、マネージャーからだった。ちょっと急に雑誌の取材の仕事が入って、今から出ないといけなくなったんだ。食事、帰ったら食べるから、冷蔵庫に入れておいてくれる?」 「それは構わねぇけど、もしかしてお前、あのオークションに来る為に仕事の予定ズラしたんじゃ────」 「俺が決めたことだから、御影が気にすることじゃないよ。本当は明日の予定だったんだけど、別の取材が入ったから急遽今から来て欲しいって言われちゃってね。悪いけどこのまま出るから、家の中のもの、好きに使って。シャワー浴びたかったら、脱衣所にバスタオルとかバスローブの替えもあるから。日付が変わるまでには戻れると思うけど、眠かったら先に休んでくれてイイからね」  言いながら手早く荷物を纏め、「ちょっと行ってくる」と言い置いて、本郷は慌ただしく部屋を出て行った。  広いリビングが、一気にシン…と静まり返る。  本郷が食べかけで残していった肉じゃがにラップをかけて冷蔵庫に入れた後、気になっていた壁際のカーテンをそっと捲ってみると、その向こうは一面はめ殺し窓になっていて、眼下には都内の眩い夜景が広がっていた。改めて、悠の住まいとは文字通り天と地の差だと、悠はそっとカーテンを元に戻した。  もう何年も会っていなかった上、AV業界で散々自分を汚してきた悠を、何事もなかったように家に招き入れてくれる本郷の優しさが、悠には怖くて堪らなかった。  悠がAV業界に居たことは知っていても、本郷は悠が流産した上、不育症の可能性があると医師から告げられたことは知らない。  元AV男優というだけでも、本郷には余りにも不釣り合いだというのに、その上子供も産めないかも知れない自分は、こんな立派なマンションで暮らす本郷の傍になんて、居られるワケがない。  流産した後、もう何もかもどうでもいいと自暴自棄になってAV業界に転がり込んだとは言え、それでも足を踏み入れたのは悠自身なのだから、今更後悔することも出来ないし、自分の弱さや愚かさは、悠自身が一番よくわかっている。  それに何より、このまま本郷に甘やかされ続けていたら、そのまま甘い沼に引き込まれて、ずっと閉じ込めていた心の奥を暴かれてしまいそうな気がした。  無事生まれてはくれなかったが、本郷があの時宿った命を喜んでくれていたこと。それから、こんな自分を好きだと言ってくれ、ほんの一時でも幸せな日常を与えてくれたこと。悠には、それだけでもう充分だった。  自分の使った食器を洗って片付けた後、悠は脱衣所にある洗濯機の中から乾いた自分の服を取り出して、バスローブから私服に着替えた。  さすがに五千万もの大金を払って助けて貰っただけに、黙って出ていくのは気が引けたので、悠は電話機の傍に置かれていたメモ帳を一枚千切ると、全額は無理でも必ず金は返せるだけ返しにくると書いたメモを、ダイニングテーブルに置いた。  時刻は夜の八時を過ぎたところで、今ならまだギリギリ終電にも間に合う。 「……悪い」  今ここには居ない家主に向けてポツリと呟いて、悠は本郷のマンションを飛び出した。  外へ出てみると、本郷のマンションは都心のど真ん中に建つ超高層マンションで、幸い駅とも直結していた為、悠はすぐに電車に乗ることが出来た。  何とか悠の住む町まで行く最終電車に乗ることが出来、悠は座席に座って一息吐く。  元々そう利用客の多い路線ではないので座ることが出来たが、それでも最終電車ということもあってか、車内の座席はほぼ満席状態だった。  時間が時間だけに、飲み帰りの会社員の姿も多く、あちこちからアルコールの匂いがする。  そんな乗客も、一駅停車するごとに一人、また一人と次第に減っていき、乗客の数も随分まばらになって、悠の降りる駅までもうあと三駅、というところまで来たときだった。    ────ドクンッ  不意に大きく心臓が跳ねて、悠は咄嗟に胸を抑えた。悠の手の下で、心臓が徐々にドクドクと早鐘を打ち始め、じわじわと身体が熱を帯びてくる。 (……マズイ……!)  発情期だ、ともう何度も味わっている感覚に、悠は咄嗟にバッグの中を漁ったが、いつも服用している抑制剤が見つからない。そう言えば、丁度抑制剤が切れていて、今日が通常の撮影であれば、終わってからでも買って帰ろうと思っていたことを思い出し、悠は思わず舌打ちした。  悠の目的地まであと三駅。既に車内の乗客の数もだいぶ少なくなっているし、何とか持ち堪えられるかと思った矢先。向かいの席に座っていた明らかに酔っ払いとわかる中年のスーツ姿の男が、下卑た笑みを浮かべながら覚束ない足取りで悠の元へと近づいてきた。 「何だよ兄ちゃん、発情期で電車に乗るってことは、痴漢希望かぁ? 最近のΩは随分と盛ってんなぁ」  酷いアルコール臭を含んだ呼気を撒き散らしながら、男が火照り始めた悠に遠慮なく圧し掛かってくる。 「……っ、何すんだよ、退け……ッ!」  必死に押し返そうと試みるが、ぼってりと太った男の身体は重くて、発情して力の入らない腕では全く歯が立たなかった。  酔っている所為か、電車内だということを全く気にする様子もなく、男の手が悠の下肢を弄ってきて、勝手に反応する身体に悠は奥歯を噛み締めて必死に抗った。  とにかく早く逃げないとマズイ、と思ったところで、タイミング良く電車が次の駅に停車した。ドアが開く直前、悠は渾身の力で男の股間を蹴り上げると、そのまま男の下から這い出すようにして急いで電車を降りた。男が追って来たら逃げ切れるかどうか不安だったが、幸い男が降りてくる前に電車のドアが閉まって、ゆっくりとホームから離れていく。  それを見送って悠はホッと息を吐いたものの、男の所為で、悠は最終電車を見送る羽目になってしまった。  無我夢中で飛び降りた駅は随分と寂れていて、さっきの電車から降りた人物も居ないのか、ホームには悠以外の人影はなかった。  この身体で二駅先まで歩いて帰るのはさすがにキツイので、タクシーを捕まえるくらいしかない。……もっとも、発情期中のΩをタクシーが乗せてくれるのかどうかはわからないが。  発情期特有の怠さに襲われながらどうにか駅の改札を出た悠だったが、駅前のこぢんまりとしたロータリーには、消えかかった文字で「タクシー」と書かれた錆びだらけの看板は立っていたが、そこにタクシーの姿は一台もなかった。 「マジかよ……」  人通りもなければ車も通っていない閑散とした駅前で、悠は絶望感に傍のフェンスへ寄り掛かるとズルズルとしゃがみ込む。  たった二駅違うだけで、こうも田舎だとは思わなかった。  いつもは抑制剤を服用しているし、撮影も発情期が来そうな時期にはスケジュールは入れないようにして貰ってきたのだが、今回は運悪く、予想よりも早く発情期が来てしまったようだ。  助けて貰っておきながら黙って本郷の家を出てきた罰だろうかと思う反面、本郷の前で発情しなくて良かったとも思う。  だからと言って、こんな人気のない駅前で、発情したまま朝まで過ごさなければならないのだろうかと悠が浅い息を零したとき。  ロータリーの先にある交差点の方から、一台の黒い軽ワゴン車が走ってきて、悠の前で静かに停車した。  人が居たのか、と一瞬安堵するも、自分が発情中であることを思い出し、反応に戸惑う悠の前でワゴン車の助手席のドアが開く。そこから降りてきた相手に、悠は大きく目を見開いた。 「御影! こんなトコでどうしたんだよ?」 「立花……?」  駆け寄ってきた立花の姿に、悠は今度こそ心の底から安堵の息を吐く。まさか、今最も頼れる相手が現れるとは思いもしなかった。 「……もしかして、立花が住んでんのって、この町だったのか?」 「うん。今日、そこの商店街で友達と飲んでて、迎えに来て貰ったらロータリーに人影が見えたから……。まさかそれが御影だとは思わなかったけど」 「……色んな意味で、助かったわ……」  熱っぽい息と共に乾いた笑いを零す悠の異常に気付いたらしい立花が、軽く身を屈めた。 「御影……もしかして、発情期?」  その立花の背後から、「大丈夫か?」とガタイの良い立花のパートナーも車を降りてきた。これが例の元弁護士の…、と、悠は重い頭を擡げてぼんやりと見上げる。 「発情期みたい。月村先生、まだ居るかな?」 「どうだろうな……待ってろ、電話して確認してみる」  立花たちのやり取りも、どこか遠くに聞こえ始めて、いよいよヤバイと悠はぐったりとフェンスに身を預ける。 「……立花……お前、抑制剤、持ってねぇ……?」  浅い呼吸の合間に問い掛ける悠に、立花は申し訳なさそうに眉を下げて緩々と首を振った。 「ゴメン。俺、薬は使ってないんだ」 「……そっか……お前、番ってんだもんな……」  立花の後ろで誰かに電話をしている立花のパートナーの姿が、本郷の姿とダブって見える。発情期のことなんて気にせず、立花たちみたいに平和な日常生活が送れたらどんなにいいだろう。本郷はそれを与えてくれようとしていたのに、悠は結局、十代の頃と同じようにまたしても本郷の元から逃げ出してしまった。 「今日夜勤だから、月村丁度病院に居るってよ。麒麟、後ろ乗せてやれ」 「良かった。……御影、立てる?」 「……何処、行くんだよ。『月村』って……?」  立花に支えてもらってどうにか立ち上がりながら、悠は不安混じりに問い掛ける。そんな悠を後部座席に促しながら、立花が「大丈夫」と悠の心中を見越したように答える。 「近くにある病院の先生なんだけど、俺も初めての発情期のときから色々世話になってて、先生自身もΩと番ってるから、頼りになるよ」  悠を安心させるように立花は明るい声でそう言ったが、流産して以降すっかり病院が苦手になった悠は、苦笑を漏らすことしか出来なかった。乗せられた後部座席では、隣のチャイルドシートで怜央が寝息を立てていた。 「……怜央も居んのに、迷惑かけて悪い」 「気にしなくてイイって。すぐ着くから、もうちょっとだけ我慢して」  火照って疼く身体からどうにか意識を逸らそうと、悠がひたすら目を閉じて堪えている内に、車は本当にほどなくして『月村病院』と看板の掲げられた病院の前で停車した。 「麒麟、一緒に降りて、受付まで付き添ってやれ。月村には話通してあるから、名前言えば診て貰えるはずだ。夜間入り口から入れってさ」  わかった、とパートナーに頷き返した立花が先に車を降りて、乗る時同様、車から降りる悠を支えてくれる。  正面玄関の脇に設けられた『夜間入り口』と書かれた扉を潜り、消灯時間も過ぎている為か薄暗い院内を、立花は悠を介助しながら慣れた足取りで進んでいく。  ここ座ってて、と悠を待合のソファに座らせて、立花が受付の事務員と何やら言葉を交わすと、カウンターの奥へ引っ込んだ事務員に代わって、廊下の途中にある診察室から、眼鏡を掛けた白衣姿の医師が顔を覗かせた。こんな田舎町には似合わない、涼しげな容姿のαだ。発情期の悠を前にしても平然とした顔をしているところを見ると、この医師も番が居るんだろうか…とぼやけた頭で思う。 「先生、遅い時間にスイマセン」 「それは構わないけど、こんな時間に余所の町の急患なんて珍しいね。麒麟くんと一緒に飲んでたの?」 「いや、そうじゃなくて、駅前に座り込んでて……っていうかそもそも御影、何であんなトコに居たんだ?」  廊下に出てきた医師と共に立花に見下ろされて、悠はソファに身体を沈めながらどう答えたものかと眉を下げる。 「……ちょっと色々あって、本郷から、逃げて来た……」 「本郷? え、でも高校以来会ってないってこの前────」 「だから……色々あったんだって……」  そもそも悠自身、本郷との再会はまさかの出来事だったし、そこまでの経緯も複雑過ぎてさすがにこの場では説明出来ない。 「何か事情はありそうだけど、一先ず診察室に行こうか。歩ける?」 『月村』と書かれた名札を胸元につけた医師に問い掛けられて、悠はまたしても立花に手を添えてもらいながらどうにか診察室まで辿り着いた。 「麒麟くん、ありがとう。後はこっちで診るから、必要があればまた連絡するよ」 「お願いします。……それじゃ御影、俺からもまた連絡するから」 「サンキュ……お前のパートナーにも、よろしく言っといて」  診察台に横にならせてもらった悠が、怠い首をどうにか動かして告げると、立花は少し心配そうな顔を残したまま「お大事に」と告げて病室を出て行った。 「取り敢えず発情期だって聞いたけど、その歳なら初めてってわけでもないよね?」 「いつもは市販の抑制剤飲んでるんですけど、今たまたま切らしてて……。電車ン中で発情して、酔っ払いに絡まれて咄嗟に降りたのがここで……」 「ああ、なるほどね。普段は抑制剤飲んでて、アレルギーとか副作用がきついとか、そういうことはない? 無ければ抑制剤点滴しながら、問診させて貰うけど」 「アレルギーとか副作用とかは、特に出たことないっす」  悠の返答に「わかった」と答えた月村が、予めデスクに用意してあった点滴を手早くセットして、慣れた手付きで悠の腕に針を刺す。針をテープで固定してから、月村は問診票を手に、診察台の脇に腰を下ろした。 「先ず、名前と生年月日から教えてくれる?」 「名前は、御影悠……御影石の御影に、悠久の悠」  月村が問診票に書き込むのを確認しながら、続けて生年月日を告げる。  と言っても、悠は生まれてすぐに施設の前に棄てられていたので、この名前は施設長が付けてくれたものだし、生年月日も拾われた日のものなので、本当の名前も誕生日も、悠は知らない。名前に至っては、そもそも付けられていなかった可能性の方が高い。  だから何かにつけてこうして名前や生年月日を告げる度、悠は自分の存在そのものが偽物のような気がしてしまうのだった。  その後は住所や電話番号などの連絡先を聞かれ、「職業は?」と問われたところで、悠は思わず答えに詰まった。 「……今は、無職です」 「今は? ……前は、何の仕事してたの」  相手が医師ということもあって、何となく嘘を吐く気にもなれず、暫く迷った末に悠が「AV男優」と呟くように答えると、月村が眼鏡の奥の瞳を軽く細めた。 「……それは、ちゃんとした事務所?」 「ちゃんと……は、してなかったと思います……」  騙されて売買される羽目になった、とまではさすがに言えなかったが、悠の答えに月村は眼鏡を押し上げて呆れたような溜息を零した。 「全く……麒麟くんといいキミといい、ウチに来るΩは問題児ばっかりだな」 「立花も、何かあったんすか?」 「あの子もこの町に来た頃は色々と危なっかしくてね。僕も何度か説教したけど、キミを見てると、あの頃の麒麟くんを思い出すよ」 「……それ、本人からも言われました」 「そうなの? あの子も親になって、やっと自覚が出てきたのかな。キミは麒麟くんの友達だって聞いたけど、最近知り合ったの?」  友達、という、悠には馴染みのない言葉に、何となく胸の奥がこそばゆくなる。 「元々は高校で同じクラスだったんですけど、その時は別に仲良かったわけでもなくて……それが最近たまたま再会して、やり取りするようになったのはそれからっす」 「この町の人間でもない友達って、麒麟くんから聞いたことなかったから不思議だったけど、そういうことか。まあ、それも何かの縁なんだろうね」  確かに、あの日偶然立花に出会っていなかったら、今頃悠は本当に途方に暮れていたかも知れない。そう思うと、せめて立花には本当のことを話しておけば良かったかも知れないと、悠は胸の隅で思った。 「これまで、大きな病気や手術の経験は?」 「ないっす」 「発情期が来てるってことは、今現在妊娠してる可能性もないね」  確認するように言いながら、問診票にチェックを入れていく月村の手元を眺めながら、悠はポツリと口を開いた。 「……先生。不育症……って、治療とか、出来るんですか」 「不育症……?」  突然の問いに、月村がペンを走らせる手を止めて悠の顔へ視線を移す。 「どこかで、そう診断されたの?」 「……俺、十七のときに流産してて、そのとき医者から、不育症の可能性があるって言われて……」  点滴による抑制剤が効き始めて、少しだけ身体の怠さがマシになり、悠は天井を見上げながら訥々と答える。それを黙って聞いていた月村は、暫く考え込むような仕草を見せた後、記入し終えた問診票をデスクに置いて、脚の上で手を組んだ。 「僕が診察したわけじゃないから、キミが本当に不育症なのかどうかはわからないけど、そもそも不育症っていうのは体質が大きく関係しているものだから、これといった治療法は確定されてないんだ」  治療法がない…そう脳内で反芻して、悠の胸がじくりと痛む。  黙り込んだ悠の方を見詰めながら、月村が小さく息を吐いた。 「念の為ウチでもう一回検査することも可能だけど、僕としては、キミの『前職』による性感染症の方が気になるから、そっちの検査を受けることを強く勧めるよ。これまで感染症の検査、受けたことある?」  問われて、悠は無言で小さく首を左右に振った。  このままズルズルとAV業界で生きていくものだと思っていた悠は、性感染症の可能性なんて、考えたこともなかった。だが月村の言うように、仕事とはいえ散々色んな相手と性行為を繰り返してきたのだから、リスクがあって当然だ。 「不育症の件も含めて、今ついでに検査することも出来るけど、発情期で身体が辛かったら日を改めても良いし、最寄りの病院でも良いから、とにかく検査は早めに受けておいた方がいいよ」 「……今日、検査して下さい」  すぐに答えた悠を、月村が意外そうな顔で見詰める。  落ち着いた話し方と、少しくだけた口調の所為だろうか。月村は、これまで接したどの医師よりも、真摯に悠に向き合ってくれているような気がした。立花が「頼りになる」と言っていたのも、何となくわかる気がする。  それに元々病院は嫌いな悠だ。この機会を逃したら、わざわざ検査の為に近所の病院へ行こうなんていう気も起こらないだろうし、月村なら検査の結果がどうあれ、悠の不安も理解してくれるように思えた。 「ちょっと器具とか入れるけど、発情期中なのに大丈夫?」 「発情期は抑制剤と自己処理で乗り切るのに慣れてるんで、大丈夫っす」 「……なるほどね。麒麟くんが、キミのことを放っておけない理由がわかった気がするよ」  溜息混じりに苦笑した月村が、「検査の準備するから、ちょっと待ってて」と一旦診察室を出て行った。  少しして、様々な器具や検査キットを手にした月村が戻ってくる。 「下脱いで、このバスタオルかけて。なるべく早く済ませるけど、途中でどうしても無理だと思ったらすぐ言うように」  月村が検査の準備をしている間に悠は言われた通り、下着ごとデニムを脱いで、露になった下肢に月村から受け取ったバスタオルをかけた。  いくら発情期の対処には慣れていても、身体が火照った状態で検査用の器具を体内に入れられると、それだけでも声が出そうになって、悠は診察台のシーツに爪を立てて必死に堪えた。 「……よし、終わり。もう楽にしていいよ」  月村の声に、悠は思わず長い息を吐く。その様子を見て、月村が困ったような顔で肩を竦めた。 「キミも相当我慢強いね。ただ、あんまり我慢しすぎると、身体にも心にも良くないよ」 「………」  同じΩの立花のことも診ているからだろうか。月村には色々と見透かされているような気がして、悠は何も言えなかった。  本郷にも、真実を伝えた方がいいのかも知れないが、自分の口で伝えてしまったら、全てを受け入れなくてはならなくなる。本郷との子供を失ったことも、この先子供は産めないかも知れないことも、自棄になって自らAV業界に踏み込んでしまったことも……結局悠自身が、それらを受け入れたくないだけなのだ。全て変えようのない事実だと、頭ではわかっているのに────  膿だらけの傷をひたすら隠し続けて、最早もうどこが痛んでいるのかもわからない。どうやったら、これまで溜め込んできた膿を出し切れるのかも、悠にはわからなくなっていた。 「取り敢えず、検査結果が出るまで何日かかかるから、発情期を抜けて身体が落ち着いた頃に、もう一回来てくれる? 往診とか夜勤で僕が居ない日もあるから、予約入れておいてもらう方が確実なんだけど」 「……じゃあ、出来たら二週間後で」 「二週間後だね。……その日は日中ずっと院内に居るから、大丈夫そうだ」  デスクの上に置かれた卓上カレンダーを確認して、月村が頷く。 「それじゃあ、予約は二週間後に入れておくよ。点滴してる間に院内の薬局で抑制剤処方して貰っておくから、帰りに受け取って。点滴が終わる頃に、また診に来るよ」  着衣を戻した悠からバスタオルを引き取って、月村はそう言い残すと診察室を後にした。  静かな病室内には時計がなく、一体今何時なのかわからない。  本郷は、さすがにもう自宅に戻っているだろうか。自分の意思で飛び出してきたはずなのに、悠の料理くらいで心底嬉しそうな顔をしていた本郷を思い出すと、しくしくと胸が痛んだ。  だが、感染症の結果が陽性かも知れないことを考えると、やはり出てきて良かったのかも知れないとも思う。ただそうなったとき、いよいよ悠はこの先どうやって生きていけば良いのだろうと眉を顰めたところで、枕元に置いていたバッグの中からスマホの通知音が聞こえた。  抑制剤が効いているとはいえ、完全に火照りは消えていない身体を気怠げに捩って、悠は点滴の繋がっていない方の手でバッグからスマホを取り出した。 『立花:ゴメン、御影。先に謝っとく』  立花から、謎のメッセージが届いている。  突然の謝罪の理由が全くわからず、悠は益々眉間の皺を深めた。 『御影:ゴメンって、なにが』 『立花:その内わかると思う。とにかくゴメン』 『御影:意味わかんねぇんだけど』  悠が返したメッセージに、既読マークは付いたものの、それっきり立花から返事が返ってくることはなかった。  一体何なんだよ、と溜息を吐いて、悠はスマホをバッグに押し込む。  発情期で怠い上に、これ以上あれこれ考えていると、気分が沈んでいく一方な気がした。  いくら月村が理解のある医師だとしても、さすがに診察室で自慰をするわけにもいかず、悠はもう何も考えたくないと、強く拳を握り締めたまま無理矢理目を閉じた。  身体の芯で燻っている、Ω特有の浅ましい炎によって、胸の奥にまたドロリと膿が溜まっていくような気がした。

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