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抗うことのできない恋ならば、いっそこの手で壊してしまえばいい11
頭上から降り注ぐ声に、まぶたをしっかり開きながら顔を上げた。すると汚いものを見るような眼差しを真正面から受けたが、にっこりと微笑んでそれをやり過ごしつつ、口を開く。
「人の躰は、意外と脆いものなんですよ。あのまま踏みつけられて首の骨が折れたりしたら、伯爵が殺人者になってしまうじゃないですか。それを阻止したのでございます」
妙に静かな室内に、自分の声が反響した。ローランドの所在や安否を引き出すべく、次のセリフを頭の中で考える。
「何を言いだすかと思ったら。図太い神経をしている執事殿の首の骨が、簡単にぽきっと折れるはずもないだろう? それとも、いろんなプレイで鍛えられた躰と表現したほうがいいかい?」
目に眩しいくらいに真っ白いバスローブを身にまとった伯爵は、せせら笑って両腕を胸の前で組む。それを見ながら立ち上がり、踏まれた顔と汚れていそうなところを両手で払った。
「ほほぅ。俺に食ってかかると思ったのに、随分と冷静でいられるんだな」
「寝ている者の頭を踏みつける、常識のないお方に褒められるなんて、とても嬉しい限りです」
言いながら懐中時計の蓋を開き、時間を確認してみる。2時間半も惰眠を貪ってしまったことに、胸がキリキリと痛んだ。
「今のが褒め言葉に聞こえるなんて、どんな教育を受けたのやら」
「倒れてしまったグラスの中身は、元には戻りません。済んでしまったことよりも、これからのことを考えたほうが、建設的だと思うのです」
「済んでしまったコトで片付けられてしまう、男爵の心が可哀そうだと思うがね」
「どなたがそんなことを、ローランド様にいたしたのでしょう」
寝乱れた襟を正しながら伯爵に問いかけたら、眉を顰めて憎らしさを露にした。
「執事殿は自分と同じ目に遭う男爵のことを、ざまあみろとでも思って、ここでわざと寝ていたんだろう?」
「そんな神経でいられるのなら、最初からプレイに混じって差しあげます」
「誰が男娼出身の、お前なんかと一緒に……」
「やはり私の出生も、ご丁寧にお調べになったのですね。話題作りが大好きな伯爵らしい行動ですが、そんな無駄なことばかりにかまけて、お仕事のほうは大丈夫なのでしょうか」
心配しているとは到底思えない口調で指摘すると、嬉しそうに瞳を細めた。まるで待っていましたというリアクションに、嫌な予感が脳裏をよぎる。
「そういう執事殿こそ男爵が一大事のときに、こんなところで呑気に寝ていたんだ。このあと頭を下げて、詫びをいれなくてはいけないだろう。そんなんだから前にいた屋敷で、男娼の館に売られてしまったといったところか」
「養父母を悪く言わないでいただきたい!」
「だって、君が売られたのは事実だ。孤児院から子どもを数人引き取れるくらいに、裕福な貴族だったのに、お人好しが過ぎた結果、ある者にまんまと騙されて、借金を抱えることになった」
これ以上返答したら、それを好機に口撃を仕掛けてくることが想像ついたので、両手を握りしめて怒りを何とか抑えた。
「反論しないのかい? 君は借金のカタに売られたんだろう」
「……そうです。ですが私自ら、それを志願したのです。ぅ、売られたわけじゃない」
内なる怒りで、声が震えてしまう。
(どこかで気持ちを切り替えないと、伯爵にしてやられてしまう――)
「男娼まで落ちぶれた君が、今やアジャ家の執事にまで成り上がったのは、男爵の出生に関係しているのか?」
「ローランド様は、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「質問に答えないと、男爵の居場所は教えない」
ぴしゃりと言い放った伯爵の対応に、今度は自分から仕掛けてみる。
「分かりました。まだ日は昇っておりませんが、扉をひとつひとつ開けてさせていただいた上で、しらみ潰しにローランド様を探すことにいたします」
「大勢の従者が未だ夢の中にいるというのに、朝っぱらからわざわざ騒ぎたてるなんていう、無粋なことをしないでくれ。まったく、口だけは達者な執事だな。男爵なら隣の続き部屋にいる」
「ありがとうございます、アーサー伯爵」
あっさり吐露した伯爵に深く一礼をして、その場を立ち去ろうとした矢先だった。いきなり左肩を強引に掴まれるなり、耳元に顔を寄せられる。突然詰められた距離に、躰を強張らせて不快感をつのらせると、吐息混じりで囁きかけてきた。
「ぅ、つっ!」
伯爵に告げられた言葉が頭の中でリフレインして、胸の奥が嫌な感じでざわめく。この不快感は、ここで一番最初に野菊の香りを察知したときによく似ていた。
「執事殿がどんな手を使って阻止してくるのか、非常に楽しみだよ。俺は奪うと決めたら、絶対に手に入れるがね」
「そんなこと――」
「たとえばそうだな、執事殿がその美貌を使って男爵を誘惑するのなら、俺なりの戦術でそれをぶち壊してあげよう。俺からの宣戦布告、受けて立つだろう?」
肩を掴んでいた手が呆気なく外され、放り出すように隣の部屋に押される。つんのめりながら前へ進んだが、直ぐに立ち止まった。
今すぐにでも、ローランドの傍に駆け寄りたい気持ちがあるというのに、見えない何かがその思いを削ぎ落す。
力なく首だけで振り返ると、伯爵は廊下に出るところだった。どんな表情でこの場をあとにしたのかを考えるだけで、反吐が出そうになる。
『男爵の躰だけじゃなく、心もほしいと本気で思わされた。あわよくば恋人になりたいと考えているのだが、結構お似合いだと思わないか?』
伯爵の言葉が、どうにも信じられなかった。短期間でいろんな方々と浮名を流す、彼だからこそ尚更だ。
脅迫にも似たその言葉に対抗すべく自分のすべきことは、そんな伯爵の魔の手から、今度こそ主を守らなければならないということだった。
どんな手を使ってでも――。
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