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抗うことのできない恋ならば、いっそこの手で壊してしまえばいい16

 口の中に残るタバコの香りが、くちづけられた事実を嫌な感じで突きつける。 「酔いにまかせたあの晩のものよりも、今のくちづけのほうが扇情的だね男爵」 「違っ、僕はそんなつもりでは……」 「怖がらせてしまったのは分かってる。魅力的な君が、誰かに手をつけられる前にと考えたら、抱きしめられずにはいられなかった」  微笑んでいた伯爵の笑みが見る間に崩れて、悲しげなものに変化する。強く掴まれている両手首の力も抜けたので、恐るおそる引き抜いて数歩ほど後退りをし、すぐに近寄れない距離を保った。 「男爵……」 「見た目もさることながら、王都から離れた田舎の男爵に手をつけようとなさるのは、アーサー卿くらいだと思いますけど」  あまりにも暗い顔をするせいで、変に気を遣ってフォローの言葉をかけてしまった。 「そうか、君は気づいていないんだな。すぐ傍で狙われているということを」 (――すぐ傍?)  目を瞬かせながら首を傾げる僕を見て、伯爵は噛みしめるように口を開く。 「俺が君を抱いたあの夜の、心底悔しそうに顔を歪めた姿を見せてやりたかった」 「まさか……」 「男娼出身とはいえ、彼も男だからね。執事として君に仕えながら、食べ頃を見極めていたんじゃないだろうか」 「ベニーに限って、そんなこと――」 「執事殿とは、四六時中一緒にいるんだ。心当たりくらい、いくつかあるだろう?」  考えを促す伯爵のセリフで、今朝のやり取りが頭の中に浮かんだ。  陛下のもとにひとりで行くと言った僕の指先を一瞬だけ掴み、切なげに瞳を揺らめかせたベニーの顔を。 「男爵の僕にたいして誠心誠意尽くすのが、執事としての彼の勤めです。そこに邪な気持ちはありません」  他にも思い当たるものがあったけれど、それを打ち消す言葉を発言してなきものにした。 「そういうことに男爵がしたいのなら、すればいいだけの話だけどね。ただ君は執事殿に狙われている立場だということを、けして忘れないでほしい」 「…………」 (アーサー卿の前だけじゃなく、屋敷にいても気が抜けないとは、まったく――) 「ついでに、誤解をといておくか。俺がいろんな人間を相手にしてるっていう、くだらない噂話なんだが……」  語尾のほうはなぜか、そよ風にかきけされそうな感じのボリュームだった。事実じゃない噂話を口にして、僕に認識させるのが嫌だったのかもしれない。 「君は知ってるだろう、俺の躰についてる痣のこと」 「ベッドの上で嫌がる僕に、わざわざ見せつけた痣のことですか」  思い出したくもない、あの日の夜のことを話題にされたため、不快感が自然と増していく。眉間に皺を寄せながら、仕方なく答えた。 「そう。あれを知ってるのは、俺と寝たことのある人間だけ。噂話に出てきた人物、すべての者に質問してみたらいいさ。『伯爵の秘密の痣を知っていますか?』ってね」 「答えられなかったら、アーサー卿と夜を共にしていない証拠になると……」 「俺と噂になったら仕事がまわってきただの、自分のステータスがあがる。なぁんて根も葉もない噂話だけが、見事に先行してしまったせいで、大々的に広まったらしい。俺としては忙しくて、それどころじゃないんだけどね」  肩を竦めながら苦笑いする伯爵に、改めて向き直った。 「そんなお忙しいアーサー卿をここにお引止めしてしまって、大変申し訳ありません。どうぞお引き取りください」  言い終えてから深く頭を下げたというのに、いきなり両肩を掴まれて無理やり上げさせられてしまった。 「半日くらい平気さ。君だって屋敷に優秀な執事殿を置いて、ここに来ているだろう? 俺も同じことをしているだけだし、2時間ここでのんびりしてリフレッシュするのも、午後からの仕事が捗りそうな気がする」 「2時間っ!?」  ここに滞在していた時間を唐突に聞かされ、驚かないほうがおかしい。  王都の街中と違って何もない一面の茶畑を見ながら、伯爵は何をして時間を潰していたのだろうか。 「アーサー卿、どうしてそんな前から、ここで待っていたのですか?」 「無駄な時間を過ごしてるって君の顔に書いてあるが、俺としてはとても有意義な時間だったんだよ」  肩に置かれた伯爵の手に、引き寄せるような力が入ったのが分かった。だからこそ抵抗すべく慌てて両腕を突っ張ってみたのに、いともたやすく抱きしめられてしまった。 「ぉ、おやめください。人目につきます」 「男爵が陛下に逢う前に、茶畑に寄る可能性だってある。だからずっと待っていた。どうしても、すれ違いたくはなかったんだ。あの夜のことを謝りたかったからね」 「アーサー卿……」 「こうして抱きしめていることすら、君に不快感を与えてることも分かっているのにな。好きすぎて、どうしても止められない」  骨が軋むほどの抱擁だった。躰に感じる痛みを訴えたら、これ以上嫌われないようにするために、解放されるのが想像ついた。それなのに――。 (そのことが分かっているのに、言葉が出てこない。こんなふうに激しく求められたことがないから、なおさら――) 「ローランド、君の心を手に入れたい。どうすれば君と両想いになれるだろうか?」 「それは、ちょっと……」  爵位でいつも呼ぶ伯爵の口から、自分の名前が飛び出ただけで、何とも言えない気分になった。両親や友達、ベニーが使うのとは明らかに違った感じに、戸惑いを覚える。これ以上は危険だと、心がざわついて警告を発した。 「他のヤツのように名誉や金では動かない、聡明な君を知っているから、他の方法がちっとも思いつかなくてね。こうして何度も好きだと言って、抱きしめることしかできない」  恐るおそる顔を動かして、伯爵を仰ぎ見た。頭上に広がる空の色よりも深い蒼色の瞳が、困惑を示すように揺らぎながら僕を見つめる。 「伯爵、も、そろそろ……、放してく、ださぃ」  伯爵の気持ちが移ったのか、狼狽えた声でたどたどしく訴えるのがやっとだった。まるで鏡に映したみたいに、困った顔をしているかもしれない。 「抱きしめるだけでこれ以上、他に何もしない。今だけでいい。ローランド、君の存在を俺に感じさせてくれ」  伯爵の金髪が茶畑を吹き抜ける風を受けて、優しくなびく姿を、ただ黙って見つめるしかなかった。頬の熱を冷ますように風がずっと吹いているのに、一向に収まる気配がなくて、どうしていいか分からなかった。

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