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第1話

 ───最悪だ……。  黒板に書かれた自分の名前を見て、一ノ瀬透(いちのせとおる)はぐったりと机に突っ伏したくなった。 「それじゃあウチのクラスの体育祭・文化祭実行委員は、一ノ瀬くんと喜多川(きたがわ)くんにお願いします」  教卓に立ったクラス委員の女子の言葉を合図に、教室中がはやし立てるような拍手に包まれる。それは称賛でも激励でもない。明らかに皆、「自分じゃなくて良かった」という安堵からくる拍手だった。    透の通う都立F高校は、五月末に体育祭、十月末に文化祭が行われる。それらの実行委員を今日中に決めなければならないとクラス委員が言ったのは、今から二十分ほど前。六限目終了後、HRが始まってすぐのことだった。  毎日ではないにしろ、夏休み中も含めて約半年間も拘束される実行委員を自らやりたがる人間は、クラスには誰も居なかった。勿論、それは透だって同じだ。  元々目立つことが嫌で、人付き合いも苦手なΩの透は、委員会にも部活動にも参加していない。けれど、今回はそれが仇になってしまった。  立候補者が誰も名乗り出ない中。痺れをきらしたクラス委員の、「決まるまで帰れないから」という発言を受けて、クラスの誰かがポツリと零した。 「そういや一ノ瀬って、委員会も部活もやってなくね?」  黒髪に、少し度の強い眼鏡。特に目立つところもない、平凡な顔立ち。身長も172センチと、高くもなければ低すぎることもない。そんな透は、普段はクラスではまったく目立たない存在のΩだ。それなのに、こんなときだけ都合よく名前を挙げられて、透はギクリと肩を強張らせた。  案の定、教室中の視線が透に注がれた。たった一人を除いて。  勿論引き受けてくれるだろ?、と言わんばかりのクラスメイトたちの視線を一身に受けて、「出来ない」と答えるだけの勇気は、透には無かった。躊躇いながらも小さく頷いた透の名前を、クラス委員が嬉々として黒板に書き込んだ。  決して喜ばしいことではなかったけれど、そこまではまだ仕方ないと諦めがついた。透が毎日、授業が終わればそそくさと帰宅しているのは間違いなかったし、その理由だって、単に人の輪に加わるのが苦手だからだ。そんな自分が断れば、白い目で見られることは明らかだ。一年の頃は「まだ学校に不慣れだから」と言い訳してどうにか免れたが、二年になった今、さすがにそれも通用しない。  実行委員なんて務まるのだろうかという不安はあったけれど、半年間だけの辛抱だと自分に言い聞かせて、透は腹を括った。  ところが、問題はそこからだった。  実行委員は、各クラスから二名ずつ選出しなければならない。決まったのは透一人。そして相変わらず、立候補者はゼロ。  透が仕方なく引き受けたところで、残るもう一人が決まらない限り、全員教室から解放して貰えないのだ。  誰も手を上げようとしない状況が五分ほど続いたところで、結局もう一人はくじ引きで決めることになった。それなら二人ともくじ引きにしてくれれば良かったじゃないか、とは、思っても口に出せなかった。  透以外のクラスメイトが順にくじを引いたが、ただ一人、引かない人物が居た。  喜多川亜貴(あき)。  透の右隣の席の彼は、五時限目が始まったあたりからずっと机に突っ伏して眠っている。明るいアッシュグレーに染められたミディアムショートの髪が、窓から吹き込んでくる風によって軽く乱されていた。 「おーい、喜多川。お前も引けよ」  それまで教室の隅で傍観していた担任の和田が声を掛けたが、喜多川は身動き一つしないまま、「……るせぇ」とだけ答えてひたすら無視を決め込む。やれやれとばかりに溜息を吐いた和田が仕方なく喜多川の代わりにくじを引き、全員が一斉に四つ折りにされた紙を開いた。  あちこちで、実行委員を免れた生徒が喜びの声を上げる中、和田が「あ……」と罰が悪そうな顔をした。 「……当たり、引いちまった」  ポリポリと項を掻きながら和田が掲げた『実行委員おめでとう』と書かれた紙を見て、透は「嘘だろ」と心の中で声を上げて青褪めた。  F高は、決してレベルの高い高校ではない。偏差値レベルで言えば、ギリギリ中の下といったところだ。その為、入学してくるのはβとΩばかり。  見た目では透は知性的に見られがちだが、それは恐らく眼鏡の所為だ。実際は、勉強はそう得意じゃない。授業は真面目に聞いているつもりだし、まったく勉強をしていないわけでもないのだが、一年の頃からテストは毎回平均点ギリギリだった。運動だって、小さい頃から小学生までスイミングスクールに通っていたお陰で水泳だけは人並みにこなせるものの、その他には得意だと言える競技は何一つない。  全てにおいて平凡。下手をすれば、それ以下。  それでも他の高校に比べれば、何の取柄もないΩの透にとって、F高はまだ居心地が良い方なのだろうと思う。Ωが発情期を迎えるのは、十代半ば~後半にかけてというのが大半だ。透はまだ発情期を迎えていないけれど、一度迎えてしまうと満足に学校生活を送ることが出来ず、退学してしまうΩは数多く居ると聞く。その点、F高は透のクラスだけでも複数人のΩが居るので、一人ではない分気は楽だった。───喜多川の存在さえなければ。  喜多川は、F高には数えるほどしか存在しないαの一人だ。目立つ髪色に、鼻筋の通ったα特有の整った顔立ち。190センチ近くある、スラリと高い身長と、長い手足。見た目だけで、透たちとは格が違うのだと思い知らされる圧倒的な存在感。  ここまでは、透が知っている世間のα像と何ら変わりはない。だから一年の頃、初めて廊下で喜多川とすれ違ったとき、透にはどうして喜多川みたいなαがわざわざF高に通っているのか、不思議で仕方がなかった。  けれど二年に上がって同じクラスになってから、その理由はすぐにわかった。  この喜多川という男は、性格に相当難があるのだ。  いつも気怠げで、授業中はほぼずっと寝てばかり。遅刻してこない日の方が珍しいくらいで、酷いときは昼休み前に来て、五時限目には早退したりする。  さっきの和田とのやり取りからもわかるように、相手が生徒だろうが教師だろうが、傍若無人で傲慢な態度を崩さない。自分の気が乗らなければ、誰に何を言われようとも決して動かない。  ただ容姿だけはずば抜けて良いので、女子たちにはそれなりに人気があるようだけれど、喜多川を囲むように寄り添っている女子は、毎回違う顔ぶれだ。しかもそれだけ引く手数多の状態で、喜多川本人は特に女子と会話を楽しんでいる様子もない。どちらかというと、勝手について来させている、という感じだ。男なら誰もが羨むような状況の中で、いつも面倒そうな顔をしている喜多川は、男子連中からは透とは違う意味で敬遠されている。透の場合は地味なのでクラスの大半から相手にされないというだけだが、喜多川は「性格悪いクセに女をとっかえひっかえしやがって」とやっかみの目を向けられていた。  社会に出れば、α>β>Ωという絶対的なカーストに嫌でも取り込まれてしまう。けれど、圧倒的にαの少ないこの学校では、数で勝るβの方が自然と声が大きくなる。だから、喜多川みたいに自ら敵を増やすタイプのαは、どうしても妬みの対象になるのだろう。  人に何かを言われてその通りに動くようなタイプではない喜多川が、実行委員という役割を素直にこなすはずがない。だからこそ、そんな喜多川と一緒に実行委員をやる羽目にならなくて良かったと、皆一様に安堵しているのだ。  目の前が真っ暗になった気分で、腹の奧が鉛でも飲んだみたいにズンと重くなっているのは、透一人だ。そんな透を余所に、クラス委員が黒板に書かれた『一ノ瀬』の名前の隣に、『喜多川』とチョークを走らせた。  チラリと横目で盗み見ると、隣の席では自分が実行委員に決まったことなど知る由もない喜多川が、相変わらず眠り込んでいる。  隣の席とはいえ、喜多川に対していつも近寄りがたいオーラを感じていた透は言葉すら交わしたことがないというのに、そんな喜多川と一緒に実行委員なんて、それこそ自分なんかに務まるとは思えない。 「あの……俺、やっぱり荷が重───」 「この後、四時から実行委員の顔合わせがあるから、決まった二人は視聴覚室に集合ね」  ボソボソと訴えた透の声が届かなかったのか、クラス委員の女子が「二人」と言いながら透一人を見詰めて容赦なく告げた。その言葉の裏には、「まあ頑張って」という何とも無責任な励ましが滲んでいるように聞こえた。  無事(透にとってはまったく無事ではないが)実行委員が決まったことで、クラスメイトたちが一斉に帰り支度を始める。その気配に気づいたのか、それまで身動ぎしなかった喜多川がようやくのそりと身体を起こした。整った顔で、盛大にフワ…と欠伸を漏らす。 「喜多川、お前この後視聴覚室だぞ」  カバンを持って席を立った喜多川の元へ、中年で立派なメタボ体型の和田がのそのそと歩み寄ってくる。和田の担当教科は国語だが、いつもジャージを着ているので、和田の授業を受けたことがない生徒からはよく体育教師に間違われている。そんな和田を見下ろして、喜多川は欠伸の名残で半開きの口から「あ?」と不機嫌そうな声を上げた。その声に、何故か隣で聞いている透の方がビクリとなった。 「あ?、じゃない。お前が寝てる間に、実行委員に決まったんだ」 「実行委員……? 何だソレ、聞いてねぇし」 「そりゃお前が寝てたからだろうが。クラス全員くじ引きで決めたんだ」 「俺引いてねぇけど」 「お前が起きないから、俺が代わりに引いたら当たりだった」 「俺が引いたワケじゃねぇんだから、知らね」  にべもなく言い捨てて、喜多川はカバンを手にさっさと教室を出て行った。  ───え、初日からいきなりサボリ!?  完全に引き留めるタイミングを失って唖然と立ち尽くす透の視界から、喜多川の姿はあっという間に消えてしまった。すぐ傍で和田が呆れたように溜息を落とす。 「しょうがねぇな、あいつは。また俺の方からも声掛けるようにするから、一ノ瀬、悪いが今日はお前だけ参加してくれ」 「はあ……」  たった一人で参加するのも緊張するけれど、かといってあの喜多川と二人で参加するのも、それはそれで気が重い。  本当にこれで半年間、やっていけるんだろうか。  重たい息を吐き出して机の上を片付ける透の背中を、背後からツンと突く指があった。透にそんなことをしてくるのは、一人しか居ない。出席番号順でたまたま席が前後になり、それ以来話をするようになった、宇野紘一(うのこういち)だ。  宇野は透とは真逆で人当たりもいい、明るい性格のβだが、中三の頃に親の仕事の都合で大阪から引っ越してきたらしく、まだ友達が少ないからといつも気さくに透に話しかけてくれる。 「一ノ瀬、さっきは立候補出来んで、ごめんな」  顔の前で大袈裟に両手を合わせて頭を下げる宇野に、透は「仕方ないよ」と首を振った。 「宇野は部活あるんだからさ」  公立高校としては決してレベルは高くないF高だが、唯一誇れるものがあるとすれば、それは宇野が所属している水泳部だ。顧問が、学生時代に様々な大会で記録を残した元水泳選手の体育教師なので、水泳部だけは毎年インターハイで優秀な結果を残している。そのお陰で、二年前には公立高校としては珍しい温水プールが校内に造られたくらいだ。  その為、水泳部が他の部に比べて一際活動時間が長いことは、帰宅部の透でも知っている。 「やっぱり一ノ瀬も水泳部入っとったら良かったやん。俺去年も誘ったのに。お前、水泳やったらそこそこ出来るんやろ?」 「いや、俺の言うそこそこって、多分宇野からしたら超初心者のレベルだから……。さすがにウチの水泳部についてける自信ないよ」 「つうか、よりによって相方が喜多川ってなあ。ウチの担任、くじ運悪すぎやろ。あいつが委員なんかまともにやるワケないんやから、いっそ最初から喜多川抜いとくべきやったな」 「まあでも、それだと平等じゃなくなるし」  苦笑しながら、一人で視聴覚室へ向かう為に筆記用具を纏める透を見て、宇野は「アホやなあ」と呆れた声を上げた。 「最初に吉岡が一ノ瀬の名前出しよった時点で、もう平等ちゃうやん。お前だけ強制的に決められたんやで?」 「あ、俺の名前出したのって吉岡だったんだ?」 「……いや、食いつくとこそこちゃうやろ」 「喜多川と一緒っていうのは正直不安しかないけど、俺自身に関しては、ハッキリ断れなかったのが悪いから」 「お前、ほんま苦労性やな……俺はお前の将来が心配やわ」  学校名の入ったスポーツバッグを肩にかけ直して、宇野は「俺に手伝えることあったらいつでも言えや」と片手を上げて、教室を出て行った。  昔から、透は波風を立てるのが嫌で、つい周りの視線や顔色を気にしてしまう癖がある。それが性分なのか、それとも透のΩとしての本能がそうさせているのかはわからない。  この学校では幸い、Ωだからと手酷い扱いを受けるということは今のところない。だがそれでも、下手に声を上げたり逆らったりして、透を見る周囲の目が変わってしまうくらいなら、多少我慢してでもそっと流されている方がマシだと思ってしまう。  喜多川みたいになりたいとは決して思わないけれど、そういう意味では、どんなときでも自分の思うままに振る舞う喜多川が、少し羨ましい気がした。    四時ピッタリに視聴覚室の教卓に立った生徒の姿を見て、透は一瞬目を瞠った。  ───αだ。  噂では、校内に片手で足りるほどしか居ないと言われているαの男子生徒が、凛とした声で言った。 「それじゃあ時間になったので、第一回F高体育祭・文化祭実行委員会を始めます」  ネクタイの色からして、彼は三年生だ。一年は青、二年は赤、三年は緑とネクタイの色は学年ごとに分けられているのだが、教卓の彼は綺麗に結ばれた緑のネクタイをしている。  集まった他のクラスの実行委員たちも彼がαであることに気付いたのか、僅かに色めき立った様子で息を呑む気配がさざ波みたいに広がった。  そんな空気に、居心地が悪そうに苦笑しながら、彼はザっと視聴覚室内を見渡して再び口を開いた。 「僕は、三年一組の白石高宏(しらいしたかひろ)です。本年度の実行委員長を務めさせてもらうことになりました」  よろしく、と軽く頭を下げた白石の癖のない黒髪が、サラリと揺れる。涼しげな目許にある泣きボクロが、高校生らしからぬ色気を感じさせる。  喜多川の美貌を『洋』とするなら、白石は『和』の色が強い美形だ。タイプは違うけれど、喜多川に負けず劣らず、白石も充分人目を惹く容姿をしている。やっぱりαの容姿はずば抜けてるんだな、と透は密かに感心した。 「一応、各クラスから二名ずつ実行委員を選出してもらったハズなんだけど……」  どのクラスも二人一組で座っている中、一人ポツンと座っている透に白石の視線が向けられて、思わず透はビク、と肩を跳ねさせた。勝手に帰ったのは喜多川で、透はちゃんとこの場に居るのだから疚しいことは何もないのに、何となく自分が責められている気になってしまう。 「もう一人は、決まらなかったのかな?」  問い掛けてくる白石の声は決して透を非難するようなものではなく、どちらかというと小さい子供をあやすような柔らかなものだった。けれどそれよりも周りの生徒たちからの視線に居たたまれなくなって、透は椅子の上で小さくなる。 「あ……っと、その……きょ、今日は、予定があるみたいで……」  まさか「知らね」と一蹴して帰りました、なんて言うわけにもいかず、しどろもどろで透は声を絞り出した。どうして自分がこんな嘘を吐かなければいけないのだろうと、胃がキリキリ痛む。  そんな透に白石はそれ以上追及することはなく、「そっか、急だったからね」とニコリと微笑んでくれた。人の良さそうな、穏やかな笑顔。 「取り敢えず今日は初めての顔合わせだから、各自の自己紹介と、今後の予定を大まかに説明しようと思います。それぞれ学年・クラス・名前を端から順番にお願い出来るかな」  透に注がれていた視線を一瞬で自分に引き戻した白石が、窓際の一番前の席を示した。  そつのない仕草に、余裕や品の良さを感じさせる口調。人を束ねるリーダーシップとカリスマ性。  白石こそ、透が知っているα像をそのまま具現化したような人物に思えた。喜多川とはまるで違う。  喜多川はまだともかく、αのお手本のような白石が、どうしてF高なんかに居るのだろうとぼんやり考えていると、気付けば自己紹介の順番が回ってきていた。慌てて立ち上がった所為で肘が椅子の背にぶつかって、ガタンと派手な音が鳴る。クスクスと笑う声が上がって透はこの場から立ち去りたくなったが、白石が「シーッ」と口許へ人差し指を宛がって皆を静めてくれた。  喜多川が、こんな風に優しいαだったらどんなに良かっただろう。あんな態度でも女子には人気があるのだから、せめてもうちょっと周りにも気を配ってくれればいいのにと思いながら、透は教卓でこちらを見ている白石におずおずと向き直った。 「えっと……二年五組、一ノ瀬透です。半年間、よろしくお願いします」  ペコリと身体を折ってすぐに着席した透に、「よろしくね」と白石が目を細めて笑った。  ここへ来るまでは気分はどん底まで沈んでいたけれど、白石の笑顔はそんな透の気持ちを少しだけ軽くしてくれるような気がした。彼の笑顔を見て安心するのは、αに惹かれるΩの本能なんだろうか。  だったら喜多川が同じように笑ってくれたら、そのときも自分は安心するんだろうかと考えたが、喜多川が笑っているところなんて、一度も見たことがない。想像することすらも出来なくて、有り得ないな、と透は隣の空席を見詰めて小さく溜息を吐いた。この席が埋まる日なんて、果たしてやってくるのだろうか……。 「一ノ瀬くん、ちょっといい?」  委員会が終わった直後。教室に戻ろうと席を立った透は、白石に呼び止められた。他の委員たちは皆そそくさと視聴覚室を出て行ったので、残っているのはもう透と白石の二人だけだ。  何かやらかしてしまっただろうかと不安な気持ちと共に振り返った透の前で、白石はA4のコピー用紙を掲げて見せた。そこには、ついさっき自己紹介した実行委員全員の学年・クラス・名前が几帳面な文字で書き込まれていた。白石以外、誰の名前も頭に残っていない自分が途端に恥ずかしくなる。 「引き止めてごめんね。名簿作りたいから、一ノ瀬くんのクラスのもう一人の実行委員、誰だか教えてもらっていいかな」  言いながら、白石が手近な机にコピー用紙を置いた。透の名前の下にだけ、不自然な空白がある。 「喜多川、です。喜多川亜貴」 「喜多川亜貴……?」  ペンを構えていた白石が、不意に顔を上げた。 「もしかして、αの喜多川くん?」 「え……知ってるんですか?」 「この学校じゃ、αってだけで目立つしね。それに、喜多川くんは見た目も目立つから、他の学年でも有名だよ」  白石は言葉を選んでいたけれど、きっといい意味でも悪い意味でも有名なんだろうな、と透は何故か自分まで後ろめたい気持ちになった。上級生や下級生の女子にも手を出している、とクラスの男子が妬ましそうに零しているのを聞いたことがある。もっとも、実際に言い寄っているのは女子の方で、喜多川は大して気にも留めていなさそうだけれど。 「でも意外だな。喜多川くんて、実行委員とかやるタイプじゃないと思ってたんだけど」 「あ……それは、くじ引きで仕方なく……」 「ああ、なるほど。もしかして、一ノ瀬くんもそれで選ばれちゃった?」 「いえ、俺は何て言うか……断れなかったというか……」  思わず正直に答えてしまってから、透はハッとして口を噤んだ。これでは、実行委員長である白石の前で、嫌々引き受けましたと言っているようなものだ。すみません、と俯いた透に、白石は「気にすることないよ」と笑った。 「こういうのは、率先してやりたがるタイプと、極力やりたくないタイプに分かれるものだから」 「……白石先輩はどっちなんですか?」  考えるより先に、透は問い掛けていた。同級生にも、自分からはなかなか声を掛けられないのに、年上の白石に自ら質問を投げかけてしまったことが、我ながら意外だった。理由はよくわからない。透がΩであることに白石はとっくに気付いているはずだが、それを気にした様子もなく接してくれるαと話すのが、初めてだったからかも知れない。  問い返されると思っていなかったのか、白石は目をしばたたかせた後、「そうだなあ」と宙を仰いだ。 「僕は前者かな。きっと喜多川くん以外にも、くじ引きやじゃんけんなんかで、渋々実行委員になった人は居ると思う。だからこそ、部活動なんかとはまた違って、学年もクラスも性格も趣味も、バラバラな人が集まるでしょ? 色んなタイプの人間を見るのは、嫌いじゃないから」  さすがはαだな、と自分とは程遠い白石の思考に透はひたすら感心する。自分には、そんな風に前向きに考えることは到底出来ない。そもそも人の顔色の変化に怯えてばっかりで、相手をじっくり見るような余裕なんて、透にはない。 「相方が喜多川くんだと、一ノ瀬くんも大変だろうけど、まああんまり身構えないで気楽にね。さっきも皆の前で伝えたけど、次の委員会は週明けの月曜日だから、そのときは喜多川くんにも参加するように伝えてもらえるかな。他の皆も、一応時間割いて来てくれてるから」 「は、はい……」  頷いてしまったものの、担任の言葉にさえ耳を貸さない喜多川が、果たして話したこともない透の言うことなんて聞いてくれるんだろうか。万に一つ聞いてもらえたとしても、絶対に良い顔をされないことは目に見えている。  温厚な白石とは対照的に粗野な喜多川から、ジロリと見下ろされることを想像しただけで、透の胃がまたギュッと鷲掴まれたように痛くなった。  鳩尾のあたりを押さえて眉を寄せた透は、静かに向けられる白石の笑顔に、気付く余裕がなかった。  翌日の昼休み。 「あ、あの、喜多川……」  相変わらず隣の席で熟睡している喜多川に、透は意を決して声をかけた。しかし、喜多川は目を覚ますどころかピクリとも動かない。  実は喜多川に声をかけるのは、これでもう三度目だ。  喜多川は、この日はニ時限目の途中に登校してきた。それ以来、ずっと眠り続けている喜多川に、透は休み時間ごとに声をかけているのだが、喜多川は一切反応してくれない。透の声が小さいからなのか、それとも本人に起きる気がないのか……。  来てくれるかどうかはともかく、せめて週明けの委員会の予定は伝えておかねばと思っているのだが、今のところそれすらも達成出来ていない。  そもそもどうして喜多川は、学校へ来てもずっと寝てばかりいるのだろう。日頃の素行が悪い所為で、喜多川に関する悪い噂は後を絶たない。  夜の街を女性と連れ立って歩いているのを見た、なんていう話は何度も聞いたし、毎晩違う女とホテルに篭っていて、その相手には芸能人も含まれているだとか、年上の女社長に貢がせているだとか、裏社会と繋がりがあるだとか……。大半は喜多川を妬んでいる連中が流している作り話だろうとは思うけれど、それでもこうも毎日昼間に熟睡しているということは、夜眠れない理由が、何かあるんだろうか。  そういえば喜多川は、下校の時間になると体内に目覚まし時計でもあるのかと思うほどバッチリ目を覚ますのに、昼休みは昼食もとらずに寝ていることも多い。起きていれば食堂に食べに行っているようだが、今もこうして眠っているということは、食にも大して執着がないのかも知れない。  ───ホントに、謎だらけだ。  αに生まれて、容姿にも恵まれていて、なのに常に何に対しても無気力。おまけに言葉遣いも態度も悪い。学校では殆ど寝てばかり。だから真偽のわからない噂話が次から次に湧いてくる。  いつだったか、クラスの誰かが言っていた。「ウチの学校で水泳部に入ってないαは、みんな『訳アリ』のαだ」と。  確かにこのF高にαが通うメリットなんて、唯一の強豪で設備にも恵まれている水泳部以外には何もない。だけど喜多川も、恐らく実行委員長を務めている白石も、どちらも水泳部とは無縁のαだ。  喜多川は本人が周りに何も語らないので謎だらけだけれど、典型的なαである白石は少なくとも『訳アリ』には見えなかった。だったらこの正反対の二人は、一体どういう理由でF高に通っているんだろう。  放課後には誰に起こされずとも起きるのに、昼休みの喧騒の中でもちっとも起きない喜多川の姿を見下ろして、これはまたダメかと透が諦めの息を吐いたとき。 「あー! アキってば、やっぱ寝てんじゃん!」  教室の入り口から甲高い声がしたかと思うと、二人の女子がツカツカと喜多川の傍までやって来た。一人は長い茶髪の先を緩く巻いていて、もう一人は切りっぱなしの黒髪ボブに、明るいピンクのメッシュが入っている。二人とも睫毛が三倍くらい盛られていて、制服を着ていなければとても高校生には見えないくらい派手だ。  そんな女子二人組は、呆気なく透を押し退けて喜多川の机の両脇に立つと、遠慮なくその肩を数回揺すった。大胆なその行動に、見ている透の方がギョッとする。 「ちょっとアキ、起きてよ~」 「今日お昼一緒に食べようって、昨日言ったじゃん」  また喜多川の女かよ、という呟きが聞こえてくるのも気にせず、女子たちは口々に「ねぇ」と喜多川に呼び掛ける。  ンだよ……、と心底不機嫌そうな低い声を漏らした喜多川が、ようやく顔を上げた。そのまま、肩を揺すっていた女子の手を、煩わしそうに払い除ける。 「ピーピーうるせぇ」 「もー、やっと起きた! 昨日の約束、もう忘れたの?」 「……約束? ンなもん知らねぇよ。覚えてねぇ」 「『食堂で待ってる』って言ったら、『あっそ』って言ったじゃん」 「それのどこが約束だよ、馬鹿じゃねぇの」 「大体一昨日、二組の子と夜遊んでたんでしょ? カナが見たって言ってたもん。アタシたちともたまには遊んでよ~」 「二組……? 誰のことかわかんねぇ。つーか俺寝てんだから、どっか行け」  優しさなんて微塵もない言葉を散々返した挙げ句、シッシッと虫でも払うみたいに喜多川が雑に手を振った。  聞いているだけで透は心が折れそうになったというのに、二人の女子は落ち込む様子もなく、「アキのケチー」とどこか楽しそうに言い置いて教室を出て行った。  ───女子のメンタルって凄い……。  ついつい尊敬の念を抱いてしまった透の前で、喜多川が再び睡眠体勢に戻ろうとする。そこでようやく目的を思い出した透は、喜多川の意識が覚醒している間にと、今日一番大きな声で「喜多川……!」と呼び掛けた。 「ああ……? しつけぇな、まだ居たのかよ」  寝惚けているのか、どうやら透の声をさっきの女子と混同しているらしい喜多川が、ジロリと透の方を見た。元々顔が整っているだけに、鬱陶しそうな顰め面で睨まれると迫力が凄い。思えば、まともに目を合わせたのも、今このときが初めてだった。  一瞬迫力に気圧されそうになった透は、ぐっと拳を握り締めると、渇いた喉から声を絞り出した。 「あの……委員会の、ことなんだけど……!」 「……委員会?」  なんの話だ、とばかりに、喜多川の眉間の皺が深くなる。元々、人と話すときは緊張しがちだけれど、初めての会話で胃薬が欲しくなるなんて思わなかった。 「昨日、くじ引きで決まった実行委員のこと」 「くじ引き……?」  どうやら本当にすっかり忘れていたのか、暫く考え込んでいた喜多川が、やがて「ああ、和田が勝手に引いたヤツか」と欠伸を噛み殺しながら呟いた。 「あの後、実行委員は全員集まるように言われてたんだよ」 「だから、俺は引いてねぇんだから知るかっつっただろ」  白石と違って気遣いの欠片もない喜多川の言葉が、まるで矢のようにグサグサと透の胸に突き刺さってくる。いくら見た目が良いとはいえ、どうして女子たちはこんな男に近付きたがるのか、まったく理解できない。 「で、でも、決まったものは仕方ないし……。とにかく、週明けにまた委員会があるから、そのときはちゃんと参加して欲しい」 「俺は知らねぇっつってんの。どうしてもっつーなら、くじ引いた和田に行かせろよ」 「先生がくじ引いたのは、喜多川がずっと寝てたからだよ。……それに、気が乗らなくてもやらなきゃいけないことは、誰にでもあると思うし───」 「てかさ。さっきからゴチャゴチャうるせぇけど、そもそもお前、誰?」  ドスッ、と痛恨の一撃が、透の胸を貫いた。それまで黙って経緯を見守っていた宇野が、背後で盛大に噴き出して笑い声を上げる。笑いごとじゃない、と突っ込むことすらも出来なかった。  二年になってからずっと毎日隣の席に座っていたのに、名前どころか顔も認識されていないほど自分は影が薄いのだろうか。……いや、きっと喜多川は席が隣だろうが前だろうが後ろだろうが、周囲のことになんて興味がないのだ。だから自分に言い寄ってくる女子だって、さっきみたいに適当にあしらう。  けれどそれがわかったところで、ショックなことには変わりない。  透の存在を認識すらしてくれていなかった相手と、どうやってこれから半年、実行委員として活動すればいいというのだろう。  誰?、と聞いておきながら、透がショックで固まっている間に、喜多川はもう机に突っ伏している。 「前途多難やなあ、一ノ瀬」 「……俺、文化祭終わるまで耐えられる自信ない……」  一応週明けの予定は伝えたけれど、昨日のことすら忘れていたくらいなのだから、月曜まで喜多川が覚えているとは思えない。仮に覚えていたとしても、さっきの反応なら間違いなく次の委員会にも顔なんて出してくれないだろう。  五月末に控えた体育祭まで、あと約一ヶ月。これからどうするかも課題だが、何はともあれ明日からは胃薬を持参しようと、透は心に決めたのだった。

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