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第2話

  ◆◆◆◆  週が明けた月曜日。  珍しく、喜多川は朝のHRの途中に登校してきた。遅刻は遅刻だけれど、彼にしてはかなり優秀な方だ。もしかしたら今日の委員会の予定を覚えてくれていたのだろうかと淡い期待を抱いた透だったが、やはり喜多川は喜多川だった。  結局彼はいつものように昼休みまで寝っぱなし。昼休みにまたしてもめげずにやってきた先日の女子二人組に眠りを妨げられ、追い払ったものの眠気が飛んでしまったのか、その後フラリと教室を出て行き、五時限目の体育の授業には顔を出さなかった。そしてまた六時限目にふらっと教室へ戻ってきたかと思うと、そのまま再び眠りに就いてしまった。  その間、何度か声をかけようかと透が近付いても、喜多川は透の方を見るどころか、顔すら上げてくれなかった。  この様子だと、間違いなく放課後になったらまたあっさり帰られてしまう。  喜多川に実行委員をやる気がなくても、白石も言っていたように、他のクラスの委員たちは皆顔を出しているのだから、この際委員の仕事は透が全て引き受けてでも、せめて委員会に顔くらい出してもらわないと透だって居心地が悪い。  きっと放課後になれば喜多川はいつものように目を覚ますだろうから、そこでもう一回声をかけてみようと、透はHRが終わるのを今か今かと待っていた。和田が「明日の授業で小テストやるからなー」と告げて、それに対するクラスメイトたちのブーイングを合図に、やっとHRが終わった。日直が「きりーつ」と気怠い声で号令をかけ、皆がガタガタと椅子を鳴らして立ち上がる。隣を見ると、喜多川一人がそれに従わず、まだ机に顔を伏せていた。  ───よし!  心の中で拳を握って、透は「れーい」という掛け声に合わせて一礼した後、「喜多川!」とすぐに右隣りに向かって声をかけた。───ところが。 「あ……あれ……?」  ほんの一瞬前まで眠っていたはずの喜多川の姿が、『礼』の動作をしていた僅かな時間で荷物ごと消えている。そんな馬鹿な、と透が顔を上げると、丁度教室を出ていく喜多川の後ろ姿が見えた。 「なにアレ……忍者……?」  瞬間移動でもしたのかと思うほどの素早さに呆然と呟く透の背後で、宇野が「さすがαはちゃうなあ」と何とも呑気な声を上げた。 「αって、そんな素早く動けるの?」  真顔で振り向いた透に、宇野が「そんなワケないやろ」と笑う。自分も宇野みたいに笑ってやり過ごせたら楽なのに、と透はガックリと肩を落とした。 「まあでも、喜多川が俺らと何かちゃうのは確かやけどな。ほんま何考えてんのかわからんわ。ところで一ノ瀬、追いかけんでええん?」  宇野が、親指で喜多川が出て行ったばかりの教室の入り口を指差す。  何とか校内に居る間に喜多川を捕まえられたら、まだ望みはあるかもしれない。……委員会に出てくれる可能性は、限りなく低いような気はするけれど。  一先ず透は急いで教室を飛び出すと、昇降口へ続く階段を一気に駆け下りた。  部活に向かう生徒や、帰宅する生徒でごった返すそこを、人波を掻き分けるように走って、昇降口から中庭に出る。そのまま校門の方向へ曲がると、渡り廊下の向こうに喜多川の姿が見えた。  良かった、追いついた……! 「きたが…───」  呼び止めようとした透の声は、途中で不自然に途切れてしまった。  喜多川の向かいに、一人の女子生徒が立っていたからだ。茶色い髪を頭の上で大きなお団子にしている彼女の顔には、見覚えがあった。去年同じクラスだった、遠藤だ。今の宇野と同じで、出席番号が透の次だったので覚えている。もっとも、彼女とは宇野みたいに親しくなることはなかったけれど。  向かい合う二人の間に何となく割り込んではいけない空気を感じて、透は腰の高さまである渡り廊下の壁に張りつくようにして身を屈めた。二人の声が辛うじて聞き取れる距離だ。 「アキ、なんであの晩、一人で帰っちゃったの? シャワー浴びて出てきたら居ないから、ビックリしたよ」  シャワー!?、と思わず透の方が先に声を上げそうになった。  初っ端からとんでもない単語が聞こえてきて、心臓の音が速くなる。夜にシャワーを浴びる状況というのは、つまりそういうこと、なんだろうか。  気になって、透は気付かれないよう、目から上だけをそろりと壁から覗かせた。 「別に、やることやったら用ねぇだろ」  特に顔色を変えるでもなく、淡々と答える喜多川に、遠藤がキュ、と唇を噛む。 「……噂には聞いてたけど、アキにとって女はホントに使い捨てなんだ。私、本気でアキのこと好きだったのに」  彼女の震える声にも、喜多川は億劫そうに溜息を吐いた。 「使い捨ても何も、いきなり『したい』って誘ってきたのはそっちだろ」  歯に衣着せぬ物言いに、遠藤の顔がカッと紅くなる。  ───げ……ゲスだ……!  まったく無関係の透も、さすがに呆れてしまう。白昼堂々、しかも学校内で言うこととは思えない。もしも透が遠藤の立場だったら、多分この時点で既にショックで倒れている。 「だからって、それであっさり応じる!?」 「性欲処理くらいすんじゃねぇの」 「っ、そんな言い方……! アタシだって身売りしてるワケじゃないんだから、普通ちょっとは相手の気持ちも考えるものじゃないの!?」  怒りからなのか、遠藤の声が大きくなる。通り過ぎる生徒が「また喜多川か」というような視線を向けていく中、喜多川の横顔が僅かに険しくなった。  彼女が怒るのは無理ないが、喜多川の顔からも静かな怒りを感じて、透は一瞬目を瞠った。怠そうな顔や、睡眠を邪魔されて不機嫌そうな顔をしているところは何度も見てきたけれど、こんな風に怒っている喜多川は見たことがない。  ───なんで? どうして喜多川が怒るんだ?  訳がわからず見入ってしまっている透の視線の先で、喜多川はジロリと遠藤を睨み据えた。 「……『普通』ってなんだよ。そっちの都合で声かけといて、勝手な価値観押し付けんな」 「だって───」 「大体、後になってそんな重てぇこと言うぐらいなら、軽々しく誘ってんじゃねぇよ。それで身売りじゃねぇとか、笑わせんな」  笑わせるな、なんて言いながら笑顔なんて微塵もない苛立った表情で吐き捨てて、喜多川はその場を立ち去った。喜多川の背中が見えなくなるまで、透は声をかけるどころか、一歩も動くことさえ出来なかった。遠藤も、泣き出しそうなのを堪えるように、唇を引き結んで立ち尽くしている。  どう考えても喜多川の言葉は配慮が足りないと思うし、偶然立ち聞きしてしまっただけの透でも、遠藤を気の毒に思う。  けれど、やっぱり喜多川は自分から女性を誘っているわけではないことを知って、心の隅で何故かホッとしている自分が居た。同じ実行委員になってしまった相手が、真の悪人ではないと思いたいからなんだろうか。  それに、言葉はキツかったかも知れないが、喜多川の発言は彼女の軽率さを窘めていると取れなくもない。透だったら、好きな相手にいきなり肉体関係を迫ったりなんてしたくない。例えΩであっても、そんな軽い人間だとは思われたくないから───  ……もしかして、言い寄ってくる相手といつもこうなるから、喜多川の傍に居る女子は、すぐにコロコロと変わっていくんだろうか。そうだとしたら、喜多川はαの割に、案外不器用な人間なのかも知れない。  遅れて校門の方へ歩き出した遠藤を見送ってから、透はそこでようやく本来の目的を思い出し、「しまった!」と思わず声を上げて立ち上がった。近くに居た生徒たちから何事かというような目で見られて、慌てて口許を押さえる。  今日の委員会には喜多川に出席してもらおうと思って引き留めに来たのに、修羅場だけ目撃して、またしても目の前で帰られてしまった。  知らなかった喜多川の一面が見られたことは少し嬉しかったけれど、白石に何て言えばいいのだろう。また嘘の言い訳を考えないといけないんだろうか。 「……取り敢えず、胃薬飲も……」  この後のことを考えてしくしくと痛む胃を押さえながら、透はヨロヨロとした足取りで教室へと引き返した。  視聴覚室へ向かう為、重い足取りで階段を上がった透は、丁度廊下を歩いてきた白石と鉢合わせて、飛び上がりそうになった。 「しっ、白石先輩……!」 「あれ一ノ瀬くん。……もしかして、今日も一人?」  透が一人だということに気付いた白石が軽く首を傾ける。 「え……と、一応、先週の内に今日の予定は喜多川に伝えたんですけど……」  けれどあの様子なら、今日の予定どころか、きっと喜多川は透の存在すら綺麗サッパリ忘れてしまっているのだろう。しかも引き留めに行ったにも拘らず、何も言えずに目の前で帰っていく喜多川を見送ってしまった後ろめたさで、透は持っていた筆記用具を抱えて縮こまった。  実行委員の務めどころか、その相方一人にまともに声もかけられない自分の不甲斐なさが嫌になる。  そんな透と並んで、視聴覚室に続く廊下を歩き出しながら、白石が「やっぱりそう簡単にはいかないか」と苦笑した。 「え?」 「喜多川くんのこと。正直僕も、そうすんなり彼が顔出してくれるとは思ってなかったから」 「……すみません、力不足で……」  項垂れる透の隣で、白石は「違う違う」と笑った。 「一ノ瀬くんを責めてるわけじゃないよ。僕は喜多川くんと直接話したことはないけど、校内では何度も見かけてるし、話に聞く限りでも、人に言われて動くようなタイプじゃないでしょ」 「確かに、その通りです」 「でもだからって、さすがにこのまま二年五組だけ一ノ瀬くん一人で…ってわけにもいかないし、喜多川くん以外の誰かを選出してもらうのは、難しそう?」 「それは……難しい、と思います……」  たどたどしく答えて、透は視線を落とした。  透が引き受けなければ、一人どころか二人とも決まらなかったくらいには、クラスの誰もやりたがらなかったのだ。おまけに、そんなクラスメイトに今更「誰か自分と一緒に実行委員をやって欲しい」なんて、透にはとても言い出せない。  そんな勇気も人望も、透は持ち合わせていない。 「そうか。それなら、根気よく喜多川くんを説得するしかないかな」 「ホントにスミマセン。次は担任の和田先生にも、ちょっと相談してみます」  溜息混じりに答えると、隣でフッ…、と白石が笑う気配がした。 「……一ノ瀬くんて健気だよね。君みたいな子、好きだよ」 「え……?」  何を言われたのか、すぐには理解出来なかった。  今のはどういう意味だろう、と顔を向けた先で、白石は廊下の向こうから歩いてくる人物を見て「あ」と声を上げて立ち止まった。つられて、透も足を止める。  白石の視線の先に居たのは、透もよく知っている生徒会長だった。三年生の彼と直接話したことはないけれど、集会で壇上に上がっているところは何度も見ている。彼はβではあるけれど、入学当時から成績はトップクラスで、いまも学年では常に三位以内を保っているらしい。細いフレームの眼鏡がよく似合っている生徒会長は、見た目だけの透とは違って本物の優等生で、F高内では、彼はβのカリスマ的存在だった。 「なんだ、白石か。そういえば、今日は実行委員会があるんだったか?」 「これから向かうところだよ。ところでコレ、丁度会長に渡そうと思ってたんだ。体育祭の経費見積もり」  白石が差し出した数枚綴りのコピー用紙を受け取った生徒会長が、眉間に皺を寄せて眼鏡を押し上げた。 「……随分高いな。この『テント台』は、こんなに必要なのか?」 「去年は予算の都合で、生徒席には三年生のところしかテントが無かった。その所為で下級生からは随分と苦情が出てたんだ。昨今の気温上昇を考慮すると、体育祭当日が晴天ならかなり高温になることも予想されるし、いずれ買わなきゃならないなら、早い方がいいと思うんだけど。熱中症で生徒がバタバタ倒れるよりはマシじゃない?」 「それはそうだが……最終的な決定は学校側の判断になる」 「その学校側に生徒の声を届けてくれるのが、生徒会の役割じゃないの?」  隙のない白石の笑みに圧されて、会長がぐっと言葉に詰まった。これではどっちが生徒会長かわからない。 「……わかった。取り敢えず、尽力はする」 「ありがとう、よろしくね」  ニコリと満足げに微笑んで白石が再び歩き出したので、透もそれに続いた。  あの会長の成績が常に学年三位以内なら、やはりトップは白石なんだろうかと、隣を歩く横顔を盗み見る。  そういえば、白石は実行委員長という役職を自ら引き受けたようなことを言っていたけれど、それならどうして生徒会長になることは考えなかったのだろう。今のやり取りだけ見ていても、白石は充分生徒会長になる器も持ち合わせているように思うのに。 「白石先輩は、生徒会長選挙には出なかったんですか?」 「ん? どうして?」 「この前、色んなタイプの人を見るのは嫌いじゃないって言ってたので、それなら生徒会っていう選択肢もあったんじゃないのかなって……」 「実行委員長は、僕じゃない方が良かった?」 「いえ、そういう意味じゃなくて……!」 「あはは、ごめん。冗談だよ。……生徒会長選挙は、ちょっとタイミングが合わなかったんだ」 「タイミング……?」  立候補するかどうか、決めかねたりしていたんだろうか。白石が迷っているところというのは、あまり想像がつかない。 「まあ実行委員長になったお陰で、一ノ瀬くんみたいに一生懸命な後輩にも出会えたから、僕は満足してるよ」  サラリと告げられて、透は会長に会う直前、白石から言われた言葉を思い出した。クラスでも常に埋もれた存在の透には、耳慣れない言葉。 「あの……そういえばさっき先輩が言ってたことって……」 「さっき? ……ごめん、何だっけ? 会長と話してて忘れちゃった」 「あ、いや……やっぱりいいです。大したことじゃないので」  さすがに自分の口から言うのも照れ臭い上におこがましくて、透は慌てて首を振った。人当たりの良い白石にとっては、きっと深い意味はない発言だったに違いない。むしろそれを真面目に受け止めてしまった自分が、途端に恥ずかしくなった。  そもそも、透は別に健気でも一生懸命でもない。結局喜多川とだってまともに会話も出来ていないし、かと言ってクラスメイトに助けを求める勇気もない。  白石は、決して驕ったところがあるわけじゃないけれど、常に前を見て堂々としている。それこそ、生徒会長をも黙らせてしまうくらいに。それはきっと、いつも逃げてばかりの透とは違うからだ。  そういう意味では、喜多川も白石と同じなのかも知れない。素行の悪さに関しては白石と比べるのが申し訳ないくらいだが、自分の前しか見ていなくて、自分の意に沿わないことは言わないし、やらない。だから誰に何を言われても、喜多川も常に堂々としている。……堂々とさぼられるのは、勘弁してもらいたいのだけれど。  白石と揃って視聴覚室に着くと、中には既に殆どの実行委員が前回同様、クラス順に席に着いていた。皆二人一組で座っている中、ポツンと一人で座っているのはまたしても透だけだ。 「みんな早いね。これなら、予定より早く開始出来そうかな」  大半埋まっている席を教卓から見渡して、白石が言う。その視線がチラリと透の顔を掠めた。 「中には来てない人も居るみたいだけど、時間を削って参加してくれてるのは全員同じだから、皆極力参加するようにお願いできるかな。勿論、体調が悪かったり、外せない予定があるときは仕方ないから、そのときは他の実行委員に一言伝えておいてほしい」  白石の言葉に、嫌な顔をする委員は一人も居なかった。彼の発言は、至極当たり前のことだ。  けれど透だけは、小さな棘が刺さったみたいな違和感を覚えた。  周りの委員は気に留めていないだろうけれど、白石が暗に喜多川のことを言っていたのは明らかだ。確かに、他の委員たちはこうしてちゃんと集まっているのだから、身勝手な都合で参加していない喜多川は非難されても仕方ない。不本意ではないにしろ、委員に選ばれてしまったからには、もう少し責任感を持ってほしいと、透だって思う。それは思うのだけれど……。  ───敢えて皆の前で、言う必要あったのかな……。  これじゃあ仮に喜多川がちゃんと委員会に顔を出してくれる日が来ても、彼は「ずっとさぼってた人」という目で見られてしまわないだろうか。  周りの視線なんて喜多川が今更気にするとも思えないし、実際さぼってばかりの喜多川のことを気にしているなんておかしいと、自分でも思う。それなのにどうして、胸がモヤモヤするんだろう。  顔を上げた透と目が合った白石が、どうかした?、とでもいうように軽く微笑んでくる。白石はΩの自分にも優しいし、彼は悪い人ではないと思っているのに、透は白石にどんな顔をすれば良いのかわからなかった。   ◆◆◆◆ 「あの……もうちょっと静かに……!」  教卓で必死に張った透の声を、クラスメイトの笑い声が容赦なく掻き消す。  黒板には、体育祭で行われる競技名がズラリと並んでいるが、競技の参加者として書かれている名前は、まだ二人だけだ。  前回の委員会で、週末までに各クラスで体育祭の出場競技を決めておくようにと白石から指示があったので、透はその翌日には希望競技を書いて入れる為のボックスを教室内に設置したのだが、金曜の今日までに入っていたのはたった二枚のみ。その内一枚は宇野のもので、もう一枚はクラス委員が書いたものだった。結局この一週間で、決まっているのはこの二人しかいない。実行委員である透と喜多川は競技には不参加なので、それ以外のクラスメイトの出場競技は誰一人決まっていないことになる。  リミットは今日なので、何としてもこのHR中に決めなければならないのだが、最初は「どれにするー?」なんて言っていた生徒たちも、時間が経つにつれてすっかり話は逸れ、気付けば皆それぞれ体育祭とはまったく無関係なお喋りに華を咲かせている。お陰で一人教卓に立っている透の姿なんて、もう誰も見てすらいない。  今日に限って担任の和田は席を外しているし、普段なら何かしら助け舟を出してくれそうな宇野とクラス委員も、長引きそうだからと二人とも部活に行ってしまった。  本当ならもう一人、存在だけでも強力な相方が居るはずなのだが、透の隣に立っているべき喜多川は、今日も変わらず自分の席で夢の中だ。 「期限が今日までなので、決まらないと帰れません……!」  透が実行委員に選ばれたときのクラス委員の言葉を借りてみたが、教卓に近い席の男子が「かったりぃ」「金曜なんだからさっさと帰らせろよ」とぼやくばかりで、誰も協力的にはなってくれなかった。  ───だから俺には、実行委員なんか向いてないのに。  たった一クラスの生徒さえ、纏めるどころか話も聞いてもらえない。喜多川みたいに、「もう知るか」と全部投げ出してしまえたらどんなに楽だろう。だけどそんなことをして、その後皆が自分をどんな目で見るかと考えると、実行する行動力もない。  これ以上どうしていいのかわからず、途方に暮れていたときだった。  ガンッ!!  教室内の空気が震えるくらい派手な音が突然鳴り響いて、透を含めた全員がビクッと身を竦ませた。賑やかだった教室が、一瞬にして不気味なほどシンとなる。  何が起こったのかわからず音のした方へ視線を向けると、いつの間に起きていたのか、喜多川が眉間に深い皺を刻んで座っていた。その長い脚が大きく傾いた彼の机に掛かっていて、そこでやっとさっきの音は喜多川が机を蹴り飛ばした音なのだと理解した。 「さっきからギャアギャアうるせぇんだよ」  静まり返った教室に、喜多川の低い声が響く。  いつも傲慢ではあるけれど、喜多川がこんな風に乱暴な行為に出たことはこれまで一度もない。だからなのか、誰もがゴクリと固唾を飲むばかりで、暫く重い沈黙が流れた。  それを最初に破ったのは、クラスで一番賑やかな男子だった。いつも喜多川の噂話を吹聴して回っている生徒だ。彼はニ、三歩喜多川に歩み寄ると、引き攣った笑いを浮かべて言った。 「何だよ、ずっと寝てばっかのヤツが偉そうに。お前はいいよな。ろくに委員の仕事してねぇクセに、競技にも参加しなくて済むんだから。それもαの特権なのかよ?」  大して興味も無さそうにその男子を一瞥して、喜多川は教卓に立つ透に顔を向けた。初めて喜多川の方から視線を送られて、心臓がドクンと派手な音を立てる。 「くじ引きにしろよ」 「えっ?」  目を瞬かせる透に続いて、女子の数人が「え……」「くじ引き?」と躊躇いの声を上げた。 「俺のときはくじ引きにしたんじゃねぇのかよ。なら今回もそれでいいだろ」  喜多川の鋭い指摘に、それは困るとばかりにまずは女子たちが立て続けに手を挙げた。喜多川に相手にされなかった男子も、痛いところを突かれたとばかりにうっ、と短く呻く。 「アタシ、綱引き!」 「二百メートル走がいい」  は、はい…!、と慌てて黒板に名前を書き込む透の背後で、次第に挙がる手が増えていき、それまでの膠着状態が嘘のように、その後はあっという間に全員の名前が黒板に並んだ。一番最後まで残った障害物走に渋々参加表明したのは、喜多川に食ってかかった男子だった。  ───凄い。  クラスメイトの名前で埋まった黒板を見詰めて、透はじわりと胸が熱くなった。  透一人では何も進まなかったのに、正に鶴の一声───いや、喜多川の場合は、狼の一吠え、といったところだろうか。やり方はちょっと荒っぽいけれど、こういうところを見せられると、やっぱり喜多川も立派なαなんだと思い知る。  感動に浸っている透を余所に、やっと解放されたクラスメイトたちが帰り支度を始めている中、当の喜多川はまた眠り姫ならぬ眠り王子になっている。そこでふと、透はあれ?、と首を傾げた。  放課後になれば、いつも誰に起こされるでもなく目を覚ましてさっさと帰っていく喜多川。  既に競技が決まっていた宇野とクラス委員は部活に行ったのだし、喜多川だって競技参加は免除されているのに、どうして彼はこんな時間まで残っているのだろう。実行委員なのだから、本当は喜多川も残るべきなのだけれど、これまで取り合ってもくれなかったのに。  ようやく少し、やる気になってくれたんだろうか。まさか喜多川に限ってそんなこと、と思う反面、もしかして…と浮かれてしまいそうな自分が居る。  荷物を纏めた生徒が次々と教室を出ていき始めたので、透は「喜多川」と彼の机の脇に立って呼び掛けた。 「……今度は何だよ」  のそ…と身体を起こした喜多川が、端正な顔を歪めて大きな欠伸を漏らした。 「あの……もしかして今日、出場競技決める為に残ってくれて───」 「チッ、やけにうるせぇと思ったら、もう授業終わってんじゃねぇか。くそ、寝過ごした」  透の僅かな期待を容赦なく舌打ちで粉砕して、喜多川がもう一度欠伸しながら立ち上がる。 「……デスヨネー……」  いつも通りの傍若無人な喜多川に、透はがくっと大きく項垂れた。やはりあの喜多川がそう簡単に変わってくれるわけがなかった。  皆の前で声を上げたのも、単に眠りを妨げられて苛立っただけだったのかも知れない。けれどそれでも、透はようやく初めて喜多川と二人で実行委員としての役目を果たせた気がして、嬉しかった。例えそう思っているのが自分だけだって構わない。だってあの時確かに、喜多川は初めて自分から透を見てくれたのだから。 「あっ、喜多川……!」  カバンを手に教室を出て行こうとする喜多川を、透は慌てて呼び止めた。 「……あ?」  面倒そうに、喜多川が肩越しに振り返る。 「その……さっきは、ありがとう」 「は? 何が」 「喜多川のお陰で、ちゃんと今日中に全員出場競技決められたから」 「鬱陶しいからうるせぇっつっただけだろ」 「でも、俺はすごく助かったし、嬉しかった」 「……あっそ。意味わかんねぇけど」  呆気なく透に背を向けて、今度こそ喜多川が教室を出ていく。その背中に、透は目一杯声を張った。 「月曜日、委員会だから! 次は覚えてて……!」 「知らね。忘れた」  振り向きもせず返された声は、相変わらず素っ気ない。  けれど何故だろう。不思議と今日は、胃がキリキリ痛むことはなく、透の胸の中は久しぶりにスッキリとしていた。
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