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第3話

  ◆◆◆◆  週が明け、三度目の実行委員会が開かれる月曜日がやってきた。  今日こそ喜多川に逃げられるわけにはいかないと、透はHR終了を告げる日直の号令の間、ひとときも隣の席の喜多川から目を逸らさなかった。  以前は忍者のごとき素早さで逃げられてしまったので、一瞬でも目を離してしまったらアウトだと思ったからだ。  案の定、喜多川はそれまで爆睡していたのが嘘のように、「礼」の号令と同時にむくりと頭を擡げて、欠伸を漏らしながら荷物片手に席を立った。そのまま席を離れてしまう前に、透は素早く喜多川の正面に回り込んだ。 「き、喜多川! 今日、委員会の日だよ……!」  まだ半分眠そうな目が、何の事だよとでも言うようにジロっと透を見下ろしてくる。身長差がゆうにニ十センチはあるので、喜多川に睨まれた透は、狼に睨まれたチワワ状態だ。思わず息を呑んでしまう威圧感に、本能的に後ずさってしまいそうになる。  また「お前誰?」と言われることも覚悟していたが、必死に見詰め返す透の顔を見て、喜多川は呆れたような息を吐いた。 「しつけぇな。またお前かよ、眼鏡」 「め……眼鏡じゃなくて、一ノ瀬、なんだけど。一ノ瀬透」 「あぁ?」  喜多川の眉間の皺がたちまち深くなったので、透は慌てて首を振った。 「あ、いや……眼鏡でいいです、ハイ……」  これ以上機嫌を損ねられては困るので、ここは大人しく引き下がることにする。  呼ばれ方はともかく、ここへきてやっと喜多川が「しつこい」と感じるくらいには、透の存在を認識してくれるようになったことは素直に嬉しかった。そんなことで喜んでいる場合じゃないし、自分はどこまでお手軽なんだと呆れる気持ちもあったが、それでも透にとってこれはとても大きな進歩だ。  白石みたいに人当たりの良いαならともかく、喜多川のような周囲にまったく無関心なαに、Ωである自分が認めてもらえるなんて思わなかったから。 「しつこくても、参加してもらわないと困るから」 「勝手に押し付けられたモンなんか、知らねぇっつってんだろ」 「だからそれは喜多川が寝てたからだよ……。それに、他のクラスの実行委員はみんなちゃんと参加してるし……」 「なら一人くらい欠けても問題ねぇだろ」 「そういうことじゃないんだってば……!」  喜多川に認識されていたことを喜んだのも束の間。実行委員に関しては、まったく取り付く島もない。  大半のβや透のようなΩなら、例え理不尽だと心の中では思っていても、自身の置かれた境遇を「仕方ない」と受け入れる人間が殆どだろう。現代社会での『第二の性』における絶対的カーストに抗うことは出来ないと、本能でわかっているからだ。  だからきっと、嫌なことは嫌だと何の躊躇いもなく言い切ってしまえる喜多川には、そんな自分たちの気持ちはまるで理解不能なのだ。そんな喜多川を、どうやって説得すればいいのだろう。 「喜多川、いつも放課後になるとすぐ帰るけど、何か予定でもあるの? そうじゃなくて体調不良とかでもないなら、一人だけさぼりっぱなしなのはどうかと、思うんだけど……」  尻すぼみになりながらもどうにか食い下がる透の肩を押し退けて、喜多川は「じゃあ体調悪ぃから帰るわ」と歩き出す。  じゃあって何だよ!、と明らかな嘘に内心突っ込みながら、透は何度も喜多川の名前を繰り返したが、そんな透を振り返ることもなくこの日も喜多川は教室を去ってしまった。 「これで三連敗やな」  肩を落として席に戻ってきた透を、宇野の笑い声が出迎えた。 「……なんで笑ってんの」 「いっつも大人しい一ノ瀬が、喜多川相手にビビりながら向かっていくんがおもろくてなぁ」 「俺は全然面白くないよ……」 「けど、名前覚えられとったやん」 「……宇野も心の中では俺のこと『眼鏡』って呼んでるの?」 「冗談やって、睨むなや。まああだ名ではあるけど、喜多川が担任以外の誰かの名前呼んでるとこ、俺初めて見たわ」  それだけでも凄いで、と感心した声と共に透の肩を叩いて、宇野は部活へ向かっていった。  ───言われてみれば、俺も見たことないかも。  隣の空席を見詰めて、透は思う。  女子たちはいつも親しげに喜多川のことを「アキ」と呼んでいるけれど、喜多川がそんな彼女たちの名前を呼んでいるところは、これまで見たことがない。中庭で随分ディープな会話をしていた遠藤の名前も、喜多川はあのとき一度も口にしなかった。遠藤は喜多川にとって女性は使い捨てなんだと言っていたけれど、女性というより他人の殆どが、喜多川にとってはまるで使い捨ての消耗品みたいに、深い意味を持っていないのかも知れない。  だとしたら、そんな喜多川が『眼鏡』と呼んた透は、彼の中でどういう位置に居るのだろう。担任の和田のことは呼び捨てで呼んでいたが、それは多分、毎日のように素行を注意されているからだ。  そこまで考えて、そうだ和田先生だ!、と透は思い出したように顔を上げた。次に喜多川に逃げられてしまったら、和田に相談してみようと思っていたんだった。  教卓で、今日配布したプリントの余りを整理している和田の元へ透は小走りに駆け寄った。 「あの、和田先生……!」 「ん? どうした一ノ瀬」 「喜多川の、ことなんですけど……」 「ああ、そういや今日は実行委員会があるんだったか。あいつ、また帰りやがったのか」  とっくに空になった喜多川の席に目を遣って、和田が「しょうがねぇヤツだ」と腕を組む。 「何度か声はかけてるんですけど、全然取り合ってもらえなくて……」 「やっぱりダメか。あいつがすんなり言う事聞いてくれるようなヤツなら、俺も苦労してねぇんだがな」  腕組みしたまま宙を仰いだ和田が、何とも渋い顔になる。 「成績もまったく問題ねぇんだから、もうちっとあの態度をどうにかすりゃ、周りの評価も変わるだろうに」 「喜多川って、そんなに成績いいんですか?」   授業中殆ど寝ているところしか見たことがないので意外だった。 「一年の頃から、中間・期末・実力テスト、どれもほぼ満点だ。俺の授業もまともに聞いてた試しがねぇのに、こないだの小テストもあっさり満点取りやがった」  必死に勉強したつもりだったのに、半分も正解出来なかった小テストを思い出して、苦いものが込み上げてくる。あんなに寝てばかりなのに、どうして喜多川はそんなに良い点が取れるんだろう。放課後さっさと帰宅するけれど、まさか家に帰って勉強しているんだろうかと思ったが、それもいまいち想像出来なかった。  やはりαなだけあって、Ωの透とはそもそも頭脳のレベルも桁違いなんだろう。 「まあ、あいつは家庭も色々複雑だからなあ」  和田が太い眉を八の字にして襟足を掻く。 「複雑?」 「俺の口から詳しくは言えんが、どうも親と上手くいってねぇみたいでな。普段あの態度だから何度か面談に来てもらうよう親に連絡したんだが、一切応じてもらえねぇからこっちもお手上げだ」 「応じてもらえないって……ご両親が断ってるってことですか?」 「ああ。つっても、喜多川本人も嫌がるだろうけどな」  αで、見目も良くて、おまけに成績だって優秀で。それなのに、そんな息子の学校での傍若無人な振舞いを知っても、彼の両親は何とも思わないということだろうか。そんなに成績がいいのなら、そもそもF高になんて入らなくても、もっとαにとって居心地のいい学校が他に山ほどありそうなのに。  放課後になるといつもすぐに学校を去ってしまう喜多川は、その後どんな時間を過ごしているんだろうと、何だか無性に気になった。  委員会の開始時刻より十五分前に透が視聴覚室に入ると、この日は透より先に来ていたらしい白石が、委員たちが座る予定の机にプリントを配って回っていた。他のクラスの委員は、まだ誰も来ていない。 「一ノ瀬くん、早いね」  入ってきた透に気付いた白石が、一旦手を止めて笑いかけてくれる。控えめに頭を下げた透は、「手伝います」と白石に駆け寄ってその手の中のプリントを半分引き受けた。 「ありがとう。……やっぱり、今日もダメだったかな?」  再びプリントを配り始めながら問われて、反射的に透の肩が強張る。何が、なんて聞くまでもない。さぼっているのは決して自分ではないのだけれど、さすがに三度目となると、同じクラスの委員として透も肩身が狭かった。 「すみません……一度は、引き留めたんですけど……」  ごめんなさい、と謝罪を繰り返す透を、「一ノ瀬くんが謝ることないよ」と白石は気遣ってくれた。でもそれはそれで、悪いのは喜多川だから、と言われているような気もする。  ───いや、確かに悪いんだけど……。  透自身、立て続けに委員会をさぼられて困らされているのは間違いないのに、どこかにそんな喜多川を庇いたい思いがある。その理由が、自分でもよくわからなかった。 「そういえば一ノ瀬くん、クラス全員の出場競技は無事に決まった?」  プリントを配り終えた白石が近付いてきて、そこで透はハッと我に返ると持参した用紙を差し出した。金曜日、喜多川のお陰で何とか無事に決まった、クラスメイト全員分の出場競技一覧だ。  ……そうだ。あのとき、喜多川がどういう意図で声を上げたのか、結局はわからず仕舞いだった。  本人が言っていたように、困っていた透を助けるつもりなんて一切なかったのかも知れない。むしろその方がすんなり納得出来る。けれど、あのとき喜多川が居なかったら、この用紙を今日白石に提出することは、きっと不可能だった。 「凄い、ちゃんと全部埋まってる」  受け取った用紙に目を通して、白石が感心した声を上げる。 「実は、毎年長距離走とか障害物走は出る人がなかなか決まらないんだよね」 「え、そうなんですか……?」  透のクラスでは、事前に希望を出してくれていた宇野と、陸上部所属のクラス委員がどちらも長距離走を選択してくれていたし、障害物走も喜多川にいなされた男子が出場することになったので、決まり始めてからはあっという間だった。 「長距離走は単に長いって理由で敬遠されがちなんだけど、障害物走は途中仮装とかもあって完全な色モノ競技だから、嫌がる生徒が多いんだ。期限は金曜までって言ったけど、今日他の委員の皆がなかなか来ないところを見ると、今頃HRで揉めてるクラスも結構あるんじゃないかな」 「うちのクラスも金曜までに決まってたのはたった二人だけだったんですけど、喜多川が、みんなを纏めてくれたんです」 「喜多川くんが?」   手元の用紙から顔を上げた白石が、透を見詰めて意外そうに目を瞬かせる。そんな白石に、透はコクリと小さく頷き返した。 「俺一人じゃ、みんなに話も聞いてもらえなくて……。元々、人前で話したりするのも、凄く苦手なんです。クラスでも目立たないから、当然人望だってないし。だからみんな好き勝手に騒ぎ始めちゃって、どうしようかと思って困ってたら、喜多川が『うるさい』って一喝してくれて、そこからはすんなり決まりました」  本当はもう少し荒っぽい手法だったけれど、透だけは喜多川が助けてくれたと思っているので、そこは伏せておくことにした。 「へぇ、あの喜多川くんがね……。意外だな。彼って、他人にはまったく無関心だと思ってたけど」 「白石先輩は、喜多川のことそんなに知ってるんですか……?」  確かに喜多川は目立つ。透も違うクラスだった一年の頃から喜多川のことは知っていたし、噂話も透のクラスにまで流れてきていた。けれど白石は、話したことがないという割に随分と喜多川のことを熟知している風なのが気になった。  そんな透に、白石はちょっと気まずそうに苦笑した。 「喜多川くんて、校内だけでも女子との噂が絶えないでしょ。うちのクラスにも喜多川くんに気がある子は結構居るし、女子と一緒に居るところはよく見かける割に、特定の誰かと付き合ってるって話は聞いたことがないから、他人に対して無頓着なのかなと思って」 「そう見えるのは、喜多川の方から声をかけてるわけじゃないからだと思います」  先輩の白石相手に、妙に力強い口調で言ってしまって、透はハッとなって口許に手を宛がった。 「す、すみません、偉そうに……。だからって、喜多川が委員会さぼっていい理由にならないのは、わかってるんですけど……」  白石よりもっと喜多川のことを好き勝手に謗る連中は大勢居るのに、目の前で喜多川がだらしない人間のように言われるのは、酷く胸がモヤモヤとした。喜多川が本当は成績も優秀で、おまけに家庭環境も複雑なのだと、和田から聞いてしまったからかも知れない。 「……何だか妬けるなあ」  ポツリと、またしても耳慣れない言葉を白石が呟いた。 「え?」  何故そんなことを言われたのかがまったくわからず、ポカンと問い返す透に、白石は切れ長の目を細めて笑みを浮かべた。 「ねぇ、一ノ瀬くん。お願いがあるんだけど、二年生の実行委員の学年代表、引き受けてくれないかな?」 「学年代表……?」  的外れな質問を返されて、透は益々混乱する。さっきの言葉の意味はあっさりはぐらかされてしまったし、おまけに今の質問も、違う意味で理解が出来ない。『代表』なんて、これほど透とは縁遠い言葉があるだろうか。  何ですかそれ、と呆然としたままの透に、白石は笑みを崩さないまま続ける。 「各学年からそれぞれ代表になる人を選びたいと思ってたんだけど、二年生は一ノ瀬くんがいいなと思って」 「え……どうして俺なんですか?」 「一ノ瀬くんは、いつも一生懸命だから」 「でも、さっきも言いましたけど、俺一人だと自分のクラスも纏められないし、学年代表なんて出来る器じゃ……」 「代表って言っても、別に人前に立って何かをしてほしいとか、そういうものじゃないよ。配布物の印刷だとか、備品の調達とか……僕の仕事の補佐みたいなものだと思ってくれればいいから」  一生懸命だと褒めてもらえたことは嬉しいけれど、他の委員たちと比べて透が何か特別秀でているとは、決して思えない。むしろ未だに一度も喜多川を委員会に連れ出すことすら出来ていないのだから、後ろめたさの方が大きいくらいだ。そんな透が、何でもそつなくこなしてしまいそうなαである白石の、何を手伝えるというのだろう。  それにいくら目立つ仕事ではないにしろ、『代表』という肩書きだけでも、透にとっては荷が重すぎる。  本当は、「出来ません」と断ってしまいたい。けれど、喜多川のこともある上に、何より透を見詰める白石の笑顔が、それを躊躇わせた。  白石は温厚で優しいけれど、この隙のない笑顔を向けられると、ただでさえNOが言えない透は益々断れなくなってしまう。  要領も悪いΩの自分なんかより、絶対にもっと他に適任が居るはずなのに、どうして白石が透を指名してきたのか。いくら考えてもわからなかったが、透は「そんなに難しく考えないで」と笑う白石に押し切られる形で、代表の座を引き受けることになってしまった。   ◆◆◆◆  気が付けば、体育祭はもうあと約半月後に迫っていた。  今日は、体育祭当日の各委員の役割分担を決める為、四回目の委員会が開かれることになっている。  喜多川には、事前に委員会の予定を伝えておいてもまったく意味がないことはこれまでの経験でよくわかっていたので、透はこの日もあっさり帰宅しようとした喜多川の腕を掴んで引き留めた。いつものように見守っていた宇野が、これまでになく積極的な行動に出た透に「おお!」と感嘆の声を上げた。  透だって、こんな行動に出るのは相当な勇気が要った。これで喜多川の機嫌を大いに損ねてしまったら、それこそ今後二度と委員会どころか、口も利いてもらえなくなるかも知れないと思ったからだ。喜多川がαであることも、Ωの透を弱腰にさせる大きな要因の一つだった。  掴んだ喜多川の腕は、見た目よりしっかり筋肉がついていて驚いた。学校でずっと寝てばかりの男のものとは思えない。この腕で抗われたら、透の手どころか身体ごと振り払われてしまいそうだ。そうなったらどうしよう、と掴んでから少し後悔したが、喜多川は透に掴まれた腕もそのままに、肩越しに振り向いた。 「また眼鏡かよ」  喜多川がすんなり引き留められてくれたことにホッとしたが、降ってきた声も、透を見下ろす顔も不機嫌そのものだった。それでも透を認識してくれていたことに、少し浮かれそうになってしまう自分が可笑しかった。 「委員会なら行かねぇから」  透が口を開くよりも先に、喜多川が先手を打ってきた。そこでやっと喜多川が軽く腕を振り解こうとしたので、透は慌ててその手を両手でしっかりと掴み直す。喜多川が怒って帰らない限り、今日ばかりは帰すものかと心に決めていた。 「体育祭まで、あともう二週間だよ。今日は当日の俺たちの役割分担も決めることになってるし、このままじゃ喜多川、当日自分がすることもわからないでしょ」 「はぁ? 体育祭なんつーだりぃモンに、誰が参加するかよ」 「それ、実行委員の言うことじゃありません……!」  思わず子供を叱る母親のような口調になってしまい、喜多川がムッと形の良い眉を顰めた。背後では宇野が遠慮なくゲラゲラ笑い転げている。こっちは今日こそ喜多川を委員会に連れ出す為に必死なのに…、と完全に愉しんでいる宇野を恨めしく思う。  もう体育祭当日までそんなに日もないし、そろそろ顔くらい出してもらわないと本当に困る。  白石が上手く言ってくれているのか、他の委員たちから透が何か言われることはなかったけれど、さすがに毎回一人で参加しているのは気まずくて仕方がない。成り行きとはいえ、二年生の学年代表に選ばれてしまったから尚更だ。 「毎回毎回しつけぇな。いい加減懲りろよ」 「そう思ってるなら、喜多川こそいい加減せめて委員会には参加して」 「うぜぇ。めんどい」  相変わらず血も涙もない喜多川の言葉が、容赦なく透の胸を射抜く。初めて喜多川と言葉を交わしたときなら、この時点で透の方が退いてしまっただろうけれど、彼の素っ気ない物言いにも気付けば段々慣れ始めていた。怯んで腕を離してしまわないくらいには。 「喜多川の気持ちもわかるけど、やりたくて自分から実行委員になった人ばっかりじゃないんだよ。この際、喜多川はただ座っててくれるだけでいいし、お願いだから帰らないで……!」  縋る思いで訴えた透を暫く黙って見下ろしていた喜多川が、「お前、マジでうぜぇ」と呟いて今度こそ透の腕を振り解いた。案の定、透の両手が呆気なく喜多川の腕から払われる。  ───やっぱりダメなんだ。  どんなに可愛い女子に言い寄られても関心を示さないのだから、透の言葉なんかに喜多川がまともに耳を傾けてくれるわけがなかった。  皆の冷たい視線は覚悟の上で、やっぱり他の誰かに喜多川の代わりを務めてもらうしかないんだろうかと透が俯いたとき。 「……どこだよ」  何を聞かれたのかがすぐには理解出来なくて、透は「へ?」と間抜けな声と共に呆然と喜多川の顔を見上げた。聞き間違いでなければ、普段の喜多川からは想像も出来ない質問が飛んできたような気がする。 「あ……あの、今なんて───」 「お前が顔出せっつったんだろーが。場所どこだっつってんだよ」  苛立った様子で、喜多川が小さく舌打ちする。  ……信じられない。  これまで何度か言葉は交わしたけれど、今初めて、喜多川とまともに会話が出来た気がする。もうダメだと思ったのに、どうして喜多川は透に応えてくれる気になったんだろう。  嬉しさと感動で思わず言葉を失う透に呆れた息を零して、「やっぱ帰るわ」と喜多川が踵を返したので、透は慌てて「待って!」と再びその手を掴んだ。今度は、振り解かれなかった。 「し、視聴覚室……!」 「視聴覚室……ってどこだよ。知らね」  授業で何度か使ったことがあるはずだと思ったが、そういえば喜多川は体育や移動教室のときはいつもどこかへ消えていることを思い出した。教室以外にも、きっと彼の寝床が校内のどこかにあるのだろう。 「じゃあ案内するから!」  帰らないでよ!?、と念押しして、透は素早く自分の席に筆記用具を取りに戻った。チラリと後ろの席に視線を向けると、荷物を纏めていた宇野が、透に向かってニッと笑いながら親指を立てている。胸の前で小さく同じサインを返して、透は億劫そうに歩く喜多川をようやく視聴覚室へ誘うことに成功したのだった。  喜多川の説得に時間がかかってしまったので、視聴覚室に着いたのは委員会が始まる五分前だった。  殆どの委員が揃っていたけれど、白石はまだ来ていなかった。  透に半ば無理矢理引っ張り込まれる形で喜多川が視聴覚室に姿を見せた瞬間、室内の空気が微かにざわつくのがわかった。  喜多川がF高内では珍しいαだからというのもあっただろうが、大半は恐らく、喜多川の存在を知っている生徒たちの驚きによるものだった。その証拠に、ここへ来て初めて透の相方を見た二年生の委員の一人が、「なんだ、喜多川だったのかよ」と驚き半分、納得半分で呟くのが聞こえた。  喜多川が実行委員なんてやるのか、という驚きと、喜多川ならさぼってるのも当然か、という納得だ。  隣で大欠伸をしている喜多川はまったく気にしている様子はなかったけれど、端から喜多川に劣等生のレッテルが貼られている気がして、透は内心少しムッとした。聞いている透でもそう感じるのに、どうして喜多川はどんな言葉を向けられても平然としているのだろう。αなら、そんな風にいつも堂々としていられるんだろうか、と早くも眠そうにしている横顔を盗み見しながら、透は喜多川と共に席に着いた。  椅子に腰を下ろした途端、喜多川は「終わったら起こせ」と言い置いて、すぐさま机に突っ伏してしまった。「ここでも寝るんかい!」とこの場に宇野が居たらすかさず突っ込みが入ったに違いない。座っててくれるだけでいいと言ったのは透だけれど、さすがに開始前から寝られるとは思わず、慌てて透は喜多川の肩を軽く揺する。 「喜多川、せめてもうちょっと起きてて……!」 「るせぇ。顔出すだけでいいっつったのはそっちだろーが。これ以上余計なこと言うなら眼鏡叩き割んぞ」  単なる脅しだとはわかっていたが、迫力のある低い声に気圧されて、うっ…とつい手を引っ込めてしまう。その直後、少し慌てた様子で白石が四時丁度に視聴覚室へとやって来た。 「遅くなってごめん。今日配るプリントの印刷に時間かかっちゃって───」  教卓から室内を見渡した白石の瞳が、透の隣で机に伏せている喜多川の姿を捉えて驚いたように見開かれた。 「……今日は初めて、全員集合かな? 話は聞こえてなさそうだけど」  冗談めかして言った白石の言葉に、あちこちで小さな笑い声が起こる。ようやく喜多川が一緒に来てくれたことを嬉しく思うのと、白石の話を聞く素振りも無い喜多川の態度が申し訳ないのとで、透はぎこちなく苦笑することしか出来なかった。 「取り敢えず、時間だから始めよう。今日は前回言った通り、体育祭当日の各自の役割分担を決めようと思う。……と言っても、基本は同じクラスの委員同士で組んでもらった方が動きやすいだろうから、僕の方でざっくり割り振らせてもらったんだ。その分担表を今から配るから、変更希望があったら挙手してもらえるかな」  言いながら、白石が各列の先頭へプリントの束を手渡していく。透の手元まで回ってきたそれに視線を落とすと、透と喜多川は競技準備係だった。名前通り、各競技に備えて使う用具をグラウンドに運んだり並べたりする係で、結構な力仕事だ。透たち以外にも、二年四組の委員二人と、三年四組の委員二人の計六名が同じ準備係に割り振られている。 「一応、一年生はなるべく負担の少ない係に割り振ったつもりなんだけど、変更希望の人は居る?」  白石の問いに誰も手を挙げない中、透だけは少し不安な気持ちでチラ…、と隣へ視線を向けた。  委員会に参加することすら散々渋っていた喜多川が、果たしてこんな力仕事を請け負ってくれるだろうか。力仕事でなくても「だりぃ」の一言で放り出してしまいそうなのに……。  けれど肝心の喜多川本人は夢の中だし、誰も挙手していないこの状況で、自分一人だけ変更希望を訴えることはとても出来なかった。 「……居ないみたいだね。それじゃあ、当日はこの分担表通りで、各自よろしくお願いします。各係の役割の詳細は、次の委員会までに纏めて配布するから。あと、今日の報告としては、さっき一緒に配ったプリントにある通り、生徒会から予算案が通った報告があったので───」  これまでずっと透一人で参加していたので、白石の話は一言一句聞き逃さないようにしておかないと…、と毎回真剣に聞き入っていた。けれど今日は隣に喜多川が居るからか、白石の言葉は途中から耳に入ってこなくなった。  考えるのは、今後のこと。  今日一日だけじゃなく、今後も喜多川は委員会に参加してくれるのか。  体育祭当日は、ちゃんと実行委員として与えられた役割を果たしてくれるのか。  ……いや、喜多川の場合はそもそも体育祭当日、学校に来てくれるかどうかが心配だ。教室でも堂々と不参加宣言をしていたくらいだ。  これまでは最悪透一人で実行委員の仕事をこなせばいいと思っていたけれど、当日の力仕事に関してはさすがに自信がない。  どうして喜多川が今日委員会に参加してくれる気になったのかはわからない。単なる気まぐれなのかも知れない。だとしたら、その気まぐれを、この先も期待していいんだろうか─── 「一ノ瀬くん」  トン、と軽く机の端を小突かれて、透はハッと顔を上げた。いつの間にか目の前に白石が立っている。えっ、と動揺して周りを見ると、いつの間に解散していたのか、他の委員たちは誰も居なくなっていた。透の隣で喜多川だけが、規則正しい寝息を立てている。 「喜多川くんが来てたことにも驚いたけど、一ノ瀬くんがボーっとしてるのも珍しいね」 「すっ、すみません……! ちょっと、考え事してて……」 「これまでは、ずっと一人だったもんね」  透の横で寝入っている喜多川を見下ろして、白石が苦笑する。うわの空だった透も充分失礼だけれど、白石が来る前からずっと眠り続けている喜多川の態度も相当失礼だとそこでやっと気づいて、透は喜多川の肩を少し強めに揺さぶった。 「喜多川、終わったよ、起きて」  透の声でようやく身体を起こした喜多川が「やっとかよ」と、ただ寝ていただけなのに何ともふてぶてしい呟きを零す。そんな喜多川の正面に、机を挟んで白石が立った。 「おはよう、喜多川くん。……初めまして、の方が正解かな」 「あ……?」  緩慢な動きで顔を上げた喜多川の顔が、白石の顔を見た途端、険しいものになった。その横顔に覚えがあった透は、思わず目を瞠った。遠藤に対して怒っていたときの、あの顔だ。  喜多川も白石のことを知っているのだろうかと思ったが、それは違ったらしい。 「誰だよ、てめぇ」  まるで敵と対峙した獣のように、喜多川が低く唸る。その問いから喜多川にとって白石は初対面なのだとわかったけれど、喜多川がどうしていきなり敵意を剥き出しにしているのか、透にはまるでわからない。それよりも、ずっと寝ていた上にあまりにも不遜な物言いをする喜多川に、透の方が胃が縮み上がる思いだった。 「ちょっ……この人は、三年の白石先輩! 実行委員長だよ!」  すみません!、とすぐさま立ち上がって喜多川の代わりに何度も頭を下げる透に、白石は「気にしてないよ」と笑う。けれどその隣でのそりと席を立った喜多川は、眉間に深い皺を寄せたまま、「帰る」とだけ言い捨てて、さっさと視聴覚室を出て行ってしまった。 「喜多川……!? ちょっと待って……! 白石先輩、ホントにすみません!」  もう一度深く身体を折ってから、透は机の上のプリントや筆記用具を搔き集めるようにして、慌てて喜多川の後を追った。 「喜多川! 待ってってば!」  長い脚で歩く喜多川に、透は必死に走ってどうにか廊下で追いついた。 「ンだよ。参加するだけっつっただろ」 「そうだけど……だからって、ずっと委員会さぼってたのに、先輩相手にいきなりあの口の利き方は……」 「先輩だの委員長だの、そんなモン知るかよ」 「でも、喜多川が来てない間、白石先輩には色々フォローしてもらってたし───」 「お前馬鹿じゃねぇの?」  突然足を止めた喜多川が、高い位置から透の顔を見下ろしてきた。以前中庭で見かけた光景が脳裏を掠める。 「Ωのクセに、よくあんな支配欲丸出しのαと関われるな」 「支配欲……?」  って一体なに…?、と透は言葉に詰まる。  透は白石からそんなものを感じたことはなかったが、喜多川は白石の顔を見たときから、何かを察していたようだった。けれど、喜多川と違って温厚で人当たりもいい白石と、『支配』という単語が、透の中ではいまいち結びつかない。  押し黙った透を、喜多川は心底呆れたとでもいうように鼻で嗤った。 「将来の為に、誰でもいいからαに擦り寄っとこうっつー魂胆かよ」 「───っ、そんなこと、思ってない!」 「なら、嗅ぎ分けくらい出来るようにしとけ」  胸糞悪ぃ、と吐き捨てて、喜多川は再び廊下を歩き出す。その背中を再び追い掛けることは出来なかった。  今になって、「Ωのクセに」という喜多川の言葉が、まるで氷水みたいに冷たく全身に沁みていく。  折角委員会にも顔を出してくれて、ほんの少し、喜多川との距離が縮まったような気がしていたのに、所詮は透も喜多川に擦り寄る女子たちと同じだと、一瞬で突き放されたような気分だった。  喜多川が何に怒っているのかわからない。わからないけれど、今の自分は、いつかの中庭で立ち尽くす遠藤と同じ顔をしている気がした。
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