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第4話

  ◆◆◆◆  いよいよ、体育祭を丁度一週間後に控えた金曜日。  昼休みに入って十五分が経過したが、隣の席の喜多川は、三時限目に登校してきてから一度も起きることなく眠っている。これまではそんな喜多川をどうやって起こそうかと必死になっていたけれど、今は彼が眠ってくれていることに、ホッとしている自分が居る。  それもこれも、喜多川が初めて委員会に参加してくれた日に、気まずい別れ方をしてしまったからだ。  喜多川の寝姿から目を逸らした透の耳に、不意に複数の甲高い笑い声が聞こえてきた。つられるように顔を上げると、教室の扉口から三人組の女子生徒が入ってきたところだった。彼女たちは喜多川の姿を見つけるなり、嬉しそうに彼の席を取り囲んだ。  三人とも、透は初めて見る顔ぶれだった。ただ全員、明るい髪色にピアス、そして高校生にしては濃い目のメイクと、やはり派手な見た目の女子ばかりだ。 「ねぇ、アキ~」  一体いくつ穴が開いているのだろうと思うくらい、左右の耳をピアスだらけにした女子が、甘えた声と共に喜多川の身体を揺する。揺すられた喜多川は微動だにしないけれど、彼女たちは気にせず口々に声をかける。 「かったるいから今から皆でオケりに行こうっつってんだけど、アキも行こうよ」 「どーせずっと寝てばっかなんでしょ?」 「いい加減、アキはキスでもしなきゃ起きないって言われてんだよー?」  どこまで本気なのか、三人は愉しげに言ってまた笑い声を上げる。そこでようやく、喜多川が伏せていた顔を起こした。  普段の寝起きの怠そうな顔とは違って、その顔には苛立ちと怒りが色濃く浮かんでいた。  ガタン、と椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がり、喜多川は自分を囲む女子たちには目もくれず、無言のまま教室を出て行ってしまった。いつもみたいに「うるせぇ」だとか、「うぜぇ」と素っ気ない言葉をかけられる方がよほどマシだと、透は喜多川の気迫にゴクリと喉を鳴らした。今の喜多川は、まるで殺気立った野生の獣みたいだ。  さすがの女子たちもしばらく唖然としていたが、「付き合ってくれないんならキスくらいしてやれば良かった」という一人の発言をきっかけにまた笑いだして、三人はそのまま騒々しく教室を後にした。  透だって、あんな風に思いきりよく割り切ってしまえたら気が楽なのに。 「なんや、最近えらい不機嫌やな、喜多川」  透の机の脇に椅子を持ってきて、焼きそばパンを齧っていた宇野が、さっきまで喜多川が座っていた席を見詰めて肩を竦めた。毎日母親が用意してくれる弁当のおかずをちびちびと口に運びつつ、透は黙ったまま力なく頷き返す。  ───そう。喜多川はここのところ、ずっとあの調子で機嫌が悪い。そしてその原因は、恐らく透にある。  喜多川が不機嫌なのは、初めて委員会に顔を出してくれた、あの日からだ。翌日、例によって遅刻してきた喜多川の顔を、透は直視出来なかった。理由はわからないけれど、透の『何か』に対して喜多川が苛立っていたことはわかったし、そんな自分が喜多川に軽蔑されたような気がしていたから。  そんな彼の機嫌が翌日になっても直っていないことに気付いたのは、その日の昼休みだった。巻き髪と黒髪ボブの女子二人組を、喜多川はさっきのように無言の威圧感だけで蹴散らしてしまった。これまで適当にあしらっている光景しか見たことがなかったので、透だけでなく、クラス全体の凍り付いたような空気が、今でも忘れられない。  日頃何と言われていようとも、喜多川が紛れもないαで、自分たちは彼には逆らえないのだと、その場に居た誰もが思い知った瞬間だった。 「そういやお前も最近全然喜多川に声かけてへんけど、何かあったん? 体育祭来週なんやし、実行委員も一番忙しい時期やろ」  宇野からの問い掛けに、つい箸を持つ手が止まる。「そう、なんだけど……」と、歯切れの悪い返事しか返せなかった。  体育祭当日が近付くにつれ、今では二、三日に一度は委員会が開かれているのだが、喜多川が委員会に顔を出したのは、あの日の一度きりだ。何となく気まずくて透からは声をかけられずに居たし、当然あの喜多川が自分から委員会に参加してくれるはずもない。  悪態だけ吐いてそれっきりまた顔を出さなくなった喜多川を、白石は特に非難することもなかった。それどころかあの日の喜多川の態度を「寝起きで不機嫌だったんじゃないかな」と笑ってくれたぐらいだ。  だからこそ、透はあの日喜多川に言われた言葉の意味が、益々わからなくなった。こんなにも寛容な白石のどこに、支配欲が滲んでいるというのだろう。時折、透にはよくわからない言葉を唐突に寄越してきたりはするけれど、ほんの軽口と思えば特に気にするほどのことでもないような気がする。  あの日からずっと不機嫌なままの喜多川と、相変わらず温厚な白石。  実行委員としてこれ以上喜多川に何かを期待するだけ無駄だと割り切って、白石を頼ってしまえば楽なのだろうということは、頭ではわかっている。なのに、喜多川に突き放されたショックからいつまでも立ち直れない自分が居る。  喜多川がαで見目が良いから、なんていう理由で、透は彼に声をかけ続けていたわけじゃない。最初は同じ実行委員になってしまったから仕方なく、という思いもあったけれど、少しずつ喜多川の知らなかった一面を見られるようになって嬉しかったし、あの日の委員会が終わるまでは、確かに彼に歩み寄れたと思っていた。  なのに、どうしてこうなってしまったのだろう。自分はどこで何を間違えてしまったのだろう。  体育祭はもう来週だし、それが終わっても秋には文化祭が控えている。この先もう二度と、喜多川と実行委員として活動することは出来ないんだろうか。  殆ど中身の減っていない弁当を前に悶々としていたとき。 「一ノ瀬くん」  よく通る、凛とした声が教室内に響いた。  決して高圧的なわけではないのに、周囲の目と耳を一瞬で惹き付けてしまう、αの声。 「白石先輩……」  教室の扉口を振り返って、そこに立つ白石の姿に透は呆然と呟いた。まさか白石がわざわざ教室までやって来るなんて。  ただでさえこのF高内では珍しい存在であるαの白石に、自然と教室中の視線が集まる。喜多川の性格を知ってその傲慢さに辟易している女子たちも、涼やかな白石の容姿に見惚れている。そんな視線を軽く受け流して、白石はまだポカンとしている透の席までやってきた。 「食事中にごめんね」  気遣いからか、白石が傍の宇野へ軽く目配せした。突然クラスに現れた白石の目的が透だったことを知って、教室のあちこちでヒソヒソと声が上がる。食事云々よりも、周りからの視線に耐え兼ねて、透は椅子の上で小さくなりながらチラリと白石の顔を窺い見た。 「あ、あの……どうかしたんですか……?」  今日は委員会の招集はなかったはずだし、白石から何かを言いつけられていた記憶もない。おずおずと尋ねた透に、白石はいつもの抗えない笑顔を浮かべた。 「今日の放課後、ちょっと時間あるかな?」 「特に、予定はないですけど……」 「体育祭のプログラムの印刷、手伝ってもらえないかと思って」 「印刷?」  問い返したところで、そういえば自分には学年代表という肩書きがあったことを思い出した。ただでさえ白石の頼みは断れない透なので、拒む理由もない。  わかりました、と素直に頷いた透を見下ろして、白石が笑みを深める。 「ありがとう。印刷機は生徒会のを借りることになってるから、放課後、生徒会室まで来てもらえるかな」  じゃあまた放課後にね、と言い置いて、白石は颯爽と教室を後にした。 「うちの学校に、あんな上品なαおったんか」  白石の後ろ姿を見送った宇野が、意外そうな声を漏らす。 「あの人、実行委員長なんだよ。三年の白石先輩」 「白石……?」  ふと、紙パックのストローを咥えたまま宇野が眉を顰めた。 「どうかした?」 「いや、なんか聞き覚えある名前やと思ってんけど、誰やったっけな」 「うちの学校でαっていうと限られてるし、名前くらい聞いたことあってもおかしくないんじゃないの」  透の言葉に、宇野は暫く「うーん」とどこか腑に落ちない表情でしきりに首を捻っていたが、結局思い出せなかったのか、諦めたように空になった紙パックを握り潰した。 「まあ、白石って別にそんな珍しい名前でもないしなぁ。そういや姉ちゃんがハマってるドラマに出てくる美人教師の名前も白石やし、たまたま頭に残ってるだけかも知れんわ」 「何それ、適当……」  呆れた目を宇野に向けた後、お互い顔を見合わせて笑う。隣に喜多川が居ないこともあって、ほんの一時気が紛れた透は、このとき宇野が白石の名前に反応した理由を、さして気にも留めなかった。  放課後。  白石に言われた通り、生徒会室へやって来た透は、部屋の前まで来て扉を開けるのを躊躇った。  手伝いを引き受けた時点ではすっかり失念していたけれど、よく考えてみれば生徒会室に入るのはこれが初めてだ。生徒会長とも顔見知りらしい白石と違って、透は生徒会の誰とも接点がない。恐らく向こうも誰一人透のことなんて知らないだろうし、いくら白石の頼みとはいえ、そんな中に入っていくのはなかなか緊張する。  けれど、控えめに扉をノックして恐る恐る開いた透は、室内を覗いた瞬間、それが杞憂だったことを知った。  室内に居たのは、白石一人だ。 「あ、早かったね」  部屋の中央に、四角く並べられた長机の上へ複数のプリントを広げていた白石が、透に気付いて顔を上げた。 「あの、生徒会の人たちは……?」 「今日は居ないよ。生徒会も今日は活動日じゃないって聞いたから、会長に印刷機を貸してほしいって頼んでおいたんだ」 「そうだったんですか」  下手に緊張せずに済んで良かったと、透は胸を撫で下ろした。 「それ、何のプリントですか?」  白石が机の上に並べているものを、傍へ行ってそろりと覗き込む。見たところ、透が印刷を頼まれたプログラムとは違うようだ。体育祭当日のグラウンドの見取り図や、細かい注意事項のようなものがズラリと書かれたものが複数枚ある。 「これは体育祭当日、実行委員の皆に持っててもらう工程表だよ。何かあったときの対処法なんかも一通り書いてあるから、当日はこれを見ながらそれぞれの係ごとに動いてもらいたいんだ。この工程表を人数分束ねていかないといけないから、プログラムの印刷に助っ人がほしくてね」 「ああ、だから……」  学年代表の自分が呼ばれたのか、と思ったが、てっきり他の学年の代表も呼ばれているのかと思いきや、透の他には誰も生徒会室へやって来る気配がない。白石も、一旦作業の手を止めて「こっち」と透を壁際に置かれた印刷機の前へ誘導する。 「え……っと、他の人、誰も来ないんですか?」 「今日は一ノ瀬くんだけだよ」  印刷機へプログラムの原本をセットしながら、白石がサラリと答える。  どうして自分だけ呼ばれたのだろうと思ったけれど、それを問うと何だか不満を零しているように聞こえてしまうかも知れない。返答に困っている内に、白石の方から答えをくれた。 「一ノ瀬くん、人前で何かするのは苦手だって言ってたから、いっそ二人だけの方が気楽かなと思ったんだけど、余計な気遣いだったかな」 「あ、いえ、そんなことないです……すみません、いつも気遣ってもらって」 「こっちこそ、折角委員会のない日だったのに、呼び出してごめんね。それに、体のいいこと言ってるけど、本当は僕が一ノ瀬くんと二人きりになりたかっただけだから」  何でもないことのように、白石が言う。  ───また、だ。  時々こうして、白石は反応に困ることを言ってくる。そして困惑する透を見越したように、本心の読めない顔で笑うのだ。 「なんてね。実は他の学年の子たちには、都合が悪いって断られちゃって」  透が声を発する前に、白石は一方的に自身の言葉を茶化して軽く肩を竦めてみせた。そうやってかわされると、透は何も言えなくなってしまう。それがわかっているから、揶揄われているんだろうか。  喜多川は言葉が少なすぎて何を考えているのかわからないけれど、白石は逆に言葉に隙がなさすぎて、その本心がまるで見えない。 「一ノ瀬くん、印刷機の使い方はわかる?」  つい今しがたのやり取りなんてなかったみたいに、白石が印刷機の操作パネルを指差して問いかけてくる。 「いえ……コンビニのコピー機なら、使ったことありますけど……」 「刷る枚数が多いだけで、基本的な操作はそんなに変わらないよ。ただ、プログラムは普通紙じゃなくてこっちの色上質紙に印刷するから、用紙設定に注意してね」  白石が示した箇所を見ると、印刷機の給紙トレイに水色の色上質紙の束が既にセットされていた。ただ、その枚数は全校生徒に配るにしては随分と少ない。 「ここの印刷機古いから、一度に用紙をセットするとすぐに詰まるんだ。補充する上質紙はそこの机にあるから、少し手間だけど、小分けにして補充しながら印刷してくれる? 僕もそこで作業してるから、他にわからないことあったら何でも聞いて」  事務的に説明して、白石は印刷機の前に立つ透の真後ろにあたる長机で、作業を再開する。  さっきの言葉はどういう意味ですか、と聞きたかったけれど、完全に実行委員長の顔に戻ってしまっている白石に聞ける雰囲気でもなく、透も与えられた仕事に専念することにした。  印刷機が規則的にプログラムを刷り上げていく音と、白石がプリントの束をホチキスで留める音が静かな生徒会室に響く。トレイの用紙がなくなるたびに、透は長机と印刷機を往復して、言われた通り、複数回に分けて上質紙を補充した。そうして最後の束に差し掛かったとき。 「一ノ瀬くんて、発情期まだだよね」 「!?」  次々に印刷されてくるプログラムをぼんやりと見ていた透は、突然耳許で囁かれて、文字通りその場で飛び上がった。声にならない声を上げてバッと肩越しに振り返ると、いつの間に作業を終えていたのか、真後ろに白石が立っていた。心臓が口から飛び出しそうなほどバクバクと煩い音を立てている。勿論、驚きと動揺によるものだ。 「な、なんですか、急に……」  透がΩであることくらい、白石は初対面の時点でとっくにわかっていたはずだが、白石はこれまで決してそれを意識させるようなことは言わなかった。そんな彼が、どうして急にそんな踏み込んだことを聞いてくるのか……。 「ごめんごめん。驚かせちゃった?」 「いえ、それはいいんですけど……どうして急にそんなこと……」 「発情期を迎えたΩは、フェロモンの匂いが変わるから」 「……そうなんですか?」  自分自身がΩである透には、そもそも自分のフェロモンの匂いなんてさっぱりわからない。それに、白石の言葉は透の質問の答えにはなっていない。知らない人が居なくてホッとしたはずの二人きりの空間が、何故か急に心細く思えた。  そんな透の心中を知ってか知らずか、白石が印刷機の隣にある書類棚に軽く寄り掛かるようにして腕を組んだ。 「これは諸説ある内の一つだから真偽はわからないけど、αがΩと番うとき、Ωの項を噛むのは知ってるよね? その理由の一つとして、相手を『支配』する為の動物的な本能によるものだっていう説があるんだ」  その瞬間、心臓がまた一つ、ドクッと大きく脈打った。今度は不安からだった。  白石とは結びつかないと思っていた『支配』という言葉が、彼自身の口から零されたことに、酷く動揺した。どうして突然白石がそんな話を始めたのかわからないけれど、透の頭の中で喜多川の言葉が延々と繰り返される。 「犬や猫なんかが交尾のとき、雄が雌の項を噛むのもそうだし、雄同士でも相手の項を噛むのは自分が優位に立って相手を支配しようとする本能的な行為なんだよね」 「……白石先輩も、そうなんですか?」  思わず、そんな問いが口をついて出た。白石が「僕?」と緩く首を傾けて目を瞬かせた後、フッと息を零して笑う。 「僕よりも、喜多川くんがそういうタイプなのかな、と思ったんだけど」 「喜多川が……?」 「この前、初めて僕の顔を見たとき、まるで縄張りを荒らされた肉食獣みたいな顔してたから」  喜多川とはまるで逆のことを言う白石に、訳がわからなくなる。α同士、二人の間にはΩの透には感じ取ることが出来ない何かがあるのだろうか。  ───だとしても……。  白石以上に、喜多川は支配欲なんてものとはまったく無縁な気がする。  喜多川は、他人に執着したりしない。透の知る限りでは、むしろそういうものを敢えて遠ざけているように思える。例え夜を共にしたとしても、一晩限りと決めていて、自分からは誘いもしない。  それに喜多川は、口も態度も悪くて人の都合なんてお構いなしだけれど、人に何かを要求したりもしない。だから透は、そんな喜多川が初めて透の訴えを聞き入れてくれたとき、とても嬉しかったのだ。喜多川にとっては恐らく何のメリットもないであろう委員会に、渋々ながらも参加してくれたのだから。  喜多川が唯一支配しているものがあるとしたら、それは透の心だ。突き放されて再び離れてしまった今も、気付けば透は喜多川のことばかり考えている。けれどそれはきっと、喜多川が望んでいることじゃない。透が勝手に捕らわれているだけだ。  気付けば、プログラムは全て刷り終わっていた。 「思ったより早く終わったね。助かったよ、ありがとう」  印刷機から刷り上がったプログラムの束を取って、白石が透に笑いかける。 「あの調子だと委員会は難しいかも知れないけど、せめて体育祭当日は参加してもらえるように、喜多川くんに伝えてくれる?」  白石の笑顔は人が良さそうで、柔らかくて、隙がなくて、完璧なαとしての静かな自信に満ちていて───そして、透に逆らうことを許さない。  決して強要されているわけじゃない。脅されているわけでもない。  なのに、白石は透が拒まないことを確信しているような気がしてならないし、実際透は白石に言われるがまま、学年代表を引き受け、不安のある力仕事の係を任され、こうして放課後一人、白石を手伝っている。  心が喜多川に支配されているとしたら、この身は既に、白石に支配されているのではないのだろうか。  透には声なんてかけてこない喜多川と、甘い言葉で透を黙らせてしまう白石。  心と身体。  従うべきは、一体どちらなのだろう。   ◆◆◆◆ 「一ノ瀬くん、大丈夫?」  心配そうな声と共に、コト、と目の前にアイスカフェラテの入ったカップが置かれた。  コーヒーショップの窓際の席でぐったりと窓ガラスに寄り掛かっていた透は、慌てて姿勢を正した。 「すみません、ちょっと疲れてて……」 「今日は大変だったね。本当にお疲れ様」  透の向かいの席に腰を下ろした白石が、自分はエスプレッソを一口含んで労ってくれる。いつもならもうちょっと畏まってしまうところだけれど、今日ばかりは「ありがとうございます」と透は素直にカップを受け取って、そこにガムシロップを三つ注いだ。  ……本当に、今日は死ぬほど大変だった。  迎えた体育祭当日。  この日、喜多川が学校に姿を現すことはなかった。  結局喜多川とはずっと口を利けずにいたのだが、昨日の放課後、透は勇気を振り絞って声をかけた。「明日の体育祭には来て欲しい」と。喜多川は去年も体育祭は不参加だったようで、今年は実行委員ということもあり「今年も不参加なら内申下げるぞ」と担任の和田も援護してくれた。  しかし、喜多川は不機嫌な顔でチラリと透の顔を一瞥しただけで、何も言わずに帰ってしまった。ただ、ハッキリと拒否されることもなかったので、もしかしたら…と僅かな期待を抱いていたのだ。  けれど体育祭の朝。全ての実行委員が集合した場所に、喜多川の姿はなかった。遅刻の常習犯である喜多川のことだから、いつものように遅れてやって来るかも知れないと、朝の時点では透はまだ期待を捨てきれないでいた。喜多川のことを、本当に無責任でどうしようもない人間なのだとは、思いたくなかった。  透が任命された競技準備係は思った以上にハードで、雲一つない晴天の下、延々と用具を並べたり撤収したりするのに駆け回るのは、競技に出場するより何倍も過酷だった。最初はいつ喜多川が来てくれるだろうと思っていたけれど、時間が経つにつれ、暑さと疲労でそんなことを考える余裕すらなくなった。そもそも透は、体力に自信がある方ではない。なのに喜多川の分まで走り回らなければならなかったので、全ての競技が終わったときには汗だくな上に疲労困憊で、その場に倒れ込んでしまった。  しばらく救護テントの下で休ませてもらっていたとき、様子を見にきた和田から「喜多川のヤツ、結局来なかったのか」と言われて、そこでショックはようやくやってきた。  ───ああ、そうか。俺は待ってたんだ。喜多川が来てくれるのを、ずっと。  だけど、それは叶わなかった。  酷く虚しくなって、泣きたくなったところへ、和田と入れ替わりでその日一日忙しそうにしていた白石が透の元へやって来た。喜多川が来ていないことは白石も把握していたものの、あちこち走り回っていた為、透のフォローが出来なかったことを詫びられたけれど、実行委員長の白石が多忙なのは当然のことだ。気にしないでほしいと透は何度も訴えたが、白石に「帰りに何か奢らせて」と言われて、駅前のコーヒーショップへ立ち寄ることになったのだった。  ずっと炎天下を走り回っていた所為か、軽い頭痛があったし身体も疲れきっていたので本当はすぐにでも家に帰って横になりたかったのだけれど、白石からの申し出を、やはり透は断れなかった。 「今日くらいは、喜多川くんも来てくれるんじゃないかと思ったんだけどね……」  カップをそっとテーブルに下ろして、白石が吐息混じりに苦笑する。白石は透への慈悲を込めて言ってくれたのだろうけれど、喜多川が来てくれなかった事実を改めて突きつけられた気がして、胸が痛んだ。  ぼんやりと窓の外に視線を移すと、金曜の夕方ということもあって、駅へと続く通りは学生や週末の夜を楽しもうという人たちの姿で賑わっていた。もしも喜多川が来てくれていたら、自分もあんな風に浮かれていたんだろうか、なんて無意味なことを考えてしまう。  そんな中、歩道を挟んだ向こうにあるロータリーに、一台の黒い高級車が滑り込んできた。  透たちの居る店の斜め前あたりで歩道に横づけされたその車から、背の高い男性が降りてくる。その姿に、透は眼鏡の奧の瞳を大きく見開いた。  離れていても目を惹く、モデルみたいな長身。アッシュグレーの髪色が映える、鼻筋の通った顔。何より、ガラスを隔てても感じるほどの、α特有の絶対的な存在感。 「喜多川……」  呆然と呟いた透の視線を追うように窓の向こうを見た白石も、喜多川の姿に気付くと驚いた顔をした。  学校に来なかったはずの喜多川は、何故か制服姿だ。  なんで? どうしてこんなところに喜多川が?  見詰める先で、車からもう一人、今度は女性が降りてきた。少し高めの位置で髪を纏め、高そうな派手目のワンピースに、十センチほどのピンヒール。手には透でもよく知っている有名高級ブランドのバッグを提げている。色付きのサングラスをしているので顔はハッキリわからないけれど、彼女もまた喜多川に勝るとも劣らないオーラがある。ただ、年齢は喜多川より随分と上に見えた。  咄嗟に、喜多川は女社長に貢がせているらしい、という誰かが流した噂話が頭を過ぎる。くだらない、とこれまで聞き流していたが、まさか事実だったのだろうか。 「あれ……あの女性、もしかして女優の橋口いずみじゃない?」  白石の言葉に、えっ、と透は信じられない思いで絶句する。  橋口いずみというと、今から二十年ほど前に朝の連続ドラマでヒロインに抜擢されてブレイクした人気女優だ。デビュー当時の彼女を高校生の透はほとんど知らないけれど、今でも現役でドラマや映画の主演に加え、CMにも多数出演しているので、毎週のようにテレビで見かける。  ただ、橋口いずみは清純派女優として人気を博していて、役どころも知的で清楚な女性を演じていることが多い。一方、窓の向こうに居る女性は、透が知っている橋口いずみのイメージとは随分とかけ離れていた。言われてよくよく見てみれば確かに似ているとは思うけれど、テレビで見る淑やかな雰囲気はどこにもなく、どちらかと言うとクラブのホステスでもやっていそうな印象だ。 「……あの人ホントに橋口いずみですか? なんか、テレビに出てるときと随分感じが違うような……」 「僕の父が彼女の大ファンでね。昔から彼女が出てるドラマは必ず録画してるから、何度も見せられてるし間違いないよ」  白石はキッパリと言い切ったけれど、透はまだどこか信じられなかった。  目の前の派手な女性が、清楚さがウリの橋口いずみだということも信じられなかったし、喜多川がそんな彼女と一緒に居ることも信じられない。喜多川は芸能人とも付き合いがあるという噂も聞いたことはあるけれど、まさか本当に人気女優とも繋がりがあったなんて思わなかったし、知りたくなかった。  行き交う人たちも、まさかそこに居る女性が橋口いずみだとは思っていないのか、皆どちらかというと喜多川の方をチラチラと見ながら通り過ぎていく。透も白石に言われなければ、きっと相手が橋口いずみだなんて、絶対に気付かなかったに違いない。それだけテレビのイメージとかけ離れているのに、いくら親がファンだからといって、そんなに簡単に見抜けるものなんだろうかと目の前の白石に疑問を抱いたけれど、窓の向こうで喜多川と橋口いずみが何やら口論を始めて、透は視線をそちらへ戻した。  何かを言い捨てて立ち去ろうとする喜多川を、橋口いずみが必死に引き留めている。縋っているというより、喜多川を叱責でもしているように、橋口いずみも険しい顔をしていた。  異様に目立つ男女の言い争いに、行き交う人々の目が益々二人に集まる。それを受けてか、喜多川は心底うんざりした様子で強引に橋口いずみの腕を振り払うと、そのまま足早に駅の方へと歩き去った。その背中へ何かを叫んでから、橋口いずみは苛々とした様子で一人車内へ戻ると、車は再び走り出し、やがてロータリーから姿を消した。 「……何だか、凄い場面見ちゃったね。有名人とも付き合ってるらしいとは聞いたことあったけど、相手が橋口いずみなら、体育祭どころじゃないか」  呆れたように言う白石の言葉も、耳を素通りしていく。今見た光景こそ、まるでドラマのワンシーンみたいだと透は思った。  喜多川が制服姿だったということは、もしかして昨夜から、橋口いずみと一緒だったということなんだろうか。だとしたら、喜多川は昨日の時点で既に体育祭に参加する気さえなかったということだ。  ───想っていたのは、俺だけだった。  国民的人気女優の腕すら、いとも容易く振り解いてしまう喜多川が、どうしてΩの自分に応えてくれるかも知れないなんて、思い上がっていたのだろう。αとΩの格差を思い知らされて、虚しさで心が空っぽになっていくようだった。  疲れきった身体が重い。頭が痛くてガンガンする。  もうこれ以上、何も考えたくない。  シロップをたっぷり入れたはずのカフェラテは、いつまでも透の舌に苦く残った。  都内のとあるマンションの一室。  十帖のベッドルームには、ひっきりなしに苦しげな浅い呼吸が響いている。  その声をBGM代わりに、白石高宏は壁際のソファに腰掛けて、ベッドの上で身悶える『愛犬』の姿に目を細めた。 「随分可愛い顔するようになったね。薬がクセになってきた?」 「……っ、……!」  決して鳴き声を上げないまま、『愛犬』は緩々と力無く首を左右に振る。鳴かないのは、白石がそう躾けたからだ。  この『愛犬』を迎えたのは、今からふた月ほど前になる。同じF高内で出会い、見た目が気に入ったのでそのまま連れ帰った。焦げ茶色で毛並みも良く、顔立ちもそこそこ品があって、例えるならヨークシャーテリアといったところだろうか。  項にはαとΩのみが結ぶことが出来る番の証が刻まれているが、『飼い主』は白石ではない。白石はあくまでもΩであるこの『犬』が気に入ったから拝借してきただけで、その主には興味はない。今居る1LDKのマンションも、本来の白石の住まいではなく、『愛犬』の為に借りている部屋なので、さしずめ豪華な『犬小屋』だ。 『愛犬』には定期的に発情誘発剤を使って、強制的に発情させている。けれど本来の主を持つ『愛犬』の発情に、白石が反応することはない。仮に白石が触れたところで、可愛い『愛犬』は拒絶反応を起こして苦しむだけだ。  番の居るΩは、パートナー以外の相手と交われば身体が激しい拒否反応を起こす。そうして苦しむ様も白石にとってはまた堪らないのだが、以前それで別の『愛犬』を病院送りにしてしまったので、さすがに同じヘマはしない。  そのときに学校側から謹慎処分を受けたお陰で、生徒会長選挙の立候補を逃してしまったが、お陰で実行委員長の座に就けた結果、新しい『愛犬』候補も見つかった。  テーブルの上の携帯が、着信を知らせて震えた。 「───もしもし。今日はご苦労様。停車位置も完璧だったよ」  電話の向こうの相手を労いながら、白石はゆっくりと立ち上がってベッドサイドに歩み寄る。そのまま『愛犬』の傍に腰を下ろし、携帯を耳に宛てたまま、指通りの良い毛並みを堪能する。発情させられた状態でずっと『おあずけ』を喰らっている彼は、苦しげな顔を浮かべながらも熱を持て余して、本来拒むべき白石の手を強請っている。 「それで、学校の方はどうだった? ───そう。まあ、そんなにすんなり行くとは初めから思ってないよ。むしろあの彼をあれだけ引き留められただけでも上出来だ。報酬は父に好きな額を強請るといい。僕の名前を出せば、いくらでも出すよ。それじゃ、また何かあればよろしく」  通話を終えた携帯を、白石はベッドの上へ放り出した。  都内ではそこそこ大きな病院の院長を父に持つ白石は、幼い頃から欲しい玩具を何でも買い与えられてきた。母も看護師で両親共に多忙だった為、構ってやれない代わりにと、父は白石の望むものを必ず与えてくれた。金で手に入るものなら、何でも。  だからこそ、鳴きも動きもしない玩具にはすぐに飽きた。  鳴き喚くものを、鳴き止ませるのが面白い。  動きを制限され、焦れて苦しむ様子に高揚する。  パートナーという主にしか尻尾を振らないΩを、じわじわと追い詰めて服従させることには、堪らない興奮を覚える。  αに生まれた自分には、それが出来る。許される。  初めてΩに手を出したのは、小学校を卒業する少し前だった。相手は新任教師で、白石の子を身籠り、それを知った両親は青褪めた。  昔から自身の地位と名誉を何より重んじる父は、使えるコネと権力と金を駆使してすぐに火消しに走った。  それ以来、白石が新しい『犬』を拾うたび、父はそれを揉み消し続けて今に至る。本当は高校は父の顔が利く私学へ行くよう勧められたが、親の勧める学校にはΩなんてまず居ない。だから、『犬』の多そうなF高を敢えて選んだ。  わざわざF高に入るようなαなんてそう居ないだろうと思いきや、思いの外やっかいなαが存在したが、父を使えば裏からいくらでも情報収集も手回しも可能だ。  番の居るΩを犯して搬送沙汰になったときも、搬送先が父の病院だったこともあり、学校側から謹慎処分は受けたものの、表向きは病気療養ということで片付けられた。  今目の前に居る『愛犬』も、学生によくある反抗期で架空の友人の家へ家出していることになっている。しかしもうそろそろ手放さなければ、さすがに怪しまれるだろう。 「そろそろキミも、ご主人様の元に帰りたい? 僕も丁度、新しい『子犬』を見つけたから、もう解放してあげるよ。……ただ、僕にこうして尻尾を振るようになったキミを見て、本当の主人がどう思うかは知らないけどね」  それまで熱に濡れていた『愛犬』の瞳に、絶望と不安の色が滲む。何かを訴えようと開いた唇からは、相変わらず浅い呼吸しか聞こえない。こんなときまで白石の言いつけを守る姿が愛おしい。手放してしまうには惜しいくらい、この『愛犬』は白石に従順で愉しませてくれた。  新しい『子犬』は、どれくらい愉しませてくれるだろう。見た目はさして目を惹くほどではないけれど、か弱そうな容姿に反して、意外と芯がある。その手の『犬』は、とても躾甲斐があるのだ。 「これが最後のご飯だよ。今までで一番可愛い顔で、苦しんで見せて───」  薄く開いた『愛犬』の震える唇に、発情誘発剤を押し込む。与えられない熱を求めて涙を零す『愛犬』の苦悶の表情を、白石は恍惚とした笑みを浮かべて見入った。

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