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第5話

  ◆◆◆◆  体育祭を終え、土日を挟んで迎えた月曜日。  今日から六月に入り、制服も夏服に衣替えになった。  梅雨入りにはまだ早いものの、体育祭当日の晴天とはうって変わって、この日は朝からどんよりとした曇り空が広がっている。陽射しがないからか、半袖シャツでは今日は少し肌寒い。カーディガンを羽織ってこなかったことを後悔した。  曇天の下、透は駅から学校までの道のりを、重い足取りで歩いていた。気分も天気同様、暗雲が垂れ込めたようにずっしりと重たい。もっとも、透の気分が晴れないのは金曜からずっとだ。  体育祭の後、駅前で見かけた喜多川と橋口いずみの姿が頭から離れない。  ショックだったのは、喜多川が女性と一緒だったことでも、その相手が女優の橋口いずみだったことでもない。体育祭に来て欲しいという透の訴えをあっさり反故にされたのだということが、透の心を大きく凹ませた。  喜多川から、たかが『眼鏡』と呼ばれたくらいで舞い上がっていた自分が、今となっては酷く虚しい。結局透も、喜多川にとっては煩わしい他人でしかなかったのだと思うと、学校で顔を合わせることすら憂鬱だった。きっとこうして気にしているのは透だけだろうと思うから、尚更だ。  ただでさえ気が重い上、今日は身体も妙に怠い。家を出たときはそうでもなかったけれど、駅を出たあたりから、何だか頭がボーっとする。何となく熱っぽい気もするし、もしかすると体育祭の疲れがまだ残っているのかも知れない。  ───学校に着いたら、取り敢えず保健室で少し休ませてもらおう。  それで体調が戻らなければ、今日はもう早退しようと思った。体育祭であれだけ走り回ったのだから、今日くらい休ませてもらってもバチは当たらないだろう。何より喜多川と顔を合わせたくなかったので、実行委員としての責務も、この際放り出してしまいたいくらいだった。……白石に申し訳ないので、さすがにそれを実行する度胸はなかったけれど。  足を引き摺るようにして歩く透は、よほど酷い顔色をしているのだろうか。追い越していく生徒たちからチラチラと視線を寄越されて、一層気分が沈む。整った容姿で目を惹く喜多川と違って、透はいつも悪い意味で目立ってばかりだ。  もういっそ、このまま家に引き返してしまおうかと思った、そのときだった。  ガシッ、と突然強い力で腕を掴まれて、透は反射的に顔を上げた。その手の主を見て、思わず愕然とする。 「きた、がわ……?」  何が起こっているのかわからず、呟く声も途切れがちになった。  彼の腕と比べると細くて頼りない透の二の腕を捕らえたまま、喜多川が険しい面持ちで透を見下ろしていた。  朝のHRまでまだ十五分ほどあるこんな時間に喜多川が登校してきたことなんて、透の知る限りでは初めてのような気がする。今日は極力喜多川と顔を合わさないようにしようと思っていたのに、まさかこんな時間にこんな場所で、しかも喜多川の方から接触されるなんて、まったくの想定外だった。しかも、体育祭をすっぽかされた透が怒るならまだしも、どうして喜多川の方が怒ったような顔をしているのか。  わからないことだらけで呆気に取られていると、 「お前、マジで馬鹿じゃねぇの」  と開口一番心底呆れ果てた声を落とされて、透は思わずムッとなった。こっちは喜多川が来てくれなかったお陰で、体育祭では倒れるほど働く羽目になったのに、その言い草はあんまりだ。そんな透の心中などお構いなしに、喜多川は透の腕を掴んだままさっさと校門を潜る。  どこ行くんだよ、とか。  馬鹿って何が、とか。  今日に限ってこんなに早いのはなんで、とか。  体育祭の日にどうして橋口いずみと一緒に居たの、とか。  聞きたいことが山ほどあるはずなのに、喜多川に掴まれた腕が異様に熱くて、頭が上手く回らなかった。  てっきり教室へ向かうのだと思ったけれど、喜多川は昇降口から一気に校舎の三階まで上がると、透たちのクラスとは逆方向に歩いていく。廊下の突き当たりを曲がると、その先は一般教室ではなく、理科室や美術室などがある棟だ。まだHR前ということもあって、人気のないその廊下を喜多川は躊躇わずに進んでいく。  喜多川が長い足でズンズン進んでいくので、透はついていくのがやっとで、身体が怠い所為もあって半ば引き摺られるような恰好になっていた。  あんなに喜多川とは会いたくないと思っていたはずなのに、さっきから心臓がドクドクと騒いでいる。喜多川の歩くペースが速いからなのか、それとも初めて、喜多川の方から触れられたからなのか───  廊下を突き当たりまで進んだところで、やっと喜多川は足を止めた。目の前にあるのは、一般教室の三分の一くらいしかない狭い部屋だ。廊下に面した窓ガラスはすりガラスになっていて、ルームプレートは空白になっている。  喜多川が慣れた手付きで扉を数回揺すると、そこは呆気なく開いた。 「この部屋、なに?」 「使ってねぇ部屋ってことぐらいしか知らね」 「鍵は……?」 「ボロいから簡単に開く」 「なんで、そんなこと知って……」  問い掛けを遮るように、喜多川は透を強引に室内に引っ張り込んで後ろ手に扉を閉めた。無理矢理連れ込まれた部屋を見て、何となくその答えがわかった気がする。  資料庫か何かになっているのか、片側の壁には古い本やファイルが詰まった棚がズラリと並んでいたが、反対側の壁際には何故か体育用のマットが敷かれている。人が一人寝転がるには、丁度良いサイズだ。 「……もしかして、体育の時間とかは、いつもここで寝てるの?」 「うるせぇヤツが来ねぇから丁度イイんだよ。……チクんじゃねぇぞ」  顔を合わせたら気まずいかと思っていたが、喜多川が秘密基地を教えてくれた子供みたいに思えて、少し微笑ましい。  どうしていきなりこんな場所へ連れてこられたのか、その訳を聞きたかったけれど、具合が悪い中歩かされた所為か息苦しくて、透は頷くことしかできなかった。ボーっとしていた頭がいよいよクラクラしてきて、軽い眩暈がする。  折角喜多川が秘密の寝床を教えてくれたのに、なんて呑気なことを考えていられたのも、そこまでだった。  よろけて扉に寄り掛かる透を見て、舌打ち混じりに喜多川から寄越された言葉に、頭が真っ白になった。 「だから馬鹿だっつーんだよ。発情してるクセにフラフラ出歩きやがって、日和ってるにも程があんだろ」 「え…───?」  Ωである自分は当たり前のように知っていたのに、『発情』という言葉が、いざ突きつけられるとすぐには受け止められなかった。  大抵のΩは、初めての発情期を十代半ばから後半にかけて迎え、一度発情期を迎えるとそれ以降は三、四ヶ月おきに発情期がやってくる。今年十七になる透は、いつ発情期を迎えてもおかしくない年頃だ。それなのに、いつ訪れるかわからない発情期に対する危機感を、透はまったく持っていなかった。  Ωに生まれたからには、避けては通れないとわかっていたはずなのに、喜多川の言うように生徒の大半がβで、中には透以外にも複数のΩが居るこの学校の空気に、知らずと気が弛んでいたのかも知れない。αである喜多川や白石を目の前にして、何度も自分がΩであることを痛感していたにもかかわらず、発情期を迎えたときのことを、どうしてこれまで考えなかったのだろう。この間、白石からも発情期の話題を振られていたのに─── 「誰かれ構わず犯されてぇ願望でもあんのかよ」  喜多川の言葉に、透は今になってサアッと青褪めた。  身体が怠くて熱っぽいのは、疲れからくる体調不良だと思い込んでいた。恥ずかしながら、これまでまともな恋愛すらしてこなかった透には、発情期に起こる身体の変化なんて、具体的にはまるでわからなかったから。  さっきあの場で喜多川と出会っていなければ、透は自身が発情しているなんて気付かずに、きっとそのまま歩き続けていただろう。やけに周りの生徒の視線が気になった理由もやっと合点がいって、もしも喜多川が居てくれなかったら…、と背筋が震えた。そして同時に、一つの疑問に辿り着く。  ───どうして喜多川が居たら、安心なんだ……?  喜多川はαで、透はΩだ。Ωが発情期に発するフェロモンは、本来αを誘うためのもの。βにまったく作用しないわけではないが、他の生徒以上に喜多川は透のフェロモンに一層強く反応するはずだ。  だったら喜多川は、今の透の傍に、一番居てはいけない相手じゃないのか。  そう思った次の瞬間、透の腕は再び喜多川に掴まれて、床に敷かれた固いマットの上に呆気なく身体を転がされた。 「な……っ!」  起き上がる間もなく、喜多川の身体が透の上に覆い被さってくる。喜多川との距離が一気に縮んだ瞬間、カッと全身が燃えるみたいに熱くなった。今なら、自分の身体に何が起きているのか、鈍い透でもさすがにわかる。火照った全身の中で、下肢が一際強く熱を持っていたからだ。  こんなのはダメだ、と理性は必死に訴えているのに、身体が───本能が勝手に反応する。 「……お前が、誘ってんだよ」  身体は熱く疼いているのに、喜多川の一言で心は冷水を浴びたみたいに冷たくなった。  喜多川の言葉は間違っていない。透の発情が、αである喜多川を誘った。けれどそれでは、結局透も喜多川に夜の誘いを持ちかける女性たちと、同じになってしまう。  難なく透のネクタイを解いて、シャツのボタンを外しにかかる喜多川の手を、透は「待って」と弱々しく掴んで制した。 「どうして、俺なんかに……?」 「だから、お前が誘うからだろーが」  透に腕を掴ませたまま、喜多川はその手であっという間に透のシャツのボタンを全て外した。これから喜多川の手に肌を触られるのかと思うと、勝手にゴクリと喉が鳴った。  確かに今の透はαを誘うただのΩでしかないのかも知れない。けれどそれは、決して透の意思じゃない。望んで発情しているわけでも、こんな風に喜多川を誘いたいわけでもない。  何より、体育祭に来て欲しいという訴えは聞き入れてもらえなかったのに、透の発情には反応する喜多川の心が、透には理解出来なくて不安だった。 「別に俺の誘いに乗らなくても、喜多川は不自由なんかしてないじゃないか。体育祭の日だって、学校には来ないで橋口いずみと過ごしてたクセに……!」 「……何でお前が知ってんだよ」  つい感情的になってしまった透の声に、シャツを脱がせようとしていた喜多川の手が一瞬止まる。自分で言っておきながら、駅前で見た光景が紛れも無い事実だったことを思い知らされて、ただでさえ息苦しい胸が更に苦しくなった。いっそ何のことだと惚けてもらえたら、本能の赴くままに身を委ねられたかも知れないのに…と思いかけて、そこでやっと気が付いた。  傲慢で、他人にまるで興味もないどうしようもなくマイペースな男だけれど、喜多川は、決して嘘を吐かないのだと───  他人にも、そして自分にも正直だから、喜多川はいつでも思ったままを口にする。それで周りに何と言われたとしても。  常に人の顔色を見ながら本音を誤魔化し続けてきた自分が、途端に酷く不誠実な人間に思えてくる。  黙り込んでいた間に、気付けば透の上半身は何も纏っていなかった。  透の発情にあてられていなければ、喜多川にとっては何の興味もないであろう平らで薄い胸を、大きな掌が撫でる。スルリと軽くひと撫でされただけなのに、ビクッと身体が跳ねた。  透の反応を窺うようにジッと見下ろしながら、喜多川の手が胸の尖りへと触れてくる。 「ぁ……っ」  両方を同時に弄られると、ビリビリと全身が震えるような快感が走った。身体はとっくに興奮の兆しを見せていたが、なけなしの矜持で「ダメだ」と透は譫言のように繰り返す。こんな気持ちのまま、喜多川と触れ合いたくなんかない。  けれど、固く痼った胸の先端を口に含まれると、次第にまともな言葉が発せなくなった。代わりに漏れるのは、自分のものとは思えない甘い声ばかりだ。胸を弄られただけなのに、透の雄が下着の中で、苦しいほど張り詰めているのがわかる。  こんな自分は、喜多川の目にはどう映っているのだろう。卑しいΩだと蔑まれているのだろうか。……もっとも、端から期待なんてされていないだろうけれど。  ぼんやりと見上げる先で、喜多川が片手で器用に透のベルトを外し、抗う間もなく下半身も裸に剥かれた。勃ち上がった性器を見られる羞恥に耐え兼ねて、思わずギュッと目を閉じる。  けれど透は、衝撃にすぐにその目を見開くことになった。喜多川の指が、透自身でさえ触れたことがない後ろの窄まりへと触れてきたからだ。 「そっ、そんなとこ……!」  いやだ、と口にする前に、躊躇いなく指が押し込まれた。 「んん……っ」  てっきり違和感や苦痛を覚えるかと思いきや、初めて抉じ開けられたそこは、すんなり喜多川の長い指を受け入れた。内壁を擦られるたびにゾクゾクとした快感が背筋を駆け抜けて、透は堪らず声を上げる。指を三本まで増やされても、増すのは快楽ばかりで、痛みなんてまるで感じない。 「そこそこ、イイ顔出来んじゃん」  ずっと黙っていた喜多川がポツリと呟いて、透の顔から眼鏡を奪った。視界がぼやけて、喜多川の表情がよく見えなくなる。途端に心細くなって、透は無意識に「喜多川」と縋るようにその名を呼んだ。  微かに息を詰めた喜多川が、どこからか取り出したコンドームの封を切った。当然のようにそんなものを学校に持参しているあたり、喜多川にとってセックスは日常的な行為で、単なる性欲処理でしかないのだと、改めて思い知らされた気がした。  この先の行為を受け入れてしまったら、透は本当に喜多川に群がる女子と同じだ。ひと時の欲を満たす為だけの、消耗品。  そんなのは嫌なのに、透の身体は喜多川を待ち望んで震えている。  覆い被さられてはいるけれど、決して無理矢理抑え付けられているわけじゃない。透が本気で抗えば、きっと逃げ出すことも可能だ。喜多川だって、そこまで透に執着はしないはずだ。  なのに、透は動けなかった。  喜多川に脚を割り拡げられ、腰を抱えられても、ただ弱々しく首を振るくらいしか出来なかった。  ───支配されるって、こういうこと……?  蕩けた思考でそんなことを考えていると、熱くて固いものが後孔に押し当てられた。それが何なのか、頭ではなく、ゾクリと期待に疼く身体で透は悟った。これが欲しいと、Ωの本能が求めている。  指とは比べものにならない質量の喜多川自身が、透の中に挿り込んでくる。それでもやはり痛みはない。待ち侘びた熱を受けて、透の全身がぶるりと大きく震えた。 「んぁっ、あ…────っ!」  パタパタと、幾度かに分けて裸の腹に精が散った。達したのに、透のものは一向に芯を失っていない。身体はまだまだ喜多川を───αを欲しがっている。  こんな形で喜多川に近付きたかったわけじゃないのに。  喜多川の熱を、こんな風に知りたかったわけじゃないのに。  その場限りの誘いに喜多川は乗って、Ωの透は所詮本能に抗えない。相手が喜多川でなくともこうなってしまったんだろうかと思うと、自分が怖くて堪らなくなって、透は深い場所を突き上げる喜多川の背に縋りついて幾筋も涙を零した。  ────ずっと、生温い水の中に居る。  冷たすぎず、熱すぎない、曖昧な温度。  本当はもっと冷たい水に飛び込んでみたいし、時には熱い湯にゆっくりと浸かりたいのに、見えない底はぬかるんでいて、なかなかそこから抜け出せない。  ふと、遠くに喜多川の姿が見えた。 「喜多川……!」  精一杯叫んだつもりなのに、蚊の鳴くような声にしかならない。  彼の居る場所は歩きやすいのか、それとも彼にとってはぬかるみくらい何でもないのか。喜多川は透に気付かずどんどん歩いて遠ざかってしまう。その先には、橋口いずみが立っていた。  素っ気なく歩いていく喜多川の腕に、親しげに自身のそれを絡めて彼女はピタリと身を寄せる。  透一人が、温い水にポツンと取り残される。  ふと周りを見ると、虚ろな目をした大きな魚が無数に泳いでいた。口元に鋭い牙が覗いている。襲い掛かってくる様子はないけれど、逃げ出そうとすると途端にその牙で喰らい付かれるような気がして、足が竦んだ。 「喜多川!」  必死に声を絞り出して繰り返し呼び掛けても、透の声は喜多川には届かない。そんな透を嘲笑うように、泳ぎ回る魚たちが透の足を掠めていく。  せめて喜多川の傍まで行って、その腕を掴めたら……。  縋るような思いで足を踏み出しかけて、思い止まる。  ……その腕を掴んで、それからどうするんだ?    喜多川の隣には、橋口いずみが居る。透の声が届かないのは、声が出ないからじゃない。……喜多川にとって、もう意味のない声だから。  途端に足を支えていた底がなくなって、ぬかるんだ水底の中にゆっくりと足が沈んでいく。喜多川の姿は、もう見えなくなっていた。 「相手が橋口いずみじゃ、一ノ瀬くんどころじゃないよ」  身体が水に沈む直前。耳許で、甘く慰める白石の声が聞こえた気がした。  ハッとして目を開くと、見覚えのある天井が広がっていた。視界の隅に薄いピンク色の間仕切りカーテンが映って、ここが保健室であることがわかった。  頭の下に枕の感触があるから、どうやら自分はベッドに横たわっているらしい。けれど何故保健室に居るのかが、いくら記憶を辿っても思い出せない。  何だか、やけに長い夢を見ていた気分だった。どこからどこまでが現実なのかがわからない。  全身が怠くて、特に下半身が泥のように重かった。悪夢の所為か、背中が冷たい汗に濡れていて気持ちが悪い。  確か今朝、登校中に喜多川に会って、自分が発情していることを知らされて───そして、セックスをした。  いっそその全てが夢だったら良かったのにと思ったけれど、相変わらず熱っぽい身体と下肢に残る違和感が、紛れもない真実だと告げている。  でもだとしたら、どうして自分は保健室で寝ているのだろう。  喜多川の下で何度も達したのは覚えているけれど、途中から記憶がない。誰かと身体を重ねたことすらない透にとって、絶え間なく襲う絶頂感は本当に頭がおかしくなってしまいそうで、「もう無理」と息も絶え絶えに呟いたところまでは覚えている。恐らくそこで気を失ってしまったのだろう。  確かに透の身体を満たしていた喜多川の熱は、もうどこにもない。  なんて呆気ないんだろう…、と虚しさと後悔で涙が出そうになった。  中庭で喜多川に突き放される遠藤を見て、自分は簡単に肉体関係を迫ったりしないなんて偉そうに思っていたのに、結局は透もΩとしての本能に逆らえなかった。いつも周りに流されて生きてきたけれど、自分自身にすら流されるなんて、情けないにもほどがある。  遠藤と違って透は喜多川と同じクラスなのだから、少なくとも三年に上がるまで、この先ずっと気まずいまま同じ教室で過ごさなければならないのかと思うと、久しぶりに胃が痛くなった。  けれど気まずいと思っているのは、きっと透だけだ。いつかの中庭で遠藤に言った言葉を、喜多川は今度は透に冷たく言い放つのだろう。「誘ってきたのはそっちだろ」と───  実際その通りなだけに、今の透には返せる言葉もない。本気で抗おうと思えばいくらでも出来たはずなのに、透はそうしなかった。喜多川が欲しいという欲求を、抑えることが出来なかった。  ───帰りたい。  今すぐ帰って、そのままずっと部屋に閉じ籠ってしまいたい。  これまでも決して学校が好きだったわけではないけれど、もう来たくないと思ったのは、このときが初めてだった。  喜多川に素っ気なくあしらわれてもケラケラと笑っている女子たちより、透の方がよほど女々しい気がする。何度も喜多川から「うぜぇ」と言われたけれど、自分がここまで鬱陶しい人間だとは思わなかった。  のそりとベッドの上で身を起こすと、丁度そのタイミングでカーテンが開いて、養護教諭の女性が顔を覗かせた。 「あら、目が覚めた?」  透の顔を見て安心したように、養護教諭はふくよかな顔を綻ばせた。 「発情期がきちゃったみたいだけど、気分はどう?」 「……ちょっと、全身怠いです」  本当は動くのも辛いくらいだったけれど、いつもの癖でつい取り繕ってしまった。こんなだから、喜多川との行為も拒めなかったんだ…、と気持ちが益々滅入ってくる。 「発情抑制剤は持ってるかしら?」 「いえ……初めて、だったので……」  透が小さく首を左右に振ると、養護教諭は「そう」と少し困ったように眉を下げた。 「アレルギーや副作用の関係があるから、学校からは薬は出してあげられないの。今日は授業には出られないだろうから、お家の方に連絡してみるわね。親御さんは今お家に居らっしゃる?」 「母が、居ると思います」 「出来れば迎えに来てもらった方がいいし、担任の和田先生から、お母さんに連絡してもらいましょう」 「え……どうして、俺のクラス……」  一年のころ、保健委員だった透は何度か保健室に来たことがあるけれど、二年になってから保健室の世話になったことは一度もない。ネクタイの色で学年はわかっても、名札には苗字しか書かれていないし、透から名乗った覚えはない。きょとんとする透を見て、養護教諭の彼女は可笑しそうに笑った。 「あなた、喜多川くんと同じクラスなんでしょう?」 「そうですけど……」 「ここにあなたを抱えてきたのは喜多川くんよ」 「えっ」  ───喜多川が?  言われて、慌てて自分の制服を見た。  全部脱がされていたはずの制服はちゃんと着ていたけれど、シャツのボタンは第二ボタンまで開いているし、ベルトも透のウエストには合っていなくて緩々だ。おまけにネクタイも締めているというより、適当に結んだだけ、という方が正しいくらいだらしない事になっている。いかにも喜多川がやりました、という感じがして、透も思わず笑いそうになった。  行為の途中で透の記憶は途絶えてしまっているけれど、てっきり事が済めばそのまま放っておかれるのだと思っていた。あの瞬間、全てが終わってしまったのだと絶望していたのに……。 「『クラスの眼鏡が発情した』って、それだけ言ってあなたを預けていくんだから、色んな意味で驚いたわ。教職員の間でも喜多川くんは問題児として有名だけど、その喜多川くんが誰かを保健室に連れてくるなんて思いもしなかったもの」  ───『眼鏡』って、まだ認識してくれてたんだ。  あだ名と言うにはあまりにも適当すぎる呼び名なのに、喜多川の口から出ると物凄く特別なものに思えて、冷えきっていた胸がじわりと温かくなる。  面倒事なんて大嫌いなくせに、その喜多川が一体どんな顔で透に制服を着せ、ここまで運んでくれたのか。気を失ってしまったことが、今になって悔しくなった。 「ちょっと和田先生のところに行ってくるわね」と言い置いて、養護教諭は保健室を出て行った。    それから小一時間ほど経って、迎えに来てくれた母の車でそのまま病院に寄り、そこで発情抑制剤を処方してもらった。学校は発情が治まるまで一週間ほど休むことになったし、薬があっても初めての発情期は、透にとっては決して楽なものではなかった。  身体の芯で燻り続ける熱を吐き出す為に、ひたすら自分で慰め続けるのはどうしようもなく惨めだったし、何よりその最中、一度覚えた喜多川の熱を何度も思い出してしまうことが辛かった。  喜多川との行為の後、目が覚めてあの部屋に一人で置き去りにされていたら、きっと透はそのまま家に引き籠ってしまっただろう。もしかしたら、学校そのものも辞めてしまっていたかも知れない。  でも、そうではなかったから。  柄にもなく、喜多川が透を保健室に運んでくれたのだと知ったから。  だからまだほんの少し、期待してもいいんだろうかという気がしていた。  普通に考えれば、いくら一度きりとはいえ、セックスした相手が気を失ったのにそれを放置して帰る方が、人としてどうかしている。喜多川のしたことは、宇野あたりに話したら「そんなん当たり前やろ」と呆れた声が返ってきそうだ。そんな当たり前のことで気持ちが浮ついてしまう自分は、喜多川の言う通り、本当に馬鹿だと思う。  期待したところで、また体育祭のときみたいに、あっさり裏切られるかも知れない。現に透はこれまで何度も、喜多川に気持ちを持ち上げられては突き落とされて、散々振り回されてきた。  けれど、それでも構わない。だって、『当たり前』が通用しないのが、喜多川亜貴という人間なのだ。  不本意とはいえ、発情して誘ってしまったのは透だし、喜多川もハッキリそう言っていた。だから身体を重ねたのだって、ほんの気まぐれだったのかも知れない。  喜多川は何も話さないから、彼の気持ちは全然わからない。だからこそ喜多川の気持ちを聞いてみたいと思ったし、何より透の気持ちを伝えたかった。  喜多川に『眼鏡』と呼ばれることが、嬉しいのだということ。  初めての発情期で困惑していた透を保健室に運んでくれて、有り難かったということ。  本当はあんな形で、喜多川を誘いたかったわけではないのだということ───  それを伝える為にもう一度、喜多川の腕を掴んで引き留めるくらいなら、許される気がした。
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