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第6話
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果てしなく長く感じた発情期を抜け、ようやくいつも通りに登校出来る日がやってきた。
「おお、一ノ瀬。お疲れさん」
久しぶりに教室へ顔を見せた透に、宇野が開口一番そんな挨拶を寄越した。
このF高には、透以外にΩは何人も居る。透のクラスにも他に三人のΩが居るし、中には既に発情期を迎えている者も居た。
だからこそ、そんな彼らが突然一週間ほど休む理由を、皆言わずとも理解している。宇野もその一人で、多くは語らず透の身を気遣ってくれているのだとわかった。……もっとも、当事者の透は自分が発情するまで完全に他人事のように考えてしまっていたのだけれど。
おはよう、と透も敢えていつも通りの挨拶だけを返して席に着く。隣を見ると、喜多川はまだ登校していないようだった。まだ予鈴も鳴っていないので、喜多川の日常を考えると何も不思議なことはない。むしろ、透が初めて発情したあの日に限って、どうして喜多川が始業前に登校してきていたのか。そっちの方が不思議だった。
喜多川が登校してきたのは、二時限目が終わった直後だった。
休憩時間に、いつも通り気怠げな足取りで教室に現れた喜多川の後ろには、金魚のフンみたいに複数の女子がくっついてきていた。またしても透の知らない顔ぶれだ。
本体より大きいのでは、と思うほどモコモコしたウサギのぬいぐるみケースをつけたスマートフォンで、強引に喜多川とツーショットを撮ろうとする女子を遠慮なく肘で押し退け、喜多川は彼女たちに顔も向けずに手の動きだけで追い払った。
学校に来たら、ちゃんと喜多川と話がしたいと思っていたけれど、いざその顔を見ると、やはりどうしても喜多川との行為を思い出してしまって、自然と脈が速くなる。
声をかけるなら、喜多川がまだ起きている今しかないとわかっているのに、かける言葉が思い浮かばない。宇野みたいに「おはよう」なんて挨拶を交わす仲ではないし、そもそも喜多川がそんなものに応えてくれるわけがない。かといって、この場であの日の行為について切り出すわけにもいかず、机の横にカバンを引っ掛ける喜多川の姿をチラチラと横目で窺っていると、不意に喜多川が透の方へ顔を向けた。
バチリと目が合って、心臓が大きく跳ねる。
「あ、あの……」
何か言わなければ、と口を開きかけた透目掛けて、喜多川の長い腕が伸びてきた。何をされるのかと、ビクッと肩を竦ませた透のシャツの襟首が、その手に掴まれる。
「ツラ貸せ」
事態が飲み込めず、父が持っている古い漫画に出てくる不良がそんなセリフを言ってたっけ、なんて思わずどうでもいいことを考えてしまう。
首根っこを掴まれたままズルズルと喜多川に引っ張られて行く透を、宇野だけは珍しいものでも見るように見送っていたが、それ以外の生徒たちからは「ご愁傷様」とでもいうような憐みの目を向けられた。端から見れば、透はまんまと捕食された草食動物みたいに見えているのだろう。
てっきりまたあの空き教室へ連れて行かれるのかと思ったが、教室を出た喜多川はそのまま階段を上がり、屋上へ出た。
「き、喜多川……! 首、苦しい……!」
透が訴えると、喜多川はやっと掴んでいた襟首を解放してくれた。乱れたシャツを整える透をよそに、喜多川はそのまま屋上を取り囲むフェンスの方へと歩いていく。透も慌ててそれに続いた。
二日前に、関東地方は例年より早い梅雨入りが発表されたが、今日は初めて発情したあの日よりも天気がいい。空には白い雲の隙間から、夏の訪れを感じさせる高くて青い空が覗いている。日に日に蒸し暑さは増しているけれど、屋上は程よく風が吹いていて陽射しの下でも心地良かった。
グラウンドとは逆の、街側に面したフェンスの前に立った喜多川は、黙って眼下に広がる景色を眺めている。隣に立ってその横顔を見ながら、改めて整った顔だなと透は思う。
白石も小綺麗な顔をしているけれど、喜多川には『精悍』という言葉がよく似合う。こうして黙って立っているとよく出来た彫像みたいで、女子たちが放っておかないのも納得出来る。
喜多川はいつもネクタイなんて締めていないし、シャツのボタンも第二ボタンまで開けている。他の生徒だと単にだらしなく見えるのだろうけれど、喜多川の場合はそれが妙に垢抜けて見えた。
端正な横顔に見惚れている間に、授業開始を告げるチャイムが鳴った。鐘が鳴り止んでも、喜多川は動かない。透もその場から動く気にはなれなかった。
自分から授業をサボったのは初めてなので、もっと後ろめたさを感じるかと思ったのに、思いの外胸の中は清々しかった。隣に喜多川が居るからだろうか。
「あの女」
それまで黙っていた喜多川が、唐突に口を開いた。
「女……?」
喜多川の場合、「あの女」と言われても、周囲に女性の影がありすぎて誰のことなのかわからない。
「お前が見たっつってただろ」
首を傾げる透の横で、喜多川はフェンスの向こうへ視線を向けたまま答える。その視線が、ここから見える駅前のロータリーに注がれていることに気付いて、透の脳裏に、体育祭の日に見た光景が蘇った。
「……橋口いずみのこと?」
聞きたいような、聞きたくないような。二人の姿を見たときの衝撃を思い出して、透は苦い気持ちで問い返す。喜多川が、ほんの少しだけ目を細めた。
「あいつ、俺の母親」
「母親…────って、ええ!?」
思いもよらない告白は、喜多川から発情していることを知らされたとき以上に、透を驚かせた。母親ってつまりお母さんってこと…?、と小さな子供でもわかるようなことしか咄嗟に考えが巡らない。
喜多川が橋口いずみの息子だったことだけでも充分驚きだが、透が愕然とした理由は他にもあった。
橋口いずみは、五歳年上の俳優と結婚している。相手の方も橋口いずみと同じように、若くして映画で主演デビューを果たし、硬派で真面目な人柄で一躍有名になった人気俳優だ。そんな二人は芸能界のおしどり夫婦として、しばしば夫婦揃ってバラエティー番組にも出演したりしている。
けれどそんな二人の間には、子供は娘が一人しか居ないはずなのだ。その大事な一人娘がモデルデビューするということで、数年前に一時期世間を騒がせていたから、透もよく覚えている。
「橋口いずみに息子が居るなんて、聞いたことないけど……」
動揺する透の横で、喜多川は涼しい顔のまま「そりゃそうだろ」と鼻で嗤った。
「旦那じゃねぇ男との間に出来たガキなんざ、公にするかよ」
「え……」
絶句する透が見詰める喜多川の横顔は、相変わらず動かない彫像みたいに変わらない。
「世間でどう言われてんのか知らねーけど、あの女も旦那の方も、お互い外で何人もガキ作ってんぞ。俺が知ってるだけでも、片親違いの兄弟が三人居る」
喜多川が余りにも淡々と告げるので、透はあらゆることが信じられなくなった。喜多川のことじゃない。自分が見聞きしてきたありとあらゆる情報の、何を信じていいのかがわからなくなったのだ。
美男美女で仲睦まじく、一人娘を大事に育てている幸せそうなおしどり夫婦。夫は硬派で真面目、妻は清楚で淑やか。そんな二人が、見えないところで不実な行為を繰り返していたなんて。
「……喜多川は、ずっとお父さんと暮らしてるの?」
「女優と不倫するような男が、まともに子育てなんざするわけねぇだろ。とっくに別の女作って、今はどこで何してんのかも知らねぇよ」
「えっ、じゃあ喜多川は……?」
「別に。適当に一人でやってる。あの女が口止め料たんまり送ってくるしな」
口止め料、という言葉の冷たさに、聞いている透の方が胸が苦しくなった。
白石は見抜いていたけれど、透があの場で女性を橋口いずみだと気付けなかったのは、あれが彼女の『裏』の姿だったからだろうか。
───いや、違う。そうじゃない。
目の前の喜多川を見て、透は確信した。
喜多川にとっては、あの橋口いずみこそが『表』の姿なのだ。二人の間には、親子の温もりなんてまるでない。喜多川の「あの女」という呼び方が、二人の冷えきった親子関係を表している気がした。
喜多川が他人に執着しないのも、何かを要求したりしないのも、彼が冷淡な人間だからじゃない。喜多川自身が、ずっとそんな扱いしか受けてこなかったからだ。他人にも自分にも嘘を吐かないのだって、嘘に塗り固められた母親の姿を、ずっと見続けてきたからなのかも知れない。そう思うと、喜多川の無表情な横顔が、何だかとても寂しく見えた。
担任の和田は、喜多川の家庭が複雑だと言っていた。なのにその意味を深く考えず、喜多川と橋口いずみが男女の仲なのではと疑ってしまった、浅はかで狭量な自分が恥ずかしくて情けない。
「……どうして、俺に話してくれたの」
喜多川がこんな風に自分のことを話しているところは見たことがないし、その相手が透だというのも意外だった。そこで初めて、喜多川がジロリと透の方を見た。
「聞きたそうにずっとチラチラ見てたのはお前だろーが」
「いや、確かに見てたけど……」
でもまさか、こんなに踏み込んだことまで話してくれるなんて思わなかった。喜多川が橋口いずみの息子だということを知っている人間が、この学校にどれくらい居るのだろう。噂にもなっていないところをみると、教職員ですら一部しか知らないのかも知れない。
そんな話を喜多川自ら透に語ってくれたのだと思うと、また思い上がってしまいそうになる。
思わずジッと喜多川の顔を見上げてしまっていた透に、「やっぱうぜぇ」と呟いて、喜多川は少し決まりが悪そうに再び視線をフェンスの向こうへ戻した。
「……あのとき、朝っぱらからあの女が、弁護士っつー知らねぇオッサンと一緒に押し掛けて来やがった」
喜多川の言う「あのとき」というのが、体育祭の日のことを言っているのは、さすがにすぐ察しがついた。
「弁護士って……何かあったの?」
「俺をS高に転入させるとか何とかで、無理矢理連れてかれたんだよ」
「転入!?」
S高といえば、都内でトップクラスの私立の進学校だ。入学する為には学力は勿論、多額の寄付金が必要だと聞いたことがある。生徒の半数近くがαだという噂もあるくらいの名門校なので、Ωの透とは地球の裏側くらい縁遠い。
ある日突然、弁護士を名乗る男性から、寄付金が用意出来ればS高で喜多川を受け入れてもらうよう口利きが出来ると橋口いずみに連絡が入った。それを受けた彼女とその弁護士が、体育祭当日に喜多川の家へやって来て、強引に車でS高まで連行されたのだと喜多川は言った。S高では校長や教頭に加え、理事長までが勢ぞろいしていて話が長引いたらしく、やっと解放されたのが透が見かけたあのタイミングだったらしい。
「……喜多川、S高に転入するってこと?」
透の問いを、喜多川は「するかよ」と呆気なく一蹴した。
「あの女は、自分の息が掛けやすい学校に俺を入れたいだけだ。それがうぜぇから敢えて都立選んだってのに、今更口出しされて堪るか」
「でも、弁護士とか理事長まで居たくらいなら、S高はもう受け入れるつもりなんじゃ……」
「くだらねぇ話ばっかダラダラ聞かされて鬱陶しいから、俺が入る代わりにその金で増毛でもしろよっつったら、向こうが全員キレた」
「ぶっ……!」
その状況が安易に想像出来て、透はつい噴き出してしまってから慌てて「ごめん」と口許を押さえた。どこまでも自分を貫く喜多川にホッとする。それに何より、喜多川がこの学校に留まってくれることに安堵していた。
喜多川にとっては母親の望む学校以外ならどこでもよくて、F高を選んだのもきっとたまたまだったのだろう。それでも喜多川がF高に入学してくれていなければ、透は彼に出会えてもいなかったのだ。
体育祭の日、一人で喜多川の分まで走り回って疲れ果てたことも、今ではもうどうでもよくなっていた。喜多川が端から体育祭を放り出そうとしていたわけではないことが、ちゃんとわかったから。
「……体育祭、ホントは来てくれる予定だったんだ」
嬉しさからポツリと零れた呟きには、露骨に不機嫌そうな顔を向けられた。
「お前が来いっつったんだろーが、あぁ?」
「い、言った……! 言いました……!」
凄まれて思わずホールドアップのポーズを取ったけれど、喜多川の横柄な物言いも、以前のように恐いとは思わなかった。
少し前までは、喜多川と二人、授業をさぼってこんな風に話をすることになるなんて、想像もしていなかった。喜多川だって同じだろう。今だって、相変わらず面倒くさいと思っているかも知れない。でもそれっきり撥ねつけられるのではなく、こうして向き合ってくれるようになった大きな変化を、喜多川は自覚しているんだろうか。
発情して喜多川と身体を重ねてしまったときは、それで全てが終わってしまうと思ったけれど、喜多川は透を切り捨てなかった。
あのとき、喜多川は行為の最中、一体何を思っていたのだろう。ふとそんなことを考えて、そういえば自分はこの端正な顔をした男と交わったのだと、今になって気恥ずかしさが込み上げてきた。
まさか自分の初めての相手が喜多川だなんて、考えもしなかった。Ωのくせに発情期への危機感も薄かったくらいだし、何となく自分はそういう行為とはこの先もまったく無縁なような気がしていたのに。
「あの、喜多川……」
おどおどと呼び掛けた透に、喜多川が「何だよ」と目線だけで答える。
「その……この前は、ありがとう」
「は? 何のことだよ」
「だからその……は、発情期の、とき……」
さすがに口に出すのは恥ずかしくて、後半は消え入りそうな声になった。
「礼言われる意味がわかんねぇ。俺はお前の誘いに乗っただけだろ」
あの日と同じ言葉が、また返ってくる。あのときはそれが鋭く胸に刺さって苦しかったのに、今は少しニュアンスが違って聞こえた。ちょっとだけ、罰が悪そうな喜多川の声。
自覚がなかった透に発情していることを教えてくれて、行為の後も制服を着せ、保健室まで運んでくれたことに対する「ありがとう」だったのだけれど、その真意は喜多川にも通じている気がした。
「……なんで、俺なんかの誘いに乗ったの?」
率直な疑問をぶつけると、喜多川が意外そうに軽く目を見開いた。喜多川のそんな顔を見たのは初めてだ。いつも堂々としているから、何にも動じることなんてないと思っていた。
透もつられて目を瞬かせると、喜多川はふいっと顔を背けた。
「別に、何となく」
「何となくって……」
断じて甘い言葉を期待していたわけじゃないけれど、喜多川らしい適当な返答にガックリと項垂れる。
そんな透に、ふと喜多川が向き直った。射抜くような視線でジッと顔を見詰められて、ドクッと心臓が大きな音を立てる。
「な、なに……?」
「……ダセェ顔」
高鳴っていた胸に、喜多川の容赦ない一言がグサリと突き刺さった。本当にいつも喜多川には、持ち上げられた瞬間突き落とされてばっかりだ。
「どうせ俺は喜多川みたいに整った顔してないよ」
「……けど、あんときは割とマシに見えた」
喜多川がフェンスの向こうを見詰めて独白のように呟いた。凹みかけていた胸が、また一つトクンと音を立てる。
そういえば行為の最中、顔のことを何か言われた気がする。思考が蕩けていて、ハッキリとは思い出せないけれど。
「あと、キツネ野郎に喰わせんのがムカついた」
「キツネ野郎……?」
「あの胸糞悪ぃαに決まってんだろ」
そこでやっと喜多川が白石のことを言っているのだとわかった。
初めて喜多川が白石と顔を合わせた日、気まずい別れ際に「胸糞悪ぃ」と吐き捨てられたのは、てっきり透のことを言っているのだと思っていた。どうして喜多川がそこまで白石を毛嫌いしているのかはわからなかったけれど、まるで嫉妬しているような物言いに、単純な透の気持ちがまたふわりと持ち上げられる。
あの日の朝、居合わせたのが喜多川ではなくて白石だったら、自分はどうなっていただろう。喜多川との行為には最後まで本気で抗えなかったけれど、白石に触れられることを想像すると、何故かゾクリと背筋が寒くなった。喜多川とは違う意味で、白石には抗えないような気がしたから───
「喜多川。Ωの俺が言っても説得力ないかも知れないけど……俺、適当な気持ちで喜多川のこと、誘いたかったわけじゃないよ」
透の言葉に溜息を零した喜多川が、くるりと身体を反転させてフェンスに背を預けた。
「相変わらず馬鹿眼鏡だな。お前がそんなこと出来るタマじゃねぇことくらい、わかってるっつの」
「……あと、その『眼鏡』って呼ばれ方も、嫌じゃない」
またしても数回目をしばたたかせた喜多川が、ほんの少し、口端を引き上げた。
───笑った……。
ほんの微かにではあるけれど、初めて見た喜多川の笑顔に、思わず見入ってしまう。よく出来た、でも冷たい彫像みたいな喜多川の顔が、初めて熱を帯びたように思えた。
「やっぱうぜぇし、馬鹿だな」
そう言い残して、喜多川はゆっくりと扉へ向かって歩き出した。
「どこ行くの?」
背中へ向けて問い掛けた透に、振り向かないまま喜多川が「帰る」と短く答える。
「帰るって、教室?」
「家だよ。眠ぃし」
ぶっきらぼうに言い捨てて、喜多川はそのまま屋上を去って行った。
……「帰る」って、さっき登校してきたばかりじゃなかったっけ?
これじゃあまるで、透と話す為に登校してきたみたいじゃないか…と呆れかけたところで、ハッとなる。
体育祭明けの月曜日。透が発情したあの日も、喜多川は彼にとっては異常とも言えるくらい早い時間に登校してきていた。今日だって、透が声をかけあぐねていたら、喜多川の方から透を連れ出して、橋口いずみとの関係を明かしてくれた。
───もしかして、ホントに俺と話す為だった……?
いや、喜多川に限ってそんなまさか。単なる気まぐれに決まってる。必死にそう自分に言い聞かせても、浮足立つ鼓動が抑えきれなかった。
どうして喜多川のことになると、こんなに一喜一憂してしまうのだろう。きっと喜多川には、また「馬鹿だ」と呆れられる。
でも誰に対しても素っ気なく、多くを語らない喜多川が、ここまで自身のことを明かしてくれたのだから、ちょっとくらい自惚れてしまうのは許してほしい。
それに喜多川だって心の底では本当は、何かを吐き出したがっているような気がした。透は決して大した器ではないけれど、少しでもそれを受け止められるなら、可能な限り受け皿になりたい。
誰かに対してこんな気持ちになったことがないので、喜多川に対するこの気持ちの正体はよくわからない。けれど透の中で喜多川亜貴という人間が、特別な存在になり始めていることは明らかだった。
喜多川はきっと教室に荷物だけ取りに戻って、そのままさっさと帰ってしまったに違いない。自分はこの後どうしようか…と思っていると、不意にギィ、と屋上の扉が開いた。教師の誰かが来たのかと思ってどきりとしたが、扉の向こうから現れたのは白石だった。
「白石先輩……?」
───なんで白石先輩がここに……?
ついさっき、白石に対して恐怖心を覚えてしまった後ろめたさもあって、透の身体が思わず強張る。
まさか、途中で喜多川と鉢合わせていたりしないだろうかと不安になったが、フェンスの前で立ち尽くす透に気付いた白石は、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべた。
「こんなところに居たんだ」
ゆっくりと歩み寄ってくる白石と咄嗟に距離を置こうとしたが、背中がすぐにフェンスにぶつかった。これまでも、白石が何を考えているのかわからないと思ったことは何度かあった。けれど白石は喜多川と違って基本的に物腰も穏やかだし、喜多川にみたいに透を強引に引っ張り回したりもしない。なのに何故か、白石の笑顔を見ていると胸が不安でざわついた。
「どうか、したんですか?」
フェンスに背を押し当てたまま、平静を装って問い掛けた声が、不自然に喉で引っ掛かった。目の前までやってきた白石が、そんな透を見て緩く首を傾げる。
「もしかして、まだ本調子じゃない?」
「え……?」
「一昨日、一ノ瀬くんのクラスに行ったら、ここ一週間くらい学校を休んでるって聞いたから心配してたんだ」
白石が少し眉を下げて、憂慮の面持ちを浮かべる。その顔は、純粋に透の身を案じてくれているようだった。
そしてこのときになってようやく、透は実行委員という立場を思い出した。体育祭が終わり、続けざまに発情期に見舞われてすっかり頭から抜け落ちてしまっていたけれど、十月の文化祭が残っているのだから、実行委員としての責務はまだ終わってはいないのだ。
「体育祭の無理がたたっちゃったのかな?」
「そ、そうかも知れません」
さすがに「発情期だったんです」とは言えず、透は乾いた笑いで誤魔化した。
「もしかして、休んでる間に委員会あったんですか?」
「いや、さすがに体育祭も終わったばかりだし、委員の皆にも少しは休んでもらわないといけないから」
「え、でもそれならどうして俺のクラスに……?」
「今後の予定について、ちょっと相談したくて」
「相談?」
白石は、制服の胸ポケットから手帳を取り出すと、透の隣にやってきた。六月のカレンダーのページを、透に見えるように開いて見せる。その拍子に少し肩が触れ合って、そちら側の肩が緊張で強張った。それに気付いていないのか、それとも気にしていないのか、白石が今日の日付を指差した。
「もうそろそろ六月も半ばでしょ。今月末は期末試験だから、その一週間前には部活動も委員会も禁止になる。試験の後は試験休みになるし、今学期中に委員会を開くとしたら、今週か来週のどちらかしかないんだ」
けれど、十月に控える文化祭は、招待制とはいえ外部から一般客も多数来校するので、体育祭以上に細かい打ち合わせや事前準備が必要なのだと、白石はカレンダーを順に捲っていきながら説明する。
「だから、どうしても夏休み中に何度かは集まってもらう必要があるんだけど、さすがに夏休みは各々予定もあるだろうし、今学期最後の委員会までにある程度招集日を決めたくて。それで相談がてら、二年代表の一ノ瀬くんの意見を聞いておきたいなと思って」
「……俺の意見なんて、参考になりますか?」
夏休みというと、毎年家族で一泊二日程度の旅行に出掛ける程度で、それ以外は特にこれといった予定もない。元々友達と遊び歩いたりするタイプではないし、悲しいかなそんな相手も居ないので、透の予定を参考にしたら、基本的にいつでもオッケーになってしまう。それでは他の委員たちから大ブーイングが起こりそうだ。
「あくまでも参考だから、そんなに深く考えないで。良かったらこの間みたいに、また帰りにお茶でもどう?」
そのときにゆっくり相談しよう、と白石が手帳をポケットに仕舞って微笑む。
帰りにお茶、と言われて、透は一瞬返事を躊躇った。白石と一緒に居て、喜多川と橋口いずみのツーショットを目撃してしまったことを思い出したからだ。
結局二人は男女の関係でないこともわかったし、喜多川も今日は家に帰ると言っていたから、別にもう何も気に病むことはない。それはわかっているのに、白石と二人になることには、どうにも気乗りがしなかった。一種のトラウマになってしまっているんだろうか。それとも、喜多川が白石をよく思っていないから……?
けれど透の身を心配してくれていた白石の誘いを、そんな曖昧な理由で断るのも気が引けて、透は「少しだけなら……」と控えめに了承した。
───結局、今日も断りきれなかった。
喜多川に知られたら、きっと呆れた顔で「馬鹿」と連呼されるに違いない。どうして喜多川みたいに、「嫌だ」ときっぱり断れないのだろう。
自身の意思の弱さに小さく溜息を零す透に、白石は「じゃあ帰りに校門のところで待ってるよ」と告げて、校舎内へと戻っていった。
その直後、三時限目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。結局丸々一時間、授業をサボってしまった。宇野あたりが教師に上手く誤魔化してくれていますように、と願いながら透も校舎へ引き返しかけて、ふと足が止まった。
たった今チャイムが鳴ったのだから、白石がやってきたときは、まだ授業中だったはずだ。
意図的に屋上へ来ていた透と喜多川はともかく、何故白石は授業中にもかかわらず、屋上へ現れたのだろう。
どうして彼は、透が授業をさぼっていることを知っていた? ……そもそも白石は、一体いつからあの場に居たんだろう?
ゾク…、とまた一度、得体の知れない悪寒が背筋を駆け抜けた。
白石の潜った扉を見詰めたまま、透はしばらくその場から動けなかった。取り付けてしまった放課後の約束が、無性に不安で堪らなくなった。
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