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第7話
「え……あの、どういうことですか?」
目の前の建物を見上げた透は、戸惑いを隠せない声で隣の白石へ問い掛けた。
放課後。
校門の手前で白石と落ち合った透は、揃って学校を出た。今日もまた以前のように、駅前あたりで手近な店にでも寄るのだろうと思っていたのだが、白石はそのまま駅へと向かい、透の家とは逆方向へ向かう電車に乗った。前より静かな場所が良いから、と白石は笑っていたけれど、電車が駅を通過するたび、不安な気持ちはどんどん膨らんでいった。
そして五つの駅を通過してようやく降り立った駅から数分歩いたところで、白石はやっと足を止めた。そこはカフェでもレストランでもなく、どう見ても住居用のマンションだった。
「どこかでお茶するって話じゃ……」
「『店で』とは言ってないよね。それに、この前は偶然とはいえ衝撃的な場面に出くわしちゃったけど、うちならそんな心配もないし」
平然と涼しい顔で言って、白石はエントランスのオートロックを解除した。
まだ比較的新しい、七階建てのモダンなマンション。「うち」ということは、ここは白石の自宅なんだろうか。αの白石には似合っていると思ったけれど、今気にするべきはそんなことじゃない。
小さいころから、友達の家に遊びに行かせてもらった記憶すらないのに、先輩からいきなりマンションの一室へ誘われるなんて、さすがに困惑する。それに喜多川の件なら、あれは透たちの誤解だったことが本人の口から明らかになったし、知らない店に連れて来られるよりよほど不安だ。
二の足を踏む透に、白石は「僕は一人暮らしだから、気を遣わなくていいよ」と透をエントランスへ促してくる。白石の家族が居てもそれはそれで緊張するけれど、一人暮らしならいいか、という問題でもない。そもそも自分はいつから白石の自宅に招かれるような仲になっていたのだろう。
気付けば白石のペースにすっかり押し流されてしまっているとは思ったが、いつまでも白石に自動ドアを押さえてもらっているのも気が引けて、透は躊躇いながらもエントランスへ足を踏み入れた。
白石に誘導されて乗り込んだエレベーターは、最上階の七階フロアで停まった。エレベーターを下りて廊下を左に曲がり、白石はその最奥にある部屋の鍵を開けた。
「どうぞ」
玄関ドアを引き開けた白石に、先に部屋へ入るよう促される。今更引き返すことも出来ず、透は素直に従って「お邪魔します」とドアを潜った。
入ってすぐにダイニングキッチンがあり、その奥には学生の一人暮らしには充分すぎる広さのリビングが広がっている。けれど、その室内を見た瞬間、思わず足が竦んだ。
一人暮らし、と白石は言ったが、この部屋にはまるで生活臭が感じられなかったからだ。ダイニングにはダイニングテーブルもあるし、リビングには二人掛けのソファと、その前に毛足の長いラグが敷かれ、ガラスのローテーブルが置かれている。
けれどそのどれもが、まるでインテリアショップのディスプレイみたいで、使用された感じがまるでない。キッチンにも調理道具や調味料などは何も置かれていないし、冷蔵庫はあるけれど、食器棚すら置かれていない。むしろ店頭のディスプレイの方がそれっぽく食器が並べられていたり、誰かが触れたり座ったりした形跡が見られる分、まだ温かみがあるように思える。それくらい、冷たくて殺風景な部屋という印象を受けた。こんな部屋で、白石は本当に生活してるんだろうか。
リビングの左側の壁にあるドアが開きっぱなしになっていて、その先は寝室なのか、ダブルベッドが見える。生活感がまったく感じられない部屋の中で、そのベッドだけが妙に生々しく思えて、透は敢えてそこから意識ごと視線を逸らした。
「飲み物用意するから、適当に座ってて」
閉め切られていた室内は少し蒸し暑くて、白石はエアコンを点けてから、何もないキッチンに立つ。
真っ新にも見えるソファに座るのは躊躇われて、透はラグの上にちょこんと遠慮がちに正座した。
「一ノ瀬くんは、コーヒーか紅茶、どっちがいい?」
「あ、どっちでも……ただ、コーヒーはブラックが苦手で……」
「なら今日は紅茶にしようか。アイスでいい?」
「はい」
「ミルクはどうする?」
「じゃあ、お願いします」
透の返答を聞いて、白石は冷蔵庫から水出し用のボトルを取り出した。一瞬だけ見えた冷蔵庫の中身は、ほとんど何も入っていなかった。逆に、透の答えがあらかじめわかっていたみたいに、紅茶だけがそこに入っていたのが却って不気味だ。
シンクの上の棚から取り出した二つのグラスに氷を入れ、そこに紅茶を注いで白石はそれらをテーブルへ運んできた。透の分は注文通りミルクティーで、白石はストレートだ。
「好きなだけどうぞ」と、白石がグラスと一緒にガムシロップを五つ置いてくれた。この前は疲れていたからガムシロップを多めに入れただけなのだが、ブラックコーヒーが苦手だと言ったので、子供舌だと思われているのかも知れない。透はその内の一つだけを、グラスの中に注ぎ入れた。
「この夏休み、一ノ瀬くんは何か予定ある?」
透の向かいに腰を下ろした白石が、紅茶を一口含んでからテーブルの上に手帳を広げた。七月と八月のページには、都内での花火大会や夏祭りなど、様々なイベントの予定が細かく書き込まれている。屋上で見たときは真っ白だったのに、放課後までに全部調べて書き込んだんだろうか。
読めない人ではあるけれど、ふとこういうところを見せられるから、やはり有能な人なんだなと感心してしまう。いきなり自宅に連れ込まれて狼狽えてしまった自分が、自意識過剰なんじゃないかと感じてしまうくらいには。
「俺は、盆休みに母の田舎に帰省するついでに家族で旅行するくらいしか、今のところ予定はないです」
母が四国出身なので、今年の盆休みは母の実家である祖母の家に一泊して、その後母が以前から行きたがっていた美術館へ行く為、徳島で宿を取ってそこでもう一泊してから帰ってくる予定になっている。
長い夏休みの間、予定と言えるものがそれしかないことが、イベントで埋まった手帳を見ていると少し恥ずかしくなった。
「俺、夏休みって毎年こんな感じなので、全然参考にはならないと思います。他のみんなは、もっと色々予定があるだろうし……」
それに白石のリサーチ力をもってすれば、わざわざ透の意見なんて参考にしなくても、皆が納得する予定くらいあっさり立てられそうだ。他の学年代表の人には聞かなくていいんだろうかと思ったけれど、よく考えると透は一年と三年の代表が誰なのか、白石から聞かされていない。少なくとも今回の件は絶対に透より参考になるだろうし、他の学年代表に聞けば良いのに……。
「一ノ瀬くんは、お祭りとか花火大会なんかも、人が多いし苦手なのかな」
「どっちかというと、苦手です」
それにそもそも、一緒に行くような相手も居ない。
家の窓から遠くに見える花火を眺めて、自分も屋台を巡りながら花火を見てみたいと思ったことも昔はあったけれど、ここ数年はもう窓からさえ花火を見ていない。我ながら、随分と寂しい夏休みだ。
そういえば、学校では昼間ずっと寝ている喜多川は、夏休みはどう過ごすのだろう。家でも、やっぱり寝てばかりなんだろうか。
───夏休みに入ったら、しばらく喜多川には会えなくなるんだ。
夏休みの予定が空っぽなことよりも、そっちの方が寂しくて残念だと思ってしまった。だってきっと、喜多川は夏休み中の委員会になんて、わざわざ顔を出してはくれないだろうから……。
「一ノ瀬くん?」
手帳のページを見詰めたままつい黙り込んでいた透は、間近で聞こえた白石の声でハッと我に返った。気付けば透を覗き込むように、テーブル越しに身を乗り出した白石の顔がすぐ傍にある。
「すっ、すいません……!」
慌てて少し身を引いた透に、白石がどこか残念そうに肩を竦めて苦笑した。
「最近、よくぼんやりしてるね。……喜多川くんが、初めて委員会に来てくれた日あたりからかな」
透の胸の内を見透かしたような鋭い指摘に、ギクリとなる。仰るとおり喜多川のことばかり考えています、なんて言えるはずもなく、透は「すいません」と小さくなることしか出来なかった。
「でも確かに、今の一ノ瀬くんはあんまり人混みには行かない方がいいかもね」
「え……?」
「発情期、来たんでしょ?」
柔和な笑顔を浮かべたまま問い掛けられて、透は思わず凍り付いた。
「……なんで、知ってるんですか……」
問い返す声が、動揺で掠れてしまった。
「前に言ったよね? 発情期を迎えたΩは匂いが変わるって。βの中には気付かない人も居るだろうけど、αなら確実にわかるよ」
喜多川との行為のことは知られていないはずなのに、透は白石の顔が見られなかった。白石の言葉の意図がわからない。意識しまいと思っていた、開きっぱなしの寝室の扉が気になって、心臓がドクン、ドクン、と大きく脈打つ。
どういう反応を返せばいいのかわからず俯いていると、向かいで白石が小さく噴き出した。
へっ?、と呆気に取られて顔を上げた透の前で、白石は肩を揺らして笑っている。
「ホント、一ノ瀬くんは真面目だよね」
「も……もしかして、俺、揶揄われたんですか?」
「ごめん、あんまり可愛い反応返してくれるから、つい」
フシューッと風船が萎むみたいに、身体中から一気に力が抜けていく。白石のこういうところは、いつまで経っても慣れない。彼の場合、どこまでが本気でどこからが冗談なのか、まるでわからないから困る。
「だけど一ノ瀬くん。発情期が来たんなら、もうちょっと警戒心は持った方がいいと思うよ。一応僕だってαだし、一括りにαって言っても色んな人間が居るから、人混みで妙なαに引っ掛かりでもしたら洒落にならないしね」
そう言いながら、白石が氷が溶け始めたミルクティーのグラスを透の目の前へ滑らせた。
「知ってる? 紅茶って、Ωが発するフェロモンを僅かだけど抑制する効果があるって言われてるんだよ」
「そうなんですか……?」
何かの香りが発情を和らげる効果がある、というのは本か何かで見たことがある気がするけれど、当時まだ小学生だった透はあまり気にも留めなかった。まともに記憶に残っていないあたり、Ωとしての知識も危機感も、自分には本当に欠けすぎているらしい。
そんな効果があるから、白石は紅茶を勧めてくれたんだろうか。だとしたら、自宅に招かれたことを訝しんでしまったことが酷く申し訳ない。喜多川が白石を良く思っていないようだから、無意識に白石に対して疑心暗鬼になりすぎていたのかも知れない。
透は、「いただきます」とようやくグラスに口を付けた。
部屋に入ってからずっと緊張していた所為もあって、渇いていた喉に、アイスミルクティーのほど良い甘さが心地良い。
けれど、そう思ったのはグラスの中身を三分の二ほど飲んだあたりまでだった。
テーブルの上に置かれた手帳の文字が、不意にぐにゃりと歪んで見えて、透は首を捻った。
「………?」
持っていたグラスをテーブルに置き、眼鏡を押し上げるようにして軽く目を擦ってみたけれど、視界に映るものがぐにゃぐにゃと波打っている。同時に頭もクラクラし始めて、透は思わずテーブルに片肘を突いて額を押さえた。
ずっと座っていただけなのに、まるで長距離走を終えた後みたいに心拍数が跳ね上がっていくのがわかる。
───なに、これ……?
「一ノ瀬くん、どうかした?」
問い掛けてくる白石の声も、まるで水の中にでも居るみたいに篭っていて上手く聞き取れない。
身体が次第に熱を帯び始めているのがわかって、透はビクリと身を強張らせた。この状態には、覚えがある。
───発情期のときと、同じだ。
「なに……なんで……?」
Ωの発情期の間隔は、短くても三ヶ月ほどはあるはずだ。まだ発情期を抜けたばかりの透が、またしても発情期を迎えるなんて、普通なら有り得ない。
なんで、どうして、とパニックになる透を見詰めて、白石が場違いに穏やかな笑みを浮かべた。
「初めてだから、ちょっと薬が効きすぎちゃったかな」
「薬……?」
今度は白石の言葉をどうにか聞き取ることは出来たけれど、何を言われたのかは、さっぱり理解出来なかった。
「初めて発情期を迎えたくらいだから、発情誘発剤なんて、飲んだことないよね。本来は番ったりΩの妊娠を促す為に使うものなんだけど───って、今はそんな細かいことはどうでもいいか。要は、Ωを強制的に発情させる為の薬だよ」
……薬? 発情誘発剤?
そんなもの、透は聞いたこともないし、飲んだ記憶もない。一体いつどこでそんなもの…、と思ったとき、揺らぐ視界に残り少なくなったミルクティーが映った。
まさか、という気持ちが芽生える中、それでも信じたくないという思いに辛うじてしがみつく透を、白石の言葉が容赦なく突き落とした。
「僕はちゃんと忠告したよ。もうちょっと警戒心を持った方がいいって」
「だって……紅茶はフェロモンを抑制してくれるんじゃ……」
「ほら、そんなことまで信じちゃってる。それが本当なら、世の中のΩは皆紅茶ばっかり飲んでるよ」
絶望という沼に沈んでいく最中、透はこのときになってようやく、喜多川が白石を敵視していた理由を悟った。喜多川はずっと、透に警告してくれていたのだ。
白石は、危険なαだと。
だから透に、嗅ぎ分けが出来るようになれと端から忠告してくれていた。
思い返せば、これまでだって何度か予兆もあった。唐突な発言で透を動揺させたり、明らかに不向きな透を学年代表に任命したり。気付けば透は何を言われても白石の言葉を拒めないところまで、じわじわと追い詰められていた。その自覚だってあったのに───
ぐったりとテーブルに寄り掛かる透の前で、白石がユラリと立ち上がる。背後には、まるで最初から透がそこに入れられることを見越していたように、寝室が口を開けて待ち構えている。
変わらず笑みを浮かべたままの白石が恐ろしくて仕方がないのに、弛緩した腕を掴まれた瞬間、Ωの身体が電気を流されたように大きく震えた。
「……っ、い、やだ……」
裸足の踵が、何度もシーツを蹴る。透が横たえられるまでは皺一つなかったそこは、今では無残なほど幾筋も皺が寄り、透の内側から溢れる体液で幾つも染みが出来ていた。
体内で燻り続ける熱を持て余して、透はシーツの上でみっともなく裸の身体を捩る。最早自分が白石の前で裸体を晒していることに、羞恥を感じる余裕もなかった。ただ辛うじて残った理性で、ひたすら「嫌だ」と呪詛のように繰り返し続ける。そうでなければ、白石を───αを求めてしまいそうだったから。
それだけは、透は死んでもするものかと思った。
無理矢理薬で発情させられた透を寝室のベッドへ連れて来た白石は、ただ透の制服を脱がせただけで、肌へと触れてくることはなかった。身体を満たしてくれる熱を求めて身悶える透の姿を、ベッドの縁に腰掛けて、微笑みながらジッと見詰めている。その笑顔には、明らかな愉悦が滲んでいた。
「思った通り、一ノ瀬くんは凄く良い顔で苦しんでくれるね」
ゾッとするほど優しい声で、白石が言う。苦しむ顔がいいなんて、嬉しくもないし理解も出来ない。けれど発情した身体を、αを前にして放置されるというのは、恐らく透のこれまでの人生で最も耐え難い苦しみだった。
一度喜多川と交わった身体は、満たされる快楽をハッキリ覚えている。全身を焼き尽くしてしまいそうな熱が、αによって静められることも知っている。だから、目の前の白石を求めれば楽になれると、本能がしきりに訴えてくるのだ。手を伸ばせ、αを求めろ、と───
けれどそれは透の意思ではないから。
透が求めたいのは白石ではないから。
だから崩れかかった理性で、辛うじて欲求を捻じ伏せる。
満たされない身体は透の熱を昂ぶらせる一方で、いっそ恥をかなぐり捨てて自ら熱を吐き出そうとすると、そこで初めて白石の手が透の手首をやんわりと捕らえて制した。
「ん……っ」
ただ腕を掴まれただけなのに、それだけで声が漏れて、透は次第に自身の意思から離れかけている身体に恐怖を覚えた。
「誰が勝手に触っていいって言ったの? まだ『おあずけ』だよ」
片手で透の両手首を容易く一纏めに縫い留めて、白石が妖艶に微笑む。スッとその顔が透の目の前に寄せられて、物欲しさから勝手に喉がヒクッと引き攣った。
「ねえ、一ノ瀬くん。このまま達することも出来ずに放っておかれるか、それとも好きでもない相手に無理矢理抱かれるか……キミはどっちが苦しい?」
「……放っておかれる方が、マシです」
本当はこのまま放置されていると頭も身体もおかしくなってしまいそうだったけれど、精一杯の虚勢で透は白石の顔を見据えた。
「……いいね。気の強い『犬』ほど、躾甲斐がある」
目を細めて唇を歪めた白石が、一度寝室を出た後、携帯を手にして戻ってきた。それを、透の枕元へ放って寄越す。何を…、と問う前に、乱暴に前髪を掴まれて首を起こされた。
「いっ……!」
痛みに呻く透の顔から弾みで眼鏡が零れ落ちたが、白石は気にせず透の顔の前に携帯を突きつけた。
「今日は友達の家にでも泊まるって、自宅に電話して」
「……泊めてもらうような友達なんか居ません」
このまま今夜、家に帰してもらえないのだろうかと思うと、恐怖心から声が震えた。
「友達でも先輩でも、誰でもいいよ。今日以降は、僕がどうにかする」
「今日以降……? それ、どういう意味ですか……?」
「時間はたっぷりあるってことだよ」
透の髪を鷲掴んだまま、白石が鼻先が触れ合いそうな距離で笑う。
それはつまり、このまま何日間もこの部屋に閉じ込められるということなんだろうか。
そんなこと、出来るはずがない。仮に一泊くらいは誤魔化せたとしても、家族以外と外泊なんてしたことがない透が何日も家に帰らなければきっと両親は不審がるだろうし、学校だって異変に気付くはずだ。
白石だってそれくらい想定出来るはずなのに、彼は余裕に満ちた笑みで「そうだ」とわざとらしく手を打った。
「いっそ今日は、喜多川くんに引き留められたことにしようか。彼なら学校の皆も疑問に思わないでしょ」
「……っ! 喜多川は、そんなことしません!」
喜多川の名前を出されて、透は咄嗟に声を張っていた。元はと言えば透の浅はかさが招いてしまったことなのに、喜多川を巻き込みたくなんかない。それに何より、決して喜多川は自分から無理矢理誰かを引き留めたりしないのに、誤解を理由に彼が利用されることが許せなかった。
透を見下ろしていた白石の顔から、ふっと笑みが消える。これまで彼の穏やかな表情しか見たことがなかった透は、まるで人形みたいな冷たいその顔に、冷えた汗が背を伝うのを感じた。
「気の強い『犬』は嫌いじゃないけど、反抗的な『犬』は嫌いだよ」
グッ、と髪を掴む指に力を加えられて、苦痛に顔が歪む。
「言うことが聞けないなら、喜多川くんが橋口いずみの息子だってこと、皆に教えてあげようか」
耳許で甘く囁かれた言葉に、透は愕然と目を瞠った。
「なんで、先輩がそのこと───」
「知ってるよ。彼のこれまでの女性遍歴も含めて、多分一ノ瀬くん以上にね。彼のS高転入を斡旋したのも僕だから。残念ながら、そっちは失敗しちゃったけど」
「………!」
悪びれた様子もなく白石が平然と言い放った言葉に、透は息を呑むことしか出来なかった。
喜多川は知らない弁護士が橋口いずみに話を持ち掛けてきたのがきっかけだと言っていたけれど、その弁護士というのが、白石の差し金だったということなのか。だとしたら、喜多川が体育祭に来なかったことも全て、最初から白石が仕組んだことだった…───?
あのときの派手な女性を、白石がすぐに橋口いずみだと見抜いた理由も、それなら全て納得がいく。白石が、初めから全部知っていたというのなら。
───だったら、あのとき二人を見て驚いていた白石は? 自分を労ってくれた白石の言葉は?
それらも何もかも、全てが嘘だったということなのだろうか。
……同じだ。
橋口いずみも、白石も。どちらも嘘で塗り固められた、偶像。
きっと喜多川は、初めて会ったときから白石に母親と同じ匂いを感じ取っていたのだろう。今なら、彼が露骨に白石を嫌悪する理由が痛いほどよくわかる。ひょっとしたら白石が透を学年代表に任命したのも、体よく利用する為で、実際はそんなもの、他の学年には存在しないのかも知れない。
「でもまさか、喜多川くんが一ノ瀬くんに橋口いずみとの関係まで話してたとは、さすがに意外だったなあ。正直面白くないけど、お陰でよくわかったよ」
少し手荒に透の髪を解放した白石が、透の身体を再びベッドに転がした。透が体勢を立て直すより先に、床に落とされていた透のネクタイで、手首が後ろ手に拘束される。これで本当に、透は完全な『おあずけ』状態になった。
「一ノ瀬くんが一番苦しいのは、喜多川くんに手出しされることだよね」
違う、なんて嘘でも口には出来なかった。
ただでさえ、喜多川は母親の橋口いずみからも、不倫相手の父親からも愛情を受けられないまま育ってきて、求めることも与えられることもどこか諦めてしまっている。自身の生い立ちを話してくれたことで、少なからず喜多川は透に何かを求めてくれているような気がした。例え本人にその自覚は無かったとしても。
それなのに、喜多川の警告に気付けないまま、透はまんまと白石の手の中に落ちてしまった。そんな情けない自分が、喜多川に何を与えられるというのだろう。その上透の所為で更に喜多川に迷惑をかけるなんて、冗談じゃない。
このまま透は白石の手で壊されてしまうのかも知れないけれど、それでも自ら屈することだけは、絶対にしたくなかった。
折角今度こそ喜多川と歩み寄れた気がしていたのに、結局また遠ざかってしまった。どこまで自分は馬鹿なんだと、ただ悔しくて涙も出ない。
白石が、再び携帯を手に取った。
「途中で僕が電話を代わるから、今夜は僕の家に泊まるって家の人に伝えて。喜多川くんに、迷惑かけたくないんでしょ? ……番号は?」
一度キュッと唇を噛み締めてから、透は自宅の電話番号を伝えた。
その通りにダイヤルした白石の携帯が、身動き出来ない透の耳に押し当てられる。程なくして母が電話口に出た。
浅い呼吸や震える声を堪えるのに必死で、自分が何と言ったのかほとんど覚えていない。ただ、母は初めて外泊すると告げた透に驚いてはいたものの、途中で電話を代わった白石の物腰柔らかな応対に安堵したのか、思いの外すんなりと了承してくれた。自分も含めて、やはり人は欺かれるものなのだと、失望した瞬間でもあった。喜多川はもっと幼い頃に、こんな絶望感を味わったのだろうか。
「上手に出来たね」
通話を終えた透の髪を、飼い主が犬をあやすような手つきで、白石が優しく撫でる。その刺激にピクッと飢えた身体が跳ねて、まるで自分が本当の犬にでもなったような気がした。これで理性がなくなったら、きっと自分は正真正銘、白石の『犬』になってしまうのだろう。
底のない沼に引き摺り込まれるような恐怖に震える透へ向けて、白石が優艶な笑みを浮かべた。
「いい子には『ご褒美』だよ」
薄く開いた唇に、小さな錠剤が押し込まれる。発情誘発剤、という単語が咄嗟に浮かんで吐き出そうとしたけれど、その前に鼻と口を塞がれて、もがく内にとうとう透は錠剤を飲み込んでしまった。
ケホッ、と咳き込む透の身体が、時間と共に更に熱を帯びていく。
「い……ぁ、……っ」
いやだ、と訴える声も、次第に呂律が回らなくなってくる。
痛いほど反り返って止めどなく蜜を零す透自身に、自ら触れることも許されず、全身がドロドロに溶けてしまうのではと思うほどの熱が身体中で暴れ回る。
途中、堪りかねて身を捩った際に自身の先端がシーツに擦れ、その刺激だけで透は呆気なく達してしまった。そうすると、白石に根本を細いチューブのようなもので縛られて、透は気を失うまで、夜通し全身を焼く果てしない欲求に翻弄され続けた。
『だから馬鹿だっつーんだよ』
呆れた、けれどどこか透を案じるような喜多川の声が頭の奧でいつまでも響いていて、涙が止まらなかった。
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