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第8話

  ◆◆◆◆  目が覚めると、室内はシンと静まり返っていた。  一晩中苦しむ透を満足げに眺めていた白石の姿も、いつの間にか消えている。  今度こそ悪い夢だと思いたかったけれど、手首に絡まったままのネクタイや、残滓の残る自身の裸体は何度瞬きしても変わってくれなかった。  閉め切られたカーテンの隙間から光が差し込んでいる。  夜通し、歪んだ欲望で透を苦しめた白石は、何事もなかったように学校へ向かったのだろうか。それとも、この先透を『飼う』為の下準備でも始めているのだろうか。どちらにしても、恐ろしいことに変わりはない。  幸い発情は治まっていたけれど、飲まされた薬の所為なのか、頭痛と吐き気が酷い。  怠い身体を軽く捩ると、手首を戒めていたネクタイが解けかかっているのがわかった。ずっと苦痛に身じろいでいたから、その間に緩んでいたのかも知れない。長時間縛られていたので肩から腕にかけて鈍い痛みがあったが、透はどうにか腕を動かして拘束を解いた。縛られていた両手首は、擦れて赤い痕がくっきり残ってしまっていた。  昨夜外れたままの眼鏡は、そのままの状態で枕元に残されていた。  痛む腕で眼鏡を拾ってかけ、這うようにしてベッドを下りる。ふらつく足取りで窓際へ歩み寄り、そっとカーテンを捲ってみると、外はすっかり夜が明けていたものの、梅雨特有のどんよりとした空からしとしとと小雨が降っていた。  ───これから、どうしたらいいんだろう。  白石が居ないのなら、この隙に部屋を出て誰かに助けを求めようかと思ったが、昨夜まではベッド脇に散らばっていたはずの透の制服が一式なくなっていた。リビングに透のカバンは置かれたままになっていたけれど、さすがに裸で外には出られない。寝室のクローゼットを勝手に開けさせてもらったが、そこに衣服の類は一切入っておらず、その代わり首輪や鎖に加え、初心な透にはその使い方さえわからないような拘束具が入っていて、恐怖を煽られただけだった。  寝室にもリビングにも、テレビや時計は置かれておらず、一体今何時なのかもわからない。勿論電話だってない。 「……そうだ、電話……!」  透は思い出したようにカバンの中身を引っくり返した。教科書や筆記用具に混ざって、最奥からゴトリと透の携帯が出てきた。  ───良かった、気付かれてなかった。  自身の携帯が白石に奪われていなかったことに、ホッと息を吐く。  普段、透はほとんど携帯を使うことがない。LINEで話をするような相手も居ないし、ゲームもそう得意ではないので流行りのゲームアプリにも手を出していない。当然SNSなんて利用していないから、写真を撮る機会もほとんどないし、登録されている連絡先も家族と宇野くらいのものだ。  だから携帯の必要性をあまり感じていない透は、家に置き忘れることもしょっちゅうある。それで不自由を感じたこともなかったので、携帯への執着が薄いから余計だ。  白石に言われて学年代表を引き受けたとき、携帯番号を聞かれたのだけれど、そのときも透は携帯を自宅に忘れていて、自分の番号さえ覚えていなかった。そしてそのまま伝えそびれて今に至るのだが、どうやらそれが幸いしたらしい。  白石に携帯番号を教えていたら、きっと制服と一緒に携帯も持ち去られていたに違いない。透の携帯が鳴ることなんて滅多にないから、まさかカバンの底で教科書に押し潰されているなんて、白石も思わなかったのだろう。  携帯で時間を確認すると、もう十時半になろうとしていた。そろそろ二時限目が終わる時間だ。家には昨日連絡させられたけれど、学校の方はどうなっているのだろう。……もしかしたら、白石はその根回しに向かったのだろうか。  取り敢えず誰かに助けを求めようと思ったが、いざ電話帳を開いたところで指が躊躇いに震えた。  家族に連絡して事情を話せば、きっと助けには来てくれるだろう。けれどその後白石がどんな行動に出るのかと思うと、透は自宅への通話ボタンを押すことが出来なかった。喜多川をS高に転入させる為に、弁護士を動かせるくらいなのだから、透だけでなく家族にも手出しされるかも知れない。  だったら学校か警察に…とも考えた。でもそうすると、今度は事が大きくなりすぎる。透が置かれている状況を考えれば充分大事なのかも知れないけれど、そうなると担任の和田や宇野を含めた多くの人を巻き込んでしまいかねない。  それに何より、どうにかこの部屋を抜け出すことに成功しても、その後白石の手が喜多川に及ぶかも知れないことが、透を追い詰めていた。  これ以上、喜多川を失望させたくない。  自分だけは、喜多川を見放す人間になんて、決してなりたくなかった。  それならこのままおとなしく白石に飼い慣らされるしかないのだろうかと絶望感に襲われたとき。突然、滅多に鳴らない携帯がけたたましい着信音を響かせて、透はビクッと身を震わせた。  まさか白石が…?、と番号を教えていないとわかっていても手が震えたが、画面に表示されていたのは宇野の名前だった。思いがけず垂らされた頼もしい命綱に、文字通り縋りつく思いで透はすかさず応答ボタンを押した。 「もしもし、宇野……!?」 『あ、なんや、電話出れるんか』  スピーカー越し、宇野の少し安堵したような声が返ってくる。 『一ノ瀬、お前なんかえらい騒ぎなっとんで』 「……どういうこと?」 『今朝、担任が「一ノ瀬が暫く入院することになった」って言うから心配しとってんけど、ついさっき、お前のとこの母ちゃんが学校に弁当届けに来てん。そんで教師連中も生徒も、どういうことやねんってみんな混乱しとる』 「入院!? ……それ、先生は誰から聞いたのか、言ってた?」  聞くまでもない気がしたけれど、念の為確認してみる。 『三年の白石っちゅーヤツから連絡あったらしいで。白石って、こないだ教室に来たαやろ?』  確かめるように言った後、宇野が少し声のトーンを落とした。 『あんな、それ聞いて思い出してんけど、俺去年、あの白石って先輩と中学で一緒やったヤツと同じクラスやってん。そいつが通ってた中学、そこそこエエ私学みたいでな。白石先輩て、親が白石総合病院の院長やから金も権力も凄くて有名やったらしいわ。俺、滅多に病院の世話ならへんからすぐ思い出されへんかった』 「白石総合病院って、M区にあるあの大きい病院?」 『せやで。俺の元クラスメイトは親が離婚して私学通うの難しなったから、高校はうち選んだらしいねんけど、てっきりそのまま高校も私学に進んだと思っとった白石先輩がF高におったからビックリしたって言うとったわ。……ていうか一ノ瀬、お前今、白石総合病院に入院してるんちゃうんか? だから白石先輩から連絡あったって担任が言うとったけど?』  宇野も混乱しているのか、心配そうな声で問い掛けてきた。  その一方で、透は「そういうことか」と納得する。  白石総合病院は、M区内ではかなり規模の大きい総合病院だ。白石の親がそんな大病院の院長なのであれば、彼が多方面に顔が利くというのも理解出来る。目立たないΩの透一人をマンションの一室に囲い込むことなんて、きっと容易いことだろう。  ただ、透は高校生になってもわざわざ学校まで弁当を届けに来てくれた母を、今日ほどありがたいと思ったことはなかった。白石は透の母が毎日欠かさず弁当を持たせてくれていることなんて知らない。だから母の行動は、きっと白石にとっても予想外だったはずだ。  学校側には白石の親の病院に入院していることで押し通し、後は透の親さえ上手く説き伏せればそれであっさり事は進むはずだった。けれど、母が学校へやって来てしまったことで、白石の目論見は大きく外れてしまっただろう。息子が入院しているのに、その母親が平然と学校へ弁当を届けに来れば、当然学校側は混乱する。きっと教師たちも母も、何かしらの異変には気付いてくれただろう。  ただ気掛かりがあるとすれば、それを知った白石が、この後どう動くかということだ。 「……喜多川は? 喜多川、今日学校来てる……?」  もっとも気になっていた名前を恐る恐る口にする。宇野が『喜多川?』と怪訝そうな声を上げた。 『確か一限目の途中に来てずっと寝とったけど、一ノ瀬の母ちゃんが来て騒がしなってから、帰ったみたいやで。荷物なくなってるわ』  透のことが騒ぎになっていても、喜多川があっさり帰ってしまったらしいことは少なからずショックだった。けれどそれ以上に、今は安堵の方が大きい。何はともあれ、喜多川には極力白石から離れていてほしかった。 「喜多川の話って、何か出てたりしない?」 『……いや? 今はお前の話で持ち切りやで?』 「そっか」  一先ず今は喜多川と橋口いずみの関係もまだバラされていないらしいことを知って、透は胸を撫で下ろした。そんな透に、宇野の声が呆れを含んだものになった。 『喜多川喜多川って、それより今はお前のことやろ。一体どうなってんねん。お前、大丈夫なん?』 「ごめん、今ちょっと詳しく話せないけど、取り敢えず俺は大丈夫。ただ、俺と話したこと、白石先輩には絶対言わないで」 『それはええけど……お前、もし白石先輩と何かあるんやったら、一応気ぃつけや』 「え?」  宇野にしては歯切れの悪い物言いに、透は携帯を耳に押し当てたまま緩く首を傾げる。『んー……』と少し逡巡したあと、宇野は躊躇いがちに続けた。 『他人の噂話とか、俺あんま好きちゃうねんけどな。ただ、その元クラスメイトが言うとってん。白石先輩はΩに対する執着が半端やないって、一部で言われとったって───』  昨夜、薬で苦しむ透を見詰めていた、狂気じみた白石の笑顔が脳裏を過ぎる。胃の奧から何かが込み上げてきそうなのをどうにか堪えた。 『親が揉み消すから表沙汰にはならへんけど、小六のときに、赴任したてのΩの教師孕ませたとか、発情期のΩに手ぇ出しまくってたとか、そういう話は裏で流れとったらしい。まあ喜多川も色々好き勝手言われてるし、αへの妬みも混ざってるやろうから、どこまでほんまかわからんけどな』  透を安心させる為だろう、宇野は冗談めかして笑った。けれど、さすがに笑い返せるだけの余裕は、透にはなかった。  喜多川に関する噂と、白石に関する噂は、全く別物だと今ならわかる。白石の話は、αへのくだらないやっかみだとは、到底聞き流せなかった。 『一ノ瀬はただでさえ危なっかしいねんから、何かあったらすぐ言いや』  気遣ってくれた宇野に「ありがとう」とどうにか絞り出した後、通話を終えた透は携帯を放り出し、堪え切れずにキッチンの流しへ駆け寄って腹の奧からせり上がってくる全てを吐き出した。 「っ、ぇ……っ!」  胃の中が空っぽなので胃液しか出てこないのに、吐き気が治まらなくて苦しい。 『赴任したてのΩの教師を孕ませたとか』  宇野の言葉がぐるぐると頭の中で繰り返し再生される。  いつか自分も、白石の酔狂さに押し流されるまま、無理矢理子を孕まされる日がくるんだろうか。  想像した途端、また熱いものが胃から込み上げて、シンクの水を流しっぱなしにしながら透は何度も吐いた。  何でもそつなくこなしてしまうαの白石は、混乱する透の親や学校側も、きっと上手く丸め込んでしまうだろう。今なら、彼がその為には手段も選ばないであろうことも想像出来る。  透が白石に従順で居れば、きっとこれ以上誰かを巻き込むことはない。担任の和田も、宇野も、両親も、それから喜多川も───  自分一人が身を投げ出して、それで全てが丸く収まるのならそれに越したことはない。今までだって、ずっとそうやって生きてきた。  なのに、このまま白石に浸食されてしまうのが、恐ろしくて堪らない。  この部屋に足を踏み入れたのは透自身なのだから、自業自得だということは充分わかっている。喜多川みたいに、嫌なものは嫌だと透がきっぱりと断っていれば、こんなことにはなっていなかった。  だからそんな資格はないと頭では理解しているのに、喜多川に助けを乞いたい気持ちが胸の奧で燻っている。白石にも勘づかれているのだから、一番求めてはいけない相手だとわかっているのに───  ガンッ!!  いつか教室で聞いたような激しい物音が鳴り響いたのは、またも唐突だった。  少しの間を置いて、もう一度同じ音が玄関の方から聞こえた。拳じゃなく、明らかに足で乱暴にドアを蹴り飛ばす音。  ───そんな、どうして、まさか……。  驚き、疑問、期待…様々な感情が湧いてくる。 「おい、眼鏡。居んのか」  ドアの向こうから聞こえた声の主は、確かめるまでもない。咄嗟に「居る……!」と叫んだ透は、そのまま玄関に駆け寄りかけて、自分が何も身に纏っていないことに気が付いた。慌てて寝室から引き剥がしてきたシーツを身体に巻き付け、もどかしい思いで玄関の鍵を開ける。  ドアの向こうには、制服姿の喜多川が立っていた。  てっきり透のことなんて気にも留めずに、早退したのだと思っていた。それにどうして喜多川がこの場所を知っているのだろう。もしかして既に白石から何か言われたりしたのだろうか。  言いたいことも聞きたいことも色々あったのに、喜多川の顔を見た瞬間、ボロボロと涙が溢れ出した。心底呆れられて、軽蔑されていても構わない。ただ自分は心から喜多川に会いたかったのだと、止めどなく頬を伝い落ちていく涙が訴えていた。 「……白石先輩に、何もされてない?」  嗚咽交じりにどうにか問い掛けた透を見下ろして、喜多川が盛大な溜息を零した。 「それはお前の方だろーが」  呆れ果てた様子で答えた喜多川が、まるで自分の家みたいに躊躇いなく室内に上がり込んでくる。背後でドアが閉まった直後、喜多川の手がネクタイの痕が残る透の腕を掴んだ。 「……何された」  両手首に残る痕と、シーツを巻いただけの身体を見比べられて、透は慌てて首を振る。ここへ来てしまったのは透の落ち度だけれど、白石との関係を誤解されたくはなかった。 「何もされてないし、してない……! 発情誘発剤? なんかそういう薬、飲まされただけ」 「世間じゃそれは『何もされてない』とは言わねぇんだよ。前から馬鹿だとは思ってたけど、どんだけ馬鹿なんだ、お前」 「……ごめん。自分が馬鹿なのは、よくわかってる。喜多川にも何度も言われてたのに、ホントにごめん……」  でもどうして此処に?、と聞こうとしたところで、再びぐっと吐き気が込み上げてきた。掴まれていた腕を振り解き、シンクに走って身体を折る。ずっと胃の中が気持ち悪いのに、もう胃液すらほとんど出ない。 「う、ぇ……っ」  食道が焼けつくような感覚にゲホッと噎せる。今度は苦しさで、涙が滲んだ。  愚かさに呆れられた上、こんな醜態まで晒してしまって、悔し涙も混ざる。 「……ごめん。ごめんなさい……」  嘔吐く合間、何度も謝罪を繰り返す透の傍へ、喜多川がゆっくりと歩み寄ってきた。 「……お前みてぇに馬鹿でうぜぇヤツ、見たことねぇ」  言われて、シンクにポタポタと新たな涙が滴った。  呆れた言葉を紡ぐ声と、透の背中に添えられた手が、とても優しかったから─── 「まさかここまで嗅ぎつけてくるとは思わなかったなあ」  ようやく透の吐き気が落ち着いたとき。  不意に玄関先から聞こえた声に、透はバッと振り返った。いつからそこに居たのか、白石が玄関ドアに凭れるようにして微笑みながら立っている。  焦燥でドクドクと騒ぐ胸を押さえる透の隣で、喜多川は大して気にした風もなく、緩慢な動きで白石の方へ顔を向けた。 「番ってもないのに、どうやって探し当てたの?」  土足のまま、白石が透たちの傍へ近づいてくる。その目は喜多川に向けられていた。  問われた喜多川は、顔色を変えずに小さく鼻を鳴らした。 「てめぇと似たよーなやり方だよ。弁護士使ってあの女に転入の話持ちかけたのも、てめぇだろ」 「えっ!?」  淡々と答える喜多川に、透の方が驚いた声を上げてしまった。  喜多川は、最初から白石の関与に気付いていたということだろうか。しかも、「似たよーなやり方」って……?  白石が「気付いてたのか」と、こちらも軽い調子で肩を竦める。話についていけない透だけが、二人の間でオロオロするばかりだ。 「あ、あの……一体どういう……」 「僕が喜多川くんについて色々知っていたように、喜多川くんも僕についてある程度知っていたってことだよ。彼にどういうツテがあるのかは知らないけどね」  ところで一ノ瀬くん、とそこでやっと白石の視線が透を捉えた。逆らうことを許さない、支配者の笑みが向けられる。 「僕の留守中に他の『犬』を連れ込むなんて、随分と大胆だね。そんなに『お仕置き』してほしい?」  白石の、闇を湛えた黒い瞳がチラリと隣の喜多川を見た。 「ちが……っ! 喜多川は、関係ないです……!」 「? 何の話だよ」 「何でもないから、喜多川は気にしないで」  眉を顰める喜多川と白石の間に割り込む格好で、透は制した。今ならまだ、透が喜多川に助けを求めたと訴えれば押し通せる。喜多川にこれ以上手を出させて堪るものかと睨むように見据える透に、白石が「ホントに健気だね」と感心したように笑みを深めた。 「一ノ瀬くんがこんなにも必死で操を立てても、肝心の相手はまったくの無関心なんだから」 「だからさっきから何の話だっつってんだよ」 「キミの話だよ。親からも愛してもらえず、誰のことも愛せない可哀想な喜多川亜貴くん」  挑発的に笑う白石の言葉に、何故か透の胸が深く抉られた。言われた喜多川は、ほんの少し眉根を寄せただけだ。  喜多川がどんな想いで白石の言葉を受け止めているのだろうと思うと、透の方が胸が苦しくなった。 「『喜多川亜貴は、人気女優・橋口いずみの隠し子だった! 手の早さは親譲り! 多額の口止め料は、彼の夜遊び軍資金!?』……校内新聞の見出しなら、精々こんなものかな」 「やめてください!!」  仰々しく言ってみせる白石に耐え兼ねて、透は思わず声を荒らげていた。親にだってこんな風に声を上げたことはない。けれどこれ以上喜多川が侮辱されるのは、どうしても許せなかった。 「喜多川は、そんな人じゃない。確かに口も態度も悪いけど……でも、少なくとも白石先輩みたいに、人の苦しみを喜ぶような人じゃないです……!」  白石の顔から笑みが引いて、透を見詰める瞳が冷徹な色を帯びる。身構える間もなく、赤く擦れた手首を強く掴まれて、透は痛みに身を竦ませた。 「いつからそんな可愛げのない口を利くようになったの? 昨夜はあんなに可愛い顔で泣いてたのに」 「───っ」  敢えて誤解を招くような言葉を選ぶ白石に、羞恥と怒りでカッと頬が熱くなる。そこへ「ごちゃごちゃうるせぇな」といつも通り無遠慮な喜多川の声が割り込んできた。 「あの女が俺の母親だって、言いてぇなら勝手にしろよ。隠したがってんのは向こうだけで、俺はどうだっていい。別にこっちから金せびってるわけでもねぇし。───けどな」  一旦言葉を区切った喜多川が、不意に白石の手を掴んで強引に透の腕から引き剥がした。白石は決して貧弱ではないが、喜多川に比べれば線も細いし体格でも劣るので、恐らく力では敵わないだろう。 「俺が一番嫌いなのは、てめぇみたいに汚ぇ本性隠して澄ました顔してるヤツだ。あの女みてぇにな。……ああ、それから単純にムカつくヤツも好きじゃねぇわ。どっちも当てはまるてめぇは最高にムカつくから、こいつに触んな」  そう言って雑に白石の手を解いた喜多川に、透だけでなく白石も唖然と目を瞬かせる。やがて、白石が堪りかねた様子で噴き出した。 「前々から一筋縄じゃいかないタイプだとは思ってたけど、とんだ『狂犬』だね。折角、躾甲斐のある『子犬』を拾ったと思ったのにな」 「狂ってんのはてめぇだろ」 「そうかな? キミの愛情表現も、充分歪んでると思うよ」  ポカンとする透を差し置いて喜多川と言葉を交わした後、白石は踵を返して玄関へと引き返していく。  ……もしかして、自分は解放してもらえたのだろうか。 「あ、あの……白石先輩……?」  躊躇いがちに声を掛けた透を、玄関ドアに手を掛けた白石が肩越しに振り返った。 「さすがに『狂犬』付きの子は面倒みきれないからね。噛み付く『犬』は好きじゃない。喜多川くんとはぐれたら、その時はまたいつでも躾けてあげるけど」  最後の一言に思わず身震いした透へ不敵な笑みを寄越して、白石は静かに部屋を後にした。  閉まったドアを黙って見詰めていた透は、暫くしてから自分がまだシーツに包まっただけの姿だったことを思い出して「あっ!」と声を上げた。 「……制服、返してもらうの忘れた……」 「お前、やっぱどうしようもねぇ馬鹿だな」 「だ、だって……」  呆れた顔で見下ろされて、透はヘタリとその場に座り込んだ。  何だか、一気に気が抜けてしまった。  もしかしたらもう二度とこの部屋から出してもらえないのでは…、と不安で堪らなかったのに、会いたいと願っていた喜多川が本当に助けに来てくれるなんて、夢だとしても出来過ぎている。 「……なんで、こんなとこまで来てくれたの」 「ムカつくからだっつっただろ」 「ムカつくって、どうして?」 「あぁ? ムカつくのに理由なんかあるかよ」  面倒臭そうに喜多川が吐き捨てる。愛想の欠片もない言葉なのに、喜多川の言葉はじわりと透の胸を温かくしてくれる。  ───好き、なんだ。  ふと浮かんだ感情が、ストンと胸に落ちた。  素っ気ないけれど正直な物言いも、マイペースだけど優しさの滲む行動も、透だけに向けられる『眼鏡』と呼ぶ声も。  一体いつからそうだったのかはわからない。一人で舞い上がっているだけで、傍から見れば好きになる要素なんてないのかも知れない。だけどそれでも─── 「……俺、喜多川のこと、好きだよ」 「は? ……いきなり意味わかんねぇ」 「助けに来てくれて嬉しかったし、そんな喜多川のこと、優しいなって思う。そう思うのって、俺も狂ってるのかな」 「狂ってるっつーか、お前の場合は馬鹿なだけじゃねぇの」  透の告白を受けても、喜多川の態度は変わらない。ちょっと気怠げで、言葉の合間に欠伸を漏らす。  いつも周りの顔色ばかり窺って、本音を誤魔化してきたけれど、喜多川は透の本音を受けても顔色を変えることはない。ほんの少しは反応してほしいとも思ったけれど、互いの間に流れる変わらない空気は、とても心地が良かった。正直になってもいいんだ、と喜多川が初めて教えてくれた。 「俺、どうやって帰ろう……。そもそも喜多川、どうして俺の居場所わかったの?」 「別に、使えるコネ使っただけだ」  そう言って、喜多川は制服のポケットから携帯を取り出した。誰かに電話をかけ、携帯を耳に押し当てる。 「───俺。……頼みてぇことあんだけど、車出してくんねぇ? 住所は───めんどいから後で位置情報送る。後、来るときテキトーに服買ってきてくれ。……あ? 俺のじゃねぇよ。まあ、代金がわりに小ネタくらい流してやるし。じゃーな」  頼み、と言う割に、随分と一方的に捲し立てて、喜多川は電話を切った。  それにしても、喜多川が誰かに頼み事をしているところなんて、初めて見た。誰かに電話しているところも、そういえば見たことがない。喜多川にしては珍しく親しげな口調で話していたことにも驚いた。 「……誰に電話してたの?」 「さっき言っただろ。俺のコネ」 「コネ……?」  それっきり「ちょっと寝るわ」と何の躊躇いもなく喜多川がソファへ長身を横たえてしまったので、透はその『コネ』が現れるまで、ひたすらシーツに包まって待ち続けるしかなかった。

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