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最終話

「あれ、ちょっと何これ。どういう状況?」  一時間ほどして白石のマンションへ現れたのは、背が高く端正な顔立ちのαの男性だった。  しかもそのタイミングが何とも最悪すぎた。  再びぶり返した吐き気に襲われて透がシンクにしがみつき、昼寝から起きた喜多川が欠伸を噛み殺しながらその背を擦ってくれていたところで、ガチャリと玄関ドアが開かれたのだ。  やって来た男性は、少し癖のある髪に、ダークブラウンのフレームの眼鏡がよく似合っている。背は喜多川よりほんの少し低いけれど、透から見れば充分高身長だ。歳は二十代後半くらいだろうか…喜多川よりは、そこそこ年上に見える。  パッと見の雰囲気はどこか喜多川と似たものがあるけれど、性格は随分違っていそうだ。 「亜貴に限ってそんなヘマしないと思ってたけど、とうとうデキちゃったか……」  何を誤解したのか、玄関先で額を押さえて嘆く男性に、喜多川は「デキてねぇよ」と呆れた声を返した。 「す、すみません……ちょっと、具合悪くて……」 「あ、そうなの? 大丈夫? てっきり亜貴が孕ませちゃったのかと思って」 「はっ、孕……!?」 「……冬治(とうじ)、お前ちょっと黙ってろ」 「えー、自己紹介くらいさせてよ。初めまして、週刊リスキーの副編集長やってる、二宮冬治です」  透が裸の身体にシーツを巻いただけ、という姿であることをまったく気にした風もなく、二宮と名乗った彼は親しみやすい笑顔と共に名刺を差し出してきた。 「週刊リスキー……?」  受け取った名刺には、見覚えのある週刊誌のロゴが描かれていた。  週刊リスキーというと、普段は芸能界や政界の小さなスキャンダルをネタにしているよくあるゴシップ誌だが、時折大物政治家や人気絶頂のミュージシャンなどの一大スキャンダルを独占スクープし、度々ワイドショーの話題をさらっている。数年前には、人気歌手の覚醒剤疑惑をすっぱ抜き、直後にその歌手が覚醒剤所持で逮捕されたことから、皮肉の意味も込めて『リスキードラッグ』なんて言われていたくらいだ。  所詮はゴシップ誌、と批判的な意見も耳にはするが、週刊リスキーが大きなスクープ記事を掲載する際は常に入念な裏取りがされていて、その衝撃の大きさと信憑性の高さから、週刊誌の中では常に売り上げトップを独占し続けている。  そんな週刊誌の副編集長と喜多川の間に、どういう繋がりがあるのだろう。  そもそもいつも女性との噂が絶えない喜多川に、こんな風に気軽に呼び出すような男性の知人が居たことに驚いた。同じαであるということ以外は、共通点なんてなさそうに見えるのに。 「ところで、白石の坊ちゃんは?」  二宮が、とっくに姿を消したこの部屋の主を探して室内をぐるりと見渡す。 「知らね。どっか行った」 「何だよそれ。こんなとこまで呼びつけて小ネタくれるって言うから、縛り上げられてる白石の坊ちゃんでも撮れるかと思って楽しみにして来たのに」 「縛られてたのはコイツ」 「なるほど……それでそんな色っぽい格好してるわけか。しかしあの坊ちゃんも懲りないねぇ。もしかして小ネタってこういうこと?」  そこでやっと透の全身へ視線を滑らせてから、二宮は呆れたように苦笑した。 「あ、あの……二宮さんは、どうして白石先輩のこと知ってるんですか? っていうか、喜多川とどういう……」 「だから俺のコネだっつの」  二宮が答える前に、喜多川が顎をしゃくって二宮を示した。それを受けて、二宮は再びにこやかな笑顔を浮かべながら、透に向かって軽く片手を振って見せる。 「そういえばそっちを説明してなかった。どうも、亜貴の兄です」 「兄!?」 「って言っても、父親は違うけどね」  だから喜多川と少し雰囲気が似ているのか。  そういえば片親の違う兄弟が何人か居ると喜多川も言っていたけれど、母親の橋口いずみのことさえ「あの女」と呼ぶくらいだから、てっきり兄弟間の親交なんてないのだろうと勝手に思っていた。  でも待てよ…、と透は改めて目の前の二宮を見詰める。 「異父兄弟ってことは、二宮さんのお母さんも橋口いずみなんですよね? 彼女、まだ四十歳になったばかりじゃなかったですか……?」  喜多川はともかく、二宮はどう若く見ても確実に二十代半ばは過ぎている。橋口いずみは十代後半でブレイクしたと聞いているから、だとしたら年齢が合わない気がするのだが。  怪訝な顔になる透に、二宮はヒョイと肩を竦めた。 「あの人、年齢相当サバ読んでるから。実際はもう四十代後半だよ。俺、彼女が十七のときに産んだ子供だからね」 「じゅ、十七!?」  清純派女優として一躍売れっ子になった彼女は、そのとき既に子持ちだったということなのか……。おまけに年齢まで詐称しているなんて、今後橋口いずみをテレビで見かけるたびに、チャンネルを変えてしまいそうだ。  喜多川が辟易するのもよくわかる。これじゃあ、彼女の何もかもが信じられなくて当然だ。そして橋口いずみを「あの人」とやはり他人のように言う二宮だから、喜多川は彼と親交を持っているのかも知れないと何となく思った。  次々にスクープを突きつけられた気分で呆然としている透と、まだ少し眠そうな顔をしている喜多川を交互に見比べて、二宮は「ふぅん」と興味深げに片眉を上げた。 「亜貴に、あの人のこと話す相手が居るとはねぇ」 「……単なる成り行きだよ」 「そんな理由で、白石高宏の『隠れ家』の場所を教えろなんて言ってこないだろ、亜貴は。お前に頼み事されるのなんて初めてだし、雪でも降るんじゃないかと思った」 「お前マジうるせぇよ」 「ほんっと可愛くなくて可愛いでしょ、亜貴は」  明らかに矛盾する言葉を透に寄越して、二宮は屈託なく笑う。普通なら理解出来ない発言なのに、透の胸にはすんなり染み込んできた。喜多川という男を表すのに、これほど適した言葉は他にない気がする。 「……なんか、すごくわかる気がします」 「お前もうるせぇ」  ぺしっと喜多川の手が透の後頭部を叩く。微塵も痛みなんか感じないくらい手加減されていて、そこにも喜多川の優しさが滲んでいる気がした。こういうところがきっと、可愛くなくて可愛いのだ。  透と喜多川を微笑ましそうに眺めていた二宮が、開け放たれた扉の向こうに見える乱れたままのベッドを一瞥して、小さく息を吐いた。 「白石総合病院の院長のご子息は、昔からヤンチャでさ。院長が毎回裏で必死に揉み消してるけど、それこそヤンチャなんて可愛い表現じゃ済まされないくらい、性質の悪いことを繰り返してるのは、俺たちの業界では結構有名なんだよ」  白石が数年前からこのマンションを、今回の透のようにΩを監禁する為の『隠れ家』にしていることも、リスキーの編集部が独自に掴んでいたのだと二宮は言った。どうやら宇野から聞いた白石の話は、やはり根も葉もない噂話という類ではなさそうだ。  本来なら外部に漏らせない情報だったそうだが、喜多川が直々に二宮へ訊ねたこともあって、副編集長特権として特別にこの部屋の場所を教えてくれたらしい。  そうまでして透の居場所を探してくれたのかと思うと、隣で仏頂面をしている喜多川が、益々愛おしくなった。 「……昔からそんなこと繰り返してるのに、白石先輩も院長も、問題にならないんですか? リスキーなら、充分スクープ出来そうなのに……」 「勿論、何年も前から問題になってるよ。ただ、スクープっていうのはただ真っ先に世に出せばいいってものでもない。特に相手が大物で、多方面にパイプがあるような人間なら尚更だ。きっちり裏を取って土台作りをしておかないと、少しでも穴があれば逆にこっちが訴えられる。だから世間に出す為には、相手の退路を完全に断った上で、かつ他社より先に動く必要があるんだよ」  滔々と語る二宮は、正しく敏腕副編集長と呼ぶに相応しい顔をしていた。 「今回キミが白石の坊ちゃんに手出しされたことも、白石院長をいつかすっぱ抜く為の重要な要素になる。ただ───」  話の途中で、不意に携帯電話の着信音が割り込んできた。「ごめん、俺だ」と二宮が申し訳なさそうに眉を下げて、携帯の着信に応じる。 「───熊谷さん、どうも。子育て忙しいのにすみません。───ハハ、仕事が忙しいのも勿論存じてますよ。微笑ましくてつい。……やっぱりそうですか。まあ、そんなことだろうと思いました。わざわざ調べて頂いてありがとうございます。現役の弁護士先生方は、なかなか気難しくて。それじゃあ、また何かあればお願いします」  失礼します、と付け加えて、二宮は通話を終えた。 「亜貴。この前お前のS高転入を持ちかけてきた弁護士、やっぱり白石総合病院の元顧問弁護士だとさ。と言っても契約は何年も前に切れてて、その弁護士自体も妙な宗教に手を出し始めたことを理由に、最近は業界内でもめっきり干されてるらしい。多分、亜貴をS高に入れる為だけに、端から駒にするつもりだったんだろうな」  白石が手を回していた一件のことか、と透は二宮の声に耳を傾けながら眉を顰めた。弁護士を私欲の為に平気で使い捨てに出来る白石の冷酷さが、改めて恐ろしくなる。 「今の電話のヤツ、何モン?」 「訳アリで隠居してる、元弁護士。知り合いの弁護士連中がなかなか口割ってくれないんで、ちょっと無理言って調べてもらった」 「どこでそんな相手見つけてくんだよ」 「人脈作りは取材の基本だ。それに、彼にはMシステムの件でちょっと貸しもあるしね」 「Mシステムって、この前リスキーのスクープがきっかけで、トップ陣営が一斉辞任した会社ですか?」  記憶に新しい名前が出たのでつい口を挟んだ透に、二宮は「お、よく知ってるね」と少し誇らしげに口端を持ち上げた。  Mシステムは、WEBシステムの開発やアプリ開発などで有名な大手システム開発会社だ。かつては一族経営で、社内上層部は全て親族のαで固められていたが、会長の息子で時期社長候補だったαのスキャンダルがリスキーにすっぱ抜かれたことをきっかけに、芋蔓式にトップ陣の不祥事が次々と明るみに出た。その結果、会長を含めた一族全員が辞任する事態になったのは、つい一年ほど前のことだ。 「丁度うちがMシステムの裏取りに走ってたとき、熊谷さん───今の電話の相手だけど、彼から個人的にMシステムの情報提供を依頼されたんだ。こっちとしても元とはいえ弁護士と繋がりが出来るのはありがたいし、そのとき交渉に応じたのがきっかけで今も時々世話になってる」 「相変わらずちゃっかりしてやがんな」 「ギブ&テイクはビジネスの基本だろ? ……で、話を戻すけど」  二宮が、携帯を仕舞って透の方に向き直る。 「今の電話でもわかるように、端くれとはいえ、白石院長サイドはまだ弁護士っていうカードを持ってる。まずはこのカードを全部奪ってからでないと、迂闊に手は出せない。キミが白石の坊ちゃんに『悪戯』された事実を持ち出して、裏から揺さぶりをかけるくらいは出来るけどね」  二宮の言葉に、透は痕が残る自身の両手首へ視線を落とした。白石に与えられた恐怖は、今思い出しても身体が震えるほどだ。いくら解放してもらえたとはいえ、白石のことを今までと同じ目では見られないし、出来ることなら関わりたくない。───だけど。 「今回のことなんですけど……誰にも言わないってわけには、いきませんか?」  透の言葉に、二宮と喜多川が揃って目を見開いた。やっぱり血が繋がってるんだな、と呑気に思ってしまうくらいには、ふとした表情が二人はよく似ている。 「お前……まだ懲りてねぇのかよ。自分が何されたかわかってんのか」  苛立った声を上げた喜多川を、「だって」と透は真っ直ぐに見上げた。 「今回のことが表沙汰になったら、俺のこと助けにきてくれた喜多川の名前もきっと出る」 「それが何だよ」 「白石先輩は、喜多川が橋口いずみの息子だってことも知ってたし、多分もっと喜多川のこと裏で色々調べてると思う。喜多川は周りの声なんか気にしないかも知れないけど、俺が嫌なんだ。俺自身のことはともかく、喜多川がこれ以上好き勝手言われるのは、絶対嫌だ。ホントは黙ってちゃいけないってわかってるし、二宮さんの仕事を邪魔することになるのかも知れないけど……」 「お前な───」  何かを言いかけた喜多川の声を、二宮の高らかな笑い声が遮った。 「……何笑ってんだよ、冬治」 「いやー、亜貴が俺に珍しく頼み事してくる理由が、ちょっとわかった気がしてさ。キミ、名前なんていうの?」  笑い過ぎて涙の滲んだ目尻を拭いながら、二宮が問い掛けてくる。二宮にも渋い顔をされると思っていたので、ポカンとしながら透は答えた。 「一ノ瀬です。一ノ瀬透」 「眼鏡だろ」 「いちのせ、です!」 「アハハ! キミみたいな子が居てくれるなら、亜貴の夜のバイトももう必要ないか」 「バイト……?」  喜多川がバイトをしているなんて初耳だ。てっきり夜は声をかけてきた女性と過ごしてばかりなのだと思っていた。  透がよほど意外そうな顔をしていたからか、二宮が「夜遊びばっかだと思われてやんの」と喜多川の腕を小突き、その三倍くらいの力でやり返されている。 「亜貴って、昼間ずっと寝てばっかりだろ? 昔から、夜はなかなか眠れないらしくてさ。まあ夜遊びしてる日があるのも事実なんだけど、それ以外の夜は俺が追ってるネタの裏取りに協力してもらってるんだ」 「おい、余計なこと言うんじゃねぇよ」  ジロリと睨む喜多川の制止には耳を貸さず、二宮は悪戯っぽく肩を竦めて見せる。 「この見た目だから、亜貴の場合は座ってるだけでも相手の方から接触してきてくれたりするし、バイトとしてはなかなか重宝してたんだけどね。でもまだ未成年のくせにすっかり夜型になっちゃってるから、俺としては心配でもあったんだ。だから、一ノ瀬くんみたいな子が居てくれるんなら、やっと俺も安心出来る」  二宮が、形の良い目を細めて笑う。その顔は、弟想いの兄そのものだ。  そして透もまた、二宮の言葉にホッとしていた。喜多川が学校で寝てばかりいる理由も、常に女性と夜を共にしているわけではないこともわかったから。  自分から声をかけたりはしないのに、一晩の誘いを喜多川が受けるのは、もしかすると一人で夜を過ごすのが苦手だからなんだろうか。 「冬治、お前やっぱもう帰れ。勝手にペラペラ喋りやがって」 「求められる情報を提供するのが俺の仕事だって、亜貴は一番よく知ってるだろ」  それに、と二宮が来たときから提げていた紙袋を掲げて見せた。 「彼、そんな格好なのに、放ってっていいのかなー?」  そこでやっと、透も初対面の相手の前で随分と恥ずかしい姿を晒していたことを自覚する。慌ててシーツの合わせ目を握り込む透を見て、二宮がまた肩を揺らして笑った。そんな二宮を睨みつけながら、喜多川がその手から紙袋を引ったくる。 「あ、でもそれさ───」  二宮が言い終わる前に、喜多川が紙袋に入っていた服を透に放って寄越した。受け取ったそれを広げて、えっ…と思わず絶句する。二宮が持ってきてくれたのは、モノトーンのシンプルな───ワンピース。 「あ……あの、これ……?」 「ごめん。亜貴のじゃないって言われたから、てっきり女の子のかと思ってさ。そこはほら、亜貴の日頃の行いが悪いってことで」 「確認しなかったのはお前だろ。……まあ眼鏡なら、大して違和感ないんじゃねぇの」 「うん、俺も思った」 「いや、あるよ!? っていうか、あってほしい!!」  裸で帰るのも嫌だけれど、女装して帰るのも同じくらい抵抗がある。 「家までは車で送るから、一先ずそれで我慢して?」  二宮に申し訳なさそうな顔をされて、透はぐっと言葉に詰まる。喜多川からの頼みとはいえ、二宮は見ず知らずの透の為にわざわざ服を買って駆け付けてくれたのだ。おまけに家まで送るとまで言われてしまったし、透は覚悟を決めると寝室へ一度引っ込んで、真新しいワンピースに袖を通した。  恐らく二宮が無難にフリーサイズのものを選んでくれたのだろう。若干肩回りは窮屈だったけれど、それ以外はサイズもほぼピッタリで、逆にそれが却って恥ずかしい。当然ながらスカートなんて生まれてこの方一度も履いたことがないので、足元が異様にスースーして心許ない。  取り敢えず一刻も早く車に乗りたい…と切に思いながら、そろりと寝室から戻ってきた透を見て、喜多川と二宮がまた二人そろって一瞬目を瞠った。 「……なんか、どっかで見たことあんな」 「アレだ。『日比谷通24』のメンバーの一人」  二宮が人気女性アイドルグループの名前を口にして、喜多川が「ああ」と妙に納得した様子で頷く。 「あの衣装絶対似合うよ」 「持ってんのかよ?」 「さすがに持ってないけど、コスプレ衣装なら売ってると思う」 「次買うときはどーせならそれ買ってこいよ」 「今度からは亜貴が買えば?」 「似合わないし、着ませんよ!?」  真顔でとんでもない相談をする二人に、慣れないスカートの裾を押さえたまま叫ぶ。やっぱりこの二人は、正真正銘兄弟だと確信した。 「車、マンションの横のコインパーキングに停めてるから、先に下りてエンジンかけとくよ。忘れ物、しないようにね」  透が携帯を探す為に引っくり返したままになっていた、カバンとその中身を指差して、二宮は先に部屋を出て行った。 「しまった、すっかり忘れてた……! すぐ片付けるから、喜多川も先下りて───」  荷物を纏めにいこうとした腕が、不意に後ろから掴まれた。  驚いて振り返る前に、項に温かくて柔らかいものが押し当てられる。  ───え……?  それが何なのか、理解出来ずに固まる透の首筋で、ブチッと何かを噛み千切る音がした。 「……タグ。付けっぱなしだっつの」 「え……あ、ありがと……」  呆然としながらどうにかそれだけを返した透の前で、喜多川は平然とタグを床に投げ捨て、そのまま玄関を出て行く。その背中を見詰めながら、透は自身の項へそろりと手を宛がった。  これが夢でなければ。  透の激しい勘違いでなければ。  そこに触れたのは、確かに喜多川の唇だった。  心臓が飛び出しそうなほど煩く騒いでいるのは、きっと初めて女装なんてさせられたからだ。そう何度自分に言い聞かせても、確かな感触の残る項が、いつまでも痺れるように熱かった。   ◆◆◆◆ 「一体どういうつもり?」  渡り廊下の支柱に凭れた白石が、口許に薄い笑みを浮かべて問い掛けてきた。  翌朝。いつもより少し早めに登校してきた透は、その足で白石のクラスへ直行した。学校では完璧な優等生である白石なら、きっと登校時間も早いだろうと思ったからだ。  案の定、まだ数名しか登校してきていない教室の中に、白石は居た。昨日まで透を裸でマンションの一室に閉じ込めていたとは思えない、涼しい顔をして。  正直なところ、透の方から白石に声をかけるのは相当勇気が要ったけれど、喜多川に助けられたからこそ、ちゃんと自分でけじめをつけたかった。その勇気を、喜多川が与えてくれた。  さすがに二人きりになる場所は避けたかったので、透は白石を中庭へ誘った。声をかけた透に、白石はほんの一瞬驚いたような顔を見せたものの、誘いにはすんなり応じてくれた。  そうして呼び出した中庭の渡り廊下で白石から寄越された質問は、透が白石を呼び出した理由を問うものではない。  昨夜、透の母が担任の和田を通じて、白石の自宅へお礼の電話をかけたことに対するものだ。  二宮の車で自宅まで送り届けてもらった透は、教師のフリをしてくれた二宮に協力してもらい、でたらめなシナリオをでっち上げた。  実行委員を通じて成績優秀な先輩の白石と知り合った透は、勉強を教わる為に自宅へ泊めてもらうことになった。けれど思いの外勉強に熱が入ってしまい、透は翌日すっかり寝坊してしまった。これまで遅刻なんてしたことがなかった為、動転する透を気遣って、白石が「体調が悪くて少し遅れるようだ」と教師に伝えてくれたところ、手違いで「体調不良で入院している」と事が大きくなって伝わってしまった。そこへ透の母親が弁当を持ってやって来た為、皆が混乱した。一方、大慌てで学校に向かっていた透は、駅でコーヒーを持った相手とぶつかって派手に制服を汚してしまい、転倒した拍子にカバンの持ち手が手首に引っ掛かって痕になった。透がかなり動揺していたこともあり、駅で休ませてもらっていたところへ、教師という設定の二宮が迎えにきてくれ、一先ず手近な店で買ったワンピースを着せて自宅まで送り届けてくれた───というのが、車中で二宮が作り上げたシナリオだ。  多少強引な箇所はあったけれど、さすがは週刊誌の副編集長と言うべきか、二宮の巧みな話術で、母は嘘ばかりの一連の流れをあっさり信じてくれた。  透が無事に帰宅したことも大きかったのだろうし、何より母は、これまで友達を連れてきたこともない透に、泊まりに行くほど仲の良い相手が出来たことを喜んでくれていた。……実際はそんな相手は出来ていないので、そこは少し心苦しかったのだが。  そして母がわざわざ学校に白石への謝礼の電話を入れたのは、その日の夜、クリーニングされた透の制服が差出人不明で自宅に届けられたからだった。これは、透にとっても素直に有り難かった。嘘のシナリオは即興で練ることは出来ても、白石に奪われたままの制服だけは、どうしようもなかったからだ。学校の制服ばかりは、即座には用意出来ない。  けれどそれが届けられたので、透はそれはきっと白石からの厚意だと母に伝えた。思い違いかも知れないけれど、透にもそれは白石の中にある小さな良心のように思えたからだ。  そうして全ては些細な行き違いによる騒動だったということで、今回の件は透の家でも、学校側でも、無事一件落着となったのである。 「まさか、監禁した相手の親から感謝されるなんて、思いもしなかったよ」 「俺も、わざわざ制服を送ってくれるなんて思いませんでした」 「『抜け殻』に興味はないしね」  軽く肩を竦めた白石が、切れ長の瞳を少しだけ細めた。 「どうして、本当のことを話さなかったの。喜多川くんの為?」 「喜多川の為なんて言ったら本人に怒られそうだし、俺がそうしたかったからです」  透の返答に、細めていた目を見開いた白石は、フッと笑いで肩を揺らした。 「そんなだから、僕みたいな人間につけ込まれるんだ。一ノ瀬くんのその甘さは、きっといつか身を滅ぼすよ」 「……それでもいいです。もう自分の気持ちに、嘘は吐きたくないから」  だから、と透は拳を握ってほんの少し語気を強めた。怯みそうな気持ちを奮い立たせて、白石の顔を見据える。 「実行委員は、引き受けたからには続けます。でも、学年代表は、もう続けられません。……だって、そんなもの最初から無いんですよね?」 「……バレちゃったか」  溜息を落として、白石が降参とばかり、両手を上げた。 「でも、本当に実行委員は続けるつもり? そんな人の好いこと言って、僕はまだ一ノ瀬くんを諦めたとは言ってないんだよ?」  寄り掛かっていた支柱から身体を離した白石が、ゆっくりと透の前まで歩み寄ってくる。スルリとネクタイを掬われて、拘束されたときの恐怖を思い出し、ゴクリと喉が鳴った。登校してきた生徒がひっきりなしに中庭を行き交っているので、この場で何かをされることはないとわかっていても、立っている足が震えそうになる。  ───喜多川……!  白石と対峙するのは恐くて堪らなかったけれど、胸の内で喜多川の名を呼ぶと、不思議とその背を支えられているような気がした。 「……だからもう、白石先輩とは絶対に二人きりにはなりません。先輩が、恐いから」  深淵な黒い瞳を真っ直ぐに見詰めたままハッキリとそう告げると、数回目をしばたたかせた白石が、笑い声を上げて破顔した。その手から透のネクタイが零れ落ちる。 「僕を恐れて言うことを聞く子は大勢居たけど、恐いってキッパリ言われて拒まれたのは初めてだよ」 「……白石先輩なら、わざわざ恐がらせなくても相手に困らないと思いますけど」 「それじゃ意味がないんだよ。キミにはわからないだろうけどね。……今回のことで、僕は借りが出来たなんて思わないよ」  そう言って、白石が不意に透の耳許へ顔を寄せた。 「知ってる? 番の居るΩがパートナー以外に犯されると、死ぬほど苦しいんだよ」 「………っ!」  囁かれた耳を押さえて、透はバッと咄嗟に後ずさる。番なんて居ない透にはわからないけれど、白石に背筋が凍るようなことを言われたということはわかった。  そんな透の反応を見て満足そうに笑った白石が、「なんてね」と悪戯に片目を伏せた。そしてトン、と自分の項を指差す。 「それだけしっかり『狂犬』にマーキングされてたら、さすがの僕も手出し出来ないな」 「マーキング……?」 「利口な『狂犬』に感謝するんだね。ぼんやりしてると、また攫われるよ?」  ほんの少し、寂しげにも見える笑顔を浮かべて、白石は透へヒラリと片手を振ると、そのまま校舎の中へ引き返していった。  白石の言葉の意味がよくわからず、何とはなしに項へ手をやる。昨日、喜多川に口付けられた箇所が、じわりと熱を帯びているような気がした。 「喜多川、おはよう……!」  一時限目が終わってから登校してきた喜多川に、透は思い切って声をかけた。  喜多川が挨拶なんてする性質ではないと知り尽くしているクラスメイトが、驚いたような視線を向けてくる。すぐ傍で宇野も「どないしたん?」とでもいうように目を丸くしている。  チラリと透へ視線を寄越した喜多川は、案の定無言のまま椅子に腰を下ろした。 「一ノ瀬のヤツ、なに考えてんだ」 「相変わらず感じ悪ぃよな、喜多川」 「やめときゃいいのに」  教室のあちこちから、余計な声が聞こえてくる。透を憐れむような、同情を孕んだその声よりも、黙って向けられた喜多川の視線の方が温かく感じる。その理由はきっと、透が最も欲しているものだからだ。  他人の視線や声なんて、どうだっていい。喜多川が透を見てくれるなら、ただそれだけでいい───  いつものように机に顔を伏せかけた喜多川の腕を、透はグイ、と強く引っ張った。 「喜多川。昼寝したいから、付き合って」  周囲がどよめく気配がする。そんな中、喜多川だけが怠そうな表情を変えずにゆっくりと席を立った。  目立つことが嫌いで、周りの視線が気になってばかりだったのに、今は何だか誇らしいような気分だった。自分だけの宝物を見つけたような、そんな気持ち。  喜多川の腕を引いたまま屋上へやってきた透は、扉を出たところで慌てて足を止めた。  ついさっきまでは曇っていただけの空から、ポツポツと水滴が落ち始めていた。 「……雨、降ってっけど」  じと、と睨め付けるような視線を斜め上から感じて、透は「そうだね……」と首を竦ませた。 「タイミング悪いなあ……」  徐々に雨足が強まってきた鈍色の空を、恨みがましく見上げる。折角清々しい気分だったのに、教室にとんぼ返りかと肩を落とした透の隣で、喜多川は屋上の扉を閉めると、そこへ背を預ける形で踊り場に腰を下ろした。 「……戻らないの?」 「今更だりぃし」  鉄の扉へ後頭部を預けて、喜多川がフワ…と欠伸を漏らす。昨日の夜は二宮のバイトだったのか、それとも誰か、透の知らない女性と一緒だったんだろうか。  そんなことを考えながら、透は静かに喜多川の隣へ腰を下ろした。その直後に二時限目開始のチャイムが鳴って、階下の喧騒が止む。  二人きりの屋上の踊り場は静かだけれど、床は固いし、凭れている扉もやっぱり固くて冷たい。  静かな夜に、ちゃんとベッドで眠らせてあげたいのに……。  隣で目を伏せている喜多川の横顔を見詰めていると、その目が不意にパチリと開いた。 「うわっ」 「……ンだよ」 「だって、寝てるのかと思って」 「そんなすぐ寝付けるか」 「いつも席に座ったら三秒で寝てるよ」 「うぜぇ」  適当な言葉しか返ってこないのに、そんなやり取りが妙に楽しかった。喜多川の物言いに遠慮がないから、透も気を張らずに済む。初めの頃こそ緊張したけれど、そのことに気付いてからは、喜多川と話すのは他の誰より気が楽だと思えた。 「昨日、ありがとう。二宮さんにも凄くお世話になったし、よろしく伝えてくれる?」 「冬治にはいっつもこき使われてっからいいんだよ」 「そんなに?」 「ひでぇ時は二週間ぶっ通しで呼び出された」  うんざりした顔で喜多川が吐き捨てる。  どちらかというと夜遊びの方が多いのかと思っていたけれど、むしろ二宮と過ごす合間に遊んでいた感じなんだろうか。 「でも呼び出されてちゃんと行くくらいには、仲良いんだ。てっきり兄弟仲も悪いのかと思ってたから、意外だった」 「冬治以外とは会ったこともねぇよ」  じゃあどうして二宮さんとは仲良いの、と聞きかけて、透は口を噤んだ。  二宮に会ってから、ずっと気になっていた。  スキャンダルの末に生まれた喜多川と二宮の二人が、揃ってそれを暴く仕事に関わっているということ。 「……あのさ。二宮さんは、いつか橋口いずみのことも、スクープするの?」  リスキーの独占スクープは、毎回各局がこぞって取り上げ、連日報道されるようなネタばかりだ。人気歌手の薬物所持のときも、Mシステムの不祥事のときもそうだった。リスキーが報じたネタを発端に、メディアは過剰な報道を繰り返し、世間はそれらに対して時には共感し、時には憤り、喜び、悲しみ、炎上させていく。  もしも橋口いずみのスキャンダルが報じられれば、これまで清純派として人気を博してきた彼女のイメージを一転させる大スクープになることは間違いない。そうなると、喜多川にも必ずマスコミの好奇の目が向けられるはずだ。そのことが、透には何よりも気掛かりだった。  けれど、喜多川はぼんやりと宙を見詰めたまま「さあな」とさして興味も無さそうに答えた。 「言っただろ。俺らの存在を隠したがってんのはあの女の方だ。俺にとっても冬治にとっても、あの女は母親じゃなく単なる他人なんだよ。だから冬治が仕事としてあの女をスクープするべきだと思ったら、その時はすんじゃねぇの」 「でも、そうしたら二宮さんは勿論、喜多川だってきっと追い回されて、色々言われるよ。そういうの、嫌じゃないの」  わかんねぇな、と独白のように零した喜多川が、ゆっくりと透の方へ顔を向けた。 「……お前は?」 「え?」 「俺があの女の息子だって報道が出たとして、お前は俺のことどう思うんだよ」  喜多川の方から透の気持ちを聞かれたことなんて初めてで、ドキリと胸が鳴った。 「俺は別に、聞いても変わらないかな……喜多川は喜多川だし。もしも喜多川が報道陣に囲まれてたら、それはやめてって思うかも知れないけど」 「なら、それでいいんじゃねぇの」 「………?」 「俺は周りが何言おうがどうでもいい。お前も、俺があの女の息子だろうと関係ねぇって思ってる。だったらそれだけでいいだろ。言いてぇヤツには勝手に言わせてりゃいいんだよ」  透の気持ちさえ変わらなければそれでいいのだと言われている気がして、心臓の音がどんどん速く、煩くなっていく。 「それって───」  どういう意味、という問いかけは、最後まで紡げなかった。  開いた口が、何かに塞がれている。  一瞬頭の中が真っ白になって、気付いたときには睫毛が触れ合うくらいの距離に喜多川の顔があった。唇が重なっているのだとわかったのはそれから更に数秒後だったけれど、そう感じたのは透だけで、実際はもっと短い時間だったのかも知れない。 「……昼寝するっつったのはお前だろーが。ちょっと黙ってろ」  呆然と目を見開いたままの透からようやく唇を離した喜多川が、強引に透の足を伸ばして、それを枕にゴロリと床へ寝転がった。「膝貸せ」と頭を乗せてから言われたが、答えるどころか頷くことさえ出来ない。  喜多川とはもっと凄い行為もしたはずなのに、今のキスはそれよりもずっと特別なものに思えて、何だか泣きそうになった。  馬鹿でもいい。  狂っていると思われてもいい。  周りに何て言われたって構わない。  ───だから、思い上がってもいいだろうか。  鼻の奧がツンと痛むのを堪えて、透は震える声を落とした。喜多川は、既に目を閉じている。 「……喜多川。制服、汚れるよ」 「どーでもいい」 「俺の膝じゃ、首痛くなるかも」 「床よりはマシだろ」 「一時間経ったら起こすから、そしたら、今日はもう昼寝しないで起きてて」 「……あ?」  怪訝そうに、喜多川が透の膝の上で薄く目を開けた。 「俺の膝くらいいくらでも貸すから……夜に、ちゃんと寝よう?」  透の言葉に目を瞬かせた喜多川が、少しして呆れたような半目になった。 「そう言いながら、お前絶対ソッコー寝るタイプだろ」 「喜多川が寝るまで起きてる……!」 「俺、三時くらいまで起きてっけど」 「さっ、三時……」  夜は十時過ぎにはベッドに入っているなんて言えない空気に、ゴクリと息を呑む。 「が……頑張って起きてるようにするから───だから、これからは俺が一緒に寝てもいい?」  喜多川がもう、寂しい夜を過ごさなくて済むように。  知らない誰かで寂しさを紛らわさずに済むように。  涙声で訴えた透のネクタイを、喜多川がグイ、と引き寄せた。前のめりになった透に反して、喜多川が少し頭を浮かせる。 「お前うぜぇから、どーせ俺が何言おうが聞かねぇだろ」 「……もっと他の言い方してよ」 「うるせぇ、馬鹿眼鏡」  言葉とは裏腹に、喜多川の唇が透のそれを甘く塞いだ。  相変わらず酷い言い草だけれど、喜多川だけの『馬鹿眼鏡』ならそれも悪くないと思ってしまうから、やっぱり自分は大馬鹿者だ。でも幸せならそれでいい。  口も態度も悪い、我が儘で傲慢なとんだろくでなし。けれど本当は、ぶっきらぼうで不器用なだけの優しい男。  そんな最高に愛おしい存在を、透は力いっぱい抱き締めた。
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