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番外編 ろくでなしの君と迎える朝
「本当に一人で大丈夫?」
ぐったりとベッドに横たわる透を、余所行きの黒いワンピースに身を包み、珍しく念入りに化粧をした母が覗き込んでくる。
「……薬もあるから、平気」
「でも、ご飯とか買いに出られないでしょ? 事情を話してやっぱり私だけ残ろうかしら」
折角着飾っているというのに、整えた顔を不安げに曇らせる母に、透は「ホントに大丈夫だから」と、気怠いながらも笑ってみせた。
九月の三連休初日。
今日は九州に住む透の従姉の結婚式で、近親者のみで行われるらしい披露宴に、両親が泊まりがけで出向くことになっていた。
だから母も朝から身支度や荷造りに慌ただしくしていたのだが、その最中に透の発情期が来てしまったのだ。
「おーい、タクシー来たぞ」
空港に向かう車の到着を知らせる父の声が、階下から聞こえてくる。「すぐ行くわ」と返事をしながらも、まだ母は透の傍を離れることを躊躇っている。
「二人共、明日には帰るんだよね? 一日くらい、適当にインスタントで済ませるから。折角おめでたい日なんだし、行ってきて」
「そう……? 何かあったら、ちゃんと連絡するのよ?」
「わかってる」
心配性な母を苦笑いでベッドの上から見送って、透は両親を乗せたタクシーのエンジン音が遠ざかっていくのを聞きながら、重い息を零した。
人生で二度目の発情期。
母には「大丈夫」と強がって見せたけれど、本音を言えば身体は凄く熱くて苦しい。
前回、生まれて初めての発情期を経験してから、発情抑制剤は常に携帯している。けれど抑制剤は副作用が強くて、しかも発情期特有の火照りや怠さも、完全に消えてくれるわけじゃない。
医師からも、副作用の出方や効き目には個人差があるとは聞いていたが、どうやら透とはあまり相性が良くないらしい。
だから出来ることなら薬は飲みたくないのに、飲まなければαを求めて疼き続ける身体が辛い。
───α、じゃないか。
誤魔化しきれない欲求に、ボフッと枕へ顔を埋める。
ぼんやりとする頭の中で思い浮かべる顔は、一つしかない。
「……喜多川……」
その名を口にした瞬間、透の思考よりも先に、火の灯った下肢がズクリと疼いて反応した。誰の目もないのに、羞恥でカッと頬が熱くなる。
どうしてよりにもよって、このタイミングなんだろう。
本当ならこの連休、両親も居ないのならと、透は喜多川のマンションへ泊まりに行こうと思っていた。
別に明確に約束していたわけではないけれど、ここ最近は週末に喜多川の元を訪れるのが当たり前のようになっている。今日、両親が親戚の結婚式へ出向くことも、喜多川には話してある。……もっとも、話したのはまだ夏休み中のことだったので、喜多川が覚えてくれているかどうかは不明なのだが。
どうしよう、と身体の芯で燻り続ける熱に、ベッドの上で小さく身じろぐ。
初めて発情したときは、偶然居合わせた喜多川に助けて貰った。
あのときはまだ喜多川のこともよく知らなかったし、生まれて初めての発情に身体の方が振り回された。半ば流されるようにして喜多川と交わってしまったが、今は違う。
相変わらず喜多川はマイペースだし、言葉も少なくて、透に向けられる想いもなかなか読み取れない。
けれど少なくとも傍に居ることを黙って受け入れてくれているし、二学期が始まってからは、渋々ながら実行委員会にも同行してくれるようになった。顔は出してくれてもずっと寝てばかりいるのは、もう仕方ないと思うことにしている。
そんな喜多川は、透の二度目の発情期のことも考えてくれているようだった。
ただ、前回と違って喜多川は傍に居ない。さすがに発情している状態では出歩けないから、透から喜多川の元を訪ねるのは不可能だ。
そもそも、白石に触らせるなとは言われたものの、次に発情期が来たら具体的にどうするかなんて、二人で改めて話し合ったことはない。
今日、喜多川の家に泊まりにいくと約束していたわけでもないのに、わざわざ「発情期が来たから行けない」と連絡するのも、何だか気が引ける。遠回しに、身体を強請っているような気がして。
だって、発情期だから助けてほしいなんて、それはもうセックスしたいと言っているのと同意だ。
───いや、実際その通りなんだけど。
本当は、前みたいに喜多川に触れてほしい。
透は喜多川の身体しか知らないし、いくら発情期とはいえ、好きでもない相手と肌を合わせたくなんかない。
こんなとき、どうやって喜多川を求めればいいのだろう。喜多川に誘いをかけていた女性たちみたいに、あからさまに行為を強請るなんて、不慣れな透には到底出来ない。
そんな透の胸中なんてお構いなしに、発情した身体はどんどん熱を帯びてくる。
抑制剤も飲んでいないし、さっきから喜多川のことばかり考えている所為で、身体が勝手に喜多川との行為を思い出して反応している。触れていなくても、中心に重ったるい熱が溜まって芯を持ち始めているのがわかった。
つくづく、浅ましいΩ性が嫌になる。こんなのが、この先一生、定期的にやってくるなんて。
どうしようもなく惨めだけれど、ひたすら自分で慰めるしかないと、おずおずと下肢へ手を伸ばしかけたとき。枕元に放置していた携帯から突然短い通知音が響いて、透はベッドの上で飛び上がった。
喜多川の義兄である二宮に勧められるままダウンロードした無料通信アプリが、メッセージ着信を知らせている。
無駄にバクバクと鳴っている胸元を押さえながら携帯を取ると、メッセージは喜多川からのものだった。
『今日来んのか』
何とも喜多川らしい、たったそれだけの味気ないメッセージ。
喜多川の方から聞かれたことなんて初めてで、今度は違う意味で胸が鳴る。
もしかして喜多川も、あのだだっ広いマンションで、透を待ってくれていたりするんだろうか。
───助けてって、言ってもいいのかな。
いつもより力が入らない指で、躊躇いながら返事を入力する。けれど、「発情期」と変換したところで、透の返信を待たずに再び通知音が鳴り、喜多川からの新しいメッセージが届いた。
『今から冬治の手伝い。夕方まで居ねぇ』
期待に膨らみかけた胸が、空気の抜けた風船みたいにみるみる萎んでいく。
なんだ、そういうことか…、と透は打ちかけていた文字を削除した。文字と一緒に、身体にこもった熱も消えてくれればいいのに。
助けて、と勢いで送信する前で良かった。送った後だったら、余計に虚しくなるところだった。
喜多川に会えないのは残念だけれど、それでも彼が透が来る可能性をちゃんと考えていてくれたことは、素直に嬉しい。喜多川にとっても、週末に透と過ごすことが当たり前になりつつあるのではと思えたから。
それがわかっただけでも充分じゃないかと、凹む自分に言い聞かせて、透は「今日はそっち行けない」とだけメッセージを返した。
すぐに付いた既読マーク。
喜多川は今、どんな気持ちで透からのメッセージを見ているんだろう。
「……助けて、喜多川……」
それっきり鳴らなくなった携帯を元の場所に戻して、透は届かない本音を熱と一緒に吐き出した。
「……っ!」
息を詰めた透の手の中で、ティッシュを被せた自身が爆ぜる。
ひたすら自分を慰め続けて、もう何度達しただろう。
思考も薄い靄がかかったみたいにぼんやりしていて、最早回数なんて思い出せない。なのに、透の身体の中心では、尚も満たされない欲求がジリジリと燻り続けている。
ずっと擦り続けていた所為でヒリついて痛いくらいなのに、そこは達してもまたすぐに芯を取り戻す。
前回は透がそれを自覚する前に、喜多川が満たしてくれた。だからこそ、今はハッキリわかる。
この熱は、喜多川でないと鎮められないということが───。
それがわかっているのに延々と自慰を続けることは、とても惨めで苦しい。
吐き出された精を受け止めたティッシュを丸めて、ベッド脇のゴミ箱に放り込む。虚しさばかりがティッシュの山になって積もっていく。
もうゴミを捨てる動作すら怠い。
副作用が辛いので薬は飲みたくないけれど、このままだとどんどん自分が卑しい人間になっていく気がする。
発情期は日が経つごとに発情は治まっていくので、一番酷いこのタイミングで両親が出掛けてくれていて良かった。昼間からずっとベッドで自慰を続けているなんて、例えΩ性に理解のある親でも、年頃の身としては恥ずかしいことこの上ない。
取り敢えず薬を飲む為に水を取りに行こうと、泥みたいに重い身体を起こしたところで、その存在すら忘れていた携帯が短く鳴った。
眼鏡を外しているので携帯を顔の前まで持ち上げると、またしても喜多川からのメッセージが届いていた。
『開けろ』
たった三文字のメッセージ。
───開ける? 何を?
短いメッセージには、特に何も添付されていない。
続きがあるのかと少し待ってみても、それ以上のメッセージが送られてくる様子もない。
『何のこと?』
喜多川が誤送信するとも思えなかったけれど、もしかして他の誰かと間違っているのではと返事を送る。
それに喜多川は二宮の手伝いで夕方まで居ないと言っていたはずなのに、時間はまだ三時前だ。
『玄関』
首を捻る透に返ってきた返事は、更に一文字少なくなった。
……玄関?
ぐらぐらする頭で何度かその単語を繰り返して、やっとその意味を理解した透は、まさか…とフラつく足で窓際へ駆け寄った。
カーテンを開けると、家の前に見惚れるような彫像───喜多川が立っていた。
なんで? どうして?
わけがわからないまま、ベッドから眼鏡を拾い、誘われるようにフラフラと歩いて階段を下りる。
前に白石のマンションから二宮の車で送ってもらったとき、喜多川も一緒に居たので透の自宅の場所は知っているだろうけれど、「今日は行けない」と伝えたのに。
発情期の所為で幻覚でも見えているんじゃないだろうかと思いながら、玄関のドアを押し開ける。
いつも通りちょっと呆れた顔をした喜多川の姿が、確かにそこにあった。
「……なんで……」
呆然とする一方で、喜多川を前にして透の中に点った炎が一気に燃え上がる。
なりふり構わず、目の前の喜多川に縋りついてしまいたい。
自分は一体、どんな顔をしているだろう。浅ましく欲情するΩの顔なんだろうか。
「お前、そんな格好だとマジでダセェな」
問いには答えず、スウェット姿の透の全身をザッと眺めた喜多川が、溜息混じりに言いながら玄関へ入り込んでくる。言葉も行動も、相変わらず遠慮がない。
ドアが閉まるのと同時に、強く腰を抱き寄せられて唇をキスで塞がれる。
透を「ダサい」とバッサリ斬り捨てた喜多川の舌が、抉じ開けるようにして咥内へ滑り込んできた。
「ん……っ」
口腔内を深くまで貪られて、自然と喉が反る。こんなにも深いキスを交わすのは初めてで、そのまま流されてしまいたい欲求を、透は必死で押しとどめた。
「っ、ま……待って……!」
力の抜けた腕で、弱々しく喜多川の胸を押し返す。このまま流されてしまったら、初めてのときと同じだ。
「俺、今日行けないって言ったのに、なんで来てくれたの。二宮さんの手伝いは?」
「お前が来られねぇっつーから、冬治の方さっさと片付けて来たんだろーが」
「どういうこと……?」
「今日は親が親戚の結婚式に行くって、お前が言ったんだろ。なのに来られねぇ理由っつったら、時期的に発情期以外思いつくかよ」
「……結婚式って、覚えててくれたんだ」
「お前のトリ頭と一緒にすんな」
透が何気なく話したことを、喜多川はちゃんと覚えていてくれた。
二度目の発情期の時期を、透以上に意識してくれていた。
本当に、喜多川の優しさはどこまでもわかり辛い。
そういえば喜多川は体育祭の日だって、何だかんだと言いながらもちゃんと透に応えようとしてくれていた。あのときは白石に阻まれてしまったけれど、夏休みの花火だって、何気なく「見たい」と言った透を誘ってくれた。
忘れてるかも…なんて疑ったりしてごめん、と申し訳なさで胸が詰まる。
そんな透に「上がんぞ」と一方的に告げて、喜多川がまるで自分の家かのように先に靴を脱ぐ。慌ててそれに続く透の腕を引っ張るようにして、喜多川は階段を上がっていく。
「き、喜多川!? なんで俺の部屋……」
「匂いでわかる」
動物みたいだ、と呑気なことを考えていたが、階段を上がりきったところで透はふと自室の惨状を思い出し、真っ青になった。
ついさっきまで、延々と一人でいたしていたのだ。その名残が、丸っきりそのままになっている。
「ちょっと待って! お願いだから、部屋入るの五分待って!」
透の訴えも虚しく、喜多川は迷うことなく辿り着いた透の部屋のドアを開け放った。
乱れたベッド、丸まったティッシュの山が出来たゴミ箱。それに男同士なら確実にそれとわかる、雄特有の匂い───。
それらを目の当たりにした喜多川が、一旦足を止めた。
「だ……だから待ってって言ったのに……!」
蒼白から一転して、恥ずかしさで顔にカーッと熱が集まるのがわかる。
また呆れられるかと思いきや、喜多川は特に気にする様子もなく、そのまま部屋に踏み込むと透の身体ごと乱れたベッドに倒れ込んだ。
「なんで発情期って言わなかった」
シーツに透の両手を縫いとめて、整った顔が透を見下ろしてくる。
表情が乏しい喜多川の顔からは、その内心はやっぱり読み取れない。
「だって、それだとなんか、身体目当てみたいだし……」
「別に、それでもいいだろ」
「えっ、嫌だ……! 俺は喜多川とその……こういうことしたいからって、一緒に居るわけじゃないし」
「そういう意味じゃねぇ」
ほんの少し眉を寄せて、喜多川が透のスウェットを脱がせにかかる。
「どうせ普段から用もねぇのに来てんなら、発情期だからヤりてぇって理由でもいいだろーが」
「そ、そんな直接的なこと、言えない」
大きく首を左右に振りながらも、次第に服を剥いでいく喜多川の手には抗えない。
だって、本当はずっと待っていた。
喜多川の手に、こうして触れてもらえることを。
「その割に一人で盛ってたのかよ」
さっきのキスだけで、既に下着の中で固くなっている透自身を布越しに撫でられて、ビクリと腰が跳ねる。
「あっ、だって……」
この期に及んで言い訳ばかり口走りそうな自分が、酷く不誠実に思えてくる。
喜多川はいつだって真っ直ぐだ。言葉にも行動にも、迷いや嘘がない。
反面、透はすぐに誤魔化して、及び腰になってしまう。
そんな自分が、喜多川の気持ちがわからないなんて、とんだ身勝手だ。本心を隠していたのは、透の方だった。
「体力温存しとけっつっただろ」
どこか不貞腐れたような声を落として、喜多川の手が透の下肢から最後の一枚を剥ぎ取る。
ここまで来たらさすがに隠せるはずもなく、心よりずっと正直に反応している身体が晒される。真っ直ぐに注がれる喜多川の視線は、透の本音を確かめているみたいだった。
初めてのときも、今だって、抗おうと思えばいくらでも抗えた。
喜多川はいつだって傲慢だ。でも決して無理強いはしない。ちゃんと透の意思を確認してくれる。
自分から裸の腕を伸ばして、透は目の前の身体へ抱きついた。
「……喜多川。この状況で説得力ないかも知れないけど、俺、喜多川の身体目当てじゃないよ」
「こっちだって、身体目当てならソッコー気絶するようなヤツに手ぇ出すかよ」
邪魔だとばかりに透の顔から眼鏡を取り去って、喜多川が深く唇を合わせてくる。
甘さなんてちっともない、意地悪な物言い。同時に与えられる、痺れるくらい甘いキス。
可愛くなくて可愛くて、どうしようもなく愛おしい。
遮るものが無くなって、より喜多川との距離が近付くのは嬉しいけれど、裸眼だと喜多川の顔がハッキリ見えないのが悔しい。
「っ、もっと……他の言い方、してってば」
透の訴えはあっさり聞き流して、喜多川の手が透の腹から胸へ這い上がる。
片方の尖りを指で、もう一方を舌で嬲られて、言葉を発する余裕が無くなってくる。ジンジンと痺れるような感覚が、触れられた箇所から脳天に駆け上がっていく。
固く勃ち上がったそこに歯を立てられると、反り返った自身の先端からジワリと蜜が溢れた。
まだ胸しか弄られていないのに、全身が燃えているみたいに熱い。
何もかもが初めてで不安だった前回とは違って、喜多川に与えられる刺激は素直に気持ちいいと思えたし、彼にもっと触れられたいという明確な欲求もあった。
「き、たがわ……っ、も、そこ、やめて……っ」
焦らすような愛撫に、疼く腰を浮かせて懇願する。
「俺ばっか、気持ちいいの、嫌だ……」
見た目も中身も冴えない透を求めてくれるなら、満足とまではいかなくても、喜多川にだって少しは悦くなってもらいたい。
「……言うようになったな」
ポツリと呟いて胸元から顔を上げた喜多川が、透の上でカーディガンとTシャツを脱ぎ去った。何気ないその仕草も、相手が喜多川だとやけに色っぽく見える。ただ服を脱ぐという行為が、今はとても特別なものに思えた。
透を自宅に通わせてくれるようになったこと。
寝室に入れてくれるようになったこと。
こうして素肌を晒してくれること。
喜多川との距離が、また少し縮まった気がして、無性に泣きそうになった。
しなやかな肉食獣のような喜多川に腰を掴まれて、期待とまだほんの僅かな不安に胸が震える。
「今日は途中で寝んなよ」
「前は寝たんじゃなくて───っ、ぅあ……ッ!」
反論は、透の中に挿り込んできた喜多川によって容易く遮られた。
根元まで収まったことを確認するみたいに、軽く揺さぶられただけで、透は呆気なく達した。散々一人で処理していたので、もう殆ど出るものはないのに、自慰とは比べものにならない絶頂感が全身を駆け巡る。
繋がっているのはほんの一部のはずなのに、頭の先からつま先まで、全てが喜多川で満たされているみたいだった。心と身体がバラバラだった前回とは違って、今はどちらも甘く蕩けて混ざり合っている。
絶頂の余韻に浸る間もなく最奥を突かれて、達したばかりのそこにみるみる熱が蘇ってくる。
「あっ、待って、まだ……っ」
立て続けに果ててしまいそうで、喜多川の身体に縋りつく。
大きな掌が、不意に透の後頭部を抱き寄せた。そのまま首元へ顔を埋めた喜多川が、汗の浮いた透の項へ唇を押し当てる。
───マーキング。
縄張りを侵されない為の、喜多川だけの特別な印。
表情も言葉も少ない喜多川の想いが、すべてそこに刻まれた気がして、涙が溢れた。
肩口にかかる熱い吐息。眼鏡がなくてぼやけた視界で揺れる、アッシュグレーの髪。
……喜多川も、満たされているだろうか。
透にとっても、喜多川が特別なのだと伝えたい。喜多川の心も身体も、満たせる存在でありたい。
喜多川に揺さぶられて揺蕩う思考で、透は半ば無意識に目の前の首筋へ歯を立てた。
「……っ」
驚いたように短く息を詰めて、喜多川が僅かに身を起こす。その反応に、透もつられて驚くと同時に、ハッと我に返った。
「なんでお前が噛んでんだよ」
「ご、ごめん……俺も喜多川の真似したくて、つい……」
「真似って、俺は噛んでねぇだろ」
顰め面になった喜多川の雄が、透の中でグッと質量を増した。
「んっ……!」
内側から押し拡げられる感覚に、思わず声が漏れる。
過敏になった内壁から伝わってくる、喜多川の熱量。
「……喜多川、もしかして、喜んでくれてる……?」
決まりが悪そうに舌打ちして、喜多川が透の腰を抱え直した。
「うるせぇ。煽ったからには覚悟してんだろーな」
「えっ、ちょっと待っ───ぁ、や……っ」
容赦ない律動が始まって、抗う間もなく透は快楽の波に翻弄される。
見慣れた自室の中に、喜多川の姿があるのが不思議で、夢でも見ているみたいだ。
意識を手放してしまったらこの幸せな夢から醒めてしまいそうで、透は必死に喜多川の背中にしがみつく。
以前は見る余裕すらなかった、喜多川の欲情を湛えた瞳がすぐ傍にある。その目が透だけを捉えているのだと思うと、堪らない気持ちになった。その視線をずっと独占していたいし、縛られていたい。
これまで何度も家に上げてもらっていながら、喜多川は過度に透に触れてくることはなかった。泊まりにいっても、同じベッドでは眠らなかった。
なのに今、透を翻弄している喜多川は、まるで箍が外れた獣みたいだ。
発情期のお陰で柔らかく蕩けきった透の中は、どれだけ激しく穿たれても快楽しか拾わない。
甘い声と涙を零しながら、薄れ始める意識の中で、やっと思い出した。
透が苦痛を感じない発情期を、喜多川がずっと待ってくれていたということを───。
もっと早く呼べば良かった。
透も喜多川が欲しくて堪らなかったのだと、素直に伝えれば良かった。
一夜を共にする相手には困らないはずの喜多川から求めて貰えることは、こんなにも特別なことなのに。
「っ、喜多川……好き。……大好き」
言えなかった欲求をぶつけるように、何度も「好き」と繰り返す。一際強く腰を打ち付けた喜多川が、透の耳朶に噛みついた。
「……これ以上噛まれたくねぇなら、ちょっと黙ってろ」
喜多川になら噛まれても構わないのに、なんて言ったら、きっとまた怒られる。
αと番えることが特別なのだと思っていたけれど、こんなにも大切に思い遣ってもらえるΩは、一体どのくらい居るのだろう。
発情期なんて理由がなくても、互いを満たし合う行為が、喜多川との日常になって欲しい。
そしていつか、喜多川が番うときが来たなら、その相手はどうか自分でありますように。
そんな願いを胸に抱きながら、喜多川の想いを全身で受け止めた透は、この日初めて、喜多川と同じベッドで夜を明かした。
本当の獣のように明け方まで交わっていたので、喜多川と『ゆっくり』眠れる日はまだ先になりそうだ。とはいえ、行為で疲れて眠る喜多川が見られたことは、きっと二人の新しい一歩になっている。
まだまだ大人とは言えない透と喜多川は、ようやく歩き始めたばかりだ。
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