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番外編 お題:『月が綺麗ですね』を言わせてみた
昔から夜は嫌いだった。
世間が寝静まる中、一人寝付けない自分が、世界から切り離されたような気がする。
子供の頃、父親だという男と共に暮らしていたが、いつも金だけを置いてどこかへ出掛けていく人間だったから、その男が自分の親だという認識はなかった。
母親に至っては、未だに血の繋がり自体が信じられない。
ある日突然、自分の母親だと知らされた相手は、ドラマに映画にCMにと引っ張りだこな有名女優。だが、華やかな表舞台で見せる顔と、女の素性はあまりにもかけ離れていて、亜貴はさっさと縁を切りたくて仕方がなかった。
会う度にキツイ香水の匂いを漂わせ、ブランド物に身を包んだ派手なハリボテの女には、心底うんざりしている。
頼んだわけでもないのに、夫以外の男との間に亜貴を産み、更にその事実は口外無用だと一方的に金を送りつけてくる。
父親らしい男も、気づけば亜貴の元には帰ってこなくなっていた。
親子、家族、絆───そんなもの、亜貴には一切無縁だった。
人との繋がりや温もりなんて理解できなかったし、しようとも思わなかった。
ただ眠れない夜の時間を埋める為だけに、女からの誘いに乗った。
この先もずっとそうして過ごしていくのだろうと思っていたし、それで良いと思っていた。
───そう思っていた、はずなのに。
「喜多川、どうしたの?」
ジッと窓の外を眺めていた亜貴に、テーブル越しに声が飛んでくる。
視線を向けた先には、黒髪に眼鏡の冴えないΩの男。
クラスメイトのそのΩが亜貴の部屋に居ることも、今ではすっかり目に馴染んでしまった。
自分でも、どうしてこんな眼鏡男を自宅に招き入れる仲になったのか、よくわからない。
キョトン、と見つめてくる、眼鏡の向こうの黒くて丸い瞳。
ただこの男は、亜貴に何も求めない。
あの女のように口止めしてくることも、煩わしい関係を迫ってくることもしない。
なのに、特に何をするでもなく、コイツは亜貴の元へやってくる。何が楽しいのか知らないが、居るだけで満足なんだそうだ。
そんな稀有な男と過ごす時間は、不思議と心地が良かった。
安らぎだとか、温もりなんてものはよくわからない。ただ、ずっと寝付けずに過ごしていた夜も、地味なこの男が来るようになってから、気づけば眠れるようになっていた。
再び窓の外に目を向けると、空にはほんの少し欠けた月が闇の中に浮かんでいる。夕方までは曇っていた空も、今は殆ど雲がなくなり、周りには星も見えていた。
月なんか気にしたこともなかったが、花火だ、流星群だ、と亜貴の部屋のベランダから眺める相手のお陰で、何となく空を見る習慣がついてしまった。
「……月」
ポツリと、短く呟く。かの小説家が使ったとされる告白が脳裏を掠めたが、流石にそのまま口にするような真似はしない。
それに何より、勤勉そうな見た目に反して成績は残念な目の前の相手に、それが通じるとも思えなかった。
「月? ……ああ、ホントだ。満月かな?」
「欠けてんだろ。眼鏡の度数合ってんのかよ」
「だって、ほぼ真ん丸だよ。欠けてても、綺麗だね」
何でもないように言って、冴えない顔がフワリと微笑む。その柔らかい笑顔は、亜貴の傍にはずっと無かったものだ。
どうせ言葉の意味なんてわかっていないのだろう。甘いカフェオレを呑気に啜る相手の眼鏡が湯気で曇る。
まさかこっちが言われる羽目になるとは思わず、柄にも無く面喰らった顔が見られなくて良かった。
相変わらず天然な透と過ごす、なんて事のない夜は、案外悪くない。
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