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第1話

 カラスが飛び回る。あれは人々を見張っているのだとテルア共和国では言われていた。カラスの目は人心を映すという。ツェントルム神国という得体の知れない国が滅んで300年経つ。天啓により加護を受けた国民が国民のため国民によって成り立っていた薄気味悪い国だと本にはある。当時国を指揮していた軍人の1人が一級戦犯として咎めを受けたともある文書に記してあった。そのツェントルム神国を操っていた300年前までは「神様」が、勇者と括られた者たちによって討たれた。導かれた民たちが信仰を捨てさせられ、天啓を閉ざされていくと、「神様」はやがて段々と邪に侵された魔となって、災害や疫病の原因と見做(みな)されてしまった。 「ふぅん」  ブラウンに近い赤みの差した瞳が紙面を滑る。黒髪の青年へリッシュは召集状を折り畳んだ。故郷を失ってから食い扶持を得るためテルア共和国の首都の警備を務めていた。魔王と呼ばれはじめた昔の神様を討ち取る際に、崩落した祠に下敷きになった。下にあった村は大火に巻き込まれ、壊滅し多くが死んだ。へリッシュはその生き残りで、勇者と括られた者たちの厚意によって首都に移り住むことになった。すぐにそうしようと決められたわけではなかった。生まれ育った場所であり、出会いや思い出もあった。召集状は、ひと財産築いた勇者たちと括られた者たちの筆頭からだった。移住を巡っては迷惑をかけたものだ。屋敷に来いという話だった。寂れて崩れかけ苔の生したテルア旧王城よりも規模は小さいが立派で手入れの行き届いた小さな城といった風な屋敷に出向く。 「よく来たね」  勇者たちと括られた集団の頭・リズンテールは銀髪と揃いのアイスグレーの瞳でへリッシュを見た。へリッシュはリズンテールが苦手だった。理由はない。ただ合わないと思った。理屈ではなく、空気と肌が相手を好意的に受け取れない。勇者と崇められ褒めそやされている相手であるからへリッシュは出来るだけ穏便な態度を心掛ける。 「お久しぶりです」  リズンテールはへリッシュの1つ下だった。右手に障害を抱えているらしく常に手袋をして、動きがぎこちない。噂では魔王討伐の際に受けた傷らしい。だがリズンテールは会ったばかりの頃、右腕を気にしたへリッシュに生まれつきだと説明して気を悪くする様子もなく笑った。 「君のことだから、無駄話も要らないか。本題に入るけれど…世話をしてほしい生き物がいるんだ」  リズンテールはへリッシュに苦手意識を持たれていることに気付いているようだった。互いにそのことを言及はしなかった。不本意で、事故であったとはいえ村に大損害を与えたことには多少なりとも負い目を感じているらしかった。その点についてはへリッシュも割り切ろうと思っているが、どちらかといえばリズンテールの雰囲気に何か相容れない、だがひどく一方的なものを覚える。 「世話してほしい生き物…で、ありますか」  リズンテールは頷いて、付いてくるように促し広い邸内を歩きはじめる。薄暗いが窓から日が差している物置きと化した最果ての部屋にある物騒な雰囲気の扉を開くと地下に続く螺旋階段があった。立派な邸宅を与えられたものだ。 「怖いかな」  そこは青く光りながら暗かった。湿っぽく肌寒く、石で作られた地下に辿り着くとリズンテールは訊ねた。何か大きな生き物なのか。まさか餌になれというのでは。 「ええ、まぁ、少し」  嘘を言っても仕方がない。あまり仲良くなれそうにないリズンテールに餌にされるのではないかという不安があることまでは言わなかった。 「巨大な怪獣だと思っているのかな。人だよ。反応が見たかったから言わなかったけれど」 「はぁ、そうでしたか。お恥ずかしいところを」  リズンテールは奥へと進み立ち止まる。牢屋だった。牢屋だろうとは思っていたが、井戸や天然氷や遺跡などがあることのほうを半ば期待していた。 「途中でみんな投げ出してしまってね。君の番が来たというわけだ」  美しいが冷ややかな顔が牢屋の中からへリッシュに向く。 「…であるなら、自分に出来るでしょうか」 「どうだろうね」  中を覗く。人がいるのは何となく分かったが姿はよく見えない。青い視界の中で暗く陰を落とす。 「何故このような場所で」 「少し暴れるんだよ。手枷足枷はしてあるし弱っているから大して怖くはない」  リズンテールは朗らかに笑う。 「罪人なのですか」 「罪人、か。罪人といえば罪人なのかな。罪人にさせられた罪人というべきか」  難しい返答をされる。罪人ではないが罪を着せられた者を匿っているということか。 「やってくれるかな」 「は、い。他の者たちが途中放棄したというのは気になりますが」 「ここ、寒いし暗いからね。螺旋階段も長いだろう」  リズンテールは事も無げに言うが、本質を逸らされているような気になった。あまり失礼な態度も取れずにいたが、リズンテールのほぼ同じ目線の高さにある双眸を正面から見つめてしまう。 「鍵は渡しておくよ。いつの時間に来てもいい」  屋敷入口の鍵、地下扉の鍵、この牢の鍵の3つが束ねられ、へリッシュは握らされた。冷たく乾いた手に掴まれ、指を軽く折り畳まれるまでを丁寧に。 「主に何をすれば」 「食事と、身の回りの世話、それから少し話し相手になって。最低限の食事の世話だけしてくれたら、それで帰っていいよ」  リズンテールは牢の鍵を開けて、へリッシュを中へと入れた。長い襤褸を頭から被っている人陰が動き、へリッシュへ襲いかかるように動いた。 「う、わ…」  後退る。足枷を嵌められ膝で立ち、がっしりと手枷を嵌めた手がへリッシュを掴んだ。リズンテールは見ているだけ。 「王国時代の典籍に、神は人心によって魔となるとラ・デクス・テ王は書き記しているけれど…」  リズンテールは呑気にへリッシュと繋がれた陰を眺める。 「この人、大丈夫なんですか?」 「ああ、彼ね、君の仇だよ」 「仇?」  顔を覆う布をリズンテールは剥がした。現れた姿にへリッシュは息を呑む。左半分の顔だけを残し、焼け爛れているように見えたが人とは異質な硬い鱗に覆われている。その残された左半分の顔に見覚えがあった。咄嗟に目の前の者の手を振り払ってしまう。 「やはり知り合いか」 「…っ、」  驚きと焦り、緊張に頭が真っ白になって、リズンテールの胸倉を掴み、柵へと押し付けた。 「難儀なものだね。人身供犠(じんしんくぎ)だよ、これでは」  リズンテールは突然の無礼に怒るでもなく初めてへリッシュに悩ましげな表情を見せた。いつもは透かして余裕のある態度を崩さずにいた。 「仇って…どうゆうことだよ!」 「魔王…いいや、旧ツェントルム神国の地神だ」 「で、も…っ」  左半分残っているではないか。長い襤褸の下で石畳の上に引き摺っているのは羽根が点々と付いた枝のような骨。人ではない。だがへリッシュの目には人に映った。 「君の村の者だろう」  突然別れを告げていった恋人。男同士だということに悲観して喧嘩し、他に好きな人がいるのだと言って村から去っていった。首都から訃報が届いたのは村が壊滅した後で、その時巻き込まれていたのだ、近くにいたのだと思っていた。神託の村。旧ツェントルム神国の時代からそう呼ばれていた。天啓を聞いた国民たちを統べる役目を担わされてきたと語り継がれ、そしてへリッシュも親や村の翁からそう聞いていた。 「葬るにはこうするしかなかった。依代にした者をそのまま斬るしか…でも、」 「それが、勇者様御一行の事実かよ」  へリッシュは力無くリズンテールの胸倉から手を離した。 「『おネがい…そノ人を責メる……な…』」  二重になった声が地下牢に響く。懐かしい声が埋もれて聞こえる。へリッシュは呆然とした。 「…すまない」  リズンテールは小さく謝った。勇者と呼ばれていたではないか。悪神を倒したと。知ってはならなかったことを知った。異形に侵食された恋人・チェントを抱き締める。生きていた。長い襤褸から黴の匂いがする。チェントはへリッシュを突っ撥ねた。長い爪が刺さる。だが些事だった。もう恋人ではないのだという態度にずばりと切り裂かれた気分になった。耐えられない。チェントに拒絶されたことも、チェントが勇者一行に利用されていたことも。暗く湿ったこの地下が嫌になる。抜け出したい。叫びそうになって駆け出す。長い螺旋階段を見て我に返った。生きていて嬉しい、はずだ。だがほとんど異形と化していた。衣服越しに触れた猛禽類のような長い爪にそのまま裂かれた心地。石の壁に手をついて呼吸を整える。石の冷たさに縋る。 「へリッシュ…」  背後から近付く足音。銀髪が仄暗い青に照っている。 「どうなってんだよ、ワケ分かんねぇ、あれが、魔王か?ツェントルム神国とか訳分かんねぇ御国の神様だっつーのかよ!」  リズンテールは淡々と肯定した。 「なんで真っ先にオレを呼ばない!」 「…彼が拒否した。会いたくないと」 「今になってか、じゃあ!何年前だ、あんたらが勇者様万歳って!崇められたの!」  3年、4年。その間チェントは。 「日に日に弱っている。おそらくもうすぐ、」  へリッシュは首を振った。リズンテールは言葉を止める。 「どうゆうことなんだよ、あいつは!あいつは他に好きなやつできたって言ったんだ!」  リズンテールは黙ったまま。 「あんたのことかよ…」 「それはち…」  黙れ!理不尽な怒りに身を任せ、リズンテールを殴る。階段に倒れてリズンテールは小さく呻いた。口角に血が滲む。はっとして、殴った感覚の残る手が震えた。謝ろうとして口も震え、声が出る前にリズンテールて手で制される。 「君は何も悪くない」 「…っ」 「すまなかった。会わせるべきでなかった。でも彼に君をどうしても…」  会わせたかった。リズンテールが言い終わる前に、またへリッシュは牢屋に戻る。細い右肩にぶつかった。 「チェント…」  柵を握って呼びかける。 「『来…ルナ…』」  拒まれたが開いたままの牢に入り、長い布の中で蹲るチェントに触れた。硬くざらざらとした手がへリッシュの手を払う。 「チェントがオレのこともう好きじゃなくても、オレは…」  まだ受け入れきれていない。鳥の脚のような皮膚。固まったまま動かない顔半分。黒い目の中に光る赤い瞳。 「まだ、好き…なのに…」  勢いよく起き上がり、硬い指に顎を掴まれる。硬さと柔らかさの共存した唇がへリッシュの唇を塞いで、すぐに離れた。キスを照れて自分からはしなかった思い出。 「『サヨ…な…ラ…ダ…』」  そう言って潜っていく長い布をへリッシュは大きく捲った。チェントは怯えながら身を丸くした。思い切り抱き締める。拒絶する長い爪が頬を掠め、皮膚を鋭く裂いた。血が滴り、チェントは目を見開く。 「チェント、」 「『離…セ……』」  逃げたがる硬く重い身体を胸に押し込む。訃報を見た。首都に移り住むのを拒んで、だが諦めがついた。壊滅した村に住んだところでもう帰ってこないのだから。 「離したくない」 「『君ニ、化物は似合わナい…』」  チェントは小刻みに震え、硬い質感の身体は強張っていた。 「嫌だ!そんなの自分で決める」  晴れた日に木陰で本をよく読んでいる同い年の村の眼鏡の少年をへリッシュはすぐ好きになった。彼もまたよくへリッシュを気に掛け、虫や花の名前、知識はほとんど彼から教わった。生活に必要のないものだったがそれでも話す機会が多くなることが嬉しかった。 「『ヘリー…』」 「もうオレのこと、どうでも、いい…?」 「『……そウ、…ダな……』」  視界が滲む。リズンテールも言ったではないか。会いたくないと拒否されたと。 「でも、また来る」  嫌がることは出来るだけしたくなかった。だがこのまま変貌を遂げて弱ったチェントと離別もまた嫌だった。チェントを腕から解放し、チェントは足元に落ちている布を被った。牢屋に鍵を掛けて、石畳の上を歩く。ひたすらに螺旋階段を上り、地上の眩しさでやっと長い螺旋階段を上りきっていたことを知る。エントランスを通って帰ろうとしたところでリズンテールに会った。リズンテールはへリッシュの顔を見ると、唖然とした。リズンテールを見ると腹の底が煮え繰り返る。 「へリッシュ…」  返事は殴打だった。円柱に背を打って、ずるずると床に落ちていく。大理石の床に裂けた頬から血と涙が滴る。 「オレは…、オレはぁ!…チェントがああなるんなら、世界が滅んだほうがよかった…!」  立ち去ろうとして、肩を掴まれ、向き合わされる。アイスグレーの瞳を捉える前に頬を打つ衝撃。 「君が何を言おうと、構わない…!だがそれだけは!それだけは二度と、…二度と口にするな…!」  頭の中が破裂したような気がした。リズンテールの細い首を掴む。 「チェント1人、人の幸せ捨てさせれば満足かよ!他の奴らが生きるためなら、チェント1人、人間としての未来を捨てりゃいいのか!」  首を押さえつけたまま、嘘のように頭が冷めていく。喉仏がゆっくり動いた。 「そうだよな。1人の人間の命より2人の命の方が尊いんだ。2人より、3人…ずっと、100人、1000人、100万人…っ。そうじゃなきゃ世の中成り立たない…自然の摂理なんだもんな…?」  リズンテールを乱暴に突き離す。周りに屋敷の警備が集まっていた。最悪だ。 「よせ、いい。彼は僕の客人だ」 「構うな。何するか分かんねぇ」  両腕を背中で合わせて大理石の床へと膝を落とす。警備がリズンテールに一礼してからへリッシュの両腕に枷を嵌めた。腕を引かれ、別室へ連れて行かれる。枷を前に嵌め直された。無礼者が放り込まれるには贅沢な部屋だった。滅んだ実家何軒分よりもずっと豪奢な造りだった。だが虚しい。貧しい村には貧しい村なりの暮らしがあって、そこにそれなりの満ち足りた幸せがあった。神だの悪神だの化物だの勇者だのの踏み台にされ、石ころ同然になった地でもへリッシュにとってはこの屋敷より住み易く肌に馴染んだ場所だった。仕方がない。結果として捨て駒になっただけで、捨て駒にするつもりがあったわけではない。誰にも咎はなく、誰かを咎めるつもりもない。生まれ故郷のことは。責めても仕方ないのだ。分かっている。理性で抑え込んだ憎悪が爆発する。地下牢で見た懐かしい姿がさらにそれを助長し、そしてどちらに対して怒っているのか分からなくなる。どちらもだ。深いグリーンに金糸の刺繍が施されたベッドカバーに放り込まれた格好のまま泣いた。泣き喚いた。体内を駆け巡る灼熱に荒れて、調度品を壊していく。花瓶の割れた音が衝動を煽る。額縁が落ち、踏み付けてガラスに亀裂が入る。スタンドライトが倒れて笠が転がる。観葉植物がバーミキュライトを撒き散らす。目に付くあらゆるものを攻撃せずにいられない。腕や拳に刺さる痛みでさえ失ったことを紛れさせはしない。壁を引っ掻いて、頭を叩き付ける。虚しいだけだ。血と涙と鼻水で顔中がぐしゃぐしゃとなる。落ち着いて血が滲む手の甲が熱くなっていく。爪が割れ、剥がれかけ、血が滲む。擦れた手枷から金属の匂いがする。身体を壁に預ける。数多の人間のため、まだ生まれぬ未来の人のため人である事を捨てた者を惜しみ悲しみ背負うような、勇者様御一行のような高尚な気はない。嫌だ。崇められ奉られ褒めそやされなくたっていい。好いた者に人生を歩んでほしかった。喪失感を背負いたくなどなかった。 「へリッシュ?」  扉をノックされる。呼ばれ、ノックされ、激しさを増す。立ち上がる気も起こらず何の反応もしないでいた。世界に災厄を齎すのだと危惧され早いうちから討ち取ったとされ、英雄扱いされている勇者一行はすでにへリッシュの中では仇に近い認識となった。特に大きな被害を受けた故郷は悲劇の村となり、慰霊のモニュメントが建つだとか何だとかいう話を以前耳にした。話半分で聞いていた。当事者でない者は気楽だ。ここに多く死んだ人がいる、祖母が大火に巻き込まれた、弟が家の下敷きになって、天涯孤独になったと知らしめたいわけではない。祖母と弟の生きた証とでもいうのか。ただのモニュメントだ。まだ整理がつかない。いつか素直に受け入れ、そのモニュメントに感謝する日が来るのだろう。そう思っていた。ここで怒りを発掘せずにいられたなら。チェントは姉夫婦が亡くなったことを知っているのだろうか。避難誘導で遅れて大火に撒かれた父のことは。思い出したくない光景が次々と溢れぬるついた頭部を抱える。額と指先に鋭い痛みが走って、感覚に逃げる。扉から軽快な音がしてドアノブが回った。どうでもよかった。 「へリッシュ!」  脇に座るリズンテールに触れられる。焼け爛れそうだ。反射だった。腕を振り上げる。 「君にこんな目に遭ってもらうためにチェントは依代になったんじゃない」 「チェントが依代になったからだろ。オレのことなんてどうでもよかったんだ…」 「救いたい中に君がいた。それだけだろう」  壁にぶつけて破れた皮膚から隙間風でも吹き込んでいるのか頭が冷めて冷めて仕方がない。 「へリッシュ…」 「ただ死んだんじゃない、焼かれたんだ。焼かれただけじゃない。建物に押し潰されて、最初よく分からなかったよ、なんでこんなんなってるのか。これが例の災厄かよって」  言うつもりはなかった。特に勇者一行のリズンテールに言うには酷だと思った。誰にも言わないつもりでいた。他に生き残った者は怪我が癒えずそのまま死んだり、喪失感や心的外傷に耐えられず精神を病んだり、自死したりした。変わらず日常生活を歩めているのは自身だけと知った時、彼等と思い出や傷を共有しようとすることは諦め、会わないようにした。 「火が怖くてオレは弟を見捨てたんだ。ばあちゃんが寝てたの起こさなかった…くそ…!」  津波が炎も村も全てを呑んで、結局今は何も残っていない。高台で一部始終を見下ろしていた。淡々と。生きていることだけを実感して。地が揺れたら海に近いこの辺りはすぐに高台に避難したほうがいいかも知れないな。皮肉にも昔チェントが言ったことを守って、助かってしまった。リズンテールは何も言わない。近くで小さく動いた。急に肩を掴まれ、唇を奪われる。現状を把握するより先に口に何か押し込まれた。水と何か固形物が当たった。飲み込んでしまってから気付く。口元を血塗れの手の甲で拭ってリズンテールを睨んだ。リズンテールはへリッシュをただ見ている。無表情に見えるが、困っているようにも、傷付いているようにも見える。胃の辺りがじわりじわりと弱く沁みて視界が霞む。真実を知ってしまった自身を抹殺するつもりか。ふとそう思って、だが危機感はなかった。あの村は消える。何があったのかきちんと語り継がれることなく。魔王の最期の足掻きで消され、大火に巻かれ津波に持っていかれたのだと。 村の日々は悪くなかった。あまり土は肥えていなかったため、少し遠いが肥沃な地にある町まで村の若者たちで土を買いに行ったものだ。魚や海のものを中心に、たまに海産物や工芸品を求めやって来る商人からついでに豚や牛の肉を買った。卵を産み、肉になる鶏には敬意を払った。村長が趣味で作った丸太小屋では、チェントが字の読み書きを教えた。チェントの姉の夫は村長の息子だった。子を成せないという点以外であれば、チェントとの関係は村もへリッシュの目にする限りは寛容だったように思う。物知りで勤勉家で、冷たそうに見えて優しく子供好きで照れ屋なチェントが好きだった。たとえ異形の身であっても、あの化物がチェントであるなら躊躇いはない。あの異形の中にチェントはいた。殺さないで。あの人を殺さないで。別れても好きなんだ。たとえ悪神の依代でも。誰に宛てたかも分からないままもがく。あの人を殺さないで。好きだと告げた日。照れて、俺も、と小さく言った。初めて唇を重ねた日。やはり彼は照れて、顔を逸らして耳まで真っ赤にしていた。肌を合わせた日。今すぐ安らかに世界が終わったらいいと思った。指輪を送った日。海岸で星を見て、指も安い銀が光った。別れを告げられた日。安らかに世界が続いて好きな人と暮らしてほしいと願いながら沈んだ。気持ちが離れられても幸せに生きてくれてさえいるなら、傍にいなくてよかった。彼が傍にいなくても生きていられる。訃報が届いて一度だけ怒りが湧いた。まだ村民でいたことに。遠い地に行ったのではなかったかと。家々の骨組みがわずかと土台が残った村に座り込んで、今と同じように無力感に襲われた。空が軋んで村が燃え、海によって鎮火され、瓦礫や遺体が大海原へ消えていった。魔王が齎す災厄の一片だろう。だがへリッシュにしてみれば世界が終わった。それを思い出さないようにしていた。悪夢に魘されることもなくのうのうと生きてきた。割り切ったつもりでいた。実感が湧かないでいただけだ。チェントの姿を見て、失ったものと仕方ない悪気はないと封じ込めなければならなかった憎悪が引っ掻き回される。あの人を殺さないで。別れたはずだ。喧嘩して、納得したはずだ。そこまで言うなら余程好きな人なのだと、送り出したはずだ。帰って来るならいつもどおりに迎え入れるつもりだった。悲しみに囚われるならろくでなしになっても慰めるつもりでいた。だがあの姿はなんだ。人ではなかった。感触が違った。化物だった。しかしチェントを見出してしまった。あの人を殺さないで。苦しさに喘ぐ。胸が熱い。男同士は恥ずかしいと言われた。好きなやつなら恥ずかしくない。馬鹿にされても、理屈を説かれても、気にしないと決めた。悪神でも悪魔でも人でなくていい。あの人を殺さないで。 「あ…の人を、ころ…さ……で…」  身体中が熱い。力む手に何か乗る。冷たさに握り締める。カラカラになった口内に入り込む冷たさに気分が凪いでいく。  終戦記念日に海に花を流した。神託の村は肩書きだけが残り、神託など何もない。昔は生まれた時から天啓が聞こえたというがへリッシュは聞いたことがない。チェントも弟も祖母も聞いたことがないと言った。それでも先代が世話になったのだと、海に花を撒く。祈った。拝んだ。崇めた。尊んだ。それでも村は滅んだ。 「こ、…さな、…で…」  暑く苦しい。虹色に照り、暑い日の地面を思わせる妙な力が纏わり付いた岩が建物へ降り注ぎ、轟音を立て崩れていく。避難に必死だった。2人しかいない身内を見捨てて、ただ生き残ることに必死だった。あの時、すでに別れた想い人は。依代にされていた。人として生きていくことを諦めさせられた。暗く湿った地下牢でずっと生きていくのか。命尽きるまで。嫌だ。想い人は微風と晴れた日の木陰が好きだったのだから。傍にいて叶えられないのが嫌だ。連れ出す。自身に化物の恋人が似合わないのではない。あの者にあの場所が似合わないのだ。息苦しさに喘ぐ。額に乗せられた冷たさにまた気が緩む。少しずつ生温かさを帯びて首や胸を通る。寒暖差の激しくなる季節の変わり目にへリッシュはよく体調を崩した。背は高いが色白で貧弱そうなチェントは細々と軽く体調不良を起こすが流行病や季節の変わり目には強かった。パスティーナの野菜スープをよく作っては食べさせてくれた。今度は自分が支えるのが愛した者へするべきことではないのか。また身体が熱くなる。彼のパスティーナの野菜スープを思い出したからか。甘やかな記憶か。 「あの…を、…さ…いで……」  まだ違う。まだ孤独ではない。まだ村は終わっていない。まだ気持ちの中で終わっていなかった。自身の中で終わらせることにさえ躊躇いがあるというのに。どこかで終止符を打たねばならないと思っていて、打った気でいたというのに。誰かが恐れ戦くなら好きにしたらいい。石をぶつけるなら守ろう。罵倒されただけ好きと言おう。目元を拭われ、額から生温さが消え、また冷たさが戻る。締め付けられていたような圧迫が解け、胸や脇腹まで冷たさが訪れる。掌に質量を感じ、指の股を押されるような感覚が残ったまま身体に当たる空気が変わる。下唇がむず痒くなった。照れてキスに狼狽するチェントの姿が脳裏を過る。まだ好きだ。ずっと好きだ。これからも。他に好きな人がいても、何かに取り憑かれていても。殺されてしまう。魔王だから。悪神だから、神だったのに。殺されてしまう。殺さないで。殺されてしまう。 「ぅぐ…ぅあああぅ、」  嫌だ。嫌だ。嫌だ。暴れ、軋む。殺さないで。呼ばれる。遠くで何度も呼ばれる。あの人はヘリーと呼ぶ。ならばあの人ではない。どこにいる。処された。世界は平和になりました。平和になっていない。ならばお前は世界ではない。 「ぁあっ、ぐ…っ、く…」  両腕を押さえ込まれる。鋭く小さい痛みに刺され、痺れていく。世界ではない。あの人の居ない世界は平和だ。違う、違う、嫌だ。やめてくれ。殺さないでくれ。世界の一部でなくてもいいから、殺さないで、世界中の人々の血の海の上で2人で暮らそう。あの人は優しいからきっと喜ばない。分かっている。喜ばないと分かって何故望んだ。 「…っ、ぐ、…う、ぅう…」  身体中が痺れていく。違う。望んでいない。平和にならなかった。偽りだ。偽りの平和に喜んでいる。憎い。村の者を慮らなかった奴等が。巻き込んだ勇者御一行様が。何も知らず平和に浸る者たちが。

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