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第31話 名前を呼んで ※
落ちた目線の先で、綺麗に張られていたはずのシーツがぐしゃぐしゃに皺寄っていた。
それは玩具に翻弄された亜樹が、身悶えて握り締めた跡だった。
どこかボンヤリとその皺を追いかけてしまうのは、一種の現実逃避のようなものだったのかもしれない。
そして亜樹の周りにあるその皺は、和真の元に辿りつくものはなかった。
含まれるビーズが苦しかった。
捲られた縁を弄われる辛さも、内部の痼りから与えられる強すぎる快感も堪えていた。
それでもさらに渡されたステンレス製のブジーに、亜樹の顔がクシャリと歪んだ。
「亜樹、早く入れろ」
俯いたままの亜樹の耳に、和真の冷たい声が聞こえてくる。
名前を呼ぶ冷たいその響きに、亜樹が唇を噛みしめた。
「お願い……お願い…せめて、いつもみたいに、名前を呼んで……」
そうすれば、頑張れる。
(和真が触れてくれなくても、ちゃんと、俺頑張るから……)
だから、せめて。
せめて今までのように諭すようなあの声音で。
「亜樹」って呼んでもらいたかった。
亜樹の言葉に何かを逡巡しているのか、黙り込んだ和真との間に沈黙がわずかに落ちてくる。
すぐに断られなかった状況に、抗う気力を無くした亜樹の心が縋るように期待を抱いた。
「あれは、恋人に向けた声だ。お前はペットなんだろ?」
それなのに頭上から聞こえてきたのは、そんな言葉だった。
(あの声さえも、俺に向けたものじゃないの───?)
鈍器で殴られたような衝撃に、亜樹が目を大きく見開いた。
道具を握る指先が一気に冷えていく。
自分を通してみていた本当の恋人のものだと言うのなら。
その誰かが羨ましくて、妬ましかった。
(痛い。苦しい。辛い。痛い、痛い、痛い───)
疲弊した心が悲鳴を上げていく。
それなのに、強すぎる快楽に、あれだけ生理的には流れていた涙が、やっぱり出てくる様子がない。
和真に向かって見開いた目の奥は熱くズキズキと痛むのに、その両目は乾いたままだった。
(その誰かに成りたかった───)
でもムリだと分かっている。
分かっているのに、このままもう頑張るには辛すぎるから。
「お願い、今だけ、今だけ、和真の恋人だと思って」
名前を呼んで欲しい、と亜樹は懇願せずにはいられなかった。
「お願い、目を閉じて。俺を見ないで。その人の事浮かべてていいから。前みたいに、一回だけ、一回だけ名前を呼んで」
(一回だけで、良い。お願いだから、断らないで)
「何を言ってる?」
和真のその声音は、困惑しているように聞こえていた。
(ど、どうしよう、このままじゃ断られる。ダメだって言われる……)
焦燥感に口の中が乾いていく。
「ほ、ほら、別な人を思い浮かべてても、前は俺の名前呼べたでしょ。だから、同じように、ね、お願い」
拒否の言葉を聞きたくなくて、亜樹は思い浮かぶ限りの説得の言葉を次々に紡いでいた。
困らせたいわけじゃない。
だけど、たたみかけるような言葉が、どうしても止まらなかった。
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