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第1話

 兄は厳しい人だった。大空が遠くに広がる。  ノールは殴られた頬を摩った。剣を忙しなく抜いては鞘に戻し、気が進まないまま石に包まれた寒い地下へと入っていく。それなりの整備はされた廊下の果てにある重苦し扉を開く。石畳に石の床。鎖がじゃらじゃらとうるさく鳴った。首輪に繋がれた人間が3人、顔に袋を被せられ、両手が後ろ手に縛られ、膝で立っている。兄が侵略した国の生き残りだ。姫は殺されたが、侍女を無理矢理に娶った。処分せよと命じられ、出来ずに戻ると務めを果たせと殴られてまた戻ってきた。せめて1人でもお前の手で仕留めよと。おそらく中年の女と、おそらく老人、そして若者と思しき男。手癖で剣をキンキンと抜き差ししてしまう。剣術の師から散々に注意され怒鳴られ手の甲を抓られても緊張するとついやってしまうのだ。 「助けておくれ!死にたくない!助けておくれ…!」 「…さっさと殺せぇ…!侵略者め!恥を知れ!」  中年の女と老人と思しき捕虜が喚いて石の室内に響いた。ノールは2人を冷たく見下ろす。乳母に似ている。世話役に似ている。剣を抜いたはいいが斬れそうにない。黙っている若者らしき体格の良い捕虜の前に立つ。首に剣を突き付けてみる。袋を被せられているため相手には分からないだろう。 「死にたく、ない…なんでもする…殺さないで、くれ…」  雰囲気で悟ったのか若者は喋った。 「頼む…、沢山兵を殺めたのは…、だが…私も、」 「もしかしてあんた、軍人?」  息を呑むのが分かった。会話が聞こえたらしい2人の捕虜が喚き散らした。1人は恨み言、1人は憤怒。捕虜に軍人がいるとは知らなかった。身形は平民と変わりがない。石部屋の外にいる兵を呼ぶ。平民2人の拘束を解き、他言すれば殺すと脅しをかけ、兵に解放するよう命じた。ノールは1人残された捕虜を見下ろす。拘束を解こうと必死だ。 「恥ずかしく、ないの。生き恥じゃん」  キンキンと剣を抜き差しする。そう生き方もある。立場に縛られる必要などない。 「生き恥でも、構わない…たの、む…殺さないでく、れ…なんでも…しよう、仰せのままに…」  ノールは被せられた袋を取った。凛々しくも端整な顔が現れる。小麦色よりも浅黒い肌によく映える銀髪。グリーンを囲む長い睫毛も美しかった。ノールは言葉を失って、それから脳裏を過ぎった突然できた義姉を思い出す。同じ肌の色に銀髪で、翡翠の瞳をしていた。国が同じなのだから不思議はない。ただ言葉を失って、キンキンと剣を抜き差しする癖が止んだ石部屋はいやに静かだった。 「頼…む…殺す、な…」  余程怯えているのか唇からは血が滲んでいた。抜剣する気はない。ノールは人を殺したことがない。刺したこともない。斬ったこともない。果物ナイフで手を切るのも怖いのだ。自身の痛みを覚悟してまで武力を晒すつもりなど一切ない。 「生かしても奴隷しかやることないけど」  顎を掴む。大きな首輪が鳴る。似合うと思った。 「…ッ、」  悔しさは隠さず、若い軍人はノールから目を逸らし、歯を軋ませる。 「オレの奴隷になる?きっとつらいよ。痛くて、苦しいよ」  かといってこの男を斬れるだろうか。斬れたとして、苦痛を伴うかも知れない。藁で編まれた人形しか斬ったことがない。骨の上に筋肉の乗った若い身体を一撃で絶命させられるかというと自信はなかった。 「……構わ、ない…」  若い捕虜は震えた声でそう言った。兄は怒るだろう。第一皇子という誇りに満ち溢れている。新しい妻を無理矢理迎えて国も大きくしたところで有頂天になっているかと思ったが帰城早々から難しい顔をしてノールにも難題を突き付けてくる。いつまでも第二皇子の座に甘えているなと顔を見るたびに叱られた。兄・シャルグは歳の離れたノールが好きではないらしかった。親子といっても不自然ではないくらいに離れたノールの弟には少し甘い。 「…分かった」  奴隷を志願した若い軍人の首輪を通る鎖を持って、兄の元へと向かった。ただで済むとは思っていない。兄の部屋の前にいる兵に剣を渡した。手に巻き付け冷たい鎖を握り直す。 「また出来ませんでしたではすまないぞ!」  来訪者がノールと知るや否やシャルグは椅子に座って怒鳴った。ノールは跪く。 「"それ"は」  ノールへの興味を失い、後ろに控えた奴隷へ視線を移す。 「奴隷に致しました」  シャルグは片眉を上げる。奴隷の前に歩み寄り、銀の髪を積み上げる。 「奴隷にしては随分と頭が高いな。ペットかと思ったぞ」  ノールは豪奢な真紅の絨毯の毛を眺めているだけだった。特段あの男は礼を失した態度や体勢を取っていたわけではなかったが、奴隷が人のように振る舞うなと言いたいらしかった。手に巻いた鎖が動く。首輪近くを引かれて、うぅ、と低く奴隷が小さく呻いた。 「躾も出来ない愚か者が何の真似事か」  ノールは動かずただ真紅の絨毯を眺めている。足元が近付いてくる。歯を食い縛る。長年の付き合いで嫌でも分かってしまうのだ。重い拳が頬を打つ。体勢を崩すと起こされ、また顔を打った。目元の皮膚がぴくりぴくりと痙攣する。破裂したような熱が鈍い痛みへと変わっていく。暫く殴打の雨は降り止まず、鈍く乾いた音に湿り気が混じり始めると、ふと痛みの驟雨は止む。 「以上が報告でございます」 「ならば失せろ」  立ち上がって、奴隷を連れ部屋の外に出る。剣を返されて、奴隷のほうを向くこともない自室に戻りながらぽつぽつと話す。 「…兄上はオレが嫌いなんだ。その奴隷になったら何されるかオレにも分からない」  足音も立てず吐息の音ひとつ感じさせない後方を確認する。鎖に重量感は乗っているが、本当に繋いでいるのか不思議になった。奴隷はどうしたとばかりにノールを見る。 「喋っていいよ。…オレの命令に逆らっても、兄上を尊重してね。機嫌損ねると城内歩けなくなるから」  屋根裏部屋はついているが粗末な最上階が部屋だった。自覚のない者にはここがちょうどいい、と与えられた部屋を奪われ、元の部屋の半分の半分ほどの部屋へ押し込められた。適当にベッドの柵へ鎖を繋ぐ。 「名前は?」 「ヴェスティーンと」  ベッドに座ったノールの足元に跪く。奴隷というより騎士に見えた。しなやかな身体に安心感を覚える。 「じゃあヴェスタ。オレはノール」  ヴェスティーンの身体は震えていた。唇を噛んでいる。怯えているのか。怖いのか。粗末な屋根裏部屋の下で住む、何の権限もない第二皇子が。 「誕生日は2月4日。好きな物はトマトとカニとブロッコリーのクリームパスタで、虎が好き。大事なものは母上がくれた白翡翠のペンダント」  ノールはまだ淡々と必要のない自分のことを話す。ヴェスティーンは跪いて頭を伏せている。顎を掬い上げる。抵抗など許されない奴隷は翠の双眸をノールへ向けた。 「これからの生活はきっと痛い。つらいし苦しいよ、きっと。殺してくれ、死なせてくれと言われてもオレは人なんて斬れない」  それでもいいね?  喉仏が上下する。兄と同じ歳の頃に思えた。屈辱だろう。だが野に放てば軍人というからには危険因子になる。城内の地形や内情を把握されていたら困る。見せしめにもならない。軍人の捕虜まで逃すような弱味のある国だと思われるわけにはいかない。火種になる。 「それでオレは、きっとあんたを大事にできない」  堅かった翡翠の瞳とその周辺がわずかに緩んだ。言葉の意味を探られているのは分かったが答える気は起きなかった。 「大きな生き物飼うの初めてなんだ」  銀の髪を撫でる。少し固さがある。揉み込むように手櫛を入れた。 「過去を捨てて。出来なかったら…どうしてもつらかったら死んでいい」  頬や首筋に触れ、肩や二の腕をなぞる。日に焼けても赤くなり結局は白く戻ってしまう自身と違う色味が美しいと思った。煌めく銀糸の先を掌で遊ばせてみる。ヴェスティーンは微動だにしない。美獣を手に入れた。奴隷。兄と同じ背格好で同じくらいの歳。そう思うと怖くなって触れていた手を引っ込める。 「あとは好きにせよ」  好きにせよと言っても鎖で繋がれてやることは限られている。寝るにしても床では痛いだろう。躾だ、自覚を持てと物置に閉じ込められた時に床で寝る身体の軋みは知っている。マットレスが倉庫にあるかも知れない。ヴェスティーンを置いて、ノールは倉庫へ向かった。 「おい」  高圧的な声にノールは足を止める。女だ。女というだけではない。義理の姉。 「義姉上?」  振り向いて、大仰に挨拶を交わしながら片膝を着く。 「よせ。勝った国の皇子が片膝など着くな…その顔はどうした」 「兄上の癇に触りましてございます」  浅く焼けた肌に銀髪の美しいが苛烈な女性だった。一目見て苦手だと思った。 「新しくペットを飼ったと聞いてな。白いのだろう?…銀狐か?白虎か?」  義姉・アウステラは動物好きなのだろうか。冷淡でシャルグにも屈服を見せないようが、意外な一面もあると思った。 「いいえ…」 「どこかに行くつもりだったのか?」 「倉庫へ」  ならばついていこう。アウステラはシャルグの趣味と思われる白いノースリーブのドレスを身に纏っていた。マーメイドドレスをという脚の動きを制限する形をしているためノールは気を遣って歩いた。 「城の生活は暇だ」 「何か面白いことがあればいいのですが、自分には生憎」 「兄と比べて細いな。それに白い。剣の鍛錬でもしてやろうか」  アウステラは無理矢理婚姻を結ばされたにしては随分とノールに友好的な態度を取る。割り切った性分なのか、ノールに皇子としての風格を見出せないでいるのか。 「義姉上。自分は、…貴方の国を侵略した敵国の皇子です」  自覚を持てとシャルグに叱咤される。聞いてはいないだろう。だがノールの中に住み着いたシャルグが憤慨している。 「知っている。王も姫様も民も死んだな」  目の前で殺された。アウステラは事も無げに答えた。腹に剣が貫かれるのを見たと語った。使用人の女たちが無体を強いられているのを見たと。 「ならば、ご自覚を…。亡くなった者たちのためにも…」 「誰が犠牲になろうと戦争はせねばならなかった。はいそうですかとお前らの奴隷になり、教育も制度も受けられず、家畜と化させるわけにはいかない」  アウステラはやはり淡々としていた。シャルグは始末の悪い女を娶ったと思った。 「勝敗を決めるのは敗戦国だ、勘違いするな。負けねばならぬ。勝った貴様らは疲弊しろ。消耗し往ね」  袋を被せられ命を乞う捕虜の喚き。軍人を罵倒と恨み言。予定外の奴隷。キンキンと耳に残る金属音。 「この戦争は貴方の所為ではありません。貴方が決めた事でもなく、貴方は巻き込まれた。ですが、生き残った人の傲慢に付き合う気はございません」  アウステラに改める様子はない。 「抵抗の意思は見せた。文化と言語を消すわけにはいかなかった。お前らには目の前を飛ぶ蝿に見えてもな」 「勝った国だからといって失ったものがないわけではありませんよ。…自分は何も失っていませんが」  挑発的にアウステラは歪んだ笑みを浮かべた。 「浮かれ気分でペットを飼いはじめるくらいだものな」  倉庫に入る。埃っぽく蜘蛛の巣が張っている。真っ白いノースリーブのマーメイドドレスに高く華奢なヒールを履かせられているというのに頓着する様子もなくアウステラも倉庫へ入ってくる。このことが耳に入ればシャルグにまた怒られるだろう。 「何を探している?」 「マットレスを」  アウステラは裾を上げ、倉庫の中の物を掻き分けてノールに近付いた。ピンヒールの音と物音がする。アウステラは先程のやり取りを露ほども気にしていなさそうだった。安全な領域にいる者には分からない。命を乞い、喚き、他者を罵り、自由を捨てる、巻き込まれた者たちのことや、何の恨みもない者を斬らねばならない者がいることなど。 「これだな」  背を向けていたアウステラがぽすぽすと壁に立てかけられた物を叩く。埃が舞った。 「新しいペットの寝床か」 「……そうですね、ただ、」 「早く持っていくぞ」  アウステラは埃をかぶったマットレスを抱き込もうとしたが、周辺が散らかり動かせなかった。 「お召し物が汚れます」 「服など着ていれば汚れるものだ」  1人では引き摺ってしまうため、アウステラの手伝いはありがたかった。ただ義姉の手を借りているのが心苦しい。 「弟は無口だと聞いていた。思っていたよりはよく喋るのだな」  マットレスを運びながら、長い階段に上がり頃になってノールは足を止めた。アウステラの格好では無理ではなくても困難だ。 「ここまでで。お手を煩わせまして…」 「…そうか。是非とも見てみたかったが」  長い階段の果てを見上げ、アウステラは言った。またの機会に。心にも無い約束を取り付ける。アウステラはすぐに返事をせずに小さく下を向いてから、はっとしたようにノールを見て亡国の生き残りとは思えない笑みを浮かべた。兄の妻が愚鈍なことを憂いていいのか、それとも喜んでいいのか分からない。マットレスを壁に擦り上げ頭の上に乗せ、狭い両脇の壁に支えられながら自室へと向かう。ヴェスティーンはおとなしくしているだろうか。扉を開く。ヴェスティーンはノールのベッドの脇にいた。ノールを目で追っている。ノールは窓を開いて近くでマットレスを叩き、室内に埃と塵が舞った。窓際に寝かせてやりたい。微風が窓から吹き付け、塵が緩く渦巻いている。 「いい子にしてたの」  何となく新しい同居人を構う気になった。兄と同じくらいの大きな男だった。シャルグに似ずノールはあまり背が高くない。ヴェスティーンは驚いた顔をして、それを応答とした。 「今日からここで寝て。とりあえず干してタオル敷くけど、カビ臭かったらごめん」  ヴェスティーンはノールを見つめるだけ。ノールの窓際に垂直に置いたベッドの対面にマットレスを置く。日差しがよく入った。寝首を掻かれたら困る。 「ご、…ご主人…さ、様…」  躊躇いがちに呼ばれた。二皇子な皇子と呼ばれることはあってもご主人様と呼ばれたことはなかった。 「無理しなくていいよ。…オレは、奴隷の扱い方なんて知らないから。兄上は知ってるみたいだけど」  凛々しさと美しさ、健やかな色気を纏った顔を見下ろした。膝を着いてノールの視線を恐れ、翡翠は銀の睫毛に隠れて伏せられた。 「さっき義姉上と話したんだ」  美しいペットの前にノールも座った。控えめに少しずつヴェスティーンは頭を上げる。 「ちょっと苦手だと思った。綺麗だし割り切ってるところは、接しやすいんだけど」  あんたに言っても仕方ないね。黙ったままのヴェスティーンを見て小さく苦笑した。会うことはないだろう。シャルグにヴェスティーンを会わせたのは捕虜を殺せなかったこと、奴隷として城内を連れ歩く赦しを乞うためのもので、それ以外にシャルグに会わせることはない。となれば義姉に会うこともないだろう。 「腹減ったろ。何か持ってくる」  世話役も付けられず、身の回りのことは自分でやらねばならない。階段を下りる。優しい父はシャルグを頼りきっている。有力な跡継ぎだ。父と兄と弟は団欒の時間を過ごすがノールはそれが叶わなかった。悲しさや寂しさは特にない。母がいなくなってからはあまり親類に頓着し無くなっていた。時折気にしてやってくる母の兄だけがノールは積極的に言葉を交わせる相手だった。城の者たちはノールを哀れんだが、ノールは特に哀れみを受けるほどのことには思えなかった。食うに困らず住むところがあり、着るものもある。戦が始まれば真っ先に守られ、何の責任も問われない。何の不安を抱き、何の不穏を憂うこともない生活。哀れまれるのなら平民だろう。廊下に出るとシャルグが立ち塞がっていた。ノールはグッと胃が引き絞られるのを感じる。冷たい瞳がノールを見た。揃いの瞳の色だが、向けられると身体が動かなくなってしまう。無言のままノールの脇を通り過ぎる。 「兄上…」 「お前はお前のすることをせよ」  振り返って言い捨てられるとノールは何をするのかと問えなかった。ヴェスティーンに何かするつもりだ。それ以外に来訪の目的がない。一度はまた食べる物を取りに行こうとしたが、もやもやとした不快感に階段を上っていくシャルグを追う。 「兄上!」  開きっ放しの扉から中を覗く。やはりシャルグはヴェスティーンの前に屈んでいる。無関心ながらも一瞥される。 「奴隷はこうして飯を強請れ」  シャルグの手がヴェスティーンの腿を叩く。爪先で立たせ、両膝を開かせる。両手を上げさせ後頭部に当てると両肘を開かせた。 「何を!」  一瞬で全身が炙られているように熱に包まれ、後先も考えられずシャルグの肩を掴んだ。 「…私の奴隷です」  肩を掴んだ腕を取られて投げ飛ばされる。背中を強く打ち付けた。 「何をしている」  シャルグが怒鳴りつける。問いたいのはノールだった。 「……私の奴隷です」 「何を言っている。敗戦国の軍人だぞ」  シャルグはヴェスティーンの首を掴む。寝ている場合ではなくなり、跳び起きた。 「殺されたって文句はないな?」 「お、たす…け、くだ…ころ、さな…」  翠の目がシャルグに懇願する。シャルグが笑った。あくまでも、皇族としての自覚、気品に満ち溢れて笑い声を噛み殺した笑い。嫌いだった。 「おやめください」  シャルグの腕に抵抗するヴェスティーンの手が触れそうになった。難癖付けるのが目に見えている。 「…お帰りください」  シャルグからヴェスティーンを庇うように割って入る。 「アウステラがお前の"ペット"に執心だ。粗相があったら困るだろう?」  ヴェスティーンの眉間が歪む。シャルグはヴェスティーンの首を掴んでいた腕を上へとなぞる。乾いた下唇に触れた。ノールは黙る。 「奴隷の扱い方も知らないとは情けない」  俯いているとシャルグは飽きたのか部屋から去ろうとした。だがノールとすれ違って数歩で足を止める。まだ何かあるのか。 「何を勘違いしている」  シャルグは陰湿な笑みを浮かべてノールを見下ろした。冷たい瞳に真意を問う。勘違いとは。 「懲罰房に行くだろう。お前は次期皇帝である私に手を上げた。無事で済めば示しがつかない。そうだな?」  ヴェスティーンと目が合った。揺らいでいる。 「…すぐに」  シャルグに連れられる。 「ご飯、もうちょっと…待っていて」  膝を開き爪先で屈まされたままのヴェスティーンの両肩を押して体勢を崩させる。シャルグはそのやりとりがつまらないらしく空虚に眺めている。 「随分とあの奴隷が気に入っているようだが」 「…まさか」  言ったくせシャルグは興味を示さない。長い廊下を歩き地下へと向かう。地下2階に牢屋があるが今は終戦直後で裁きを待つものが多く捕らえられているためノールは地下1階の石壁の部屋に幽閉された。 「一夜そこで反省せよ。明日の朝に処してやる」 「…はい」  扉が閉まり、1人になった。部屋に置いてきた同居人が頭に残った。シャルグに虐げられてしまう。忠告はした。これからは2人だ。これからは1人ではない。巻き込むかたちで2人でシャルグの虐めを受けるつもりでいた。殺せと命じられて、殺すつもりもなければ殺せなかった。命乞いされて救われた節がある。冷たい床に腰を下ろす。石畳でごつごつとし、座り心地は良くなかった。反省しろと言われても反省するだけのことをした覚えがない。機嫌を伺え、逆らうな、全肯定しろということだろう。ならば反省などいう言葉を使わずそう言ったらいい。なるべく従う。そう育ってきた。言いたいことは山程あるが、シャルグにそれを言うことはない。石畳に埋め込まれた石を数える。386個目を過ぎたところで分厚い扉が開かれた。まだ朝を迎える時間帯ではないはずだが、外の状況も分からず照明に管理された部屋では時間の感覚が狂ったか、もしくは自身の頭が狂ったかしている可能性はある。 「飯だ」  重い扉を開けづらそうにして入ってきたのはアウステラだった。やはりハイヒールが踏ん張りづらいようだった。石畳の上は歩きづらいだろう。簡素な食事を乗せたトレイを手にしている。 「義姉上…」 「驚いたな。実弟に飯も食わさない兄がいるとは」  アウステラがトレイを置く場所を探しながら鎖を繋ぐ杭が打たれただけの殺風景な部屋を見回した。ノールはその手からトレイを受け取る。 「…ありがとうございます」 「つまらんことを考えるものだ。こんなことをしている場合ではなかろうに」  アウステラは凛とした鋭い顔に険しさを滲ませる。先程の会話で抱いていた印象が大きく変わってしまった。 「…ひとつお訊きしても?」 「ひとつでもふたつでも好きに問え。本来ならば貴様のほうが身分は上だろうが」  アウステラは居心地が悪そうな顔をした。シャルグと上手くいっているのだろうか。仲睦まじい2人の想像がつかない。 「先程戦争を肯定する意見を述べていましたが、もし巻き込まれたのが自分やその家族でも、同じことを仰せになりますか」  アウステラは何もなくただ石が無数に埋まる壁を見ている。無言のまま。ノールの語尾が反響していく。また石を数えはじめる。アウステラは帰らない。410台に入ってやっと口を開いた。 「同じことを言うと思う。悲しいかどうかはまた別の話として。誰も犠牲の前には平等になるだろう…いいや、皇族は違うな。弱者は犠牲の前に平等だと言い換えよう」  413個目だったか414個目だったかが曖昧になりながらアウステラの返答を聞いた。 「…ご回答ありがとうございます」  アウステラのハイヒールが響く。白い布が視界を抜けていく。 「お待ちください」 「なんだ」 「…誰か使用人に、私の部屋に食事を届けるよう…頼めませんか」  アウステラは浅黒い肩越しにノールを見た。常に睨みを利かせているような強気な緑の瞳。 「例のペットか」 「…は、い」  分かった。アウステラは重厚な扉を開いて小さく開いた間から出て行った。  懲罰が終わり、床に寝そべったままノールは動けなかった。人の肌の焼けた匂いがする。だが痛みはない。視界の端に上半身裸の男が力無く横たわっている。台に乗せられているため、床に転がされたままのノールは首に力を入れて見上げた。自室に置いてきたはずだが、移送された懲罰房で再会した。轡を噛まされ、両腕を背中で拘束された姿で。  鼻血がぬるついて手の甲で拭った。悲鳴を聞きながら意識を失ってしまった。重くなった身体を起こす。両手首に拘束具による擦過傷が出来ている。左の肋骨が痛んだ。大きく息を吸ってヴェスティーンの元に近寄る。 「ヴェスタ、大丈夫か…っ、」  浅黒い背中に刻まれた焼印に言葉を詰まらせる。両胸の動きが一瞬止まり、胃がもたれる。『ヅィレディオーネ家の物』を意味する刻印。ノールの姓名はラ・ノール・ド・ヅィレディオーネといった。台に腕を着いて、冷たい床に屈み込む。ここまでされることはしていない。ヴェスティーンの肌に触れた。張りのある若い皮膚。焼けた匂いに胃がぐるぐると鳴った。銀髪を撫でる。小気味良い音を立てた火鉢を一瞥する。太い鉄の棒に焦げた布が巻き付けてあった。軽い気持ちでいた。奴隷。衣食住の世話をしながら、辱しめを受けることは分かっていたはずだ。だのに生かしておけばいいものだと思っていた。面倒を看てもらえば。焼き刻まれた証は深い。塞がったとしても限界がある。消えるとして何十年の時が要る。震えた指で銀髪を梳く。息苦しさにゆっくりと息を吐く。こんなつもりじゃなかった。ノールはぐっ、と息を詰める。今やるべきことを考える。棍棒で殴打された脚が痛むが駆けずり回って盥と新しい布を貰い、意識を取り戻さないヴェスティーンの介抱に自身の痛みを忘れた。ただの奴隷だ。父に頼めば買ってくれるだろう。だが何度繰り返す。シャルグが飽きるまで。シャルグが飽きるまで何度も奴隷を買ってもらうのか。皇族だ。安い。そういった商人の伝手で安くなる。献上品として手に入れることだって出来るだろう。焦っていた。奴隷が欲しいわけではないのだ。已むを得ずこの男が命乞いの末に奴隷になっただけだ。ゆっくり動いている身体。今だけだったら。感染症で死んだら。母は感染症で死んだ。ハイヒールが響いたような気がしてノールは懲罰房を飛び出した。気に入らない女だ。考えが根本から違う。巻き込まれておそらく世界が最も変わった本人であるくせ、戦争を肯定している。戦没者を無下にした考えを持っている。国を捨てた軍人の奴隷など歯牙にもかけないだろう。だが諦められない。きょろきょろと他の懲罰房を見渡している物見遊山的なアウステラの姿を見つけた。ハイヒールに、やはり白のタイトなドレスを着せられている。ホルターネックで下半身は深いスリットが入りアシンメトリーな形状をしている。健康的なしなやかな脚も華やかな出立ちは地下の懲罰房には不釣り合いだ。小麦色の肌と銀糸の前髪の奥にある緑の双眸と目が合うと、目頭が熱くなった。あの翠玉に会えなくてなってしまったらどうしよう。 「義弟よ、無事か」  驚いた顔をする。傷と痣と血に塗れた姿にか、突然涙を零す姿にか。ノールの両腕を掴んで真摯な態度を向けた。義姉であるのにまるで実の姉と錯覚する。 「医者を、呼んでください…医者を、呼んでくださ…兄上には言わないで…、」  幼子のように泣きじゃくる。あぁ、分かった。義姉は凛とした声で固く返事をした。立場が悪い。無理矢理結婚させられた敗戦国の大した身分でもない女だ。性格もある。本人やシャルグの耳に入ることは密告でもなければないだろうが、陰口は聞けど日向で言える口は利かれない。アウステラはすぐさま踵を返す。

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