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第2話

◇  アウステラは19か20歳と聞いていたがノールからは随分と歳が離れて見えた。シャルグが好むには思想や言動が幼い女だと思っていたが、ヴェスティーンが助けられたことを境に見え方が変わっていった。背後から宥めているのか両肩に手を置かれ、医者が処置を施していくのを見つめた。ペットの正体を理解しただろうか。母国にある文化だろうか。 「無事か」  医者を呼び処置が済まされた後日にアウステラに呼び止められた。胸元がシースルー素材になっている、フィッシュテールと呼ばれる前後で丈の異なる裾をした白いドレスに身を包んでいる。足元はヒール部分が螺旋を描いた特殊な形状をしたサンダルを履かせられている。やはりシャルグの趣味が透けて見え、目の前の美しく健やかな着せ替え人形にわずかな憐憫を覚える。 「…その節は、本当に…ありがとうございました」  片頬が赤くなっている。シャルグにやられたのだろう。気付いたがそのことに触れられなかった。跪き、恭しく礼をすることしか出来ない。 「あの者は、大事無いのか」  ノールが出てきた階段通路を見上げて問う。 「…昨晩一度意識を」  ヴェスティーンは一度だけ意識を取り戻した。すぐにまた眠ってしまったがまた翡翠に自身が映ったことに安堵した。 「そうか。ならば良かった。ではな。お前も養生しろ」  引き返し、後部の裾が観賞に特化した魚の尾びれになって宙を揺蕩う。ノールは食事を受け取りに行き、ヴェスティーンの元に戻った。昨晩は自身のベッドを貸して、埃臭いマットレスの上で寝た。 「義姉上が話の分かる人で良かった。義母上は何でも我が君に訊いてみないと…ってそればっかりでさ…」  ヴェスティーンの眠るベッドの脇で飯を食いながら話す。左手が強く痛んだが日常生活に支障はない。ヴェスティーンからは寝息だけが聞こえた。背中を刺激しないようにうつ伏せで寝かせ、クッションを胸元に当てがったが、寝息が苦しげになるたびに体勢を整えた。 「でもその方が都合がいいんだろうな」  寝息が数秒止まり、手にしていた物を放ってヴェスティーンの身体を少し傾ける。筋肉質で質量感に予想外に大変だった。 「多分きっともっと酷い扱いを受けるだろうからさ、ヴェステタも、…オレも。今はこんなことくらいしかやれないけど」  チーズと芋がペースト状になった物を口へ運ぶ。口内と口角に傷があるため固いかったり一口が大きいものは避けたかった。 「傷が消えるまで………ヴェスタはそんな焼印を付けられても、やっぱりまだ生きてたい…?」  自分だったら。生きてたい。死にたくない。無様で惨めでも。そして飢えたくない。雨風に打たれ寒いのも嫌だ。先の戦争で散っていた将軍や兵士、平民の名や数や話を聞くたびに思う。生きていたい。この生まれに感謝さえした。 「…生きてたい、でしょ」  自問自答する。毎日と変わらない。口にするか否か。声を浴びせる相手がいるか否か。それだけが違う。だが心持ちが違った。重さと邪魔さもありながら同時に寄りかかってしまう。 「…っ、ぅ、」  小さな呻きに、ぐったりした身体に触れる。霜柱の中に翡翠を見つける。 「…大丈夫?」 「…!」  顔を覗き込むと、ヴェスティーンは勢い良く起き上がった。焦燥している。ノールのいる反対に降り、シャルグが教えていた羞恥を煽る体勢を顔を伏せながら取ろうとする。 「何して…」  ベッドを挟んでいるため、ベッドの上を通ってヴェスティーンの肩を押さえる。大きな美獣は狼狽していた。爪先で屈もうとしていた膝を床へ落とさせ、両膝を閉じる。残雪のような銀の柳眉が寄せられ、床を泳ぐ翠を追ってしまった。 「腹、減ってない?昨日は何か食べさせてもらった?」 「はい」  アウステラはきちんと頼みを聞いてくれたようだった。なら良かったとヴェスティーンの食事をベッドに運ぶ。ノールが追っていたはずの美しく玉に追われる。 「どうした?」 「ご主人様は、お身体は…」  問われるまで忘れていた。まさか気を回されるとは思わなかった。主人の機嫌を窺わねばならないのか。ノールは苦笑する。 「気にするな」  ヴェスティーンは食事を出されても一向に手を付ける気配がなかった。石部屋に閉じ込められている間にシャルグに何か教え込まれたのか。ノールはベッドの脇に屈み、食器を手にしてヴェスティーンの口元へ運ぶ。 「ご、主人さ、ま…」 「腹減ってない?」  ヴェスティーンは顔を逸らした。シャルグならば難癖をつけそうだ。奴隷の分際で、と。だがノールは奴隷を知らない。奴隷はどうあるべきかを知らないでいた。故に扱い方も分からない。嬰児のように接すればいいのか、それとも飼い犬のように接すればいいのか。 「兄上から何か言われた?」 「床に落とした物以外は口に出来ません」  ノールは床へ食器を逆さにした。ぼとぼとと間の抜けた音がする。トマトが転がり、マッシュポテトが床に崩れる。スクランブルエッグが飛び散り、レタスが水滴を垂らす。ヴェスティーンは床へ這った。落ちた食べ物へ顔を埋める。ノールは顔を背ける。受け取りに行った時に手渡した料理人の姿が頭を過った。それだけではない。作物を納めた農家や、養鶏場の主。情けなくなった。戦争のために飢えた人民もいる中で優先的に物が食えている。火まで通され、加工され、食べ易いよう刻まれて、味付けされ、健康面まで考えられて。アウステラの戦争を肯定した考え方を否定しておきながら彼女のほうが冷淡に戦火にまみれた現状を受け入れた上で彼女なりに生きているではないか。 「…ごめん」  手は身体を支えるためだけに使い、銀の毛先が床を掃きながら落ちた食べ物を食らう。大きくガーゼを当てられた右肩甲骨。所有物なのだ。人ではない。だが人だ。奴隷なのだから人だ。 「兄上のことは怖いけど、尊重しろなんて言うべきじゃなかった」  あの人とは血を分けているが解り合うことはおそらく出来ない。理解する前にまた理解し得ない考えを持つ。そういう人だ。 「今度からはちゃんと、食べさせる…」  薬を飲ませてからまた寝かせる。ベッドで寝ることを頑なに拒んだが面倒臭くなり命令という形式をとって収めた。完食後に床を綺麗に舐めて汚れを落としていたが、身体に障りはしないかと思いながら濡れ雑巾で拭く。左肘がやはり痛んだ。拘束されていた時に体重を預けていたからだろう。ドアが来訪者を告げる。シャルグでないことは確かだった。雑巾を放置してドアを開けに向かう。小さな花束が目に入った。 「小兄様!」  果物の入った籠と花束を抱えた少年にノールは反応が遅れた。弟のネロンテッドだ。 「調子はいかがでしょう?」  まだ10になったばかりだがシャルグに可愛がられ世話を焼かれているためか背伸びをしている。父と長兄の寵愛を鼻にかけることなく、疎まれがちなノールにもよく懐いた。粗末な屋根裏付きのこの部屋をネロンテッドは気に入っているらしく、しつこく来たがったがあまり部屋に人を入れることを好まないため適当な理由をつけては断っていた。ノールの脇を通り抜けて踊るよう室内へ踏み入る。 「…ネロ」  花束と果物籠を雑に押し付け、ばたばたと騒々しく窓から皇国の風景を眺めている。真下に広がったブルーの屋根が本で見た龍の鱗のようだ。 「すごいなぁ、毎日この風景を望めるなんて」  ネロンテッドはノールに年相応の騒がしさや落ち着きのなさを見せる。父に取り入るのは簡単だがシャルグは厳しい。背伸びばかりでは爪先を休めたい時もあるだろう。その先にいるのがノールであるらしかった。 「…そうか」  好きでここにいるのではないことをネロンテッドに言ったことはない。自覚を持て、持てぬなら1人孤独に過ごしてみよと追いやられた場所で掃除も寝床の支度も食事の準備も自分でせねばならない。調理場も洗濯場も厠も遠い。 「ペットを飼っているとお聞きしたのですが」  ネロンテッドはベッドの上のヴェスティーンを視界に入れていたと思っていた。ベッドへ目配せする。だがネロンテッドは首を傾げて前屈し、ベッドの下を覗いた。いませんよ、とばかりの視線を投げられる。無言のままベッドを顎で差した。 「えっ」  ネロンテッドはベッドへと近付きヴェスティーンを観察しはじめる。 「…静かにな」  安らかな寝息を立てている。今は喧しくなっているが静寂に包まれるとこの無音の息吹に気分が凪ぐ。 「楽しいんですか?尻尾もないし、もふもふじゃない」 「…………目が綺麗なんだ」  ネロンテッドは訝しみながら、目?と自分の目を指差す。ノールは首肯しながら薄い布を傷を覆うガーゼまで掛ける。ネロンテッドはヴェスティーンからノールを見ていた。 「小兄様、他人に興味おありなんですね」  ネロンテッドは呆けた顔で言う。ノールはネロンテッドを見て、視線がかち合う。どういう意味か、気にはなったが問わなかった。そのままの意味だろう。裏返して、他人に興味が無いように見えていた。そう振る舞ったつもりはない。孤独を望んだわけでもない。 「そのフルーツバスケット、義姉上からです。どんなペットか訊いてくるよう仰せつかっているんです。名前は?」  そこまでペットが気になるのか。余程動物好きらしい。 「ヴェスティーン。ヴェスタって呼んでるけど…」  眠る姿を眺める。ネロンテッドはまだ子供だ。 「ネロ」 「はい?」  ノールは屈み、ネロンテッドに目線を合わせる。染み付いてこびりつく前に、兄として教えるべきことはある。それを今まで放棄していた。どうせ兄好みの知的な人形になるのだから、と。 「兄上はもしかしたら違うとおっしゃるかも知れないけど、彼は人だ。彼だけじゃなく、その他奴隷も。城で働く人たちも、もちろん兄ちゃんもネロも、兄上もだ」 「父上もですよね」 「そうだ」  ネロンテッドはノールが何を言いたいのか分からないようだった。ノールもまた分かるような伝え方を知らないでいる。 「それを踏まえた上で、兄上に教えを乞え」  ネロンテッドは強く頷く。素直な子だ。弟というものをよく知らない。弟だが、弟とはこういうものなのかと思う。自身が弟であり、兄でもあるというのにネロンテッドという存在が不思議でならなかった。 「それではもう行きます。小兄様、あまりご無理をなさらぬよう」  シャルグは激昂すると顔を殴るが、懲罰という名目であるため、棍棒や鞭は身体に入っている。あまり目立たないはずだ。だがネロンテッドは、あまりシャルグを怒らせるなと言いたいらしかった。恭しい礼をしてネロンテッドは帰っていく。 「ヴェスタには、きょうだいいる?」  ベッドの端に腰を下ろし、銀髪を撫でる。穏やかに刻まれる肩のリズムに合わせて呼吸をしてみる。引き締まった筋肉の凹凸を眺めながら。  茶会に参加せよ、とシャルグが使用人を差し向けた。突然のことでノールは肯定しか許されていない返事も忘れて黙ってしまった。アウステラにノールのペットを見せてやりたいのだとシャルグの意向を伝えられる。使用人への返事を渋りながらヴェスティーンを一瞥する。今度は何をさせられる。オレだけ行きます。中途半端な返事をする。彼はまだ体調が優れない。いつもならば肯否どちらかの一言で済ましていたが、そう付け加える。使用人は怪訝な顔をしたがシャルグに伝える旨を告げて去っていく。扉を閉める。手が震えていた。次は何をされる。義姉の前とはいえ、何かするはずだ。ヴェスティーンの眠るベッドに腕を乗せ寝顔を眺める。 「兄上と、今日は義姉上も一緒だ………行ってくるよ」  目的のヴェスティーンがいないと知ればすぐに帰って来られるかも知れない。着替えて部屋を出る。粗末な扉が気になった。鍵を取り付けたことがあったが、反逆を企んでいるのかと拷問めいた折檻を受け、取り外されたまま再び付けられることはない。指定された庭園に向かう。趣味の悪い白薔薇が咲き乱れているそこでシャルグはよく何か催していた。大抵の場合ノールに声はかからない。かかったとしてもあれこれと叱咤され、部屋に戻れと命じられてしまうために閉会まで残ったことはない。だがそれで良かった。むしろその命令を待ち望んで敢えて目に付く行動をすることもある。いたとしても黙って不毛な話と理想論、綺麗事を聞いているだけだ。喋っている者の内容と普段の行いを見れば絵空事もいいところだ。シャルグの気に入っている鳥籠を模したガゼボが見え、滑り込むように片膝を着いて頭を下げた。 「遅れてすみません」  どれだけ素早く支度を済ませたところで、伝言を聞いた時点で遅参は決まっていた。シャルグの冷たい目がノールの周りを見ている。 「 悪いが席がない」  円形のテーブルにシャルグと隣にアウステラ。シャルグの側近やアウステラの世話役たち、立場の低い場所に父とその側近が座っている。 「…ならば控えております」  立ち上がって生垣の前に立つ。アウステラが眉間に皺を寄せてシャルグを睨む。それに気付いているのかシャルグは笑っていた。 「義弟を立たせてわたしが座るわけにはゆかれない。義弟よ、これを使え」  アウステラは立ち上がって、ノールにも不機嫌な表情をした。両腕はレース生地になっているやはり真っ白なタイトドレスを身に付けている。 「よいよい、あれで辛抱強い」  シャルグはアウステラの腕を引く。ノールの見慣れた若い娘たちよりは逞しい腕をしていると思ったが、シャルグに掴まれると随分と華奢に見えた。 「辛抱の話ではない!」  側近たちの顰蹙を買っているのがありありと見て取れた。姫様、己が立場を弁えてくだされ。老いた側近に苦言を呈されると、キッと睨み上げてから着席する。シャルグは素直な者と意固地な者が好きなことは知っている。中途半端に反抗心を持ちながら隠し切らずに適当にやり過ごす者を嫌悪していることも。 「よいよい…ただ、弟よ。私は使用人に、今回の茶会が何のためであるかお前に伝えよと命じたはずだが、使用人の職務怠慢か?では処さねばならぬな」  シャルグは愉快げな表情を消し、ノールへ顔を向ける。 「…体調がよろしくなかったので…」 「ペットが体調不良か…それは心配だな…アウステラもよく気に掛けていた。うっかり誰か、様子を見に行かせてしまうかも知れないな…」  ノールはシャルグから目を身体ごと逸らす。一気に冷えていく。ベッドで眠る姿が脳裏を過る。芝生を蹴ろうとした足が止まった。 「どこへ行く?」  低い声で怒鳴られると抵抗する気がいつでも失せた。 「お前は手前の立場も省みず個人的な理由に逃げるつもりか。そんな者が皇族にいるとは、戦火に散った犠牲者は浮かばれない」  背にかけられる言葉に、張っていた肩が力無く落ちる。 「そろそろ椅子が来る」  迷路のような生垣から両手と首を鎖に繋がれたヴェスティーンが兵士に連れられてきた。白い薔薇の脇を通る姿は状況を忘れるほど美しかった。 「ふざけるな!」  アウステラが立ち去ろとしてシャルグに肩を抱かれる。近付くヴェスティーンは真っ直ぐシャルグを見ているだけだった。 「ご主人様が立っているぞ。何をすべきか分かろうな」  晒し者にされていた。シャルグもまた迎え撃つかのようにヴェスティーンを直視する。アウステラはシャルグとヴェスティーンを戸惑った様子で見遣っていた。下半身に粗悪な布を巻かれ、焼かれて刻まれた証が赤く腫れている。ヴェスティーンは応諾し、スペースの空いたテーブルの下に膝を着き、背を倒し、両腕を広げて芝生に立てる。シャルグの視線がノールに移る。 「何をぼさっとしている。座せ」 「…ですが…っ」 「ペットも立ちっ放しのご主人様を気に掛けているのだろう。殊勝なことだ…そのような忠義に厚いペットはそう簡単に手離せない。飼育を許そう」  シャルグは茫然としているアウステラの肩を抱き寄せたまたノールに言った。ノールはヴェスティーンを見る。俯いた顔がノールを捉えて頷いた。座らなければ殺すということだ。回りくどいことを言うが、そういうことだ。アウステラだけでなくその世話役たちも顔を固い笑みを取り繕っている。静寂に包まれ、気が狂いそうだった。手が震えたまま、ヴェスティーンの背に腰を下ろす。膝も震えた。体重をかけた分だけ両手に潰れる芝生の音まで聞こえた。息が抜けて行く。 「敗戦とは恐ろしいものだ。人を椅子に変える」  シャルグが冷淡に言った。 「皆々は自由と平等、そして愛と夢のために散れるな?」  男性陣に返事を求める。順に快諾、賛同が聞こえる。ノールはただ芝生の上の、白くなった浅黒い指を見ていた。すまない。すまない。悪かった。愚かだった。浅慮だった。後悔しているにせよ、どうすれば良かったのかという反省も浮かばない。 「1人聞こえぬ。非国民がいるな?」  シャルグの声が耳を通り抜ける。すぐ真横にある腫れ上がった焼印の痕に責められる。 「ノール!」  悪夢から覚めた後の息苦しさでシャルグの視線を正面から受け止める。 「貴様の返事を待っている!」 「……っ、」  肯定など出来るわけがない。シャルグには怒りしか感情がないのだろうか。実兄が分からない。 「くだらない。もっとましな茶会を催せ。国の底が知れる」  出された紅茶を被り、真っ白いドレスは赤橙色に染まっていく。去ろうとするアウステラを老臣が姫様と呼び止める。 「着る物が濡れた。すまないな」  アウステラはまた奇妙な形状の、靴というより芸術品として扱われそうなハイヒールを履かされていた。 「ペットならば馬ではなかろう。猫や犬に乗るのか、この国は」  大仰に肩を竦め振り向きもせず薔薇の生垣へ消えていく。  皇子、考え直してくだされ!  話題はアウステラへの不満へと変わっていく。シャルグはノールを見て、手で払った。帰っていいという許しが出た。ヴェスティーンから降りて、手を差し伸べる。だが従順なペットは芝生だらけの手をご主人様の掌に重ねること拒んだ。無理矢理乗せ、手を繋いで庭園を歩く。 「…すまない。本当にすまなかった…」  後方を歩くヴェスティーンを振り返ることも出来なかった。すまない。悪かった。許してくれ。謝らずにいらない。庭園に出て、わずかに緊張が解れる。 「義姉上に礼を言いにいく」  掴んでいた鎖がぴんと張った。ヴェスティーンは立ち止まってしまった。鎖を掴み直してヴェスティーンの元に寄った。 「ヴェスタ、義姉上のこと嫌いか?」  姫の侍女だったというからには顔見知りの可能性が無くはない。そして奴隷になっているということは無理矢理婚姻を結ばされたアウステラと違い、国に殉じなかったということになる。ばつが悪いのは分からないわけではない。 「そういうわけでは…」  下から覗き込んだヴェスティーンは石部屋で見た軍人の顔をしていた。 「分かった。部屋に戻ろう。傷薬も塗りたいから」  大きな手に手を合わせる。芝生と土がぽろぽろと落ちていく。 「この国の女性は男の顔を立てようとするけど、ティーフェ帝国は?義姉上が特殊なのかな」  滅んだ国の話を自然と切り出してしまい、ノールは口を噤む。謝ろうとしたが、ヴェスティーンは、そうかも知れませんと篭った声で答えた。アウステラやヴェスティーンのいたティーフェ帝国を踏み躙ったのはノールが胡座をかいているゼンタラム皇国に違いなく、そして間もない。 「初めて見た感じの人だからちょっとびっくりしちゃって。でもこの前も助けてもらったんだ」  ヴェスティーンの掌は固かった。胼胝だらけだ。軍人だったのだと肌でも感じる。何人殺させられたのだろう。そして何人殺したのか。柔らかな己の手を恥じた。皇族の男子のくせ人を斬れない。殺させてばかりであり、死なせてばかりだ。 「手、握って」  そう言えば長い指が肉感の強く残るノールの手を握った。 「ヴェスタが兄上だったら良かったのに」  雪に覆われた翠の宝石がノールを見下ろす。妙な雰囲気を纏っていた。変なことを言っただろうか。 「…なんてね。兄がいて義姉がいて弟がいて、妹がいないけど…ヴェスタが妹じゃ変だ」  またノールは黙ってしまった。ヴェスティーンにも兄弟姉妹がいたかも知れない。だが無情な国が焼き払ってしまった。直接的で無いにせよ、飢えや病で死んだかも知れない。勝者にも失った物はあるが、ノールは勝者どころか侵略者側にいる。 「…つまらない話しか出来なくて、ごめん」  ヴェスティーンと言葉を交わしたかった。しかし口にするとどれも卑小なものとなる。 「……聞かせ…、ください…」  微かに寄った眉間。侵略者の傲慢に付き合せている。 「過去の話しか持ち合わせてないんだ、よく考えたら」  そしてそれを話したところで責められてもいないことを意識が勝手に責め苛む。 「これからこの国がどう発展していくのか分からない。父上と兄上が決めることだし、何かあっても継ぐのはネロ…弟だから。才がないんだって。素質も資格も」  ヴェスティーンは聞いているのかいないのか分からなかった。ここは部屋ではない。誰が聞いているのかも分からない。閉じればいい口が回り続ける。 「いっぱい犠牲を出して新時代を切り開く決断を背負うのが皇の務めとかいうけど、その犠牲になった人だって新時代、きっと見たいでしょ…」  真っ先にその犠牲になり得た軍にいた者に向ける言葉ではないのかも知れない。 「そういう考えだから疎まれるんだろうけど。こんなヤツに国なんて任せられないじゃん、やっぱ」  否定も肯定も要らない。評価を試すような肯否が入れ替わった駆け引きも。口にするだけで少しずつ荷が下りていく。城内入ってからは黙った。手は繋いだまま。部屋までは遠いはずだった。指先に絡む体温。乾いた厚い掌。腕にかかる大したことはない重量感と鎖の冷たさ。視界の端の存在。粗雑に扱いたくない。奴隷でも。気が付けば長い廊下を通り、急な螺旋階段を上っていた。鎖を取り外し床へ放る。鈍い音がした。2本目だ。長い蛇を飼っているようだった。ヴェスティーンには必要ない。所在無さげな腕を掴み、ベッドに座らせた。処方された薬を塗るために広い背中を目の前にした。ヴェスティーンの裸体は見慣れている。無駄の無い筋肉で引き締まった綺麗な身体をしていた。無遠慮に触れていた。塗り薬を掬い取る。傷に指を伸ばすのが突然怖くなる。呼吸のたびに小さく上下する傷。所有者の証を白く汚す。ひくりと皮膚が動いて、ノールは怯えて指を引く。無意識に息を止めていたらしい。浅黒い肌の記された肉色へまた薬を塗っていく。鼓動がうるさかった。手元が狂いそうになる。指の腹が薬越しに火傷を撫でると、息を詰め、直後に吐息が漏れる。ノールは緊張した。そして暑くなる。興奮していた。下腹部に熱が集まっていく。薬を塗り終えるまで全く。身体が熱くなり、息が乱れ、鼓動が速くなる。傷を負った無防備な背中。相手は元軍人だ。無防備なはずがない。腫れて盛り上がる皮膚に薬を塗り込んで、均していく。塗り薬の意外にも柔らかな匂いに安らいでいるはずだ。火傷しているのはヴェスティーンであるはずだというのに、接した指先から火傷していくような疼きと崩落していくような浮遊感。布を押し上げた感覚に己の下半身を凝視した。開いた口が閉じずに小刻みに動く。腫れている脚の間。あぐ、あぐと形の無いものを噛む。背後の異変に気付いたヴェスティーンが振り向いた。肩越しに翡翠の瞳を捉えてしまう。焦った顔をしていたのか一瞬で顔色を変えて身体ごと振り返った。 「ご、…主…人様、」  言い慣れなそうに、呼ばれ慣れない呼び方をする。戸惑いを振り払って翠の宝石に身体を辿られる。 「ヴェスタ…、そ、の…」  押し上げられる布で止まる。鼓動がまだ速く身体が熱を持つ。引き締まった筋肉が目に入ってくらくらとした。翡翠の目と同じ瞬間に目が合い、気まずそうに逸らされてしまう。 「ごめん…」 「…い、いや…いいえ…」  ヴェスティーンも焦った様子で背を向けられてしまう。 「放っておけば、その、落ち着くと…思うから」  その場をやり過ごすだけの虚無だ。ヴェスティーンの項や肩、腕のラインを見ているだけで布の中で窮屈な思いをしている。こうなった時はどうしていいのか分からなかった。時折こうなってしまう。明日の朝にはまた下着を汚して洗わねばならないのかと憂鬱になった。腰が溶けそうになる痺れて頭の働かなる刹那の時間が恐ろしく、あの現象があまり好きではない。 「…身体を、壊す…」 「でも、どうしていいか…分からないし…」  容赦なく射す翠の光。ノールは股間を手で隠した。触れてしまうとじわじわと広がっていく微弱すぎる痺れ。 「…擦れば、勝手に楽になる」  ヴェスティーンは目を泳がせたままノールの掌の上から手を重ね、膨らんだ布を上を往復させる。望んでいたものを与えられ、そして見せられている。 「…っ、ヴェス、タ…!」  ヴェスティーンの手を止めようと手首を掴もうとするが下腹部から広がっていく浮遊感に力が抜けた。翡翠の瞳に乗りかかられる。下半身の一部を摩られ汗ばむ。自身だけでないことに気付いた。忙しなく動く浅黒い肌が湿気を帯びて照っている。ひどく扇情的でノールは小さく呻く。頭が真っ白になった。股の間の器官が脈動している。浅く呼吸して、弛緩する。何が起きたのか分からなかった。ゆっくりとまだヴェスティーンの掌はノールの手を掴んで動いている。 「ヴェ…スタ…」  暫く視線と視線が一直線に繋がっていた。

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