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第1話
ワンルームマンションに帰り着いた乃木清一郎は、玄関のドアを開いた途端、その場に唖然と立ち尽くした。
目の前に園田瑞樹の、全裸で正座した姿があったからだ。彼は床へ三つ指をつき、優雅な動作で頭をさげた。緩いパーマのかかっているミディアム丈の栗色の髪が、ふわりと宙を舞う。
「おかえりなさい」
背骨がひとつひとつ浮き出た、華奢な身体だ。染みひとつない滑らかな肌は、眩いばかりに白い。
「ど、うして? どうやって家に入ったんだ?」
清一郎は声を絞り出した。驚くなんていうものではない。
瑞樹が顔を上げると、涼しげな顔立ちが露わになった。赤く艶めいた唇は柔らかな笑みを浮かべている。薄いそこが、妖美に開いた。
「合い鍵。作っておいたんですよ。あなたのお世話がいつでもできるように、ね」
切れ長のふた重まぶたが、人好きするような弧を描く。灰色がかった瞳は楽しげに輝いていた。マッチ棒が三本は乗りそうな長いまつ毛。どんな時に見ても彼は美しい。
瑞樹は微笑し立ち上がった。彼にすね毛や陰毛は生えていない。先日、清一郎がテレビを見て、女の滑らかな足を褒めたことがその原因だ。
鞄を優しい手つきで奪われた。
「夕食を用意しておきました。ああ、お風呂も湯を張ってありますから。どちらを先にします?」
まるで女房気取りだ。清一郎の背筋に冷や汗が伝い落ちる。今朝、共に家を出た時、マンションのエントランスで彼へ「距離を置きたい」と告げたはず。返事は待たずに彼をそこに置き去り出勤したが、嫌だという声は聞かなかったので、まさかこんなふうに出迎えられるとは思ってもみなかった。
「どうしました? 顔が引きつっていますよ。そんなに唇を噛まないでください。あなたのその、さっぱりとした顔に似合わぬ肉感的な唇が好きなのに。傷ついてしまったら悲しいです」
この混乱のまま、髪をぐしゃぐしゃに掻き回したい。清一郎が靴を脱げば、瑞樹がすぐにそれを靴箱へしまった。
狭い廊下を先に行く瑞樹。その艶めかしい背中へ声をかける。
「今朝、言ったよな?」
「何か、聞きましたっけ?」
振り向き微笑む彼は、壮絶な美をそこに惜しげもなく晒していた。
瑞樹とは、店長を務めるファーストフード店で出会った。閉店間際にズタボロの姿で瑞樹が現れたのが、知り合った切っ掛けだ。真冬なのにズボンしか着用しておらず、見える肌には乱暴されたらしき打撲の痣がいくつも散らばっていた。美しい顔にも殴られた痕があり、形のよい唇に血が滲んでいた。
自らのそんな姿を、彼は気にしないようだった。凛とした動作で、清一郎の立つカウンターへ歩いてきた。アイスコーヒーをひとつ注文され、見ているだけで寒々しいのに冷たいものを飲む気なのか、と驚いた。瑞樹は目にかかっていた前髪を指で斜め右へ流し、こちらを見上げてきた。視線が交わった途端、妙にそわそわした。気づけばカウンターから出て、彼の腕を掴んでいた。バックヤードまで連れてゆき、きょとんとしている瑞樹を椅子に座らせ、怪我の手当てをした。「寒かっただろう」と言いながら、着ていた制服を脱ぎ、華奢な肩にかけた。すると、瑞樹は唇を震わせ、微笑みながら涙を零した。
聞けば、彼は交際相手から暴力を受け、同棲している部屋から追い出されたようだった。「こんなに優しくされたのは久しぶりだ」と囁いたその声は、美しい外見に似合う、澄んだ響きをしていた。
その翌日から、瑞樹の姿を見ない日はなかった。店に行けば必ず瑞樹がいた。開店前は、閉じたシャッターの前に丸くなって座り込み、出勤した清一郎に気づいては嬉しそうな笑みを零した。清一郎はゲイではなかったが、瑞樹のように類い稀な美貌をもつ男からそれだけ好かれて悪い気がしなかった。むしろ、気づけば優越感を抱くようになっていた。
出会ってから一年ほど経ったか。清一郎は過去を思いながら短い廊下を歩き、ひとつしかない部屋へ行く。広さ十二畳の洋室は、セミダブルのベッドとローテーブル、大きなテレビ台があり、床はふたり並んで座るのがやっと、といったスペースしか残っていない。
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