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第9話
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清一郎はその夜を、ビジネスホテルで明かした。あれだけ無茶苦茶に抱いておいて、戸惑う様子でいた瑞樹をそこに置き去り、こうして逃げてしまったことへ、罪悪感がふつふつと湧く。しかし少しでも彼と離れ、冷静になりたかった。共に過ごせばどうしても引きずられてしまう。
距離を置こうだなどと、自分は何って愚かだったのか。惹かれる心は変わらないが、このままでいれば、この手で彼を酷い目に遭わせてしまいそうだ。彼を愛するこの気持ちが誠ならば、別れるべきだろう。
出勤すると、店には瑞樹がいるはずだ。店で修羅場を起こすわけにはいかない。別れを告げるならば、まだ薄暗い早朝である今、家に帰って話をすべきである。
別れの文句を頭の中で反芻させながら帰宅した。
ドアの鍵は、開いていた。
薄暗い玄関へそうっと上がる。そこで、清一郎は、心臓が止まりそうなほどに驚いた。びくり、と全身が大きく跳ねる。吸った息が肺の中に留まった。
玄関には瑞樹の、全裸で正座する姿があった。いつからそこでそうしていたのだろうか。彼は頭を深くさげ、床に三つ指をついている。
何か、言わなければ。
そうだ。別れを告げるのだ。今、すぐに。
清一郎は震える口を開く。長い坂道を下るような気持ちだ。
「瑞樹」
彼がゆっくりと上げた顔に、違和感を覚えた。何かがおかしい。異様だ。
どこが――口元が。
ざざりと全身に鳥肌が立つ。まさかと思った。昨夜の記憶が頭の中へ、凄まじい速さでスクロールされる。
――歯が当たる。
自分は、瑞樹にそう言った。
そう、言ったのだ。
瑞樹の美貌は、口元が奇妙に歪んでいても全く損なわれていない。
「おふぁえひなふぁい」
清一郎は絶望を見た。彼が開いた口から、歯が一本も見えない。
そんなつもりではなかった。こんなことをするなんて、思ってもみなかった。ああ、ああ……どうしてだ。酷い。これほどの地獄を知るなんて。
歯を食いしばり、手を握り締める。自らの股間に昂ぶりを覚えた。
悪魔であるのは、瑞樹か自分か、どちらだ。
どちらなのだ。
震える足で瑞樹に近づいた。同じく震える手で彼の頬を包んだら、瑞樹は嬉しそうにまぶたを細めてゆく。
指にキスをされた。徐々に開いてゆく口。歯のないそこに指が食われてゆく。人差し指へねとり、と舌が絡みついてきた。
眼球の奥がカッ、と熱くなる。彼の健気さに涙が込み上がった。
奥の部屋から廊下に差し込んでいる明かり。瑞樹のものと思われる、血塗れの歯が、ニッパーと共に床へ転がっている。
唇から唾液を滴らせ、微笑む瑞樹。
清一郎にはその顔が、壮絶に美しく思えた。
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