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22.犬の幸せ
犬は、毎日来る。が、泰史のペースは変わらない。
六時前に起床、朝トレ、シャワー、朝食、授業、昼食、授業。
そしてトレーニング。このあたりで犬が騒がしいのは、気になるほどでは無い。このところずっとなので、もう日常だ。それが終わると寮へ戻り、夕食を摂って入浴を済ませる。それから個人ミーティングなのだが、ここに変化がある。
自室に戻ると犬が待機していて、コイツも交えて動画を見ながらミーティングをするようになったのだ。
あの翌日、病院で膝付近に炎症が見られると診断された鴻上は、一週間、トレーニングのみならず体育の授業も休んで療養するよう言われ、しばらく通院することになったのだが、医師はこう言ったという。
「このまま続けてたら、もっと悪化した怖れもある。この段階で来て良かったよ。みんなも君のように早く診察に来てくれれば、酷い怪我になる前に予防出来るんだよね」
勝ちたいと思わないアスリートはいない。
誰もが故障は恐ろしいが、訓練を厭う者は成績を残せないということも、誰もが知っている。ましてこの学校は、近くに大きな病院が無いので、少々の不調で病院通いする者はきわめて少数だ。
ゆえにたいていの場合、少し休めば引く痛みなら休む、熱を持っていれば冷やす、トレーニング後にマッサージなどで筋肉をほぐすなど、その場その場の対処で終わりがちだ。たいていの場合、それで問題無いのだ。しかし今回の鴻上は違った。
今回のように危険を察知できるなら、いちいち病院まで行かずとも判断できる、大変ありがたい話である。
つまり、非常に腹立たしいことに、あの犬の利用価値が証明されてしまったのだ。
しかもそれを一年が吹聴したため、陸上部以外からも注目されるようになり、寮の食堂で話しかけてくる者も少なくない。
自分が席を立った後は、そいつらとだべりながら待っていれば良いのに、なぜか必ず部屋にいて、下らないことと有益なことを垂れ流すのを聞きながら話すのがルーティンとなってしまっている。
終わった後、他の連中のミーティングも、そのまま二〇八号室で行われるようになった。やつがここから動こうとしないからだ。
「いちいち他の部屋に行くとか! このPCで全部見れるんだから、みんなコッチに来た方が早くないスか」
拳握りしめて主張する内容は、珍しくも理路整然としてツッコミどころも無く、受け容れられてしまったのだ。
妙に怪しく目が輝いていると主張……しようとは思ったのだが、言えなかった。
鴻上の一件があってから、やつは陸上部員のみならずスポーツ科全体で注目されている。気軽に向こう脛を蹴るなど出来ない雰囲気だ。
グラウンドでもトラックでも好き放題に動いているのは前と同じだが、多少トレーニングの邪魔をしても許されている。長距離チーム全員を撮れと言われたのにコッチばかり見ているため、広瀬や一年あたり、しょっちゅうどついてるが、ヘラヘラ笑ってる。
そうなのだ。あいつはなにを言おうと、自分の見たいものしか見ないし信じたいものしか信じない。やりたくないことはやらず、やりたいことはなんとしてもやろうとする。寮内でも、そういう奴だと認識されているようで、行動を制限するために交代で見張られているほどだ。
もう部外者ではない。個人的に目障りだと思っても排除は出来ない。
しかし奴が視界に入るとトレーニングへの集中が切れがちなので、なるべく視界に入れないよう、視線の方向を考えながら行動せざるを得ない。見ないようにしてるうちに気づくと集中に入っているので、そうなれば気にならない。
ゆえにそれで納得している。
理由は不明だが、なかなか入れない状態だったのが最近集中しやすくなっているのは幸いだった。祖母がよく言う『捨てる神あれば拾う神あり』とはこういうコトかと思う。
「俺も撮ってよ郁也くん、カッコイイ感じで」
「えええ~奥沢さん、そんなカッコ良くないしな~」
ヘラッと言い返す犬と、わざとらしくショック受ける奥沢、周囲で笑い声が上がる。
トレーニングを終え、まだ緊張が抜けきらなかった身体から、チカラが抜けていく。見てるだけで気が抜けるのだ。
奥沢をはじめとする二年、鴻上たち一年など、自分を撮れなどと詰め寄ったり、引っ張り回すなどしており、いつの間にか非常に親しくなっている。
横で騒いでいただけ、なのに一月程度で、ここまで食い込んでいる。
一年以上共にトレーニングしてきた自分よりも深く。
それは揺るがない事実だ。
自分がなにを言おうと、その事実は覆らない。
考え込みつつストレッチしていると、奥沢の声がすぐ近くで聞こえた。
「加賀谷ぁ~、すっげぇ怖い顔になってるぞぉ」
さっきまで犬を構っていたはずなのに、馴れ馴れしく肩を抱いてきたので、無言で手を払う。
「いつもより三割増しくらいに怖い」
「…………」
じろりと横目を向けたが、視線は泰史を通り越していた。犬を見ているのだ。
チラリと目をやると、鴻上たち一年と笑いながらじゃれ合っていた。
「郁也くんてさ、めちゃ楽しそうだよなあ」
眼を戻すと、奥沢は眼を細めたずいぶん優しい顔をしていた。いつもヘラヘラしているこいつが、こんな顔するなんて。
「喋ってるとチカラ抜けるっていうかさぁ、ガッチガチになってんのアホらしくなるっていうか。同じやンなら楽しい方がイイよなって気になるってかなぁ。ホント、なんでコッチ見てくんねえのかねぇ」
ため息をつく奥沢に驚いた。なんだ、どうした。
「おまえ見るみたいにコッチ見てくれたらなあ。いくらでも可愛がってやるのに」
「……やる」
思わず声が漏れていた。
「はぁ?」
「欲しいなら、やる」
そうだ。目障りでうるさい犬。欲しいならくれてやる。まとわりつかれて迷惑しているのだ。部屋に入り込んで、なかなか帰ろうとしないのを追い出すのも一苦労する。最近はなぜだか人の手を持って、勝手に頭を撫でさせたり自分の股間に持っていこうとしたりする。相変わらず謎で意味不明で、いや、前以上にわけの分からない言動で、ペースを乱されまくっているのだ。あいつと関わってからコッチ、益など無い――――
……ひとつ、しかない。
画像の解析。
タイムが伸びたのは……いや、偶然だそんなもの。あいつが来てから集中出来なくて、静かに送っていた日々が……いや。
そういえば、……集中、しやすくなっている。それは……いやあくまであいつを見ないようにしている副産物であって、あいつのおかげというわけでは……
「……ふうん? じゃあもらっちゃおうかなぁ」
いつも通り、奥沢はヘラッと笑った。いや違う、目が笑ってない。と思った次の瞬間。
ガスッ
音がした、と思う前に倒れていた。
「なめんなよぉ~加賀谷ぁ~」
見下ろす奥沢の笑みに、握りしめたままの拳に、殴られたのだと知る。
「おまえが一番影響受けちゃってるくせに、なに言ってンの?」
……影響?
おまえこそなにを言ってる。被っているのは迷惑だ。なんで分からない。
眼の奥から、激しい怒りが拭き上げる感覚で視界が赤くなる。沸点は低くない方だが、殴られておとなしく従うほど素直でも無いのだ。ギリッと見上げようとして、横から衝撃を受け、視界が阻まれる。
「加賀谷さんっ!!」
犬……安原が、いつの間に来たのか、抱き起こしてユサユサ揺さぶっている。
「大丈夫っ!? いやだ加賀谷さん死なないでぇぇぇぇっ!!」
……いや。死にはしないが。
「どうしてっ!? なんでたおれてるんスかっ加賀谷さぁぁぁぁぁんっっ!? 今日調子良かったじゃないスかぁぁぁぁっ!!」
おい、しがみつくな。生きてる、だから離せ、揺らすな。
そんな一心で犬を引きはがす。
「落ち着け」
「ああっ、生きてたぁぁぁっ!! 良かったぁぁぁあっ!!」
なんで……泣いてる。
というか大泣きだ。涙ってモンはここまで大量に流れるものなのか。
「良かったぁぁぁぁ加賀谷さんっ!!! 抱きしめていいスかぁぁぁっ! いいスよねっ無事だったんだからっ!!」
良いわけがない。
というか、まだ頬に涙流れてるくせに、なんで締まりなくニヘラと笑ってるんだ。
眉が寄ったのも無自覚なら、ゴインとアタマを殴ったのも無自覚だった。
「痛った~~~~っ」
しがみついていた手が頭へ移動し、解放されたのでホッとしつつ立ち上がる。
ケツをパンパンと払っていると、吹き出す音とゲラゲラの笑い声が聞こえてきた。
奥沢が笑っている。さっきのはなんだったんだ。イラッとする。
戸惑い、苛立ち、それを押し殺しつつ周囲に目をやると、生ぬるい笑みで注目されていた。
「痛いっすぅ~~、いつもより五割増しくらい強くないスか~? 」
……力が抜ける。
殴られた衝撃も、目の笑ってない奥沢も、反撃寸前まで噴き上がった怒りも、それから……色々考えてたことが全て、どうでも良くなった。
「黙れ」
黙った。
地べたに座り込み、両手をアタマに当てたまま、目尻や頬に涙のあとが残るまま、上目遣いに見上げてくる。
気づくと手を伸ばしていた。
伸ばしてしまった。
「わぁっ!!」
手は、ガシッと拝むように両手で掴まれた。
成り行き上、助け起こすと、ぱああ、と音がするほどの勢いで顔が紅潮し、満面の笑顔になりつつ立ち上がり、手を広げ
「やったぁ~~~!」
言いながら、しがみつき……いや、これは。
身長差があるため、胸に顔を押し付けられてる格好になっているが、……抱きしめられているのではないか。
「……離せ」
注目を浴びているのだ。こんな状態に甘んじるわけには行かない。
「めちゃ感激っすぅ~~~~っ!! とうとう受け容れて貰えたなんてっ! あ~~そっか!! やっぱ1回死ぬと、大切な物が分かる的な、そういう鉄板スねっ!!」
死んでない。
そう言おうとして言えなかったのは、意味不明なことを言いつつ背に回った腕がギュウギュウ締めてくるからだ。
瞬間的に息が詰まった。
「馬鹿力を……」
こんなときに発揮するな。
足を踏もうかと思ったが、コッチはスパイク、コイツは革靴だ。有効打とならない可能性があるので、向こうずねを蹴った。
「痛ッ!!」
声は上がるが腕の力は緩まず、あまつさえ続く声は嬉しげに震えてる。
「痛いっス!! けど耐えます感激っス!!」
いや、耐えなくて良いから
「離せと言って」
ガンガン蹴る。
「痛ッ! ツンがいくら来ても俺、痛ッ! 耐えますからぁっ!! 俺、痛ッ、一生ついてきますぅぅぅ~~~ッ!!」
涙声で叫ぶバカ犬にキツく抱きしめられたまま、泰史は絶望的な気分になりつつ向こう脛を蹴るチカラは徐々に強まる。
「痛い痛い痛い痛い」
ようやく腕が緩んだとき、犬は脛を抱えるように蹲った。容赦なく首根をつかんで立ち上がらせる。
「行くぞバカ」
「痛い~~~、けど感激っすぅ~~~!!」
寮へと引きずっていく途上、足を引きずっているのを見て、膝を故障した選手だったことを思い出し、ちょっと蹴りすぎたかと反省した。
「少し黙れ。湿布くらいしてやる」
だが犬は黙るどころか、痛みとそれ以外による涙を流しながら叫ぶ。
「ツンツンツンツンデレきたーっ!!」
何度「黙れ」と言っても黙らないので手でくちを押さえたが、バカみたいな大口を開けるので声を抑えきれない。
仕方なく、人目の無いところにさしかかった泰史は、くちから手を離し、一瞬、唇を押し付けた。
黙った。
ホッとしつつよだれと涙で汚れた手を犬の制服のズボンに擦りつける。
「えっ!! こんなところでっ!?」
「黙れ」
黙った。
なぜか眼が、妙な光で爛々と輝いているような気はしたが、考えないようにして進む。
後からついてくる犬の息が異常に荒い。
(ともかく寮へ。部屋にぶち込んで、説教だ)
そんなことを考えている泰史は、息荒い郁也が、非常にだらしない笑みを浮かべ
「えへ、えへへへ……」
とんでもない妄想を展開し、実行されると信じていることなど
思いも寄らないのだった。
数年後、箱根で加賀谷泰史という選手が脚光を浴び、マラソン選手として名を馳せた頃。
スーパートレーナーとなった安原郁也が、常に傍に付き従っていたとかいないとか。
完
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