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第1話

『今日俺は、男を買った。』  どうしてもそうしなければいけない気がした。そうしなくては死んでしまうような気さえした。そうしなければ代わりに、歩道橋の上から車のヘッドライトの流れに飛び込むところさえ想像した。  小学校の低学年の頃、日記を書くとき『今日』とか『私は』で始まってはいけないと習った。日記は今日のことを書き、自分のことを書くのだから当たり前な書き方をしてはいけない。 『今日俺は』で始まるなんて最低な書き出しだ。それでも志生(しお)は、今日が自分のものだと確かに思うために、あえてそんな日記を書く空想をする。  今日一日が自分のものではなければいいと思った。そして同時に自分のものでなければならないとも思った。 「あなたみたいなかっこいい人で、今日俺すごく運がいいです。新人なんで緊張してますけど許してくださいね。サービスはきちんとしますから」  客相手に言う『かっこいい』という言葉が、普通とイコールであることはすぐに理解できる。二十代に入ったばかりに見えるまだ存分に若くて知らない男に手を握られても嫌悪感はなかった。しなやかな指は意味ありげに肌の上をたどる割に、程よく軽い。その手がすぐに下肢に伸びても緊張はしなかった。 「もう反応してくれてるんですね。嬉しいです」  志生を見て男はかすかに微笑んで柔らかい口調で言った。なんだかその瞬間だけ泣きたくなった。  プロフェッショナルの男に初めて性器を咥えられるという体験は『人生で起こる大抵のことは大したことない』と思うには十分だった。 「はっ…すごく…いいっ…」  自分の口から上擦った声が漏れるのを聞く。ついさっきまで全く関わりのなかった人間に、近しい関係の人にさえ晒さない場所を晒し、剥き出しの欲望をその口腔深くに突っ込んでいる。屹立を唇で扱き上げられ、精液を啜られ、双球をやわやわと揉まれる。無責任に与えられる快感に漂うのは、何かをひとつずつ諦めていくことに似ていた。  こんなことは大したことじゃない。男は苦しげに喉を鳴らしたけれど、そう思いながら構わず腰を揺らす。  清潔感のある顔を切なげに歪め、健気に受け止めようとする姿は高揚感を煽る。それはわざとなのか男が醸し出す雰囲気なのか、緩急をつけ程よい早さで高めていく慣れたやり方とは対照的だ。  ぬるい口内で達する前にすぐに慣れた手つきでコンドームが装着され、バックで突き出された後孔に誘導される。すでに仕込まれたローションに気づき、ウリの所作手順など知らなくても流れ通りなのだとわかる。だからと言って萎えることはなく張り詰める先端を秘所に宛てがう。 「あ、解さなくていいの?」 「お好みでどちらでもいいですよ。準備はしてきてますから」  返事はせずに張り出した先端を差し込むと、ささやかに呻き声が聞こえた。   * * *  好きだった。馬鹿みたいに好きだった。そしてその感情を死に物狂いで隠し通した。どんなことをしても近くにいたかったから、どんなことをしても感情も欲望も殺さなくてはいけなかった。殺すなんて意識もなかった。  痛みを身体中に溜め込んだまま、麻酔で散らして忘れる。どんどん積もっていくばかりの痛みに耐えかね、麻酔の量を増やす。仕事でも酒でも紛らわしてくれるならなんでもいい。  いくら紛らわしても消えることのない現実は膿となって体の奥底に蓄積し、特有の匂いを伴い発酵する。そいういうものは蓄えるうちに時に甘く感じ、自家中毒になる。  時折見せる『お前は特別だ』という空気が全部をなしにして、痛みを消し去る。それだけでよかった。 「志生、肉焼け過ぎ。早く食え」  「お前が食えよ。誕生日だろ」  同期の三森(みもり)彼方(かなた)に付き合っている彼女がいない時、誕生日には必ず誘われた。今回は男二人で焼肉の網を間に向かい合っている。 「言うなよ。この大台に乗る区切りの歳に男友達と誕生日過ごすとか結構地味にくるんだから。これ、後でこの一年俺何やってきたんだろって反省するパターン。いや、俺の二十代はなんだったんだろうって思うね」 「好き勝手楽しくやってきた結果だろ。こうやって記念すべき三十路バースディを男と過ごしてるのは」 「うるさいよ。ハイ、乾杯。俺の明るい三十代に」  ビールのジョッキが目の前に突き出される。大学新卒で就職した会社で同じ部署に配属され、四年後にまた一緒に同じ部署に異動して八年の腐れ縁。俺のことは志生と名前で呼ぶくせに、『彼方なんて柄じゃない』と言って三森と苗字で自分を呼ばせた。どちらかと言うと、その名が似合うすっきりと整った顔立ちをしているのに。  程よく堀が深く、目ははっきりした二重で大きいけれど、甘くはなくシャープな印象を残す。ともすれば神経質そうに見える薄い唇はいつも口角が上がっていて、表情も豊かだから朗らかに見える。その魅力的な顔をいつも見つめ過ぎないよう気をつけていた。 「最近脂身入った肉とかあんま食べられないんだよね。もう、腹いっぱい。昔はいくらでも食べられたのに」 「うっわ、何そのオヤジ臭い発言。こっわ」  必要以上に大げさな反応に、ビールを飲みながらこちらも笑って返す。 「年上のお前に言われたくないわ」 「はっ?数日だろ。毎年お前は俺の後を必ずついてくるんだよ。そう決まってんの」 「誰がお前なんかについていくんだよ。誕生日が一週間違いなだけだろ」 「そんなこと言ってると、志生、泣きついてきても、誕生日一緒に過ごしてあげないよ」 「その日は、どうせ仕事だ」 「可愛くないね。俺はメッセージ入りのホールケーキを予約してあげてるっていうのにね」 「馬鹿言うなよ」  毎年、歳を追いかけるのはちょうど一週間。誕生日に約束など一度もした事はなかったが、三森は必ずその日になってから志生を誘った。居酒屋で焼き鳥をつまむこともあれば、バーで一杯飲むだけのこともある。この八年、志生には一度も予定はなかったから、毎年何らかの形で誕生日を三森と過ごした。  こうしてふざけあったり、人生の真面目な話もしてきた。仕事、恋愛、将来への夢や不安、学生時代の思い出なんか全部。長く一緒にいるうち、三森への気持ちは時間とともに深まっていった。ほぼ毎日顔を合わせるのに、会うたび好きなところを数え上げてしまうほど好きになってしまった。 「はい、プレゼント」 「何これ?……おぉー、ドンペリじゃん。俺飲んだことないよ。えっ?何で?」 「三十路祝い。区切りだろ。あーでも一番安いやつな」 「俺、今月金欠だから来週こんなの返せないよ?」 「そんなのいいよ。次に彼女ができたら一緒に飲めば」 「まじで?ありがと、志生。今いい感じの子いるんだよ」  満面の笑みを前にして、一瞬にして心臓が凍りついたように、止まりそうになる。 「はっ?何で今日俺といるんだよ」 「付き合う前からいきなり誕生日とかないだろ、重いし、面倒くさいじゃん。志生といる方が気が楽だし」 「まぁいいけど。今度は続くように祈ってるよ、何気に三十路だよ」 「だから言うなよ。わかってるって」  八年の間、三森は次々と女を変えた。志生の知る限り両手の指じゃ足りなくて、全部折り返してギリギリ足りるくらい。それ以外にも勢いで関係を持った女は数え切れないほどいるのだろう。それを多すぎると言うかは人によると思うけれど、ほぼ途切れることなくモテているのは間違いない。  話を聞くたび、じとりと嫌な黒い気持ちが心を這った。それでも聞かずにはいられなかった。知らないことを想像して自分を追い詰めるより、現実を知る方がマシだった。

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