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04.愛してると言ってくれ 【春】

 玄関の暖簾を上げると、前日の大雨が嘘かと思うほどの快晴だった。雲の隙間から太陽の光が差し込み、花や蝶といった目に見える全ての生き物たちが深尾葵(ふかお あおい)には輝いて見えた。目の前に立ち、心配そうに見つめてくる息子の心也にも同様な事が言えるのはきっと、今日が特別な日だからだろうか。 「葵さん」  鋭い声で名を呼ばれ、葵は我に返る。そんなの葵を見て、心也は小さくため息をついた。 「葵さん、本当に俺がいなくなって大丈夫?」  心也の眉毛はきれいにハの字になっており、「俺がいないと洗濯は溜まるし、部屋も汚くなるし……」と、ブツブツと小言を言っては、最後に心配だとまたため息をついている。 「なぁに、心配ないよ。それより僕は、心也の方が心配だ……ごめんな、この後急な仕事が入っちゃって家でのお見送りになってしまって」  キリキリと痛む胃を抑え、葵は小さく笑った。 「大丈夫だよ。ありがとう」 今日をもって心也は一緒に過ごしてきた家を出て、東京の大学へ進学をする。葵が再婚し、血のつながっていない心也と親子関係になったのは10年以上前の事だ。当初は突然新しい父親が現れたときて、母親である敦子にしか言葉を発しなかった。しかし時間をかけて次第に葵へ心を開き、数年前に敦子が病で旅立った時をきっかけに家事などを率先して行ってくれるようになった。そして、その時を境に、心也が葵を呼ぶ際に「お父さん」から「葵さん」に変わったことを思い出す。高校受験の際も本当は、県外の高校からスポーツ推薦が来ていたようだが『家から通える高校がいい』という理由から誰にも相談せずに断ってしまった。    偽物の父親として、この日がいつかは来るとは思っていたのだが…… 「葵さん?」  なぜこんなにも目の前にいる心也が心配で、心配で、仕方がないのだろうかと葵は不思議に思った。世間のお父さん方も、自分の息子や娘が遠くへ行くときはこんなに胃がキリキリするものなのだろうか。強く痛む部分を必死に手で抑え込む。 「行かせたくない……」  ポツリと呟いてみる。少しだけ痛みが和らいだ気がしたが、心也は呆れた顔をして葵を見つめていた。 「何が、行かせたくないだよ。いい年こいて」 「なっ!僕は、お前を心配してだなあ」  年齢の事を言われ、落ち込む葵を見ながら心也は言った。 「葵さんは、心配性過ぎるよ。俺は、そんな葵さんが心配なんだ。当たり前だけどもう母さんもいないし……」 「心也……」 「ほら、葵さんはずっと俺の事を考えてくれたでしょう?お母さんが亡くなってから俺が寂しくならない様に、家に直ぐ帰ってこれるような仕事に転職だってしてくれた。だから、きっとその……、ほら葵さんももういい年なんだしさ」 「何が言いたいんだ?」  顔を真っ赤にさせながら話す心也に、葵は首を傾げた。 「新しい恋愛って言うのかな。俺はもうこの家を出ていくから、そっち方面にも力入れてほしいというか……また新しい家族を作ってほしいんだ」  「家族なら、お前がいるだろう」 「そうじゃなくて」  もどかしそうに話す心也に、葵は若干の苛立ちを感じていた。なぜ家族の心也に家族を作ってほしいといわれなければいけないのか。今まで家族二人で過ごして来たはずなのに、それでは満足がいかなかったという事なのだろうか。 「なんなんだ、さっきから。僕の事はどうでもいいだろう」    不貞腐れながら、葵は心也に向けて言った。まさかこんな雰囲気になるとは思ってもみなかった。少しだけ心が痛くなる。本当なら今すぐにでも「体に気を付けるんだぞ」と言って頭を撫でてやりたいのに。 「どうでもなんか良くないよ……葵さん」  心也は、視線を下に落とすとギュっと力強く拳を握った。言葉が続かなくなったかと思うと心也の肩は揺れ、ポタポタと地面に涙が落ち始めた。 「心也?」  無言で泣き続ける心也に、葵は戸惑いを感じた。なぜこんな雰囲気になってしまったのだろうか。かける言葉も見つからないまま、一先ず涙を流す心也を抱き寄せ背中をさすった。 「どうしたんだよ、いきなり」  泣いている心也の背中をさするのは何年ぶりだろうか。まだ幼い頃は毎日の様に何かしらで涙を流していた心也も、気づけば強く一人前の男として成長し、涙を見せなくなっていた。嗚咽を嫌い、静かに泣く癖があるのを久しぶりに思い出す。彼が泣く度に、葵は優しく背中をさすったのだった。 「葵さんが、自分の人生どうでもいいなんて言うから」  数分間泣き続けやっと落ち着いたのか、心也が涙声で話を始めた。 「だって、今は僕の事よりも心也の門出の方が大事だろうに」 「俺だって、自分の事よりも葵さんの方が大事なんだ」  背中に回された心也の手に力強く抱きしめられる。気が付けば、背丈は同じぐらいになっていて子ども成長はこんなにも早いのだと葵は驚きを隠せなかった。 「お前、身長伸びたなぁ」  心也の必死な訴えなど気にもせずに、葵は感心するように心也の頭を撫でた。 「ねぇ、今そんな話してるんじゃないんだけど」  目を真っ赤にした心也が、本日何回目かというほどに呆れながらに訴える。 「ごめん、ごめん。つい、あんなに小さかった心也の背が僕と同じぐらいになっていたものだから」  あはは、と頭の後ろに手を回しあどけなく笑ってみせた。葵の笑顔につられたのか心也も、涙でぬれた睫毛を裾でぬぐうと「葵さんらしいね」と笑う。気が付けば出発の時間は迫ってきており、心也は名残惜しそうに葵の手を握った。 「ねぇ、葵さん」 「どうした?心也」  心也はそのまま葵の手を自身の頬に当てると止まったはずの涙がまた1粒、葵の手に零れ落ちた。 「俺、葵さんと出会えて本当に良かった。」 「あぁ、僕もそう思うよ」 「俺も葵さんもずっとずっと……お母さんがいなくなってから二人で支えあって一緒に過ごしてきた」 「あぁ、そうだね。喧嘩もしたね」  愛してるよ、と言おうとしたが心也がまた泣いてしまうと思い葵はその言葉を飲み込む。 「でも、今度は葵さんにもう一度「家族」を作ってほしい。結婚して、血のつながった……子どもを授かって、また父親になって……それが今の俺の願い」 「僕が家族を作ったら、心也の帰る場所はどうするんだ」 「俺は――、なんとかうまく生活してるはずですよって……いででで」    心也の頬に優しく当てていたはずの手は、いつのまにか厳しく頬をつねりあげていた。流していた涙も、悲しみの涙から痛みの涙に代わっていた。 「お前は、何をさっきからおかしいことをブツブツ言ってるんだ?心也の帰ってくる場所はこの家だけだろ」 「いででででで、葵さん分かった、分かったから頬をつねるのは止めて」  仕方がなく手を放すと心也の頬は真っ赤に晴れ上がっていた。心也は頬をさすりながら、納得できなさそうな顔をして「でも葵さん、これから何年もも1人のままだよ。お母さんも新しい人見つけてほしいって思ってるはずだとおもうけど……」と言った。 「別にいいさ」  葵は余裕な顔をしながらそのまま言葉を続ける。 「僕がこのまま一生一人身でも、お前がずっと傍にいてくれるだろ?」 「え」  心也の顔がりんごの様に真っ赤に赤面していく。口を両手で押さえ、何を言っているんだこの人はと涙目で訴えかける。 「葵さん、俺だって誰かと結婚して家族を持つかもしれませんよ」 「そしたら、この家で一緒に住めばいいさ」  軽々しくとんでもないことを言っている目の前の父親に、心也は今日一番のため息をついた。 「葵さんにはもう降参だ……」  敵わない、敵いっこない。きっと、何かある度に葵が待つこの家に帰ってきてしまうのだろうと心也は悟った。でも、それは心也にとってあまり嬉しいことではなかった。 「葵さん、しょうがないから1つだけゲームをしようよ」 「ゲーム?」  首を傾げ、心也の話を聞き続ける。 「今日から4年間俺は絶対にこの家に帰ってこないから」 「え!?なんで!!!」  突然の、帰らない宣言に葵は声を荒げた。5年と言えば軽く国際的なスポーツ大会が開催出来てしまう。 「なんでも」 「なんでもって言ったって……」 「5年後必ず俺はこの場所に帰ってくるよ。その時までに葵さんに新しい恋人がいなかったら……」 「いなかったら……?」 ごくりと唾を飲み込み、心也を見つめる。なぜ大事な息子の門出の日にこんな話をしなければならないのか葵には不思議で仕方がなかった。じっと心也を見つめていると、心也はにっと笑って、突然葵のよれた襟元を掴みよせると、軽く唇を重ね合わせた。 「俺が一生、葵さんの側にいてあげる」  心也はそう言うと、笑いながら走り去って行った。 「いってきます!葵さん」  葵も後を追おうとしたものの突然の事に身体が固まり足を踏み出した時には、心也の背中はもう見えなくなっていた。 「どういうことだよ……」  葵はその場に座り込むと、唇に手を当てた。先程の柔らかい感触は確かに残っていて目を閉じるたびにシーンが焼き付いて離れない。今日から5年間、どうすればいいのだろうか。耳を赤くしながら、ため息をつく。そして家に帰っても「お帰りなさい」と言ってくれる存在がもういないのだと一人思い出し、そして静かに涙を流した。 「いってらっしゃい、心也」

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