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その日を境に変わったことがひとつ、例の彼が1人で訪れるようになった。 今まではほぼ毎回別の女性を連れていたから、物凄く新鮮だ。それと同時に困ったことが。 「なーにため息ばっかりついてんだよ!あー、あれか…あのイケメンホストさんのこと?」 細田に問われて口を開きかけたが、商品陳列の途中だと棚に向き直る。 「………分からなくなった」 「はぁ?」 「あ、いや…何でもない」 無意識で声に出していたようだ。 女性との話でその日の予定だとか雰囲気を感じ取っていたから、業務上の会話のみになってしまうと彼が今日はどういう状態なのか分からない。それはとても困る。 (………困る?) 胸中で首を傾げた。体調が悪そうだ、とか昨日はたくさん飲んだ、なんて情報を女性との会話から得ていたのは確かだろう。それが急に分からなくなったくらいで何が困るというのか。 「…お?噂をすればじゃーん」 楽しそうな細田の声で現実に引き戻される。 彼―――ルイさん、は。黒のマフラーに顔をうずめるようにして入ってきたにも関わらず、周りの空気が瞬時に変わる。 整いすぎた顔とスタイルはオーラまで別格にしてしまうようだ。 やがて上げられた綺麗な相貌。最後に見た時よりは色味が良くなっていて、何故だかほっとした。 頻繁に来てくれるお客さんだから気にしているだけ。そう、きっとそうに違いない。ていうかむしろそれ以外あり得ないだろ。 (かぶり)を一つ振って、コンテナに手を伸ばす。 …と、横から掴まれた両腕を見下ろして呆れ笑い。 「作業中だろ、どうしたんだよ」 「は、お前まだ品出しするつもり?」 「だってまだここの棚終わってない―――」 言い終わる前に頬をつねられた。 地味に痛いぞ、これ。 「レジ行って」 「え、でも…」 「…返事は?」 「は、はい………」 なんだこいつマジ怖い…!笑顔で人をここまで怯えさせるってある種の才能だよな…と肩を落としてレジへ向かう。 するとほどなくして彼がやって来た。 「いらっしゃいませ。お預かりしま―――」 「仲良いんだね」 「…は、い?」 ぽそりと落ちる言葉の意味が分からず聞き返す。 僅かに目を見張ったあと、泳ぐ視線。 「ああ…じゃ、なくて。名前…」 「…名前、ですか?」 知ってますよ、お店での名前ですけど。なんてことは口が裂けても言えず。 次は何だ、どんな言葉が出てくるのかとおっかなびっくり商品をスキャンしていく。 「読み方。せりょう、で合ってる?」 「………へ、」 せりょう?芹生…?俺の、なまえ? 「―――ごめん、違った?」 たっぷり10ほど数えただろうか。フリーズしてしまった俺を見かねて声を掛けてくれたのは分かった。いや、でも、 「ち、ちが、わない…です!」 「うん。…良かった」 恐らく人生で一番首を振った、と思う。 せめて、合ってます!とか芹生と申します、くらい言えれば良かったのに…なんて悔やんでも後の祭りだ。 ふ、と目を細めたその表情から読み取れるのは紛れもない安堵。 直視できなくて斜め下を見ながら会計を済ませる。 金額ぴったりに払ってくれたおかげで、お釣りがないのがせめてもの救いで。 「ありがとう、ございました…また、お越しくださいませ…」 この日、初めて背中を見ずに挨拶をした。

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