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「自分の名前、言うの忘れたぁ!?」 「ちょっとリンさん、耳元で大声出さないで…」 少し反対側に距離を取りながらため息をつく。慌てて口を押さえたってもう遅いんだけどな…。 「…ねえ、アナタって実はホストじゃないんでしょ?小学生ならまだしも…あのグランジュエルでトップ張ってる男がそんな、そんなケアレスミスするなん、て……ふふっ、ふふふ…」 「俺もわりと落ち込んでるから。言わないでくれると嬉しい」 体を折り曲げながら笑いを隠そうともしない彼を睨む気力すらなくて、そっと目を伏せた。 「何よもう、そんなに動転するような出来事があったわけ?」 宥めるように頭をひと撫でしてからワックスを手に取るリンさん。ようやく仕事をする気になってくれたようだ。 「…元々、緊張はしてたんだと思う。でもそれだけじゃなくて…いつも彼と一緒に入ってる子が」 「ちょっとストップ!」 …今日はよく叫ぶなぁ。 なに?と斜め後ろを見上げるまでもなく彼の方が正面に回り込んできた。 「あのねぇ、例のコンビニに気になってる子が居るとは聞いた。でもその子の特徴はおろか、名前すら教えてもらってないのよアタシは!」 確かに…言われてみればそんな気もする。名前や見た目を教えた所で冷やかしに行ったりするような人じゃないだろうし、教えても良いかな。 そう思って口を開きかけた瞬間――― 「教えてくれたらどんな子か見に行くのに!それであわよくば仲良くなってアナタとその子のキューピットになりたいわ…!」 …うん、言わなくて良かった。 ご丁寧にキューピットの身振りつきで熱弁を振るう彼を冷ややかな目で見つめる。 「はっ…!あらやだごめんなさいね、アタシとしたことが…。それで?続きを聞かせてちょうだい、この際もうAくんとBくんで良いから!」 名前を伏せておけば大丈夫だ、と思う。 「あー…ええと、どこまで話したっけ…。それで、俺の気になってるAくんといつも同じ時間帯に入ってるBくんが、さ。その…やたらAくんを触ってた、うん。まあ、仲良いんだなって思ってたらそれが口に出てたらしくて…Aくんのぽかんとした顔見たら、なんかもう…考えてたこと全部飛んだ………」 尻すぼみになる語尾までしっかり聞き取ったのだろう、やめてくれその目は…。 「色々…そうね、色々言いたいことはあるけど。取りあえずこれだけ。」 ―――連絡先渡しなさいよ。 「もちろんプライベート用のね?明日すぐに渡せとは言わないから、今までのように通って自分のタイミングでぱぱっと押し付けちゃいなさい!」 連絡先を渡す、なんて頭になかった。いつも店では当たり前のようにしている行為のはずなのに。 (ああ、そうか―――) 仕事とプライベートじゃ、こんなにも違う。 「どさくさに紛れてボディタッチでもすればそのBくんとおあいこでしょ?」 ね?なんてぱちりとウィンクされても。 「それでそれで?いつ頃から気になり始めたの?こういう恋バナってやつ、憧れだったのよね~!」 俺の返事はろくに聞かずに、そのまま正面の椅子へと座ってしまう彼。 あ、これはしばらく仕事してくれなさそうだ…早めに来ておいて正解だった。 さっき自分で言ってしまった手前、遠慮しているのだろうか。 名前や容姿など核心に触れる部分は聞いて来ないのを意外に思う。 仕事へ向かうためにはこの質問攻めから逃れなければならない。 のらりくらりと答える俺は、後日ひどく後悔することになる。 この時に、せめて見た目だけでもリンさんに教えておけば良かった―――と。

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