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9.
胸元に忍ばせたのはプライベート用の名刺。
何回も確認済みだ。
よし、大丈夫。
お馴染みのメロディと共に扉をくぐると、いつもと変わらず耳に心地良い高さの声が迎えてくれた。
「いらっしゃいま……あ、」
彼は俺に気付くと軽く頭を下げて、そそくさとコンテナの陰に隠れてしまう。
少し時間を空けようかとも思ったが、そんな姿を見せられたら悪戯心が湧いてきても仕方ない。
そのまま靴音を立てないようにそっと近づき、背後に座った。
「ひっ…!?」
背中をつつくと大げさなくらい体を震わせる彼を見て思わず吹き出しそうになったが、すんでのところで堪える。
「こ、こんばんは…?」
「うん、久しぶり。…今日はこれを渡しに来たんだ」
細い手首を取って掌に名刺を押し付けた。
「連絡先はプライベート用だから。名前は店で使ってるのだけど…改めて。ルイって言います、よろしく」
さて、どういう反応が返ってくるか…またフリーズしてしまわないか不安だ。
「ふふ…知ってます」
「………え、?」
言葉よりも、その表情に目を奪われた。
蕾をつけたばかりの花が、少しだけ…ほんの少しだけ、ふわりと綻ぶような微笑み。
「あっ、いえ、その………はい、よろしくお願いします」
コンテナの陰に隠れるようにして、密やかに切り取られたこの時間がいつまでも続けば良いのに。
一瞬そんなことを考えてしまった自分に驚いて、それじゃあと立ち上がった時。
「ちょっと、待ってください…!」
くん、とロングコートの裾を引っ張られた。
「お引き止めしてすみません、埃が結構ついちゃってて…。この辺も念入りに掃除しないとダメですね」
困ったように笑ってから出したハンカチで裾を拭き始めた。なるほど、黒地に灰色の埃は目立つ。
「…はい、綺麗になりましたよ!」
達成感に溢れた顔で俺を見上げてから、はっと息を呑んだ。
「す、すすすいませんつい…!」
俺とそこまで親しくないことを作業中は忘れていたのだろうか、言動が分かりやすくていっそ感嘆する。
「…ありがと、芹生くん」
くしゃりと頭を撫でると想像通り固まってしまった彼に笑いかけながら、手元のハンカチを抜き取った。
『K.S』と刺繍の入ったこれは、店の備品ではなく恐らく彼の私物。
「洗って返すよ。またね、」
「えっ…いや、そんな、平気です!」
我に返った彼の慌てる声を背中に、青いハンカチをひらりと振って店を出る。
(ちょっと猫っ毛、かな…)
指先を擦り合わせて、そんなことをふと思った。
リンさんに言われたからでも、Bくんへの当てつけでもなく。
自分の意思で…気付けば自然と手が動いていたのだと気づいたのは、歩き出してからだいぶ経った後だった。
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