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222.
3月に入って少し経った頃。
『デートしよう、楓くん』
「えっ…あ、はい…」
電話越しの一言から決まった買い物。少し関係性が変わっただけで、こんなにも気恥ずかしい思いをすることになるなんて…と頭を抱えながら当日を迎えた。
「おはようございます」
「うん、おはよう。昨日は良く眠れた?」
さらりと髪を撫でられて硬直する。油の切れたロボットのように首を捻って見上げれば、切れ長の瞳が優しく細められて。
「…これから慣れるよ、きっと」
主語のないその文章に、助手席でひとり悶絶した。
「…ここ、って」
「どうかした?」
車を降りれば目の前に、誰もが知っている高級ブランド店のマーク。母親と一度訪れた時、数字の桁を何度数え直したことか。
「いえ、別に…」
バッグや服飾品はもちろん、最近は化粧品の類にも力を入れているという。足を踏み入れると漂う香りに僅かばかりの緊張を覚えた。
「いらっしゃいませ」
恭しく頭を下げるスタッフの男性と挨拶を交わした三井さんに手招きされる。
「どれが良いか、選んで欲しいな」
「俺、ですか?」
ガラステーブルの上に並ぶのはいくつかの小瓶。店内の照明を受けて散る光に見とれていると、不意にそんなことを頼まれた。思わず瞬けば、苦笑いを浮かべる目の前の彼。
「前の香水は…ほら、瑠依がくれた物だから」
なるほどそれで。納得しながら、ふと思う。
(…香水つけてない時の匂いも、好きだけどなぁ)
「楓くん?」
「あ、はい…分かりました」
何を言うつもりだ、と慌てて思考を遮断して。差し出された紙片の香りを確かめる。
高級なだけあってどれもキツすぎず、俗に言う下品な臭いはしない。不慣れな自分では正直悩むと思っていた。
―――けれど。
「…これ、が良いと思います」
手渡した紙片を鼻に近づけた三井さんは、ふと笑って。
「うん、ありがとう」
少し待っていてくれと言い置いて店の奥へと消えて行った。
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