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第1話

 男は走った。息を切らし、通行人を弾き飛ばす勢いで走った。一昔前の風情が残る商店街の近くの見慣れた神社へ駆け込む。社の裏へ回り込み、石段に座る。久々の運動で暑い。浅香(あさか)夕凪(ゆうぎ)は頭を抱えた。拳についた血を眺めて、また頭を抱えた。手が震えている。最悪な気分だった。頭の中に砂嵐が発生し、その奥に嫌な思い出が透けて見える。ゆっくり息を吐くが、焦った肺が呼吸を急かす。ぐっ…、ぐっ…と潰れた声が漏れた。 「大丈夫か?」  知らない声に、はっとして顔を上げる。胸が大きく上下し、自身の激しい息遣いが聞こえた。目の前に男が立っている。しなやかな長い脚と華奢ながらも引き締まった体躯がまず目に入る。喉仏まで見上げていき、そこから上は見られなかった。佇む男が隣に座って、反射的に立ち上がってしまう。男の涼しげな印象を受ける端整な顔が夕凪を捉える。さらさらとした色素の薄い髪が艶やかだった。商店街の中にある喫茶店の店員だ。女性に人気で、ファンも多い。テイクアウトのカップにメッセージを書くサービスで、彼に書かれたいがために通い詰める人もいた。夕凪には、開店間際の店内でサボテンに霧吹きをかけている姿が焼き付いている。 「…っ」  逃げ出したかった。だが衝動や勢いに任す事が出来ず、よく知りはしないが見たことある顔に夕凪の頭は冷えてくる。 「いつもうちに来てくれる子だろ?」  冷淡げな顔が柔らかく緩む。幾度か夕凪の注文を届けに来たことがあるが、仕事中は一切笑わないためそういうカオもするのかと夕凪は狼狽えた。何より毎日何人も来るだろう客をいちいち覚えているということも。夕凪はどう答えていいか迷って、返答のタイミングを見失う。 「そう警戒するな」  座り直せと言わんばかりに夕凪が立ってしまった隣を叩く。しかし夕凪には伝わらなかった。 「な…なんでここにいるんすか?」  おそらく強張っていただろう顔面に、外行き用のへらへらした笑顔を貼り付ける。この男が働いている喫茶店に行く時もそうだ。普段通りに。 「君を見かけたから」 「は、はは…、それはまたどうしてっすかぁ…」  夕凪はまた笑うべきか詰問すべきか迷って頬が引き攣らせて笑み続ける。間延びしたふざけて喋る。 「急いでいたようだが、どうかしたのか」  夕凪は一瞬だけ男の目を見た。知っているのだ!という眼差しに思えて夕凪はすぐさま地面に転がった小石や木の実を眺める。 「べ…つに、ちょっと、軽い運動すよ。ここのところ運動不足で」 「隣町の本屋に行って来た、電車で。見知った人がいるなと思ったんだが」  寒気がして、男を睨む。つい先程の柔和な笑みが虚像に感じられる、見透かしたような薄く上がる口角に夕凪は汚れた拳を震わせる。深まる自身の吐息が耳障りだった。笑顔を貼り付けて続ける余裕もなく、不快な汗が腰から頸までを駆け抜けていった。この場から逃げ出したい。引き攣った笑みをよく出来ているものだと思って、平静を保って社の裏から去ろうとする。 「じゃあ…すんません。自分はそろそろ…」  男は小さく嘆息した。 「待ちなよ」  立ち上がった男は夕凪の肩を掴む。ひっ、と声を上げて触れてきた手を払う。だが攻撃的なその手を、降り落ちていくのとは反対の手に捕らわれる。 「…っ」 「随分と攻撃的な手だな」  中手指節関節から突起した骨を覆う皮膚が破れ、付着した自身と他人の血。離させようとしても薄く骨張っているくせ力強い。 「っ、」 「怯えるな、突き出すつもりじゃない」  男の、長く濃い睫毛に覆われる切れの長い瞳を見つめた。 「気付いたら、…つい…」  よくある万引き犯の言い訳だと口にしてから気付く。男の顔を窺えば、真摯な目を向けられていた。 「正義感に駆られたか?」  義憤のつもりではない。気付いたら殴っていたのだ。女子中学生の臀部を撫で、股間をそこに押し当てたのが見えた瞬間に頭の中が破裂した。夕凪は首を振る。 「本当に、気付いたら…」  思い出すと息が荒くなる。立っていられなくなり、屈み込む。手首を掴んでいる男も共に屈み込んだ。他人事のように、殴り、殴り続け、降りる駅に着いた後も引き摺り降ろしてなお、殴り続けた光景がコマ送りで脳裏で再生される。 「手当をしよう。おいで」  背を撫でられる。首を振る。家に帰るのだ。1人になりたい。膝を抱える。手の甲が痛い。汗が止まって、寒くなる。 「痕が残るだろう。ほら」  腕を掴んだまま引っ張る男の手を払う。膝に顔を埋めたまま首を振った。 「帰るからいい…」  何も考えたくない。手の甲が痛んで泣きそうになる。大した傷ではないというのに、酷く痛んで泣き喚きたくなってしまう。腹が鳴る。それがまた悲しくなった。 「何か食べさせてやる。ほら、来い」  温かい手が夕凪の指を握った。食欲に釣られて立つ。手を繋ぐ格好で男と神社を出て、商店街へと入っていった。勤務先の喫茶店に連れて行かれるのだと何となく思っていたが、商店街出入り口付近にあるそこを通り過ぎ、住宅地へと入っていく。商店街で働く若者たちをターゲットに作られた瀟洒な雰囲気のあるアパートが並んでいる。 「カルボナーラでいいか」  アパートの階段を途中まで上がって男は夕凪に確認する。夕凪は俯いたまま頷いた。洋画で美女をエスコートする紳士の如く夕凪の傷付いた手を丁寧に扱いながら残りの階段を上がる。玄関扉の鍵を開け、中へ促された。喋る気も起きず、小さく頭を下げてから玄関へと上がる。甘すぎない花の香りがしたがワンルームに近付くと段々と最近はあまり行かなくなった本屋の匂いがした。 「座って」  部屋の隅に本が積み上げられているもののそれ以外は片付いている。促されるままに夕凪は座った。男は救急箱と思しきプラスチックの箱を持って夕凪の前に座る。 「君は本は好きか」  夕凪は頭を振る。あまり買ってもらったことがない。母は小学校低学年の頃に出て行ってしまった。それからは父親といるのが嫌で小学校も中学校も遅くまで学校の図書室で閉まるまで本を読んだが、ほかにやることがなかったからで好きというわけではなかった。 「そうか。眠くなるもんな」  濡れた綿が傷の周りの乾いた血を拭いていく。傷に触れたら沁みるのではないかと不安になってピンセットに摘まれた柔らかい小さな玉の行方を目で追っていた。しかし思っていた痛みは訪れなかった。弱く傷を掠めて、むず痒さを残して去っていく。絆創膏を傷に合わせてカットし男は最も傷の大きな中指に貼り付ける。ぺちりと軽く叩かれ終わりを告げる。 「あ…りがとう、ござい…ます」 「気にするな。俺の余計な節介に付き合わせたな」  男は喫茶店では見せない柔和な笑みをまた浮かべ、救急箱を片付けながら狭いキッチンへと立つ。 「やっぱり、悪いす。帰るす、親父も待たせてっすから」  余所行きの人好きのする笑みを浮かべる。男はそうか、と少し残念そうだった。 「本当、ありがとうっした。またお店、行くっす」 「ああ、待ってる」  男の顔を見られず、お邪魔したっすと頭を下げて玄関を出る。半分落ち着いているがまだ混乱していた。骨が痛む右手を額に当てて滲んで歪む視界を泳ぐ。 ◇  雨だった。いつも来るあの青年が最近姿を見せなくなった。岩城(いわき)雪々(せつな)はまだ14時にしては暗い外を眺める。開店直後から17時頃までいることもあれば、昼頃に来て夕方には帰ることもある、週4、5回くる青年はよく印象に残っている。長く居座るが特に何をしているわけでもない。長く居る時はコーヒーやケーキや軽食を何度か頼み直して、混雑すればすぐに帰って行く。散らかすわけでも騒ぐでもなく決まって窓際に座れば外を眺め、壁際に座れば掛けられた絵を眺めていた。中間部の席が嫌なのか自由に席を取りやすい開店直後に来店する。傷んで跳ねた茶髪が軽率な印象を与えたが、誰かと待ち合わせている様子もない。岩城の興味を引いたのは、よく見る客だな、という認識が芽生え始めた頃だった。それまではまるで背景だった。女性たちが賑わう店内で妻や恋人を連れてもおらず、仕事中の休憩でもなさそうな私服の若い男というのは目立ったものだが岩城は接客に忙しかった。そういう店でもないが店長が岩城にあのテーブルへ、このテーブルへと積極的に話しかけてくる常連客の元へ岩城を遣った。  天気のせいか客は少ない。カウンターに立って外を眺める。茶髪の男が通るたびに一喜一憂した。あの青年は来ない。ネームプレートを付けているため岩城の姓ならば青年は知っているかもしれないが、客の1人である青年の姓すらも岩城は知らない。先日初めて個人的な会話を交わした時に訊いておけばよかったと後悔した。だが怯え、不安、警戒を隠してはいるようだったが全く隠せておらず、訊けるような状態ではなかった。義憤に駆られ行き過ぎた暴行を働いた偽善者を警察に突き出す敵として見えたことだろう。近付き方を誤った。反芻していると、客が入って来て席へ案内する。ビニール傘が壊れた通行人が雨風に打たれて前の道を通っていった。流石にこのような日に、大して用事もなさそうだった彼は外には出ないだろう。人懐こそうな犬に似た青年の来店を諦めて、給仕と接客に専念する。  仕事を終え強風と雨の中、帰路に着く。傘の骨が軋み今にも裏返りそうだった。彼はどうしているだろう。ふと考えてしまう。家の中で雨風凌いでいるのだろう。店内に置いてある子供用の犬や猫、虫の図鑑を、中間部の席に案内されるとよく開いていた。青年雑誌も置いてあるのだが、目もくれず。それがやはり軽率げで遊び呆けていそうな外観との差異に岩城の気を引いた。雨粒を照らす商店街を歩く。跡取りがいないために閉まっていく店は多い。ある種観光地としての側面はあったが、全面的ではないため、そう多くの助成金は出ていない。あくまでここに住まう人々の地であった。住宅地へ入る前で前方から走って来た者とぶつかった。耳を塞いで、岩城に構うことなく強風と雨に通行人の少ない商店街を疾駆する。一瞬で耳に届いた呻きに岩城はその背中が暗く掻き消えるのを見ていた。  明日明後日は岩城は休みだが、青年は来るのだろうか。先日のことがある。また来ると行った。社交辞令だろうか。たまたま来ない日だったのだ。あれでもないこれでもないと考えながらアパートへ帰って行く。新しく買った本がいいところで終わっているのだ。明々後日には会えるだろう。階段を上る足取りが軽くなって、玄関扉の前に立ってから気恥ずかしくなった。 ◇  最低だ、最低だ、最低だ。電灯に照らされる濁流を目の前にしながら、今にも欄干から飛び降りたくなる身体を、濡れた柵にしがみつき欄干より背を低くすることで押さえつける。頭の中で打ち上げ花火がいくつもいくつも浮かんで散ってスパークする。人を殴った掌で頭を抱える。悪習に苛まれる。救いは目の前の都会へ繋がる大橋の下にしかない。小さな明かりを点けた自転車が前からやってくる。大橋は明るい。ビニールの合羽を着た警察官が夕凪を見て話しかけてきた。何と言われたのかは分からなかった。余所行きの笑顔が勝手に適当な応対をする。気を付けてという言葉だけが頭に入ってきた。出掛け用の顔が勝手に話を進めて、警察官は苦笑して去って行く。帰らなければ。カエルにとっては小さな川が作られたアスファルトの感触を足の裏に感じながら引き返して行く。もう一度だけ欄干の先を見下ろした。あの泥水の激流に抱かれて眠ってしまいたい。だが苦しいのは嫌だ。痛いのは嫌だ。つらいのは嫌だ。風が唸り叫ぶ。帰らなければならない。明日は喫茶店に行きたい。重いパーカー、重いカーゴパンツ、重い髪。全てから解き放たれたいのだ。胃が引っ繰り返りそうな不快感に欄干に手を掛けるが何も出ることはない。呼吸を整える。商店街にある自宅へ戻って行く。だらだらと歩いた。父親と2人で暮らす家へと着いて、やっと玄関前で胃の不快感が地面を叩く。片付けなければならない。浅い呼吸を繰り返して重い身体を引き摺った。廊下に足跡をスタンプし、冷蔵庫に入ったアルコールを空になった胃へ大量に流し込むとそのまま台所を水浸しにして寝た。  何事もなく目が覚めて落胆するのだ。二日酔いに苦しめればよかった。父親の酒に強い遺伝を恨み、父親そのものを恨んだ。そういえば父親はどうしている。半乾きのまま奥の部屋を覗きに行った。切り刻まれた薄桃色のカーテンがぶら下がっている。小さなベッドの上で繋がれた脂ぎった毛だらけの肥えた裸体は様々な液体を撒き散らして異臭を放っていた。目と口を覆われ、両手足は大の字に拘束されている。シャコシャコ音がする機械が臀部に差し込まれピストン運動をしていた。薄汚く粗末な男性器を真っ黒いシリコンの太い筒で隠してある。男はしきりに胴体が痙攣して、曇った声を上げている。生きている。確認して夕凪は風呂へと向かった。喫茶店に行こう。今日は。気分が優れない日はそこにいることにした。値段設定が安いくせ質が良く、居心地も良い。客の年齢層が高く、従業員も顔立ちの美醜関係なく小綺麗で垢抜けた若者ばかりだ。この家にいたら息苦しさに死んでしまう。  身を清めてから廊下を掃除し洗濯機を回す。玄関前を水で流す。外は快晴だった。太陽を浴びると少し気分が良くなった。適当に作った朝飯を痙攣を続ける裸体の男の脇に置く。口元を覆う平たいゴムと腕の拘束を解き、代わりに首輪を付けて鎖を頑丈に繋いだ。身支度を整えてから家を出る。喫茶店へ入って、今日の気分は壁際だった。とにかく隅が好きだった。ミルクティーとトーストにスクランブルエッグとソーセージにサラダとミニトマトが付いたセットを頼む。癖のように壁に掛かった名画の写しを眺める。小さい頃はまだレストランだった。気付けば喫茶店になっていた。デミグラスソースをかけた、中身がケチャップライスの柔らかなオムライスが好きだった。その頃からあの名画の写しは変わらない。オーナーはもしかすると同じ人なのかもしれない。空想していると、お待たせしましたと注文したセットが届いた。ありがとうございます。余所行きの笑顔で礼をいうと、ウェイターの若い女はにこりと微笑んだ。いい日だと思った。それは晴れている。かといって暑くもなく、昨日の雨で多少の湿気が残っているが深いなほどでもなく風は心地よい。朝からシャワーを浴び、洗濯機を回せた。よくやった。商店街を歩き回りたい。だが身の内に潜んだ化物がまた暴れ出すのではないかという不安が夕凪を喫茶店と自宅、近くのスーパーに行動を制限した。  スクランブルエッグを口に運びながら店内を見回す。あの店員はいないらしかった。そのせいかいつもこの時間帯は女性が多かったが、新聞を広げた老人や端末を確認しているスーツ姿のサラリーマン、朝からよく喋る主婦たちくらいしかいなかった。騒がしくなく丁度良い。主婦たちのPTAの愚痴を聞きながら、チュープリップ畑とレンガの風車が描かれた絵画眺める。あの絵の奥行きと空が好きだった。今日はいい日だと繰り返す。ソーセージを齧る。旨味が口に広がった。このような日が続けばいい。1日でなくてもいい。半日でも。身の内に潜む怪物が怖いのだ。怪物に形はない。ただ蝕んだ。簡単なきっかけで。怪物を名付けるだけ名付けてその正体を知っている。それは自身だ。考えるな。サラダに添えられたミニトマトを口に入れる。破裂して酸味が破裂する感覚が苦手だったがそれで滲む恐れがわずかに薄れた。舌先を火傷しないようにミルクティーを気を付けながら啜る。トーストの音が小気味良かった。今日はいい日だ。いい日にするのだ。言い聞かせた。 ◇  岩城はページを捲り、区切りが良かったため本を閉じた。幼少期から常に本を読んだ。人と関わるより本を読んでいるのが好きだった。目立っているつもりは全くなかった。服装も地味で流行にも乗らず、清潔感は気にしたがそれ以外は香水や服飾品もこだわらなかった。だというのに何故だか声をかけられる。そのため公園や勤務先以外の店に行くのはやめ、家に籠って買い込んだ本を読むか、図書館に行ってあまり自分からは購入しない種類の小説や図鑑や雑誌を手に取った。だが今日は少し外へ出る気分になった。アパートに鍵を掛けてよく晴れた見慣れた風景を眺める。岩城は雨の翌日の澄み渡った空と湿った風に混じる濡れたアスファルトの匂いが好きだった。図書館は商店街を出て、神社と記念公園を挟んだ道の先にある。商店街へ入って、魚の生臭さや八百屋の前の甘い匂いを嗅いだ。コーヒーの香りがよく目立つのは勤務先だ。窓ガラスを覗いてみたが、窓際の席は新聞を開く老人が見えただけだった。窓際の席にいるのだろうか。青年のことを気にしたまま岩城は図書館へと向かう。神社を囲む木々が風にざわめき、目の前をビニール袋が飛んで行く。歩道には壊れた傘が捨てられ、目線の先にははしゃいだ犬が岩城に興味を持ったが飼い主に引っ張られ角へ消えた。雰囲気がどこか、青年に似ていた。茶けた髪か、人懐こい温和な目か。そう思うと途端に足取りが軽くなり、胸が躍った。今度店に来たら何か話しかけてみたい。店長はまるで岩城を客寄せパンダのように扱う。女性客限定というわけにもいかないだろう。何を話しかけよう。手の甲は大丈夫か。その話題は掘り返していいものか。傷になってないか。そのようなことを気にしてどうする。本当に来てくれたのか。毎日のように来ているではないか。何を話しかけよう。会ったその時に考えたらいい。迷い、それが楽しい。そうだ、まず名前が知りたい。仕事中に関わる客の1人だ。個人的なことを聞いていいものか。地域に密着した商店街でよく来る相手なのだ、名前くらいならばいいのでは。他意はない。個人情報を慎重に扱わねばならない職種でもない。愉快な煩悶に気付けば図書館に着いていた。陰惨で救いようのない話を読んで落ち着きたい半分、めでたく終わり活気に満ちた話に思いを馳せたい気にもなる。何を読もうか。足はすでに方向を決めていて、腕もまた何の考えも無しに並ぶ背表紙を辿っている。あの青年がよく眺めている写しの絵の元の作者の画集を開いた。クロード・モネ。見覚えのある印刷がされたページで見つめる。奥行きのある、輪郭のはっきりしないぼやけた印象の油絵。だが何が描かれているのか漠然とした印象が残る絵。淡過ぎるほど淡い赤を帯びた青空と風車が印象的だった。あの青年が気にしなければおそらく気に留めることはなかっただろう。綺麗に額縁に収められていたとしても、あの縮尺された偽物の絵は結局はただの飾りに過ぎず、ただ無意識な彩りを与え、意識されることなくそこに在り続けるものだと思っていたから。岩城がインターネット検索することもなかった。描かれたモチーフから。クロード・モネは有名な画家だが、他の作品が有名であるせいか、まさかあの絵が著名画家が描いていたなどとは思わなかった。あの青年はこの絵から何を感じているのだろう。何を思って眺めるのだろう。画集を捲って、他の絵には興味はないのだろうかと考えてしまう。あの青年なら、あの青年は、あの青年に…。画集を戻し、一度図書館内の椅子に座る。変だ。あの神社の境内で個人的に声を書けてから。拳を赤くして縮こまっている姿を見てから?いや、おそらくもっと前から。でなければ追ってなどいないはずなのだ。いつからだ。電車で見掛けた時点で声を掛けようとしていた。その決意がもう少し速ければ彼は痴漢を殴り付けてなどいなかったかも知れない。決意?何故声を掛けようと思った?自問する。自分のことであるはずが、そのほとんどに答えることが出来ないでいる。初めての妙な胸のざわめきと生温かさに、情けない気分になった。26になってもこの感覚にこれという具体的なものが出てこない。明後日は来店するだろうか。ばつが悪くなって来なくなってしまったら?それは意識のしすぎだ。何故あの程度でばつが悪くなる。だがあの青年は怯えていた。腰掛けたまま思考が暴走し、本棚の森の奥でおそらく司書だと思われる者が抱えていた本を落としたことで我に返った。自身の全てを知る必要はないのだと、とある本に書いてあり、心に刻んだではないか。一呼吸して、芸術コーナーから立ち去る。

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