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第2話

◇  拘束から外したところで会話もしたくなければ声も聞きたくなかったため、轡は外さないでいた。鎖を外して家の中を散歩させる。リビングに鎖を繋いで、夕凪(ゆうぎ)は人間が使っている猫用トイレを片付けはじめた。あへあへと口から涎を垂らしている父親が四つ這いでリビングから出て行こうとしている。その肥えた腹を掴んで仰向けにさせると腰を巻く紙製の襁褓(むつき)を剥がした。リビングにいる間は猫用トイレを使えばいいのだ。父親・岳志は何か抗議をしたが夕凪は聞こえないふりをした。襁褓(おしめ)を慣れた手付きで包んで蓋付きの専用ゴミ箱に捨てた。まだ介護の必要な歳でも健康状態でもないがこれが夕凪の日常だった。犬用の餌皿2つの片方に炊いた米、もう片方に少し焦がしてしまった玉子焼きと冷凍食品の唐揚げ3つ、レタスとミニトマトを盛り付ける。部屋の隅に置いて、岳志は四つ這いのまま朝飯にありついた。夕凪はでっぷりした腕や腹や足を眺めてから線香に火を点け、大きく仏具を叩く。2度、3度、4度、5度。決まった形式を無視して、気が済むまで仏具を叩く。うるさいと言わんばかりの米にまみれた顔を向けられるまで何度も。遺影を見つめて、それからハート形のガラスの皿に八百屋で売られていたパインアップルとイチゴのカットフルーツをいくつか乗せる。腹が減って余ったイチゴを口に放る。それから身支度を済ませて喫茶店アネモネへ向かう。その時ふと思い出したのは、あの喫茶店があった以前のレストランはサンロードという名だった。あの頃は…。ふと過った思い出。変わり果てたこの現状に夕凪は固まった。呼吸が止まる。肺の中に鉛が入ったようで夢中で酸素を求めた。息は出来ているのだ。では何故重苦しい。思い出すな。過去を掘り起こすな。何もかも変わって、あの日々はもう戻らないのだ。息切れを起こしながら喫茶店の扉を開く。涼しげな鈴の音がする。俯いた視界に入り込むよく磨かれた革靴。 「いらっしゃいませ」  顔を上げる。1週間近く前に怪物を抑え込めず、女子中学生に股間を押し付けた男へ暴行を働いた際に世話になった美青年。あの時は気が動転していたのだ。身に潜んだ怪物が今度は攻撃性ではなく社交性へと夕凪を振り回す。 「この前は、お世話になったっす!」  にかりと笑う。ネームプレートを一瞥する。平仮名で「いわき」と書いてあった。 「え~と、いわきさん」  岩城か、岩木か。もしかすると井脇の可能性もある。夕凪の中で変換できた苗字はこの3つだった。店員の名を軟派な男風に呼んでみると、不愛想で冷淡げな顔立ちが緩む。今日もまた壁際の気分で壁際の席から風車とチューリップ畑の写しを眺めた。思い出したくない。綺麗な思い出は。出て行ってしまい生きているのか否かも分からないでいる母親と、まだ優しかった父親と、まだ元気に生きていた妹と、それから。あの時と今は別物なのだ。おそらく世界ごと、変わったのだ。けれどはっきりいつからとは分からず。 「ご注文はお決まりになりましたか」  頼むものはすでに決まっている。“いわき”というらしい従業員が注文を取りにきた。まだ呼出ボタンも押していないが忙しいのだろう。頼むものはすでに決まっている。いつも通りのモーニングのメニューだったが今日はコーヒーという気分になれず100%オレンジジュースにした。サンロードのオレンジジュースはとにかく甘かった。 「右手の傷はどうなりましたか」  冷静沈着に無表情で無愛想を崩さない無口なこの容姿端麗な従業員が私語するとは思えず夕凪は聞き間違いかとおどけて見せる。 「あえぇ、え?」 「右手の、傷」  聞き間違いではなかった。 「お、お陰様っすよ~。この通り。後は瘡蓋綺麗に剥がれるの待つだけっすね!」  大袈裟に笑う。何も面白いところもおかしいところもない。ただ敵意はない、害意も悪意もないのだという主張によく似た笑い。 「そうか。なら良かった」  従業員は普段は表情のない怜悧な顔に微かな笑みを浮かべて、席を離れていく。またチューリップ畑の絵に目を戻す。あの小さく切り取られた四角形の世界に閉じ籠るのだ。思い出したくない。退屈で無意味な生活で、過去を汚したくない。小さな世界の外から声がかかり、オレンジジュースが運ばれてくる。紙のコースターが敷かれ、グラスが乗る。ありがとうございまっす。適当に礼を言って赤いストローを噛む。薬品の味がやはり強かった。甘さ、酸味、それから微かな渋みに近い苦味。メーカーにもよる。サンロードとは違うのか、メーカーが変わったのか、変わったのはそのどちらでもなく或いは。  レストラン・サンロードはこの喫茶店の内装より古びていた。サンロードなどという名だがどこか垢抜けない、「レストラン」というよりは「食堂」といった風な。田舎者が都会に憧れを持ち込んだような店だった。それも今になって分かることで、だがもう消え失せたものを考えてみたところで何も無いのだ。母は帰ってこないだろう。可能性はあるが、その時喜べるのだろうか。妹はもう帰ってこない。そこに可能性はない。父親もまた…むしろ夕凪が、あの頃の優しさを求めることはない。モーニングセットBです。すんませんっす。軽く会釈をして目の前に注文が届き、伝票が置いていかれる。切り分けたスクランブルエッグを乗せたトーストを齧る。玉子の甘みが広がる。優しい味がする。ケチャップをかけて酸味と塩っ気を強くしてからまたトーストに乗せて口へ運ぶ。これが今舌で覚えておく味なのかも知れない。先の知れない未来にまたいつか思い出す日が来るのだ。その時にまたオムライスもスクランブルエッグもオレンジジュースも過去のものになって、割り切るのだ。  紙のコースターが滲み、黒い染みが浮かぶ。裏返してみるとメモ書きがしてあった。『連絡ください』という簡潔な内容に電話番号。電話で連絡というのは古いものだったが、サンロードには黒電話が置いてあったことを思い出す。ダイヤル式の電話の使い方を夕凪は当時まだ知らなかった。最近の連絡手段は専ら無料通信アプリで、メールよりも短く簡潔で電話機能もある。設定した暗号や電話番号で相手を検索するのだ。間違って運ばれてしまったのだろう。何か問題が残るだろう。コースターを握り潰し、テーブルに結露した水が広がっていく。 ◇  青年の来店に、岩城の準備されていた気持ちは簡単に吹っ飛んだ。運良く注文も配膳も岩城に回ってきて、注文されたオレンジジュースに添える紙のコースターを見た途端、胸ポケットに挿さったボールペンを握っていた。覚えているつもりのなかった電話番号がすらすらと出てくる。記名も忘れて逸った。この制御の利かなさと高揚感についていけないでいた。しかし青年から連絡が来るかも知れないという可能性が、いつの間にか「期待」と名を変えている。その答えが青年にあるような気がしてこの正体を探ろうとしてしまうのだ。  岩城くん大丈夫?体調悪いの?  幾度目かで呼ばれていたことに気付き、謝ると腹を立てる様子もなく心配される。岩城は、自身の体調には敏いつもりでいた。だがあの青年を目にすると、思い描いてしまうと、途端に体調不良としか言いようのない微熱に襲われた。だがそこに倦怠感や寒気はなく。むしろ心地良さすら。  来店者を告げる葡萄のように連なった鈴が鳴る。母親と思しき中年女性に連れられた女子中学生だった。制服からして近くの中学校だ。茶けた長い髪を左右2本に縛っている。その親子は奥の席へと向かっていった。ついでに赤いストローを摘まみながらオレンジジュースを飲む青年を見る。青年は近付いてきた女子中学生を見て、人懐こい円い目を見開いた。知り合いなのだろうか。青年は一瞬白目を剥いて、それからテーブルを鳴らした。オレンジジュースのグラスが倒れ、溶けかけている氷がグラスとテーブルに滑った。客は少ないものの店内はざわめいて、それよりも速く岩城は咄嗟にテーブルへ走っていた。食中毒か、アレルギーか。泡を吹いて、青年は固く瞼を閉ざしている。肩に触れて揺する」 「おい、大丈夫か…」  呼べる名が無い。口元の汚れを拭った。 「あ…、う…?」  長くはないが多い睫毛が動いて、岩城をあどけない見た。どくり、と胸が大きく軋んだ。だが2人の時間は呆気なく終わりを告げる。緊急事態だった。他の従業員たちが様子を見にテーブルを囲み、救急車を呼ぶか否かを話し合って、青年は大丈夫っす!大丈夫っす!すみません、ほんと!と焦りながら拒む。 「事務所に案内します」  岩城は周りの従業員にそう告げて、青年の腕を取り、首の裏へ回す、その手は電話番号を書いたコースターを握っていた。触れた布越しの筋肉の感触に状況に反した愉悦を感じる。 「いわきさ…っ、大丈夫っす…!」  青年は店内を見回した。すぐ近くの席に座った女子中学生と目の前に座る母親が青年を見ている。ひっ、と息をの飲む声が聞こえた。 「やっぱり…お願いするっす」  蒼白な顔をして明るさを纏わせた苦笑を岩城へ向ける。思ったよりも元気そうで、すみません、すみませんと店内に謝っていく。岩城は近くで響く青年の声に身が焦がれていく。事務所に入って椅子に座らせる。青年からは笑顔が消え失せ、青白い顔に冷や汗を浮かべていた。 「やはり救急車、呼ぶか?」  青年の膝の前に屈む。青年は首を振った。傷んだ毛先が揺れてしゃらしゃらと音がする。 「…ほんと、すみませんです…」  色を失った唇が小さく動く。岩城は泳ぐ瞳を追った。 「あっはは…出禁になっちゃいますか?」  岩城が黙っていると青年は賑やかに笑って戯ける。そんなことはさせない!と叫びそうになったが岩城は落ち着いて「いいや」と一言返すだけだった。 「…まだ気分は優れないか」 「もう大丈夫っす!昨日夜まで遊んでたからかな。ほんと、ご迷惑おかけしましたっ!」  夜まで遊んでいた。岩城は、口を噤む。夜まで遊ぶとなると何をするのだろう。恋人がいるのだろうか。それとも友人か。恋人だったら。飲み下しきれなかった錠剤のような心地の悪さに似ている。友人だ。深く問い質したくなった。夜までとは何時まで。何をして。誰と。だが相手の名も知らない。 「名前を訊いても?」 「浅香っす。浅香、夕凪(ゆうぎ)っす」 「浅香くん」  何すか、と首を傾げる姿の外観に合わない純朴な仕草に心臓を鷲掴まれた。人の体調を気にする前に、自身もまた心臓に何か疾患を抱えているのではないかと、以前の健康診断を疑う。愛くるしい瞳を見つめた。どう見ても、成人しているかどうかというくらいの年頃で小動物的な可愛らしさも中性的な可憐さも見当たらない。染髪で傷んだ髪と軟派で軽率そうな外観の現代の利器と娯楽に染まっているような風貌だ。 「…すみませんっす…2本縛りの中学生が、苦手なんす…」  凝視していたためか、浅香と名乗る青年は俯いてしまった。そしてぽつぽつとそう語る。 「2本縛りっていうか、まぁ、ああいう感じの子。前に色々あって…」  中学時代の甘酸っぱい思い出というやつか。それもまた、心地の悪さが残る。 「そうか」 「すみませんっす、ほんと。このお店は関係ないのに」  岩城は項垂れる浅香の両肩に手を置いた。柔らかいパーカー越しの若くしなやかな筋肉。もっと掌で、シルエットをなぞってみたかった。 「君が元気であるなら、それで」 「この前もお世話になって…本当、ありがとうっす」  弱々しく沈んだ態度に、触れたままの掌を離せそうになくなる。 「浅香くん」 「いわきさん、お仕事中っすよね!もう体調も戻ってきたっすから帰ります、うち、近いんで」 「浅香くん、送っていく。また君に何かあったら…」  断りたい、という空気を隠しもしないが、返事は意外にも「じゃあ、お願いします」だった。でも別にお店の物が悪かったとかじゃないすよ、と付け加えられる。岩城は全くそのような心配はしていなかった。浅香は伝票をテーブルへ取りに戻って会計を済ませ、岩城は早退を告げに行った。 「家散らかってるから、上げられないんすけど…」 「気にするな。無事に帰ってくれさえすればいいから」  店の前で合流し、肩を落としたままの浅香の身体を支えるつもりで肩を抱いた。 「優しいんすね、いわきさん…」  岩城と浅香が2人で商店街を歩くと目を引いた。だが岩城は気にすることなくふらふらして危うげな浅香の肩をさらに寄せた。浅香のほうが少し小さいようだったが何か運動をしているかのような健やかな体躯は岩城の身体をさらに色白く痩身にした。  古着屋、ラーメン屋、食堂、布団屋が並ぶ区画を抜け、住宅地へ入っていく。布越しでありながらも触れた体温に頭の中が真っ白になったままでろくに会話も出来ないでいた。住宅地へ入る曲がり角の前を通るたびにはっきりとしない惜しさに襲われた。 「この辺までで、大丈夫っす」 「浅香くん」  抱き寄せた肩を離せない。 「いわきさん?」  離したくなかった。浅香は不思議そうに岩城を見る。何か言わねばと思うくせ、何も言葉が思い付かない。 「いわきさ…んっ?」 「いいや…すまない。お大事に」  浅香は戸惑っていた。岩城は手を離したが、未練がましい指がまだ衣類を掴んでいる。 「待ってる」  小麦色の手に握り潰されたコースターを見下ろす。どういう顔をしていいのか分からず、そう告げて岩城は浅香の前から立ち去った。 ◇  夕凪はもうあの喫茶店には行けないのだと思った。待っている、とあの見た目に反して随分と人の好い従業員は言ったが迷惑はかけられない。どこかで望んでいたのかも知れない。レストラン・サンロードはもうないのだ。だからそこに残留した思い出も結局は自身の中だけにしかないことも夕凪は分かっているつもりで理解しきれていなかった。  行くべき人の元へ届かなかった、今の時代は個人情報に成り得てしまう数字の羅列が滲んだコースターを破いて捨てる。誰かの恋路を邪魔してしまったかも知れないが、そういうことは慎重にやってもらいたいものだ。夕凪は溜息を吐いてリビングの隅にいる父親を認めた。テレビを観ていた。それが気に入らない。居場所をひとつ、この肉親に植え付けられた観念によって失わなければならなくなったことに。女子中学生。セーラー服。茶けた髪。2本縛り。家の中にいる妹の姿。不本意に再生されていくフラッシュバック。吐き気に襲われてトイレへと走った。陶器を叩く吐瀉物の音。店でぶち撒けなくてよかったと他人事のように思う。もうあの店には行くなと身体が拒否しているような気がした。あの店のメニューを、空気を、光景を、もう受け付けないのだ。限度まで口にし、肺に吸い込み、焼き付けた。4人で食事をしたレストラン・サンロードはもうない。復帰したとして、どう祈りどう拝みどう足掻いても4人で訪れることは出来ない。いい加減諦めたい。妹は死んだのだ。便器から離れて壁へ寄りかかる。腹が痛んだ。捩れるように鋭く疼く。腹を撫で、嗚咽を漏らす。妹もこのトイレで吐きながら泣いていた。やめろ。夕凪は思考にストップをかける。だが止まらない。セーラー服だった。朝。リビングからテレビのニュース番組の音が聞こえて。やめろ。やめろ、やめろ。だが手遅れだった。胸に棲む怪物の慟哭が渦巻きはじめる。。狭いトイレの中でまだ胃液の風味が残る口元を抑えた。だがその化物を制御出来ないことを知っていた。目の前に広がる汚れた壁へ頭を打ち付ける。ブレーキの利かない怪物にはこうするしかなかった。衝突のたびに視界が弾ける。細かい質感のある壁紙に爪を立てる。トイレに長居してしまうことが多かった。長居するから怪物が目覚めるのか、怪物が目覚めるから長居するのかは分からなかった。まるで爪研ぎだった。トイレは、父親が、妹を。やめろ!夕凪はいっそう強く頭を壁に叩き付けた。薄い壁が凹み、傷が入った。頭が白くなり暫く思考が止まった。痛みに感謝してリビングへ自室へ戻る。寝なければ。意識を持っていてはいけない。行けないのだ。何錠飲むのかも忘れた睡眠導入剤を適当にアルミの容れ物から出して口に放る。2錠か4錠か6錠か8錠か…偶数だったことだけ覚えていた。いつから放置しているのかも曖昧な、ローテーブルの上の水で流す。ベッドに倒れこみ、ただ頭の痛みに集中する。それが日々だ。だが思ったより身体は頑丈だった。またわずかな痛みを伴って身体は何ともなく動きはじめ、同じことを繰り返すのだ。眠りに入るまでの時間が苦痛で仕方がなかった。テレビドラマのように数秒嗅げば意識を失い、呑ませられればすぐに効く薬品が羨ましくて仕方がない。痛みでなければ、怪物がまた痛みの底から手を伸ばしてくるのだ! 「ぁあ゛あ゛ぁあああ!」  ベッドの上で頭を掻き毟り、のたうつ。やめろ!やめろ!やめろ!フラッシュバックする。怪物があの日の光景を見せるのだ。トイレで蹲り嘔吐する妹とそれを見下ろす夕凪。泣いた顔は覚えているがそこに含まれているものが何だか覚えていない。違う!それではない。お前が思い出すべきはそれではない!怪物が嘲笑する。別の光景を見せようとするのだ。扉の隙間の奥の妹の捲られたスカート。白い尻。父親。掌に広がった液体。テレビ番組の冷静な声と泣き声と怒声。怪物が嗤う。そして夕凪は気を失った。  だが深夜には目が覚める。汗で濡れた背と気怠い身体。空になった頭は暗い室内を見回し、錠剤と水だけが入った胃はきりきりと痛んだ。ほとんど漠然ととしていたが家に居たくないという意識だけははっきりしていた。内外共に鉛と化している身体を引き摺ってでも。ローテーブルに放置された残りの水を呷る。生温くなって酸化していた。  新しく入ったコンビニエンスストア以外はどの店も閉まっていた。商店街の名前が入った小さな旗が結ばれている街灯が、煉瓦の地面を薄暗く照らす。色褪せたポスターを眺めながら商店街の外へ出て歩いていく。喫茶店アネモネの前で立ち止まって、もうここには来られないのだな、と思う。否、行かない。短く息を吐く。明日の朝…今日の朝はどこへ行こう。新しい場所を探すか、それか家にいるか。家に、居られるか?問うてみる。居られない。  夕凪はまた大きく溜息を吐いて、悪酔いによく似た感覚に浮かれる。コンクリートジャングルと人波の地を目指し、長い橋へ向かう。だが渡りきったことはない。人通りも車も少ない深夜に酒に身を任せ橋を途中まで渡るのが好きだった。長方形の陰の奥で輝くその先の空間を知っていた。母に連れられ妹と行ったことがある。父も。ビルの中に水族館があったり、映画館があったり。少し高いレストランがあって、レストラン・サンロードよりメニューも多く席も広かった。欄干に手を掛け、緩やかな河を見下ろす。胃が気持ち悪くなって深く息を吐く。どこかで区切りをつけねばならないとは分かっていた。この暮らしはずっと続くだろう。だがそう長く続けられない。緩やかな河を見下ろして、今日は何をしようか考える。やらなければならないことは何もない。空虚だ。仕事中に怪物が現れて、結局長く続けられなかった。その後のアルバイトでも接客中に来店した2本縛りの女子中学生を見て失神してから辞めざるを得なくなった。そろそろ貯金も尽きる。これという夢もない。ただ怪物を飼い慣らすことだけで必死だった。仕方がない。罪は償わねばならないのだ。償わねばならないほどの罪など犯したか。だが怪物は棲み着いて、日常を壊すではないか。そして苛んで、嘲笑する。  緩やかな河を見下ろして、欄干に足をかける。怖くなったらやめるのだ。怖くなったらやめる。夕凪は欄干の上に腕を乗せ、肘を立てていく。鉄棒のようだった。懐かしい。小学生の時に気持ちは戻る。友人もいた。皆都心に出て行った。醤油臭く古い商店街はつまらないのだ。だが夕凪には鳥籠だった。あそこならばあまり人には会わない。年齢層は高く、見知った人々ばかりで、浅香家の長男を腫物として扱うから人付き合いも淡白で済む。他にどこに行く気か。どこにも行けない。金も気力もビジョンもない。

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