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第4話

――あたし、男の子に生まれたかったな  朝日が瞼を開かせた。商店街脇の公園のベンチで目が覚める。頭痛があった。口の中が変に甘く感じられた。怪物が現れ、薬と酒を飲んだがまだ暴れていたために家に居られなくなったのだ。記憶を辿った。欠伸をして家路につく。商店街を入ってすぐの喫茶店アネモネを見てふと胸が重苦しく感じられたが、結局は夢だ。だが何か深層心理を映しているのだとしたら。不可抗力とはいえ大して親しくもない喫茶店の店員を夢の中で変なふうに扱ってしまったのは羞恥や照れに似た罪悪感があった。しかしもう行くことがなければ話すこともないのだから知られることはない。喫茶店アネモネを眺めて止まっていた足が動く。ガラスの壁を通り過ぎると後方で鈍く鈴の鳴る音がした。喫茶店の扉の開閉を知らせる合図だ。 「浅香くん!」  夢で聞いた美しく響く男声が人目も憚らず朝の商店街に木霊する。呼ばれた本人はびっくりした。人違いかも知れない。足を止めたが振り向けずにいる。 「浅香くん」  走ってきているのだ小気味良い靴音で分かった。無遠慮に肩に触られる。距離感の掴めない相手に夕凪は苦笑した。 「お、おはようござまっす…」 「ああ、おはよう。昨日は具合が悪かったようだけれど、もう大丈夫なのか」  訊ねてから夕凪の身形を見て美しい顔を顰めた。 「別にどこも具合悪くないっすけど…?だから大丈夫っすよ」  大仰な仕草でアピールをしてみるものの美しい顔は訝しさを増すばかりだった。 「浅香くん。昨日のことだけれど、」 「昨日?…あ、この前のことっすか?お世話になったっす!」 「この前?昨晩、」  話の通じない妙な感覚が気色悪い。まだ夢の延長なのだろうか。夕凪もまた大きく眉を顰め、早く帰りたいという態度を隠せなくなっていた。身体を馴れ馴れしい喫茶店店員から背けていく。 「俺のことは気にしないで、これからも…」 「すんません、急いでるんで!」  会話の途中ではあったが執拗な男から逃げ出す。悪夢だ。まだ覚めていない。否、常に悪夢だ。妹が死んだ時から。何か様々なものが一度に掌を返していくような孤独感に苛まれる。喫茶店アネモネは知った場所ではなくなっている。家へと急ぐ。怪物が棲んでいる。けれどどこよりも安全だ。何も見ずに済む。誰にも会わずに済む。誰とも話さずに済む。前方から膝丈のスカートの女がやって来る。紺色の裾が靡いた。白い腿がちらりと見えた。胃が歪んだようだった。両手で顔を覆う。怖い。若い女が怖い。若い女の肌が怖い。忘れていた息をする。若い女の腿はいけない。若い女の肌が、男を壊す。壊してしまう。壊してしまいたくなる。若い女を、娘を死に追いやってしまった!電信柱に頭部を叩き付ける。視界が揺らいだ。最低だ、最低だ、最低だ。最低の兄だ!気が済むまで痛め付けると吃逆のように嗚咽が漏れた。口元を押さえ声を殺した。人通りがある。ここは鳥籠だ。通い慣れた、小さい頃の面影に等しい喫茶店を失っても、この商店街を失うわけにはいなかった。 ◇  勤務を終え商店街の大通りに出る。誘われるようにあの青年が消えた道を進んだ。岩城のアパートとは方向が違う。店前にたむろっていた人妻たちの集いに捕まったが、またのご来店をお待ちしています、といつもの接客と同じ調子で躱し、弱りきった青年の影を追う。家までの道順は覚えていた。体調不良ではあったものの青年の健やかな肉感を支えながらながらひとつひとつ(しるべ)も印象付けていったのだ。思っていたより執着している自身を嘲笑い、だが足は止まらず爪先も方向を変えようとはしなかった。窮屈そうな民家とは違って彼の家は一部改築された大きな土地にあった。塀の際に木が生え、少し葉や枝が外へと伸びていた。不法侵入のつもりはなかったが、それとあまり変わらない感じがあった。思いきりあの青年に拒まれているからか。玄関扉は引戸だった。格子の付いた曇りガラスを軽くノックする。 「浅香くん」  曇りガラスの奥に人影が見えた。鮮やかな服装は浅香で間違いない。だが曇りガラスで互いに存在を認識しているはずだというのに鮮やかな服装の青年は一向に玄関扉を開けようとしない。 「浅香くん?」 「なんで…」  弱々しい声だった。玄関扉を開ける気配はない。 「昨日のことを謝りに来た。顔を見せてくれないか」  モザイク処理をされたような浅香の影は首を振る。引戸に手を伸ばそうとすらしていなかった。 「何の話っすか?何のことか分からないし…謝る必要もないっすよ。だからもう帰ってください」  加害者の自覚はある。だが無かったことにするつもりなのか。酔いに(かこつ)けて。無かったことに。彼の中に居場所を与えてはくれないのか。 「覚えてないのか?それとも無かったことにする気か?」 「無かったこと…?」 「君に無理矢理キスしたことだ」 「ああ…もしかして…ゲロった後、キスされたことっすか」  磨りガラスの向こうで青年は頭を掻き乱す。 「でもあれは、オレが人ん()でゲロったことのほうが悪いんだし…」 「そんなことない!俺が体調の悪そうな君を連れ込んだんだ」 「すんません。やっぱよく覚えてないっす。もう大丈夫なんで、ほんと」  浅香青年は早々に話を切り上げたがっていた。だが岩城は満足しなかった。 「君の顔が見たい」 「き、気持ち悪いっすよ、男同士で…」  玄関扉に手を伸ばしたが、嘲笑うような青年の言葉に手が止まる。気持ち悪い。分かっていたはずだ。分かっていたのか。疑問もろくに抱いていなかった。この感情は気持ち悪いものなのか。何度も汚したではないか。今更だ。だが本人にまるで見抜かれているように拒まれた。 「気持ち、悪い…」 「じゃあ、そういうことですんで…」  玄関を開け放つ。ガララ…と引戸が軋む。勢いがよかったため反対の枠に大きな音を立てぶつかった。丸くなった人懐こい目が露わになった。岩城の端麗な顔は冷め、見下ろした先の子犬然とした年下男の輪郭を掴んだ。少し荒れている柔肌に生唾を呑んだ。乾いた花弁の甘い香りに誘われる。 「な、に…すッ」  吸い込まれるまま唇に噛み付いた。脳髄から心地よく溶けていきそうだった。乾いている唇を舌で撫で、歯を立てないように食んだ。自身の口唇を押し付け、下唇を吸った。 「んぁ、」  割り開くと青年の高い呻きが聞こえ、岩城は気を良くして無理矢理舌先を捩じ込む。時折見せた白い歯が岩城の舌の根元を吸っていく。 「な、ぁっ…」  膝が震えていた。岩城の胸にしがみつき、やり過ごす(すべ)も知らないようだった。噛むことも突き飛ばすこともしない幼気(いたいけ)な様子にさらに岩城は図に乗った。青年の背に腕を回して抱き寄せる。スウェットパーカから包み込むような穏やかな洗剤の香りがした。 「い…っわ、ぅんァ…」  瞳を蕩けさせた可憐な青年は口を離そうするが、叶わない。岩城はもう離さないとばかりに頬を撫で、固定する。腕と手と口で彼を感じた。歯列の奥で縮こまる舌の機嫌を窺う。歯が少しずつ抵抗を示し遠慮がちに岩城の舌を挟み、少しずつ力を入れていく。脅迫のようで、可愛らしい強がりにも思えた。 「あ、ぅう…」  頑なに逃げ続ける舌を絡めて吸った。だがまだ嫌がり逃げ惑う。 「ぅん…ふぁァ」  頬に添えた手で髪を梳く。堪らなくなった。口付けを深める。細い息が岩城の頬を掠めた。口腔の自由を奪われた少年と変わりのない男児の口の端から2人の混ざった唾液が滴っていく。まだ足らない、と思った時に奥から喚くような叫ぶような野太い声がした。強く胸を突っ撥ねられる。簡単に結合部は離され、粘性を帯びた糸が容赦なく切れた。 「浅香くん…」 「もう来ないでください!」  胸部を殴られる。温厚な彼が声を荒げた。 「浅香くん…!」  岩城を無視して浅香は廊下の奥へと消えていく。咆哮はおさまらない。玄関を後ろ手に閉めた。招かれていないが框を跨ぐ。至る所に殴ったようなぶつけたような(きず)があった。咆哮と叱責。猛獣を飼ってでもいるのか。浅香を追った。散らかった部屋が目に入る。仁王立ちの青年が青褪めた顔で振り向いた。 「あんた、なんで…ッ!」  硬直する青年とその足元に這う生き物。人間だった。四つ這いになり浅香にじゃれつく太々しい野良猫のようだった。言葉にならない声を上げ浅香の脚に擦り寄っていた。浅香の怒りに構う間もなく、四つ這いの生き物は浅香の脇を通り抜け岩城の方へやってくる。轡を嵌められ、首輪を付けられた全裸の中年男性だ。無精髭の男はだらしなく唾液をこぼし、膝から下を引き摺るようにして腕を使いながら岩城に何か訴えている。低い振動が伝わる。男の腰や腿にはガムテープが巻かれていた。(うがい)するような唸り声と見開いて濡れる男の目が岩城に縋っている。 「帰ってください!帰って!」  四つ這いの中年男性を岩城から隠すように間に浅香が割り込む。岩城の両腕を掴んで押した。 「浅香くん、これは…」 「帰って!帰れ!」  振り向かされ玄関へと向きを変えられた。この機に素直に帰ったらこの青年はもう口すらも利いてはくれないとふと思った。 「浅香くん」 「帰れよ!帰れ!」 「浅香くん。このことは黙っていることにするよ」  わずかに押す力が弱まった。しかしすぐにまた蘇る。 「浅香くん」 「あんたには関係ない!」 「黙っていてやる。言いふらされたら困るだろう?何も君を強請(ゆす)ろうとか脅そうとか思っているわけじゃない」  迷いを見せた青年へ向き直り、覗き込む。俯いた顔はひどく落ち込んでいた。 「なんで、オレに構うんすか…」  弱々しく呟き、そして上げた顔面には怒りが満ちている。岩城はその表情までが仔犬の悪戯だとばかりだった。 「分からない」 「分からないって…!」  浅香の腕が出る。喧嘩慣れはしていないが反射的にその手を掴んだ。ふわりと洗剤の香りが漂う。 「随分と喧嘩っ早いんだな」 「放せッ」  掴んだままの腕が暴れた。握る力を強め、腕を引く。青年はバランスを崩し岩城の胸へ倒れ込んだ。逃すまいと両腕でホールドする。青褪めた顔で固まる小さな生き物に唇を落とす。青年は目を剥いた。 「誰にも言わない。ただ教えてくれないか。君のことが知りたい。この状況はどういうことなんだ?」  四つ這いの中年男性は岩城に吠えるような訴えるような唸り声を諦めなかった。青年は唇を噛む。健やかな白い歯が柔らかい彼の唇を傷付けるのが許せず岩城の節くれだった指が先程味わった熟れた果実のような唇に触れる。 「誰にも言わないなんて保証無いじゃないすか。信じられないっす…」 「君が担保になったらいい」 「ど、どういうこと…っすか…」  浅香は怯え、震えていた。凍える子猫同然に思え体温を分け与えようと抱擁を強める。 「気持ち悪ぃっす!」 「下の名前で呼んでいいか」  浅香は岩城を突き飛ばした。悔しさを滲ませ俯く。機嫌を窺った。彼が口を開くのを待つ。 「夕凪。本当は、気安く呼んでほしくないっす」  でも脅されているから仕方なく。言外にそう含めていた。だが構わない。手に入ったという感じが強く岩城の認識を曇らせていた。浅香の腕を掴み、リビングに連れ込む。ソファに投げると、焦りながら岩城を見上げた。恐怖が滲みながらも隠そうとしている怪訝な眼差しは加虐心と同時に保護欲を煽った。 「かわいい…」  思わず口にしていた。浅香の身体に覆い被さった。体温と鼓動を感じたい。柔らかな洗剤と彼自身の香りに埋もれたい。 「な、何っ!なんなんすか!」 「かわいい。かわいいよ、夕凪」  狼狽える浅香の唇にキスする。 「やだ…!やめろ…っ!」  暴れた手が息を呑むほど美しい岩城の頬を押して拒んだ。 「そんなこと、言っていいのかな。言える立場か?」  卑劣なことを言っている自覚はあった。しかし愉悦を隠せず引き攣った笑みを滲ませたまま挑戦的に眉を上げ、思わせぶりに身を剥がす。 「…っ、分かった…」 「ちょっと、俺と遊んでくれたらいい」 「遊ぶたって…トランプとかじゃ、ないだろ…」  睨む顔もまた可愛らしかった。抱き締めてしまう。この少年みたいな男を好き放題に出来る。下腹部に打撃を喰らったような情欲が湧く。 「君の身体が観たい」 「…ゲイなのかよ」 「君はゲイじゃないのか?」  視線で部屋の外を示す。面白いほどに浅香は表情を尖らせ、抵抗を始めた。 「違う!違うからっ、放せっ!」 「君がゲイだろうと、ゲイでなかろうと、関係ないな。俺もゲイじゃない。ただ、君がいい」  ソファに力強く倒す。抵抗は許さないとばかりに微笑んでやった。体格は浅香のほうがわずかによかったが、体勢で十分に互角以上にはなり得た。 「変態…っ」 「なんとでも」  嫌がる可憐な唇を執拗に塞いだ。岩城にもまた余裕がなかった。好いた者の匂いと、腕の中に収めてしまっている肉感、柔らかな唇の酩酊感、これから訪れる快楽への期待。喜ばしいものがある種の負担となって岩城に伸し掛かる。  飽くことのない接吻に区切りをつけ、耳を舐める。下敷きにした健やかな肉体が震えている。寒いのか?と揶揄うところだったが鼻を啜る音が聞こえた。 「いっやだ…っ」  か細い抵抗の声。やめるつもりなど微塵もなかった。すでに欲望に火が灯り、消えそうになかった。 「い…やだっ!やだ!ぁっあああ!」  浅香は喚き散らし、とても理性的ではないような暴れ方をした。癇癪を起こしたらしい。 「やだっ、やぁ!ぁっあああ!」  岩城を突き飛ばし、ソファから起き上がるとよろけた拍子にリビングの壁へ激突した。叫びながら自ら頭部を壁に打ち付ける。容赦のない勢いで、軋みが微かに伝わっている。壁を引っ掻き、赤い絵の具を塗っているみたいに3本の跡が指を追う。 「夕凪?」  浅香はゆっくりと岩城を振り返る。水膜を張った目が怯えながら岩城を捉えた。血の滲んだ唇が震え、唾液が顎から滴っている。次の瞬間には彼は岩城に襲いかかっていた。今度は岩城がソファに背を打つ番だった。浅香は馬乗りになって岩城へ拳を振り上げた。顔をくしゃくしゃに歪むて泣いていた。目の前の岩城すらも見ていなかった。自身を襲う脅威を打ち砕かんとして必死になって殴打を続ける姿に岩城の胸は煌びやかな熱を持って締め付けられる。乱心している哀れな子供の腋の下へ両手を伸ばす。自ら暴力を迎え、怯えに攻撃を繰り返すしかない引き締まった身体を抱き締める。しかし浅香は岩城を拒み、バネに弾かれたがごとくソファから落ちた。肩をフローリングに打った音が鈍く聞こえた。凍えるように震え、それから床に嘔吐する。半分溶けているくせ、まだ形を残している大量の錠剤ばかりで吐瀉物は全体的に白かった。顔面の鈍痛に耐えながら岩城はソファから起きた。泣きながら腹を押さえ、肩を上下させる姿にぞくりとした粘っこい悪寒が走る。両肩を押さえて床に引き摺り倒し、唇を奪った。柔らかな唇だけを堪能していたら寿命を終えてしまいそうだった。舌を挿し込む。抵抗はなかった。胃酸の風味がまだ残っている。構わなかった。それがいっそう岩城の欲を炙り、浅香をひどく弱いものに見せた。弱々しい力で胸元のシャツを握られる。拒まれているのか求められているのかも分からない縋るような手付きだった。逃さないようにその手に生々しい熱が疼く手を重ねた。ふるりと震え、突然の静寂に浅香の上擦った息遣いが聞こえた。 「ぁ、ふ…」  抱き寄せてみたかった。しかし拒まれてしまうのも惜しかった。悦びは増すだろう。だが今は穏やかな体温を感じていたかった。 「ぅンあ……ぁ」  角度を変えて口腔に舌を這わせる。内膜の柔らかさに舌先が蕩けてしまいそうだった。縮こまる舌を掬い上げ、絡ませる。 「っ…ふ、ぁァッ」  殴られたばかりの頬に吐息が抜けていく。下腹部と連動するように疼いた。 「ぅンん、ぁっ」  浅香は力を失い、岩城の胸元へ崩れた。乱れた吐息が聞こえる。岩城は口の端に滴る混じり合った唾液の糸を拭った。 「放っておいてよ…もう誰の目にも触れないように、生きたいのに…」  浅香はまだ泣いていた。 「放っておけたら、よかったんだけどな」  頬を伝っていく涙を黙って見ていられなかった。触れようとした。だが拒み、背けられてしまう。 「夕凪、何か薬物でもやっているのか」  浅香は返事もせず部屋の隅をぼうっと見つめていた。顎から落ちていく涙の美しさに溜息を吐きたくなった。 「夕凪。これは大事なことだ」  両肩を引いて無理矢理身体の向きを変えさせた。首が据わらない嬰児のように頭が後ろへ寝て、意地でも顔は見ないという強い意思を示していた。 「夕凪…」 「…よく売ってる頭痛…。CMでよくやってるでしょ…」 「何故だ?何故こんな大量に飲む必要がある?そう書いてあるのか?」  浅香は黙ったまま立ち上がった。ティッシュボックスを手にして戻ってくる。岩城も手伝おうとした。 「やめろよ!もう帰ってくれよ…」  叫び、拒絶し、大袈裟に溜息を吐かれる。踏み込ませてはくれないらしかった。 「帰らない」 「…っ、まだ何か用がある?」  嘔吐物を片付けながら浅香は露骨に嫌悪を表し岩城を睨んだ。唇を噛み、耐えている姿が胸をくすぐる。 「夕凪と、まだ遊び足らないな」  片付ける手を止め、嘔吐物を見下ろしていた。固唾を呑む音が聞こえた。緊張感が伝わる。もどかしさに炙られる。 「人の弱味に付け込んで、どういうつもりなんだよ…?金?そんな無いっすよ…」  浅香はリビングにあるテレビの近くの抽斗(ひきだし)から通帳を出す。印鑑まで躊躇いもなく持ってきた。曇った目はただ一点、床を見ている。 「これで、満足?明日には心中するんで、安心して持っていってください」  岩城はびっくりして浅香の顔を覗き込んだ。浅香は通帳と印鑑を岩城に押し付けるだけだった。言葉を発さず、岩城のことを目に入れようともしなかった。 「心中って…どういうことだ…?」  おそるおそる訊ねた。刺激してしまうとまた癇癪を起こしてしまいそうな精神的な危うさを醸し出している。彼は通帳と印鑑を押し付けることもやめてしまった。静止している。浅香の頬に触れるより先に相手が口を開いた。 「そのままの意味。あの男と死ぬ」 「俺に、知られたから?」  緩慢に浅香は頷きついでに項垂れた。 「黙ってると言っているだろう?誰にも言わない。俺と君との秘密だ」  傷んだ毛先が左右に揺れた。 「信用出来ないか?」  がくりと頭を垂れたように首肯する。 「分かった」  通帳と印鑑を引っ手繰る。抵抗も見せなかった。立ち上がり、浅香がこの貴重品を出した抽斗に放り込む。それからまた座り込んで動かない若々しい肉体の前に座した。 「なら、俺が君を失えないようにすればいいんだな」  もうおそらく手放せない。自身の執着心の薄い性分を鑑みてみれば、不思議なことだった。強請れば与えられていたような気がする。だが強請る前に全てがあったような気もする。大した興味も示さない仔犬をフローリングに倒す。覆い被さり、その可憐な姿を観賞していた。胸が締め付けられ、生々しい微熱に身体の末端が搦め捕られている。嘔吐物もまだ片付け終わっていなかった。床に寝た陽気な顔立ちは険しく、しかしおとなしかった。頬に触れ、少し乾燥している肌を執拗に往復した。 「でも、もう君のことを失えないな。こんな、かわいい…」  深く眉根を寄せ、固く目を閉じた睫毛が涙で光った。儚い水晶が千切れて落ちていく。思わず指の背で拭ってしまう。そのまま形に残しておきたかった。 「変態…」 「そんなことはない。君は素敵だ。女の人とはどれくらい遊ぶんだ?自分では?」  噛まれた唇に指を挿し入れる。歯に薄皮を擦られるのも構わず、そのまま口内の舌を摘んだ。 「ぅ、ぅん…」 「若いものな。恥ずかしいことじゃない」  空いた手が身を捩る彼の、少しゆとりのある形状のジーンズ越しに下腹部を摩った。 「あっ、ぅ…、」  指に歯が刺さる。だが舌を摘んだり、引っ張ったり、繰り回すのをやめなかった。ふんふんと吐息交じりに声を漏らされると堪らない熱に襲われる。硬さもない脚の間を乱雑に刺激した。甘えるような声を上げながら腰を捩り、しかしそれでいて逃げようとする。嗜虐心ばかりが沸き立ち、急いてしまう。まだ戯れたい。岩城は腹の奥に激しい怒涛を感じた。

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