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第5話
手を出すのは早かった。下着に手を突っ込み、柔らかな器官を揉みしだく。舌を引っ張ると彼は、はふはふと熱い息を漏らしたが一向に下半身は反応を示さない。
「夕凪…君は、不能なのか…?」
技量の乏しい自覚はあるが触れてしまえば逆らえない弱点もあるはずだ。しかし浅香の性器は触れても擦っても縮こまってばかりだった。
「んぁ、は、なせ…ッ、よ…っ」
問いかけに抵抗を思い出したらしく、ばたばたと陸に上げられた魚よろしくフローリングに背中を打ち付ける。下着の中を弄 る岩城の腕を剥がそうと必死になり顔を赤くしていた。甘える仔犬のようで胸の疼きがそのまま爆ぜてしまいそうだった。
「かわいい…」
語彙が足りなくなる。思考力も低下した。腕を引っ掻かれながら茎を扱く。摩擦ばかりで芯を持たない。それがまた愛らしかった。
「かわいい…夕凪。かわいいな…」
「い、や…はな、せ…ッ」
「かわいいよ、夕凪、かわいい…っ」
粘性を帯びた唾液に濡れた片手で浅香の頬を撫でる。
「はな、せ…っ!痛い…っ」
傷んだ毛が頭を振ったことによって軽やかに鳴った。
「痛い?痛いのか」
ジーンズごと下着を下ろす。浅香の茎が外気に晒された。抵抗が大きくなったが遅かった。岩城は息を呑んで、滑らかな肌に這う性器周辺の蚯蚓腫れや傷痕を眺めた。性器周辺の毛は疎 らで、それは薄膜で塞がれた傷痕が走っている所為だった。陰茎そのものにも傷が薄っすらとある。浅香からは、ひっ、と声が漏れ、小さくまた泣き始めた。
「やめろよ…やめろよ、放してよ…」
しゃくり上げながら両腕で顔を覆い、声を殺して泣く。岩城は数秒ほど浅香の泣き顔を眺めてから傷だらけの性器を口に入れた。
「はっ、ぁん、」
咥えた器官ごと腰が浮いた。聞いたことのない甘えた声を上げ、浅香は腰を落とす。一瞬口元に予想外の圧迫があったが、慌てることもなく彼の眠れる肉茎を舐め上げる。質感の荒くない舌の裏面を使い丹念に唾液を塗り込んだ。
「ぅ、い、ゃ…っ」
震えている腰を押さえ込む。手淫ではまったく無反応どころか痛がっていたが、慎重な舌遣いに感じているらしかった。芯を持ち始め、少しずつ質量を増していく器官を頭を動かして内膜で扱く。塩はゆい蜜が口内に滲む。浅香の肉体から溢れてものかと思うと吸わずにはいられなかった。薄い袋も吸った。ころころとした食感に胸が熱くなる。嫌だ嫌だと怯える姿に甘やかなながらも息苦しくなった。先端部のさらに頂にある窪みを舌で焦らす。
「はぁ、っうん…、ぁっ」
岩城の頭が掴まれる。少し湿っていた。触られている。汗ばんだ掌が耳や髪に触れられている。小刻みに震えている。興奮した。
「だ、めっ、だめ…、出る、や…だぁっ!」
浅香は首を振った。彼の生臭い汁を吸いたい。粘ついた白濁を吐かれたい。達した顔も見たかったが、まず味わいたかった。妄想では出来ないことだ。何度も都合よく、逸楽の中でシミュレーションした。
「ああっ、出して…っ、出るっ、く、ぅんンぁっ」
岩城の後頭部を抱き締め、浅香は腰を突き上げた。女を攻める腰遣いなのだとしたら。ずくりと下腹部の欲望が膨らむ。彼の性生活の片鱗が見え、怒りと悦びが鬩 ぎ合う。
どぷり、どぷりと脈を打って少し早いくらいの射精を受け止める。薬草のような微かな甘さもない、雑草のような苦味ばかりが目立った、それでいて少し磯のような風味が鼻を抜けていく。若さのせいか濃かった。量も多い。味わうより先に反射で飲んでしまう。ゼリー状の半固形な感触が喉を通った。彼の性器から噴き出た物を口にした悦びに岩城のその美麗極まりない顔立ちに恍惚が浮かぶ。射精の余韻に浸り、ぽやっとした可憐な姿を見下ろした。
「かわいい」
喉奥に纏わりつく濃い子種汁を流し込もうと唾液が溢れ、岩城は唇を拭う。風味まだ鼻腔を捉えたまま、生々しく浅香の味を残した。放心したままの半開きの小振りな唇に噛み付く。御馳走にありつく肉食獣そのままに角度を変えて素っ気ない下唇を吸ったり食んだりした。彼のあまりの可愛さに気が触れてしまいそうだった。空腹に似た腹の奥底から這い上がる軋むような切ない痛みがどこかしら彼との接触を強く望み、優先順位も付けられずに、自身ですら彼をどうしたいのか分からなかった。抱き締めたら、おそらく両腕で潰してしまう。
「ぁふ…、ァ、」
「かわいい…」
同じことを繰り返すしか出来なかった。それ以外にもう表現のしようがなかった。己のうちに留めておくことも出来なかった。浅香に胸を握りられ、解放の呪文みたいにかわいい、かわいいを連呼する。
「夕凪…」
「最低だ…っ!」
浅香は拳を作り、達したばかりの自身の下腹を叩いた。痛みに顔を歪めるくせ、彼は自身を痛め付ける。最低だ!最低だっ!浅香は半狂乱になりながら腹を叩く。慌てて立ち上がり、脚が縺れて床に滑った。それでも逞しい野生の子鹿のようにフローリングを蹴るとよろよろとリビングに隣接したキッチンに駆けた。岩城も様子を窺いに後を追う。金属の音を立てて、彼は包丁を手にしていた。
「夕凪…っ」
刺されるものかと思った。だが彼は刃先を岩城に向けることもなく、むしろ岩城のことすらまるで忘れているようだった。傷だらけの陰茎を支えると、包丁を押し当てている。恐ろしさはあるのか、手は震え、鼻を啜っていた。
「何をしているんだ?」
ゆっくりもしていられず、浅香へ近付く。包丁を持っている腕を払う。尋常でない。不意を突かれた浅香の手から刃物は落ち、甲高い音が響いた。そのまま抱き締める。ふわりと漂う愛しい香りにくらくらしたがそれどころではなかった。背中を摩り、軽やかに叩く。
「うっ、うっぅ…」
しゃくり上げる身体が崩れ落ちた。突然言い寄られ、ショックだったのかも知れない。
「ごめんな。ごめんな、夕凪。君を痛めつけたかったわけじゃないんだ。君と仲良くなりたかったんだ」
謝罪の言葉はすんなりと出た。肩を震わせて浅香は泣き続ける。髪を撫で、強く強く抱き締めた。両腕を垂らし浅香は横隔膜を痙攣らせていた。息が深く、早い。過呼吸になっている。後頭部を優しく包み込み、肩口に押し当ててやった。
「落ち着くんだ。ゆっくり息をして」
他人の家だったが適当にグラスを取って、水を汲む。飲みたくないと首を振り、グラスは拒絶された。リビングに戻り、ソファに座らせ岩城はその対面に跪いた。両手を握る。まだ潤んだ目に岩城が映ることはない。虚ろな視線と交わったこと思うと、金切り声を上げて傷んだ髪を引っ張り、掻き乱しはじめた。止めようものなら、爪が岩城の頬や腕の薄皮ん削り取っていく。爪が割れたり、剥がれたりしている指先が痛々しかった。血が滲んで、赤茶色く爪の形を浮き彫りにしている。
「ぐっぅうう…」
唸り声を上げ唇を噛み、血走った目に岩城はやはり存在していなかった。どこから見ても正常な状態ではなかった。
「夕凪、しっかりしろ…」
再び抱擁して動きを止めるものの、彼はひどく怯え、暴れ回った。絶叫し、突然黙る。おとなしくなり、岩城の腕の中で途切れ途切れにか細く息をしている。
「許してくれ、悪かった」
「…違う…」
浅香はぽつりと呟いた。返事があるものとは思ってもみなかった。
「化物がいんだよ…化物がいんだ…っ!もう放っておいてくれ…放っておいてくれ!」
激しい抑揚をつけ、浅香の腕が岩城を押す。家から追い出そうと必死になって岩城の腕や服を掴んだ。
「化物?なんのことだ?」
「あんたには関係ない!帰れよ…!」
「話はまだ終わっていないだろ?」
浅香は首を振る。岩城は踏み止まり、そこにいた。
「全部あんたにくれただろ!帰れよ…!警察呼ぶぞ」
「警察呼んで困るのはどっちなんだ?」
抵抗が弱まった。
「話したらいい。俺も君の共犯者だ」
「…っあんたには関係ない!」
牙を剥き、眉を吊り上げ、鼻梁に皺が寄る。野犬であっても浅香は岩城にとって可愛らしいものだった。
「なら、関係を持とうか。俺と」
下から顎を狙った拳を受け止める。本気だったが揶揄と捉えられているらしい。
「かなり拙 いらしい秘密を握った俺に、よくそこまで反抗出来たものだな」
「…っ何が、望みなんだよ」
「何度も言ってるだろう?君と仲良くなりたいんだ」
歯軋りをしながら俯いていく様を黙って見つめていた。
「ほんとに、そんなので…」
「そんなの?俺にとったら大きなことなんだけどな」
浅香は、くくっ…と低く笑った。
「分かった、いいよ…明日には全部消えんだ。好きにしたらいいや…ただ、きっとまた化物が出てくるから、縛れよ。お喋りくらいなら出来るでしょ」
何故持っているのかも分からないような丈夫なロープを浅香はテーブルの上から拾うと、岩城へ投げ付けた。受け止めたはいいが、縛ってまで強行していいものか、まだ分からなかった。無理矢理に彼をいたぶったが、岩城はまだ関係の修復を期待していた。ここでこの甘美な誘いに乗ってしまったらおそらく決裂するだろう。
「これで首括るってんじゃないんだろうな」
「どうするの?するのか、しないのか」
「しない。だがこれは預かっておく」
岩城は親指ほどの太さのロープを束ねるとソファに腰を下ろした。
「帰れよ…」
「こんな状態の人をそのまま放って置けるのか?明日には死ぬって言っているんだぞ」
「ただの構ってちゃんに決まってるじゃん、バカじゃないのか?いちいち他人の『死にたい』を信じるワケ?」
岩城は長くしなやかな脚を組む。冗談めかしているが仔犬の顔は引き攣った笑いを浮かべ、かなり神経が昂ぶっていることを知る。
「今日から君は俺の、恋人な」
「やっぱりゲイかよ…っ男同士で、気持ち悪ぃ!」
「あの人をあんな風にしておく奴の言葉とは思えないが、君になら何を言われても構わない」
浅香は岩城へ背を向け、肩を落としたまま暫く立っていた。それから思い出したように嘔吐物の残りを片付けはじめる。
「化物とは、何のことなのかな」
自宅だというのに身を小さくしている青年に問う。
「腹の中にいる」
簡潔に答えは与えられたが要領を得ない。アルコールティッシュの匂いが甘苦く鼻へ届いた。
「大量に薬を飲むのは、その化物を鎮めるためか」
こくりと背を向けたままの頭が縦に揺れた。抱き着きたい欲求に駆られながら、なんとか抑え込む。化物の正体が何となく自身でも掴めた気になった。
「それは本当に化物なのか?」
再び傷んで茶けた髪が縦に揺れた。
「信じなくて、いいよ…信じてもらえるとも、思ってないし」
けれど信じてほしいという色を帯びていた。彼が頷き以外のものを返したことに岩城は飛び上がりたいくらいだった。
「信じるさ」
「いいよ、信じるなよ……あんな化物だらけ、嫌なんだ、怖い…信じたくない…」
「夕凪?」
「あんたは怖くないのか。あんたはその辺歩いてる女子中学生をレイプしちゃいそうだとか、思わないのかっ!」
ウェットティッシュにより大きく照るフローリングを、だんっと浅香はいきなり叩いた。彼が喫茶店で泡を吹いた事件を思い出す。女子中学生が苦手だと言っていた。求められているのは共感なのだろう。だが同意ではないようだった。それをどう押し付けがましくなく伝えようか、適切な言葉が思い浮かばなかった。
「思うだけなら、自由だろうな」
「自由じゃない!」
ぐりんと首を曲げ、浅香は岩城を睨んだ。
「自由じゃない!なんで泣いて嫌がる女の子を無理矢理犯す妄想をして平気でいられるんだよ?サイコパス!人格破綻者の人非人 !最低な野郎だなっ!」
浅香は岩城の座るソファへ跳びかかる。胸倉を掴まれ、怒りに歪んだ顔面が近付く。岩城は怪訝そうに眉を寄せるだけだった。
「別にそれは、願望と直結しているわけじゃないだろう。ホラー小説とかなんかが主にそうかもな。望んでもないのに、想像力ばかりが働いてしまうなんてことは」
浅香は熱湯でも飲み込むかのように何か苦痛らしきものを堪えていた。歯軋りをして、身を震わせる。やはり尋常な精神状態ではない。
「何を恐れているんだ?何が怖い?言ったらいい」
胸倉を掴んだまま、項垂れている。
「あんたには…ッ、分からない…」
「他人だからか?」
「黙れよ…!」
爪が剥がれかけて、血の固まった指が岩城の顔下半分に伸びた。冷たく湿った掌が口元を覆う。ウェットティッシュの弱いアルコールの匂いがした。
「黙るよ」
浅香の手を取り、弱く丸まった指の関節にキスした。
「黙る」
手の甲にも口付けた。それだけでは飽き足らず、己の手と絡め、頬擦りした。浅香は不快さを隠しもしなかった。露骨に嫌がる表情もたまらなかった。腕を引いて手首と浮き出た骨にも接吻した。
「あんた、モテそうなのに……そういうところ、ちょっと残念だよね…」
「褒めてくれているのか。嬉しいよ」
「カノジョから別れ切り出されるタイプでしょ」
岩城は切れ長の目を丸くした。
「今は君が恋人だから、関係ないな」
「……なんで…オレなんだよ…?コースター送った人のことは、どうするんだよ…」
浅香の不安定な瞳を見つめる。伝わっていない。何か勘違いされているのだという可能性に辿り着く。
「あれは、君に送ったものだ」
不快な表情がさらに濃くなった。背に腕を回し、強く抱き締めた。体勢を崩しかけた浅香は慌てて岩城にしがみつき、肩に顎が乗る。胸と胸が密着する。腕の中の空しさが満たされる。
「電車で見かけた時にはもう、君のことが頭から離れなかったよ」
「…気持ち、悪ぃ」
「夕凪の気に入る付き合い方に合わせるさ」
浅香は数秒黙っていた。
「オレ、めちゃくちゃ、面倒臭いよ……いつまであんたが持つのか、見ものだな…」
浅香がわずかに前傾姿勢になったのをいいことにそのまま唇へキスした。ふと未来を口にしたことに安堵した。下腹部は破裂寸前で今すぐ解放を望んでいる。壁は爪痕と凹みだらけだがよく掃除の行き届いたトイレを借り、そこで自慰に耽った。散々焦らされていた燻りはすぐに迸り、1度では足らなかった。浅香は妙な顔をしたが深く追及せず、落ち着いていたためにその日は帰ることにした。状態が状態なら泊まる気だったが、浅香はすっかり落ち着いていた。
勤務を終えると浅香の家へ向かった。心持ち踊るように商店街を歩く。浅香は喫茶店には姿を見せなくなっていた。寂しくはあったが、仕事終わりには会える関係になったのだ。恋人にまで発展してしまうとは思わなかったが、逃せないチャンスを掴んでしまった以上、利用しない手はなかった。中身はこれから作っていけばいいのだ。浅香の自宅玄関を叩く。彼は携帯電話も端末も持っていなかった。厳密には物質そのものを持ってはいたが機能していなかった。来訪の連絡は入れらなかったが毎日寄ることは告げてある。
「入って」
浅香は玄関を開け、岩城を通した。変わった様子はない。
「薬は飲んでないな?」
頷きが返ってくる。
「酒も飲んでない?」
首肯する。可愛らしさに今すぐ手を出したくなったがぐっと堪えた。
「化物は?」
「今日はまだ、大丈夫…」
「そうか」
他人の家だというのに岩城が自ら腕を引いて居間へと促した。
「あの人は?」
「寝てると思う…」
語尾が下がっている。俯きがちな浅香の顔を覗き込んだ。元気がない。
「何かあったのか?」
茶けた髪が左右に振り乱された。
「元気がないな」
「ちょっと、眠いだけ…」
「眠れなかったのか」
また首を振る。縋り付くように両手が岩城の胸元を摘まんだ。しょんぼりとしている。力付くでどうこうしてしまいそうな果てない欲求をどうにか抑え込む。余裕がなかった。
「どうした?」
努めて平静を装い、優しい恋人の皮を被る。萎んだ肩に手を伸ばしかけたが、おそらく彼の布越しとはいえ肉感に触れたら暴走しない自信がない。
「怖いんだ…怖い…もう全部が、怖いよ…」
「怖い?俺も?」
「あんたは、嫌な人だけど、怖くない…」
最初と最後しか聞かなかった。おそるおそる手を伸ばす。少し情けないくらいだった。傷付けたくはない。だが衝動に従えば間違いなく傷付けてしまう。
「一体何が怖いんだ。話してみたら、落ち着くかも知れないだろう?」
浅香の自宅だというのに、我が家のようにソファへ勧める。彼は甘えているのか岩城の腕を掴んだままソファへ座った。そのために岩城もソファへ自ら引き寄せられていったり
「中学生くらいの女の子のスカートが怖い。なんでみんな生足を出すの?おっかないおじさんに襲われちゃうだろ!岩城さん!岩城さん、オレはどうしたらいいの?オレは…っ」
何が彼を刺激したのだから皆目見当も付かなかった。癲狂 を起こし、高い声で唸る。髪を引っ張り、しゃっくりしたみたいに引き攣った声を上げた。
「レイプされちゃうんだ!子供産まされちゃうんだよ…!それで…それでもまだ足らなくてずっとずっと犯される…っ」
「夕凪。何か悪い雑誌でも見たのか。落ち着け。ほら、手を貸して。俺を見ろ」
浅香の手を取り、眉間を痙攣させる歪んだ顔を捉えた。ひぃひぃと激しい呼吸を整えて潤んだ瞳が懸命に落ち着こうとしている。
「それが、化物の正体?」
「別れよ、岩尾さん、無理だよ!あんたオレに付き合ってられないよ、もうつれぇよ、岩下さん…」
ゆるゆると頭 を振って浅香は弱気に呟いた。脱力し、あとはもう寝る以外のことはしたくもなさそうだった。だが岩城は納得が出来なかった。あまりにも早過ぎる破局で、あまりにも反論の余地があった。旋毛 を見せたままの恋人の肩を揺する。
「まだお互いに何も知らないじゃないか。少しずつ時間をかけていこう。君が俺といれば、安心できるように」
「無理だよ!無理だ!あんたはっ!あんただって父親が女ファックして生まれたくせに!薄汚い欲望の権化だ!あんたも!オレも!」
わぁっ!と居間が叫び声で揺れた。岩城を突き飛ばし、足音も奔放に台所へ駆けていく。また包丁を取り出す気らしかった。
「夕凪」
「別れろよ!」
やはり彼は包丁を岩城へ向けた。銃ではないが岩城は両腕を上げ、無抵抗のポーズを取る。
「嫌だ」
「嫌い!人間が嫌い!あんたも嫌い!なんで女の腹から産まれるんだ?なんで?なんでだ!」
「案外未来は男が産むかもな?生殖機能を失った…」
包丁が突き出される。
「卵生になってみろ。生まれて半分は死ぬぞ。ただでさえ人間は動物的にいえば未熟児のまま産まれてくるんだからな」
求めている答えとは敢えて外した。泣きそうになっている。
「脅すのはよせ。君を抱き締めたいんだ。だが刺されるのはどうもな」
鼻先にある包丁へ一歩踏み出す。白刃が頬に触れた。浅香は仰天して包丁を落としてしまった。隙を突いて抱き寄せれば彼のふんわりした服の柔軟剤の香りが、信じてもいない天国を映した。混じっている青年の匂いに生唾が溢れ、一瞬にして燃え上がる。自身の荒々しい息遣いになかなか気付けなかった。
「はな、せ…っ!」
「包丁は何をするための物だ?」
前髪越しに唇を落とす。毛の1本1本に口付けても良かった。浅香も鼻息を荒くして興奮が冷めていく感覚に耐えている。健やかな体躯は見せかけばかりで実際は脆いのかも知れない。
「答えろ」
浅香の返答を待つ間口元の届く限り、ずっと啄ばんでいた。少しずつ張っていく肩。無防備に晒された耳を唇で食む。
「きっとこのまま付き合ったってオレ、岩山さんに迷惑 かけるだけだし…」
ふにゃふにゃとした抑揚で上擦りながら、捻りも裏もない分かりきった問いの答えとは違った回答をした。
「付き合っていたら、互いに迷惑なんてかかるものだ。そのうち迷惑だなんて思わなくなる。俺も、君も」
首が凝りそうなほど項垂れている浅香の顎を捕らえ、上を向かせる。噛んだ唇がひび割れていた。待ち焦がれていた粘膜を塞ぐ。
「ぅ、ん…んン、」
合わさった唇が左右に揺れた。口付けを拒まれている。抱擁を解き、岩城は包丁を拾うとシンクへ放る。浅香はまた怯えていた。今度は形のない妄想よりも岩城を恐れているようだった。眉を下げ、半開きの唇が小さく動いた。しかし雰囲気は飼い主を待つ仔犬という感じの愛らしさそのままで、保護欲ではカバーしきれない加虐心ばかりが煽られた。
「でもこれはいただけないな。お仕置きが必要だ」
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