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第11話

 愛されて産まれてきた。とにかく愛されて、可愛がられ、周りの者は勝手に恋に落ちていった。笑いかければ小さな争いが起きた。告白されればやっかまれた。成長とともに己の置かれている環境が見えてきた。思春期に突入した頃に恐ろしくなった。発情期の雄雌の中で振り回されている。彼と同じ疑問を抱いていた。男も女も恐ろしくなった。  幼かった頃の幻影に触れてしまう。    酒も薬もなく眠る浅香の汗ばんで生温かい手を握り、岩城はベッドについた両肘に顔を埋めた。どちらの体温なのかも分からないほど熱くなっていく。与えているのかも知れないが、吸っているのかもしれない。どこかの令嬢をエスコートしたみたいに割れた爪が伸びる四指を掬うと、その一本いっぽんの背を親指全体で宥める。育ちの良い女の真っ白く軽やかで力めば折れそうな指とは違った。丸く磨かれ金細工を散りばめた薄ピンクの塗装もない。そろそろ帰るつもりでいた。手を放すと、浅香は寝返りをうって岩城を向いた。このまま眠れていれば朝まで眠れるはずだ。薬も酒もないが、セックスはしていた。荒々しく互いを求め合い、自身の全てを曝け出すような。埋められないものがある。数歳とはいえ失った若さ、陽気さ、素直さ、(いしずえ)となっている戻らない時間。このままでも浅香は生きていけるだろう。おそらく楽ではない。苦しみ、嘆き、つらくとも。扉を閉めることに彼は大きなこだわりがあり、常に家中の部屋は開け放されていたが、彼が眠ってしまったところで岩城の気が休まらずに軽く閉めてしまっていた。そのドアに触れたところで、替えたばかりの布団カバーが大きく擦れた。起こしてしまったかも知れない。 「雪々(せつな)さん」  ふわりと彼は身を起こした。鼻の下を掻いて、ふにゃふにゃと喋った。振り返る。 「ご飯、美味しかった」 「ああ、それはよかった」  そこから動くことが出来なかった。 「もう、帰るの?」 「そのつもりでいるが…何かあればやっておくぞ。皿は洗った。洗濯物も回してあるから、朝干そう。お父さんのことも、晩飯は食べさせたし、おむつも替えて、寝かし付けてある」  浅香は無言で岩城を見つめていたのは暗い中でも感じられた。 「…オレ、あんたのこと、何も知らない」 「無理矢理始めた関係だったからな。今は寝なさい。疲れてるだろう」  傍に寄れなかった。金縛りに遭ったみたいに立っているのが精一杯で、ベッドの上で胡座をかく浅香をただ視覚に留める。 「オレはあんたに、犯されたがってた…?」  奇妙な問いかけに悪寒が走る。彼は無邪気に訊ねた。岩城を息を呑んだ。聞き間違いか、何か自身が曲解しているものと信じて疑わなかった。 「そんなわけないだろう。どうした?寝惚けているのか?調子が悪い?」  平生(へいぜい)ならばすぐさま駆け寄った。しかしそれが出来なかった。恐ろしくなった。触れたら壊れてしまう、発狂してしまう。強迫観念が扉の真後ろまで来ている。 「ううん。なんとなく。もう平気な気がしてきた。全部、もう全部平気な気がしてきた。だから、その…ありがとう…」 「何を急に…」 「きっと誰かに言いたかったんだと思う。誰かに、きちんと何か言ってもらいたかった。何でもいい、何かを。でもどうしても言えなかった。最初に言えたのがあんたで、よかったなって」  彼は無邪気を装う。喫茶店で見たものだ。剥がしたくて仕方がなかったもの。 「埋めておくことは、出来なかったのか?そうしようとしていた?俺が掘り起こした…?」 「ううん。オレがヘタクソなだけだった。みんな、嫌なこと、つらいこと、あるんだよな。でもオレはずっとずっと乗り越えられなかった。酔ってたんだと思う。ずっと悪酔いしてたんだ。でももう大丈夫だからさ!」  まるで宇賀神を相手にするみたいに親指を立てて岩城へ差し出した。 「夕凪…?」 「…明日、また来てくれんの」 「ああ。朝ご飯は何がいい」 「オムライスが食べたい。チキンライスのやつ。大変だよな?ダメかな。昔家族みんなで食べてさ、急に食べたくなったんだ」  大したリクエストでもなかった。洗濯物を干した後、そのままアネモネに向かえば十分間に合う。遅刻したって構わない。 「分かった。朝、コンビニでコーンを買って来るよ」  岩城の金縛りは解けていた。浅香は無邪気に喜んだふりをしていた。 「夕凪」 「何?」 「いいや、大したことじゃない。明日の朝、楽しみにしていてくれ。自信はないが…鋭意努力しよう」  浅香は岩城から目を離さない。それがひどく岩城を冷やす。 「じゃあな、また明日」 「うん、待ってる…おやすみ!」  部屋を出て、リビングの前の廊下を抜け、庭へと出た。玄関脇に置いてあるポリエチレン製のタンクを蹴り倒してやろうかと思った。夜更けの星空を見上げる。滲んでいく。髪を掻き乱し、何度も何度も入り浸った家を振り返った。人通りの極めて少なくなった薄明るい道端で声も殺せず泣いた。  明朝、浅香家は轟音を上げ燃えた。中からはガソリンを被った男性の焼死体と首を吊った男性の遺体が見つかった。現場の状況などから長男による無理心中とみられる。

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