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第10話

「は…ぁ、ぅ…ん」  蜜がたっぷりと滲み、幹全体を光らせた。胸の粒が存在を主張する。空いた片方へベッドカバーに爪を立てる手を拾って、当てがった。 「自分で気持ちいいところ、触って」  言われるがまま浅香は躊躇いがちに小さな実をいじった。 「ぅ…うぁ…、は…っ、」  息遣いが艶を持ち、岩城の下腹部にも微熱が生まれた。水気の増した淫部が卑猥な音をたてて、2人の熱気を煽った。 「何を考えているんだ?俺のこと…?」  浅香は目を瞑り、下唇を食んでいる。 「オトモダチのこと?それとも、"遊波(ゆあ)ちゃん"?」 「んぁアっあ、」  彼の躯体は弛緩し、岩城の肩へ後頭部を預けた。 「い、ぁあ…ゃだ…ごめ、なさ…いわ…っさ、ごめ…っ」  射精が始まり、ベッドを汚す。 「ああ…いけない子だな…?」  残滓もすべて搾り取るふりをして、達したばかりの茎をまた少しずつ速めて扱く。 「いや、やぁっ、いやっあっあっあっ!」 「悪い子だ、夕凪。とってもエッチで、はしたないな」  罵倒の言葉とは裏腹に声音は傷付けまいとした優しさで、しかし敏感な雄蕊を擦り切れるほどに上下する手は言葉同様、浅香を責めた。 「んああっぃやだ、やだ、アアっんあ、止めて、止め…っ!ぁぅぅッ」  雨音に近かった。透明な体液が弾け飛ぶ。腰が跳ね、逃げようと必死だったが文字通り弱味を握られているため相応の抵抗は出来ていなかった。岩城は自身の濡れた手を舐めた。息を整えて呆然としている浅香があまりにも扇情的で同時にさらなる加虐心が湧いた。 「別れようか、夕凪。君もそう望んでいたもんな」 「岩爪さん…」  ぼんやりした目が瞬きして岩城を見た。真意と動向を探ろうとしていた。 「別れよう?夕凪」  心にも無いことを重ねるのはどこか気分が良かった。楽しくて仕方がなくなる。微笑んでやると、彼は顔を背け、そのまま硬直していた。岩城は返事を待たず服装を整えると浅香の部屋を出た。冗談に決まっていた。また明日も明後日もここへは来る。リビング近くの廊下でペット用の皿で水を飲む浅香の父親とばったり鉢合わせた。相変わらず黒の粘着テープを身体中に巻かれ、尻に大きな玩具を咥え込んで固定されていた。出会った頃は長い間風呂に入っていなかったため白髪の多い頭が脂ぎっていたが、浅香と恋仲になってからは定期的に岩城が無理矢理風呂へ入れていた。浅香も何度か風呂に入れていたようだが、中年男は四つ這いの入浴なかなか慣れず、浅香もまた上手く立ち回れず、そのうち現代のこの国の基本的な風呂という習慣は消え失せたらしかった。 「素敵な人をありがとうございます、お義父さん」  もう他人ではない。親しみを込めて言えば、轡を嵌めたままの顔が皿から上がり、水滴を落として中年男は岩城の前を掌と膝で横断していった。  5日間、浅香の家には通わなかった。狂おしいほどの希求を堪えなければならなかった。本物の肉感と肉声そして視覚情報を知っているため、すでに仮想だけで誤魔化すことは出来ず、性生活は元に戻ったというのに悶々とした。自慰が週に多くても3回ほどだった日々が嘘のようだ。虚しい絶頂を味わう夜も2日ほどあった。会いたい。声を聞きたい。抱き締めたい。すでに夜だが、今すぐにでも行きたかった。今頃何をしているのだろう。眠れているのだろうか。暴れていないだろうか。腹は減っていないだろうか。あの男は、来ているだろうか。疑いは確信へと変えに向かった浅香の家のリビングは遮光カーテンの奥が光っていた。深夜帯だ。浅香は睡眠薬や酒、激しい性行為がなければすぐに起きてしまう。騒ぐように起きては、目覚める岩城に縋って眠るのだった。リビングで寝落ちてしまったのなら布団を掛けなければ風邪をひいてしまう。また吐いていたら。腹を空かせてはいないか。まさかまた手首を切ったりなどは…  浅香家の前に立っているだけで満足するつもりが、眺めれば眺めるだけ強い不安に囚われた。玄関へ駆け寄った。鍵は閉まっていない。不用心だ。怒りと混じる心配が沸騰し、岩城は焦った。足音も気にせず、リビングへ向かう。扉を向いたソファには誰もいない。自室へと急いだ。嗚咽と話し声が聞こえ、息を潜めた。片方は恋人のもので、もう片方は宇賀神のものだった。 『いいから、もう寝てろ。野良猫でも入ったんだろ。ボクが見てくるから』  足音を殺し、て離れた。深夜にはそぐわない短かな追跡。リビングの前の廊下で姿を捉えられた。身を翻すとリビングから漏れる弱い光によって間男の曲線が浮かび上がっていた。宇賀神は無言で、また戻っていく。 『寝てろって言ったろ。野良猫だった。猫苦手なんだろ?』  浅香も廊下まで出てきたらしかった。 『ご、ごめん…李桜(リョウ)ちゃん。李桜ちゃんも猫、嫌いなのに…』  彼の声は少し嗄れていた。恋人の情事後独特の上擦り、媚びて消える語末。他の者が聞いている。岩城だけの特権だったはずだ。 『嫌いってほどじゃねぇよ。気ぃ取られてドブに落ちただけっつったろ』 『でもそれ猫関係ないじゃんね』  浅香のくすくす笑う声を、初めて聞いた。何故、自分に向けられていないものは腹立たしく感じられるのか。 『うっせぇな!そン時小馬鹿にしたカオされたんだよ。ほら、寝るぞ』 『うん。李桜ちゃん、泊まってく?』 『お前が寝たら帰るよ、流石に。出戻り野郎の実家生活は肩身が狭ぇの』  宇賀神は砕けた調子で、しかし浅香に対する強い情が窺えた。 『じゃ、あ、早く寝る…けど、寝られなかったら、ごめん…途中で帰っていいからさ!』 『ま、その間にボクも寝ちまったらどうしようもねぇわな』  岩城の知らない浅香が引き出されていく。絶縁させるとは何だったのか。自嘲の笑みが止まらない。圧倒的な敗北感に脚が震える。実家同然のリビングに座っていた。時計の跡を示す、円形の壁紙の若い色合い。針の音は聞こえている。テレビの裏側に落ちているのだろう。膝の上に肘をついて頭を抱えた。どれだけ時間が経ったのかも分からない。 「で?」  リビングに入った一歩目に宇賀神は立っていた。 「野良猫と喋るのか、貴方は」 「うん…?あぁ、まぁ」  冗談が通じないらしく、宇賀神は訝しげな表情をしながらも戸惑い気味に素直な返答をした。岩城には無関心なことこのうえなかったが本当に野良猫と喋るらしかった。 「――じゃなくて、なんの用だよ」 「夕凪に直接言うさ。寝ているのか?」 「さっき寝たばっか」 「酒でも飲ませたのか?薬か?」  焦りを隠す。まだ、半信半疑でいる。事実を追い求め、だが怖気(おじけ)付いている。 「あんたにゃ関係(カンケー)ねぇだろ、もう。中途半端に捨てやがって…!」 「夕凪と別れてほしいと言った貴方が、突然掌を返すんだな。とはいえ、本当に別れるつもりなど微塵もないが」  宇賀神はソファに座る岩城の胸倉を掴んだ。怒りの形相が目の前に迫る。 「これ以上夕凪で遊ぶんじゃねぇ…!」 「夕凪と貴方は、親友でいいんだな?セックスフレンドでもなく?浮気相手でもなく?次の淫夫(オトコ)でもなく?」  拳が口元を打った。若さゆえの暴力衝動に怒りなど湧かなかった。その短慮さがただただ浅香の隣にいるには相応しくない照明となるだけだった。 「親友に、決まってる…!」 「それなら、夕凪を抱いたのは性欲処理か?残念ながら、親愛と恋愛は真反対にある。どっちなんだ?」  宇賀神の拳は開き、掌が乾いた音を立てた。岩城の顔半分を覆った一撃が火照った。冷めて暗い雰囲気を背負った宇賀神は興奮しているらしかった。 「…違う!」 「1度や2度じゃないんだろうな。よくも痕も残さず夕凪と寝られたものだ。感心するよ」  大袈裟に岩城は肩を竦めた。浅香と肌を重ねておいてキスマークのひとつも残さないその甲斐性の無さに感心するのは本音だった。 「幼馴染で"親友"は開発し甲斐があったか?人の恋人は?少しずつ上手くなっていく様は愉快だったか?親友のカラダを使って、優越感にでも浸れた?貴方は…」  喋ると口角が沁みた。錆びた味が口の中に広がる。 「違う…!あんたが夕凪に乱暴したんだろ!あんな夕凪、見てられなかったんだ!」 「なるほど」  素っ気なく返す。すべて取るに足らない理由だ。 「もう付き纏うんじゃねぇよ…夕凪に…このまますっぱり別れてくれ…」  ソファに突き飛ばされる、背を打った。宇賀神は落ち着きを取り戻したらしいが敵意を込めてそう言った。 「そのまま彼をいただいちゃうと?ハイエナみたいに…今まで手を出すこともしなかったくせにか?それとも、抱いているうちに惚れたわけか。だとしたら俺は、貴方を夕凪の親友とは思えなくなる」 「今でも思っちゃいねぇだろ」  葛藤しているらしき青年は黒髪を掻いて、溜息を吐いていた。うろうろしながら、迷っている。 「ボクから言い寄った。だからあいつは何ひとつ悪くねぇ」 「そうは言われてもな。応じてしまえばどちらから、なんて関係がない。俺と夕凪の問題だ」 「ボクが無理矢理襲ったっつっても同じこと言うのか」  岩城は馬鹿正直な宇賀神の態度を観察していた。 「そのままされたなら、同じことだな」 「サイテーだ、あんたは…!」 「誤解は困るな。別にその件に関して怒るつもりも責めるつもりもない。あんな可愛い子にそんな真似が出来るわけないだろう」 「寒ぃな!」 「ただこの罪はその身体で払ってもらう。貴方の分もね」 「モラハラ男が」  感情に任せて宇賀神は鼻で嗤い、そして岩城を鋭く睨んだ。岩城はそれを受け入れ、微笑した。 「貴方の言い分からすれば夕凪をレイプして、その挙句に惚れた、自称"親友"が何を言う。そういえばあの子は親しい友人がいるだなんて一言も言っていなかったな。所詮は貴方もその程度の仲ということを理解していただきたい。付き纏う、付き纏わないで言えば、貴方に何の制限が出来るって言うんだ?」  宇賀神の特に小さいというわけでも、肉が厚いというわけでもないが、幼さの残った拳が震えていた。感情と衝動の()なせ方を知らない、まだまだ頑是ない子供だ。 「このままぼろぼろになっていくあいつをただ見てろっていうのか…!」 「何か勘違いがあるようだ。そもそも貴方の前に夕凪を晒さない」 「このまま家にずっと閉じ込めでもしておくつもりかよ?周り囲って、固めて、独りにして、あんたはそこに付け入る気か!」  想い人が寝ていることも忘れたのか、深夜に似合わない(やかま)しさで宇賀神は怒鳴った。 「案外貴方も興奮していたんじゃないか。俺にレイプされた親友に手を出したことに。軟禁状態の想い人にどぶねずみみたいに手を出したことに…?これで俺が去っても、貴方はあの子の傍にいられるのか?愛というのは容易じゃないな。ロマンなんかあっという間に消える。あの父親の世話はどうする?その若さで自分だけでなくあの子と父親を経済的に支えていけるのか?あの子からすべての女の影を取り払えるのか?もしくはあの子の癇癪に耐えられる?貴方は?そんなに直情的で、馬鹿正直で?親友だから?惚れた弱み?気持ちだけではあの子は救えない。飼っているバケモノはきちんと調教しないとな」  岩城はソファを立ち、リビングを出た。廊下に出てきた中年男に気付いたのだった。宇賀神の青褪めた顔が、屈みんでペットに触れるみたいな岩城と、それなりに知っていた幼馴染の父親の変わり果てた姿へ曲がった。 「帰ったほうがいい。貴方の複雑な心境は分からないでもない。親友の父親が娘を犯していたなど気分の良いものじゃないだろうに。こんな姿にもなっているんだからな。残りの人生、お義父さんはずっとこのままだ。これは罰なんだから。お義父さんは遊波(ゆあ)ちゃんを――俺の義妹(ぎまい)になるはずだった子を直接殺しはしなかったけれど、同じことさ。生きる道をまだ選べもしない娘に向かってした仕打ちは、いわばこんなものだよ。恐怖と苦痛を植え付けて、罪深いったらない。まだこんな罰じゃ足らないな。でも楽しかっただろうな。肉体的にも社会的にも、立場的にも経済的にも弱い相手を追い込んで、凌辱して。さぞ鬱憤が晴れたろうな。一時的に?この家庭に限ったことじゃない。それが人間の本質なんだから仕方がない。いじめは楽しいな。誹謗中傷は?強姦なんて淫楽の極みだ。自分は被害者にならないという優越感と思い込みが、その本性を煽るんだな。貴方と、それから夕凪が怖がっているのは、夕凪でいえば妹が、女が、貴方でいえば夕凪が、レイプ被害に遭うことが怖いんじゃない。レイプ被害に遭っている様を想像して、手前が興奮するのが怖いんだろう?手前が興奮して、"使って"消費して、欲望の人形として見てしまうのが怖いんだろう?良識と秩序、それから意地の奴隷というのは恐ろしいものだな。身震いするよ。同情を禁じ得ない」  中年男の髭が伸びた顎を猫に接するが如くくすぐった。この首に岩城の中では鈴を付けてやることはすでに決まっていた。 「狂ってんな!」 「狂ってないさ。優しくて生温い輩が安心する答えを世間が用意してくれていただけに過ぎない。それに騙されていたんだな、貴方がたは?羨ましいことだ。それとも貴方は、許す?貴方の中で、この父親を。娘を孕ませて自殺に追い込んで、夕凪にまで罪悪感を抱かせたこの父親を?」  宇賀神は顔を背けた。岩城は笑みが止まらなかった。 「あんたは、人間性のカケラもない…ッ」 「動物なんだから仕方ないさ。貴方が弱った相手に子作り紛いのことを強要しようと、動物なんだから。だのに人間でもあるから(たち)が悪い。命の上に成り立って、命を大切にといいながら肉食魚食をやめられない業の深い生き物だな。人間性?そんなもの、微塵もなくて結構。随分と思い上がる。お高く止まることこそ馬鹿らしい。肉食はやめられない。セックスもな。女を見れば孕ませる。弱い者を見れば罵り、犯す。娘を凌辱したお義父さんも、夕凪をレイプした俺も、弱った夕凪に付け込んだ貴方も、変わらない。そうだろう?」  宇賀神は顔を片手で覆った。 「正気の沙汰じゃねぇよ、あんた」 「どうしたって導きだされる答えだ。肯定したいわけじゃない。だから貴方が許したいと思うならその意思を咎めることは出来ない。俺は許さないが」  臀部に食い込んだプラスチックの大きな性玩具を押すと中年男は(うがい)をするように轡の奥で呻いた。 「やめろよ…」  宇賀神は呟くように言った。 「あんたが人間嫌いなのはよく分かった。ただそれで夕凪を洗脳するんじゃねぇ。あいつに必要なのは、人間の優しさと触れ合いだ」 「アレルギー患者には積極的にアレルギー食品を摂らせるタイプか。うっかり死んでしまわないようにな」  岩城は突然、両手を打ち合わせて払うような動きをしながら立ち上がった。 「おい…」 「貴方はあの子にとって毒だと思うな。貴方のその甘さがきっとあの子を殺すだろう」 「ちょっと、」  宇賀神へ顔を見せることもなく三和土(たたき)へと降りる。 「また来る。お義父さんの様子を看に、ね」  玄関を出てから数歩進み、振り返った。我が家のような浅香の家。屋根のずっと上には星空が広がり、美しかった。 『あっあ…ぁんっ、あッ、李桜(りょう)ちゃ…んぁっ』 『夕凪…、好きだ。夕凪…ッぁ』  ベッドが軋み、激しい衣擦れの音が聞こえる。彼等にはもうゴムの隔たりが必要なくなったらしかった。義父がその様を覗いていたため岩城も近付かねばならなかった。首から下げた鈴は確かに鳴っていたが肌を重ねる彼等には届かないらしかった。 『だ、めだッ、イく、あぁっぁ、リョ…ちゃ…』 『そ、んな締め…んな、!』  義父の首輪を引いた。中年男は岩城の介護なしではすでに飯や水を与えられることもなくなったため、従順な姿勢を示した。シャランシャランと鈴が鳴る。襁褓(むつき)を替える頃だった。一時期は猫用トイレが置いてあったが、今ではさっぱり使われている形跡がなかったため裏庭に洗って干したままだった。蛙のような体勢で紙襁褓を剥がすと、わずかに芯を持った小さな蛹がそこにあった。息子の嬌声を聞いて何を思うのだろう。轡を外し、冷蔵庫にある物で作った炒飯を口に運んで食べさせる。中年男は何ひとつ喋らなかった。使い切った食材をメモして、買い出しへ備える。恋人のためならばそのカレシの分を作ることも厭わなかった。あの可愛い生き物が豊かな時間を過ごせるというのなら、その環境を整えることにも何の苦労もない。はっきりしない、妙な関係になりながらも誰もそのことに口を出さなかった。浅香の家にいる。それだけで満たされた。夕方頃に宇賀神が帰っていた。玄関で親しげな会話が聞こえる。岩城は義妹の部屋に掃除機をかけていた。付き合い始めの頃は、浅香がその隣の畳の部屋にある仏壇からよく位牌を動かしてはどこに置いたか忘れていた。あの頃からおそらく幼馴染と励んでいたのだ。身体を慣らしていた。陰鬱な感じがじわじわと起こった。そう考えると今の浅香は知らない青年になってしまう感じがあった。商店街中に流れる時報が奏でられ、浅香へ夕飯を作る時間を告げた。彼は作ったものは好き嫌いなく何でも食べる。台所で長ネギを切っていた時に、冷蔵庫に行くだろう気配に、酒はないことを告げようとしたが、その直前に背中が包まれる。自身の中心を切り取られかけた包丁を放す。 「怒ってる…?」  浅香はおそるおそる訊ねた。 「どうして俺が怒ると思うんだ」 「だって…李桜ちゃんと、また…」  腰を抱かれる。浅香からそうしてくるとは思わなかった。嬉しさが込み上がった。同時に視界に波が起きる。 「怒っていないよ。怒るわけないだろう。だって君と俺は、もう別れたんだから。一緒にだって寝ていないし、キスもしていない」 「でも、でも…じゃあ、なんで…」 「君の傍にいるとあれだけ言っただろう。君に何度も生きろと言った。その責任は取る」  安全を確認してから包丁を握り直した。納豆に入れる長ネギだ。魚を焼いているから大根も擂りたい。休日くらいは手の込んだ料理を食べてほしかった。 「岩津さん…」  頬を当てられる。こういう時に、彼の方が少しだけ背が高いことを思い知らされた。 「随分と甘えただな。どうした。カレシと喧嘩でもしたのか」  浅香は一瞬にして顔を赤らめ、首を振る。 「ちゃんと話してない…」 「カレから聞いた」 「でもオレの口から言わなきゃ、いけないことだと思うんだ…」 「俺に対する当て付けなら構わないが、夕凪。それが君の懺悔や反省だというなら、俺にするのは間違っているな」  長ネギをタッパーに詰めた。野菜室からすでに短く切られた大根を取り出して擂り器にかけた。横に避けた浅香は寂しげに岩城の手元を見つめる。 「オレも手伝っていい?」 「ああ。手に傷はないか。沁みるぞ」  しかし彼も1人で家を回していたのだ。すっかり忘れていた。何も出来ない嬰児のように思っていた。 「いわ…さ…」  声が震えていた。虚勢はもう張らなくていいはずだ。気付かないふりをして話を促す。 「なんだ」 「オレ…応えられな、い…」  擂り器から手が離れた。形を変えた大根が鈍い音をたて、アルミの上を転がる。 「応える必要なんてない」 「気持ち、悪くなって…李桜ちゃんが…知らない人みたい……オレのこと、そんな、ふうに…っ。でも、そんな裏切り…」  グリルの火加減を調節していた手が止まった。 「応えることじゃない。拒絶したとしても関係は変わらないだろう?」 「…変わる。もうあの頃には戻れない…」 「変わっていくんだ。別に今が、歪んだわけでもない。成長したんだ、君もカレも」  焼き加減を小窓から覗いた。脂が滲んでいる。 「ずっとそのまま変わらず完結する関係というのも素敵だろうな。それなら会わなければいい。昔そのままの思い出ごと取っておける」  大根を擂ることなど忘れて浅香は目元を拭った。 「人なんてあっという間に変わる。あっという間にな。自分が何にこだわっていたのかも分からなくなるうちに」  ワカメが泳ぎ、豆腐の踊る鍋の火を消し、白味噌を溶かした。麩をいくつか投入してからまた火を点けた。 「ど…してあんたは、そんな…強い…んだよ?」 「強くはない。そう思うなら年の功で……俺は口で言っている以上には、すべてを割り切ってはいないよ」  火力を弱めてから味噌汁の鍋に蓋をする。 「愛せば愛してしまうだけ、君のことを救えないんだからな」  どういう表情を彼に晒していいのか、分からなかった。

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