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第11話
残業が終わり、一人ぼっちになった薄暗い職場で。
俺は一枚のメモ用紙を手に取ると、目の高さまで持ち上げて、指先で……ビリッ……と少しの破り目を入れる。しかし、梶さん独特の字体で綴られた見知らぬ住所を、無意識に読んでいる事が分かると。俺は破ろうとしたその手を止めた。
もし熊谷が俺を拒んでいたら、このメモは俺から熊谷への唯一の繋がりで。それを破り捨てても、俺の熊谷への想いは捨てられない。
会社のビルから出て時計を見ると、熊谷宅の最寄り駅までの終電には、まだギリギリ時間があって。俺は小走りで駅まで向かった。
熊谷、と表札のついた部屋のチャイムを二回押して。三回目を押そうとしたら、ガチャリ、と玄関のドアが開き、スウェットを着た半身が現れた。
「ごめんな、いきなり来て。びっくりしただろ」
口を開くより先に謝る俺に、熊谷は充血した瞳を大きく見開いた。
「いっ、いや……なんで?」
混乱して揺らぐ身体を落ち着かせようと、ずい、とビニール袋を差し出す。
「熊谷くんが体調崩した、って梶さんから聞いて。それで見舞いに来た。これはさっき、ドラッグストアで買った栄養ドリンクとゼリー」
べらべらと喋るが、熊谷はまだ驚いた様子だ。まぁ当たり前か、俺も混乱しているんだし。
「あっ、ああ……ありがとう」
ぎくしゃくと身体を横に動かす。それが迎え入れの姿勢だと分かり、軽く頭を下げて玄関で靴を脱いだ。
リビングのちゃぶ台の傍らにクッションが置かれ、俺はそこに座った。
「コーヒー飲むか? それか野菜ジュースでも……」
ふらつきながら勧める熊谷の髪の毛はぐちゃぐちゃで。どうやら仮病で休んだ訳ではなさそうだ。
「なにもしなくていいから、お前も座ってろよ。まだ体調良くないんだろ?」
すると少し落ち着いたのか、ちゃぶ台を挟んで向かいに座った。
「すまなかったな、今日仕事休むって、崇宏に連絡しておこうかな、とも思ったんだけど……」
そこで熊谷は口を閉ざした。やはり昨夜の言い争いがわだかまりとなっているのか?
「俺と顔合わせて話すのが苦痛なら、すぐに帰るぞ? それでさらにお前の具合が悪くなったら、見舞いに来たのが逆効果になるし」
不安からまた自虐的な問いをぶつけてしまった。
「なっ……そんなことある訳無いだろう、そんな……崇宏の顔見るの、嫌なんて」
熊谷は熊谷らしく、俺を慰めるように怒鳴ったが。また黙り込んでしまって。俺は息を大きく吸い込むと、思い切って問い掛けた。
「お前が俺に執着してるのは……俺がお前のファーストキスの相手だからか?」
しかし、突然のそんな問いにも、熊谷はまだ黙ったままだった。
* * * *
卒業式も終わった三月のある日。俺はひとりで英語塾に居た。長い事通ったこの塾も、高校進学を機に辞めて。なんとなくお別れを言いに来たんだ。
今日の授業はすべて終わり。折り畳み椅子も全て片付けられて、机も一か所にまとめられている。
ぼんやりと窓際に寄りかかって夕暮れの景色を見ていると、ガラガラ……と扉が開いた。驚いてそっちを見ると。
熊谷がひとりで立っていた。
「なんだよ、どうしたんだよ」
感情を殺して問い掛ける。
「いや……なんとなく、この塾の事、思い出したから」
慌てて答える熊谷も、驚いた様子だった。俺が居るとは思ってなかったのだろう。
「崇宏こそ、なにかあったのか?」
熊谷の声で、崇宏、なんて呼ばれて、俺はドキッとした。その声で名前を呼ばれるのは久しぶりだったから。
「俺も……なんか色々、思い出してさ」
視線を逸らして応える。
「やっぱり、考えることは一緒だな」
熊谷は嬉しそうに机の上に腰掛けた。
「やっぱり、ってなんだよ」
少し苛立って問い掛けると。
「友達だから、って意味だよ。なぁ、崇宏。俺たちさ、ちゃんと仲直りしないか?」
「仲直り? そんなのどうやってやるんだよ」
さらに苛立って問い質すと。
「ジョンとヨーコは仲直りのキスをした」
突然の言葉に、熊谷の方を見ると、テキストをめくっていた。
「ここにはそう書いてあるけど……」
からかってるのか? 俺はカッとなり、ツカツカと熊谷の元へ近付くと。
熊谷が腰掛ける机に片手をついて、もう片方の手で頭を掴むと、ぎゅっと目を瞑って熊谷にキスをした。タイミングがずれたらただの頭突きになっていただろう。だけど唇はうまく当たって。
「ほら、仲直りのキス……」
全てをコントのようにしたくて、俺は笑ったが。
熊谷は、いままで見た事のない表情で、唇に拳を当てていた。
俺は驚いた。熊谷も笑っているかと思ったから。
「なっ……だから、仲直りなんか無理なんだよ!」
俺はそう言い残して、勢い良く教室から出ていった。
* * * *
ふぅ、と熊谷は溜息を吐くと。
「まぁ、そういう昔の思い出もあるけど……現在 の想いの方が強いよ」
さっきの俺のように、何かを吐き出すように訴えてきた。
「昨夜の話もあるし、顔を合わせ難いのはもちろんだけど。俺はまだ崇宏の事が好きだから。崇宏と逢うのが苦痛なんてない。むしろ、逢えなくなる方が苦しい」
そんな熊谷をじっと見つめながら、俺はゆっくりと語り掛ける。
「今日、俺がここに来たのは……見舞いもあるけど、この前のお前からの告白に……応えようと思って」
目を逸らさずに話す俺の眼を、熊谷もじっと見つめている。
「俺も熊谷と離れたくはない。俺はまだ、熊谷が好きだ、って堂々と言える自信も度胸も無いだけで。最初に出逢えた事が嬉しかったように、また俺が熊谷と逢えた事もやっぱり嬉しい……」
俯きながらも言葉を選んで懸命に訴えると。いきなり俺の身体が逞しい腕で引き寄せられ。温かいスウェットの中に全身がぎゅっと包まれた。
「……ありがとう」
そんな一言だけを耳元で囁くと、熊谷は俯く俺の顔を覗き込む。
「塾で崇宏からしてきたキス……あれは、俺たちのファーストキスじゃないだろ。お互いの気持ちが入ってなかったんだから」
熊谷の声に目を瞑ったまま顔を上げると、俺の唇に乾燥した唇が当てられた。
「だから……これが俺たちのファーストキスだ」
そんな言葉に頷く代わりに、俺は熊谷の唇にぎこちなく唇を押し当てた。
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