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第1話
午前六時五十分。
Tシャツにスウェットというパジャマ姿のまま、瀬戸内航汰 は眠い目を擦りながら自室を出た。
廊下に出た途端、階下から漂ってくる香ばしい…というより、ちょっと焦げかけた匂いが鼻先を掠めた。ああ、今日は『父さんの番』か、と瞬時に察した航汰は、階下におりる前に、向かいにある両親の寝室のドアを開けた。
互いの眠りを妨げないよう、セミダブルのベッドが隙間を空けて二つ並べられた、広い寝室。 母のベッドには人が寝ていた形跡がなく、父のベッドの上では小さな体が羽毛布団に包まっている。
「真波 、起きろよ。保育園遅れるぞ」
航汰が羽毛布団の繭に近づき、バサリとそれを剥ぎ取ると、その中で丸くなっていた年の離れた5歳の妹は、ぐずるような声を上げて航汰の手から布団を取り返そうとする。
「こら、もう朝だって」
「……やだぁ」
取られないよう、布団を母のベッドへ放り投げた航汰の前で、真波は駄々っ子のように「やだ」と繰り返して、全くベッドから出ようとしない。
今までは「保育園」という言葉を聞くと飛び起きていたのに、一体どうしたんだと首を捻る。
「なんだよ、具合悪いのか?」
航汰の問いに、妹は枕にしがみつきながらフルフルと首を左右に振った。
「じゃあ早く起きて朝ごはん食べろ。でないと間に合わないだろ」
「だってイヤなんだもん」と尚もベッドから離れたがらない真波を強引に抱えてベッドから連れ出し、航汰は階段を下りてリビングへ顔を出した。
「おはよう」
航汰が声をかけると、リビングと対面になったキッチンカウンターの向こうで忙しなく動いていた父が「ああ、おはよう」とエプロン姿で声を返してきた。
サンドイッチ用に野菜を切っている父の傍らで、フライパンに並べられたウインナーから、さっき航汰が感じた香ばしすぎる匂いが煙と共に立ち上っている。
「父さん、そっち多分焦げてる」
「えっ、わ……ホントだ!」
抱えていた真波を「顔洗ってこい」と洗面所へ押し込み、航汰は父を手伝うべくキッチンに立った。
「父さん。母さんが無理なときは、別にもっと簡単なモンでいいよ」
「でも、うちには育ち盛りが二人も居るだろ? それに、食事は朝しっかり食べるのが一番だって言うし」
「……母さん、今回はどのくらいヤバそうなの」
「昨日部屋に篭る前は、死にそうな顔で『締め切りまであと三日』って言ってたよ」
「じゃあ多分、今日から四、五日は使い物にならないな」
その時点で、これから数日間、瀬戸内家の家事は父と航汰が分担してこなすことが確定した。月に一度のペースで、大抵こういう時期がやってくるのは、今や瀬戸内家にとっては恒例のことだ。
「後は盛り付けだけだから、航汰も顔洗っておいで」
父に促されて航汰が洗面所に向かうと、一応顔だけは洗ったらしい真波が、タオルを手に、まだ顰め面で突っ立っていた。
真波は、三歳の頃から近所の保育園に通っている。
この四月から高校に進学し、真新しい制服もまだ着慣れていない航汰と違って、今ではすっかり保育園に馴染んでいる真波は、ついこの間までは毎日ご機嫌で通っていたはずだ。
「一体どうしたんだよ。お前、保育園大好きだったじゃん」
自身も手早く顔を洗い、ついでに寝癖も整えてから、航汰は動こうとしない真波を見下ろす。五歳とはいえ早くもオシャレに目覚め始めている真波の長い髪は、寝癖であちこちに跳ねてしまっている。
髪が細くて猫っ毛なのは、航汰も真波も父親似だ。
顔立ちは、航汰の方が母に、真波は父に似ていると昔からよく言われてきた。
実際航汰は、学生時代バレーボール部で活躍していた192センチの長身な父に反して、高校生になった今も身長が170センチにはギリギリ届いていないし、顔だってどちらかというと中性的だ。航汰としてはもう少し男らしい外見になりたいと思っているのだが、そう言うと母が決まって「アンタはそれでいいの!」と無駄に鼻息荒く力説してくるので、最近ではもう諦めかけている。
「真波。髪、団子にしてやるから」
機嫌直して支度しろ、と航汰は真波の寝癖だらけの髪をブラシで梳かして、器用に頭上で団子に纏めてやる。髪の長い母が毎日頭のてっぺんで髪を纏めているので、真波もいつしかそれを真似たがるようになり、今ではそれを叶えてやるのは航汰の役目になっていた。
「よし、出来た。父さんが真波の好きなサンドイッチ作って待ってるぞ」
小さな手を引いてリビングへ戻っても、真波はまだどこか不服そうに頬を膨らませている。
「真波、おはよう。……どうしたんだ、そんな顔して」
自分は先に済ませていたのか、ダイニングテーブルに航汰と真波の分の朝食を並べ終えた父が、真波の膨れっ面に気付いて軽く身を屈めた。
「起きたときからずっとこうなんだよ」
「なにかあったのか?」
出勤の時刻が迫っている為、エプロンを外しながらも父は心配そうに真波の顔を覗き込んでいる。
「父さん、会社遅れるよ。真波はどうにか宥めて連れてくから」
航汰に言われてチラリと壁の時計に目をやった父が、申し訳なさそうな顔で一度、ぷっくり膨れた真波の頬を撫でてから身を起こす。それから航汰の頭も軽く撫でて、畳んだエプロンを椅子の背に引っ掛けた。
「いつも悪いね、航汰。なるべく早く帰るようにするけど、真波のお迎えも頼んでいいかな?」
「今日はバイトも無いから、晩飯の用意もしとくよ」
ありがとう、と告げて慌ただしく二階へ着替えに上がる父を見送ったところで、不意にギィ…と背後のドアが開いた。
隙間から、不気味な呻き声と共によろめくようにして出てきたのは、この家に住み着いた妖怪───ではなく、母だ。
「げっ、うそ……もうこんな時間……」
時計ではなく、朝の身支度に取り掛かっている航汰たちの姿を見ておおよその時刻を知ったらしい母が、濃いクマの出来た目許を覆って疲れた声を上げた。
普段はコンタクトをしている母だが、仕事が立て込んでいるときは取り外す暇がないのでもっぱら眼鏡生活だ。化粧も一切していないし、真波が憧れて真似している団子ヘアも、半分崩れかかってしまっている。
「おはよ」
他人が見たらギョッとしそうなボロボロの母の姿も、航汰たち家族にとっては特別珍しいことはない。動じることもなく、いつものようにグラスにブラックのアイスコーヒーを注いで手渡すと、母は「サンキュ」とくたびれた顔で笑ってグラスの中身を飲み干した。
航汰の母の職業は、漫画家だ。しかも、描いているのはBL───ボーイズラブと呼ばれる、所謂男性同士の恋愛を描いたジャンル。
もっとも、母がそういう作品を描いているということはおろか、BLというジャンルが存在することすら、航汰は最近まで知らなかった。
昔から絵が上手くて、航汰の好きなゲームやアニメのキャラクターを何も見ないでスラスラと描き上げてしまう母は、まるで魔法使いみたいだと思って子供心に感動していたし、そんな母の仕事が漫画家であることは、航汰の密かな自慢でもあった。
そんな母は昔からとてもサバサバとした性格で、「アンタももう高校生だし、そろそろ年頃だもんね」と、航汰が中学を卒業した後、自身の作品を初めて航汰に見せてくれた。
それまで母がどんな作品を描いているのか、全く知らなかった航汰に見せられたその内容の第一印象は、ハッキリ言って『衝撃』。それしかなかった。
母が描いていた漫画の内容に愕然としたというのも勿論あるが、それ以上に航汰が驚いたのは、自分の母が定期・不定期合わせて常に数本の連載を抱えている、そのジャンルでは大人気の漫画家だったことだ。
驚いて言葉を失う航汰に、「言っとくけど、これはぜーんぶファンタジーだから。女子の妄想と理想の詰め合わせなんだよ」と母はあっけらかんと笑っていた。
別に同性愛に対して偏見は無かったけれど、男である自分にそう言われても、そう簡単に「なるほど」と思えるはずもない。聞いた直後は、動揺して何と答えて良いのかもわからなかった。
けれど意識して見てみれば、今やどこの書店でも『BL』というジャンルが、女性向けコミックコーナーの一角を必ず占めている。そしてそこに平積みされた母の本を手に取り、盛り上がる女性たちの姿を目の当たりにしたりすると、背中がムズムズするような感覚はあるものの、不思議と嫌悪感は湧かなかった。
締め切り前にはいつもこうして仕事部屋に篭り、寝る時間も削って仕事に打ち込んでいる母のことは、今でも尊敬している。それにジャンルはどうあれ、自分の母が人気漫画家であるというのは、素直に誇らしいと思う。
ただ一つだけ気掛かりがあるとすれば、母と同性で、その血を受け継いでいる真波が、その内母の影響を受けてしまわないだろうか…ということだ。
航汰の小学校や中学校時代を振り返ると、同い年でも男子より女子の方が圧倒的に大人だった印象がある。教室で航汰たち男子がバカ騒ぎをしているのを呆れた目で見ながら、活字の並んだ本を休憩時間に読んでいる女子はクラスに何人も居た。今思えば、それらの本の一部はもしかして、母も携わっているBLだったりしたのかも知れない。
今は幼くて素直な真波も、いつしか母のようになるんだろうかと思うと、さすがにそれは、少しゾッとする。
一部の女性たちの間では人気者らしい母は、締め切り前になるとどうしても机に張り付きっぱなしになってしまうので、そのときは今日みたいに父と航汰が二人で家事を分担して手伝うのが、この瀬戸内家の暗黙のルールになっているのだった。
父は当然、母が描いている漫画の内容を以前から知っていた。
それを理解した上で、自分は大手食品メーカーの開発チームで日々新商品の開発に追われながら、いつも母のサポートもしている父は、名前通り瀬戸内海どころか、太平洋並に心が広いと航汰はいつも思っている。
だから、例え家事に追われて満足にバイトが出来なくても、そんな自慢の両親を手伝うことは、何だかんだで航汰は嫌いではなかった。
父が、航汰たちとは別に用意してくれていたらしいサンドイッチをキッチンで摘まみながら、母は朝食を前にぶすくれた顔で椅子に座っている真波のお団子を見て「おっ」と声を上げた。
「真波、可愛くして貰ってるじゃん。お兄ちゃんがしてくれた?」
大好きな母に構って貰えたことで、ようやく少しだけ頬を緩めた真波が、サンドイッチを咥えたままコクリと小さく頷く。
「なんだよ、元気ないじゃん。どしたの? 可愛い顔が台無しだよ」
「起きてからずっと機嫌悪いんだけど、真波、保育園で何かあったの」
黙ったままの真波の代わりに航汰が答えると、母もサンドイッチに齧りついたまま「んー……」と何かを思い出すように天井を見上げた。
「そういや、昨日園に迎えに行ったときも、いつもに比べると元気なかったかな」
「……だって、こわいんだもん」
それまでずっと黙り込んでいた真波が、不意にポツリと零した。
「恐い? なにが?」
揃って問い掛けた母と航汰に、真波が「ハナせんせー」とまたしても呟くように答えたとき。
玄関から「行ってくるね」と父の声がして、母が食べ掛けのサンドイッチ片手に慌てて玄関へ飛んで行った。
「朝ごはん、ありがと! 気を付けてー!」
母が父を見送りに行ってしまった為、真波は再び黙々と朝食を食べ始める。
───『ハナせんせー』って、誰だ?
少なくとも真波の口からは初めて聞く名前だったが、音だけだと、むしろ可愛らしい印象を受ける。
この四月から新しく入った保育士なのかも知れないが、保育園が大好きだった真波がこんなに沈むほど、恐い人なんだろうか。
真波は相手を「恐い」と思うほど、叱られるようなことをするタイプではない。人見知りだし、仲が良い子といつもくっついて、おとなしく遊んでいると園からは聞いていた。
もう少し『ハナせんせー』について詳しく聞きたかったが、時計を見るともうすぐ七時二十分になろうとしている。
航汰の通う高校は電車で二駅の場所にあり、家から駅までも徒歩で五分程度だが、今日は少し遠回りして真波を保育園に送り届けなければならない。
このままでは自分も遅刻だ。
航汰は残っていた朝食を慌てて平らげ、真波にも「時間ないから急げよ」と告げて、自室へ引き返した。
まだ数回しか袖を通していない真新しいブレザーに着替えた航汰は、二人分の食器を片付け、手早く真波の荷物を用意する。
既に仕事部屋に戻っていた母が扉の向こうから寄越した「二人とも、行ってらっしゃい」という声に送り出されて、航汰は真波の手を引いて、バタバタと家を飛び出した。
『あおぞら保育園』の門を潜ると、園庭には既に登園している園児たちが大勢走り回っていた。
そんな中、航汰に手を引かれた真波は無言でトボトボと隣を歩いている。
家を出てからもずっと俯きがちで、航汰が何か話しかけても「うん」か「ううん」という素っ気ない答えしか、真波からは返ってこなかった。
熱が出ても、「休みたくない」と泣いて家族を困らせるくらいには保育園が好きだった真波にこんな顔をさせるなんて、どんなヤツなんだ『ハナせんせー』ってのは…、と航汰が顔も知らない相手に怒りを覚え始めていると、
「やべえ、ハナせんせーだ! 逃げろー!」
園舎から真波と同い年くらいの少年が二人、突然勢いよく駆け出してきた。
───『ハナせんせー』?
今正に航汰の脳内を回っていた名前が聞こえて、思わず目を瞠る。航汰の手を握る真波の手が、ピクリと強張るのがわかった。
たった今飛び出してきた子どもたちは、怯えているというよりはどこか楽しそうにも見えたが、『ハナせんせー』とやらは、男女拘わらず恐れられているのか。柔らかい響きの名前に反して、随分と手厳しい先生なのだろうか。
勿論、時には厳しさだって必要なこともあるだろうけれど、かと言って好きだった保育園に行くのを渋るほどの厳しさなんて、必要だとは思えない。子どもは元気で笑っていてくれるのが一番だと、航汰は自分もまだ子どもながらにそう思っている。
あくまでも航汰は保護者の代理だが、それでもあまり度を超しているようなら、兄として一言くらい言ってやろう。
繋いだ真波の手を、安心させるように強く握り直して、航汰は緊張した面持ちで園舎の玄関へ足を踏み入れた。
「おはようござい…───」
ます、と言おうとした口は、最後まで言葉を紡ぐことは出来なかった。
ちゃんと門を潜る時に園の看板を確認したし、そもそも何度も訪れているのだから有り得ないのに、それでも一瞬、来る場所を間違えたのかと思ってしまった。
何故なら、園の玄関で航汰と真波を待ち構えていたのが、ヤ〇ザみたいな人相をした、見たことのない大男だったからだ。
立て気味にした短めの黒髪に、一重の鋭い瞳。その目以上に釣り上がった、細い眉。
鼻筋は通っているけれど、顔のあちこちには、ハッキリと縫ったような傷痕が残っている。
その顔だけでも、子どもどころか大人まで黙らせてしまう迫力は充分だったが、更にその男は長身な航汰の父よりもまだ背が高い。恐らく二メートル近くあるのではないだろうか。
彼の格好がTシャツにエプロンではなく黒スーツだったりしたら、間違いなく通報していた。
───こ、コイツだ……!
真波を恐がらせていた『ハナせんせー』というのが、目の前の大男であることは、聞くまでもなくすぐにわかった。現に真波は航汰の脚にギュッとしがみついて、今にも泣き出しそうに震えている。
アンタ一体どこの組の人間だ、と問い掛けたくなる航汰に向かって、ヤ〇ザ───もとい『ハナせんせー』は、予想外に丁寧な答えを寄越した。
「おはようございます。この四月から『あおぞら保育園』に入りました、華恭介 です。真波ちゃんの居る、五歳児組の副担任をさせて貰ってます」
そうか、ゴサイジ組の人間か、とおかしな納得をしそうになって、航汰は慌てて頭を振る。
どう見てもカタギには見えない彼の口から零された言葉が思いの外礼儀正しくて、一瞬何を言われたのかわからなかったのだ。
『ハナ』って苗字だったのか。変わってるな…と、またしても変な感想が先に出てくる。
───なんか、想像とも見た目の印象とも、随分ギャップがあるような……?
呆気に取られて言葉を返せずにいる航汰に、長身を深々と折って一礼してから、華と名乗った彼は真波の前で腰を落とした。その格好は、まるでひと昔前の不良みたいだ。
けれど、ビクッと肩を震わせて航汰の陰に隠れようとする真波を、華は真っ直ぐにジッと見詰めている。……幼い真波には、きっと睨んでいるようにしか見えないのだろうが。
「真波ちゃん、おはよう。今日はお兄さんと来たの?」
見た目と違って、穏やかな口調で華が真波に問いかける。
真波は、航汰の制服のスラックスが皺になりそうな程強く抱きついたまま、それでも小さく頷き返した。それを見た華が、ホッと安堵したような息を吐く。
あ…、とそこで航汰も気がついた。
彼の見た目は、申し訳ないが保育士のコスプレをした組員にしか見えない。
……でも、中身は違う。
大きな身体を縮めてどうにか園児と目線を合わせ、話をしようとしている。子どもの───真波の顔を、ちゃんと見てくれている。
幼い子どもと話すには、大人は目線を下げなければ向き合えない。航汰も真波がやっと喋り始めた頃、接し方がわからずに、顔も見ないで素っ気ない言葉を返してはしょっちゅう泣かれていた。
この人は、それをちゃんとわかってる。
「……真波、大丈夫だって」
縋りついてくる真波の手をやんわりと解いて、航汰もその場にしゃがみ込む。泣くのを堪えるように唇を引き結んでいる真波の肩を、航汰は一度ギュッと抱き寄せた。
「先生、真波に『おはよう』ってさ。真波は?」
航汰の言葉に、華が軽く目を見開くのがわかった。
一見するととても向いているとは思えない保育士の道を、どうして華がわざわざ選んだのかはわからない。彼だって、自分の見た目くらいは充分把握しているだろう。
けれどそれでも敢えてこの道を選んだということは、余程保育士という仕事に強い思い入れがあるに違いない。子どもに恐がられても、この仕事をしたいと思う、何かが。
中学に入った頃から塾に通い、特にこれといった目標もないまま志望校に進学した航汰には、まだ明確な夢や進路なんて何も見えていない。高校一年生なんて、大半がそんなものなのかも知れないけれど、それでも華の真剣な姿勢を見ていると、そんな彼を、航汰は純粋に応援したいと思った。
父が、自分自身すら削りながら仕事をしている母を、いつもそっと支えているみたいに。
「……おはよー、ございます」
航汰に促された真波が、躊躇いながらもペコリと頭を下げた。
その途端、華の口許が嬉しそうに綻んだ。
目付きが悪いせいで、悪巧みが成功した悪代官みたいになってしまっているのが何とも残念だったが、少なくとも航汰には、彼が心から喜んでいることはわかった。
「おはよう。挨拶してくれて、ありがとう。今日は、真波ちゃんが好きなシャボン玉、するから」
「……何で、知ってるんですか?」
シャボン玉、と聞いて反射的に顔を上げた真波の横で、思わず航汰も声を漏らした。
真波には、昔から大好きな遊びが二つある。
一つは母譲りなのかお絵描きで、もう一つはシャボン玉だ。
虹色に光るシャボン玉は、真波にとっては宝石みたいに見えるらしく、真波が生まれてから、瀬戸内家には常にシャボン玉が大量にストックされている。
華はこの四月に園へ来たばかりだと言っていたのに、どうしてそれを知っているのだろう。
不思議に思う航汰の方へ、華がゆっくりと視線を向けた。
「過去の日誌を見ていたら、シャボン玉をした日に、いつもはおとなしい真波ちゃんが、珍しく声を上げて喜んでいたと記録があったので、多分凄く好きなんだろうと思って」
毎日多くの園児を受け入れている保育園の過去の日誌なんて、一年分だけでもきっと莫大な量のはずだ。
その中の、ほんの些細な一文を、華は真波の為に覚えてくれていたらしい。
彼の保育士としての努力や愛情を痛い程感じて、感動と感心のあまり声を失っている航汰に、「もしかして、違ってました?」と華が少しだけ眉尻を下げた。少し切なくも見えたその表情に、航汰はブンブンと首を振る。
「いっ、いえ! 違わないです! ……まだ入ったばっかりなのに、ちゃんと妹の好み把握してくれてるんだと思ったら、嬉しくて……」
慌てて否定する航汰を見詰めて「なら良かった」と僅かに目を細める悪人面の大男を、航汰は何故だか無性に抱き締めたくなった。
年下でまだまだ子どもの自分がそんなことを思うのはおこがましいとは思ったけれど、初対面では恐いと感じた彼の顔に残る沢山の傷も、今は酷く痛々しいものに思える。
一体いつ、どこで、彼はこんなにも傷ついたんだろう。
胸が詰まるような思いを持て余す航汰の前で、真波に視線を戻した華が「これくらい大きいのも、作れるから」と長い手を広げて大きな円を空中に描いて見せた。
さっきまでの怯えた様子もどこへやら。真波はこれまで作ったことがないサイズのシャボン玉を想像してか、キラキラと目を輝かせている。
もしかしたら、さっき園舎から飛び出してきた少年たちがどこか楽しげだったのは、華が本当に怖い先生ではないことに、気付き始めているからなのかも知れない。
「……真波。華先生、怖くないじゃん」
華の耳に入らないよう、真波の耳許にボソリと囁くと、はにかんだ笑顔を向けた真波が「そだね!」と大きく頷いた。
「あの、母の仕事が今ちょっと立て込んでるので、送り迎えは暫く俺がします。帰りは多分、四時くらいに迎えに来られると思うので」
よろしくお願いします、と立ち上がって頭を下げる航汰を見て、華も大きな、というよりは長い身体を伸ばして立ち上がった。立った状態で向かい合うと、その顔を見上げる首が痛むくらいには身長差が凄い。
そんな航汰に視線を合わせるように、やっと航汰の元から離れた真波の手を握って、華が少し身を屈めてくれた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。真波ちゃん、お兄さんに『いってらっしゃい』しよう」
「にーちゃん、いってらっしゃい!」
やっといつも通りの笑顔が戻った真波に、航汰もホッと笑みを零す。
「じゃ、行ってきます」
軽く手を振ると、真波に並んで、強面の華までもが少しぎこちないながらも手を振り返してくれる。
名残惜しいような気持ちで園を出て駅に向かいながら、早く迎えの時間が来ればいいのに、と無意識に航汰は思った。これまで真波の送り迎えを嫌だと思ったことは一度もないけれど、楽しみだと思ったのは、今このときが初めてだった。
華が不器用ながらも子どもたちと一緒に成長していく姿を、もっと見てみたい。
彼があの容姿で、どんな風に子どもたちと日々過ごしているのかを、もっと知りたい。
華の一生懸命な姿を見ていたら、航汰もまだ始まったばかりの高校生活を、前向きに頑張れる気がした。
これからは母が締め切りに追われていなくても、時々真波の送り迎えを担当してもいい、なんて思いながら、航汰はスタートしたばかりの四月の道を、ゆっくりと歩き出した。
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