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第2話

「……人間に戻った王子は、ベルと一緒に、いつまでも幸せに暮らしました」  読み終えた絵本を、航汰はパタンと静かに閉じた。  父のベッドに寝転がって物語に聞き入っていた真波は、いつの間にか規則正しい寝息を立てている。  会議が長引いて遅くなる、と父から連絡があったので、この日は真波の保育園のお迎えから夕飯の支度、入浴に、そして寝かしつけまで、航汰が全て引き受けていた。  もっとも、寝る前の絵本の読み聞かせは、真波は父より航汰にせがむことが多い。多忙な父は、大抵いつも読みながら真波より先に寝落ちてしまうからだ。  ここ数日、毎晩真波が寝る前に「読んで」とせがむのは、『美女と野獣』ばかりだった。  ───ハナせんせーは、この本のやじゅうみたい。  決まって、真波はそう言った。先生は最初から人間だろ、と航汰は笑ったけれど、中身は真面目で優しい華の見た目も、せめて子どもたちに恐がられない姿に魔法で変えてやれたらいいのに、と思う。  航汰が初めて華と顔を合わせたあの日。  約束通りに真波が中に入れるくらい大きなシャボン玉を作って遊ばせてくれた華のことが、真波はすっかり好きになったらしい。そして航汰もあれから三日間、朝夕の送り迎えで華と挨拶を交わすのが、密かな楽しみになっていた。  相変わらず園児の大半から、華は見た目で恐がられている。それでも毎日、不器用ながらも懸命に園児と向き合おうとしている華の姿が、とても微笑ましく見えるから───。  よく眠っている真波の身体に布団をかけ直してやって、航汰がリビングに下りると、丁度母の仕事部屋の扉が開いた。  隙間からズル…と、ホラー映画に出てくる悪霊さながらの母が、文字通り這い出してきた。 「お……終わった……」  そういえば、今日は母の原稿の締め切り日だった。どうにか無事に締め切りを死守出来たらしい母が、呻くような声を絞り出してバッタリと床に倒れ込む。 「お疲れ様。なんか食べる?」  床に転がった母を踏まないようにしながらキッチンへ向かう航汰を、ムクリと顔だけ起こした母が感心した様子で見詰めてきた。 「なに、すっかり男前になってきたじゃん」 「身近に男前のお手本が居るからじゃないの」 「航汰も父さんの魅力がわかる男になってきたか。じゃあなんかサッパリしたもの、作ってくれる?」  まだ帰らない父の代わりに、母は航汰へ甘えた声で強請る。そんな母に、以前父に教わった大葉とトマトの冷製パスタを作ってやった。  這い上がるようにしてダイニングテーブルに着いた母が、目の前に置かれたパスタを見て目を細める。 「アンタ、いい嫁になるわ」 「嫁じゃなくて婿だろ。わざと言ってんの?」  母の向かいに座った航汰へ悪戯っぽく肩を竦めて、母は「いただきます」とフォークを手に取った。 「───うん、美味しい。いつもありがとね」  トレードマークの頭上のお団子もすっかり形を無くしてしまっている母が、くたびれた姿で微笑む。  仕事が立て込んでいるときは家事や育児にも手が回りきらなくなる母だが、こういう感謝の言葉は絶対に忘れない。だからこそ、航汰も父も、こんな母を手伝いたくなるのだ。  家事を手伝ったり、真波の面倒をみるたびに、母が「ありがとう」と笑ってくれるのが、昔から嬉しかった。  とはいえ航汰ももう年頃の男子高校生なので、「別に」と素っ気ない返事しか返せなかったけれど。 「そういえば、あれから真波、機嫌良く保育園行ってるみたいじゃん。結局なんだったの、恐い『ハナせんせー』って」  ズ…、とパスタをラーメンみたいに啜ってから、母が問い掛けてくる。 「ああ……見た目で恐いと思ってただけで、実際は優しい先生だってわかったから」 「そんな恐い顔の先生なの?」 「まあ、パッと見は正直その筋の人にしか───」  そこまで言った途端、母の眉がピクリと跳ねた。 「……その筋の人?」  ───しまった。  母の職業柄、迂闊に華のことを口にするべきじゃなかったと慌てて口を噤んだが、時既に遅し。疲れて虚ろだった母の瞳は、航汰がうっかり零した一言を耳聡く聞きつけて、ギラッと鋭く光っている。 「ちょっと待った。『ハナせんせー』って、ひょっとして男?」  華先生ゴメン、と心の中で無意味に手を合わせながら、航汰はテーブル越しに身を乗り出してくる母へ「そうだよ」と観念して頷いた。 「ふーん……詳しく聞こうじゃないの」  空になった皿へカチャリとフォークを下ろして、母がテーブルに両肘をつき、有名なアニメキャラのポーズと共に眼鏡の奥の瞳を光らせる。その姿は正に水を得た魚……というか、ネタを得た漫画家だ。 「詳しくもなにも、俺だって別にそんなじっくり話したワケじゃないし」 「でも、本当は優しい先生だってわかるくらいのやり取りはしたってことでしょ? ていうかそもそもあの園に男の先生って、居たっけ?」 「この四月から入ったって言ってた。真波のクラスの副担任だって」  でかした真波、と拳を握る母を、じと…と睨む。わざとらしく咳払いした母が、「それで?」と話を戻した。 「なんでその恐い顔した先生が、本当は優しいってわかったのよ」 「……ちゃんと、真波がシャボン玉好きだってこと、事前に調べて把握してくれてたから」  きたわ、と謎の呟きを落として、母が額を押さえる。 「見た目はチンピラ、心は優しいって、超テンプレだけどハズレ無しの逸材じゃん。……受けにしたいわ」 「そういう発言、息子の前ではせめて心の中だけに留めといて欲しいんだけど」  呆れた航汰のツッコミには耳も貸さず、やっと原稿を終えたばかりの母は、早くも「次の題材はそれでいくか……」と顎に手をやって何やらブツブツ独り言ちている。このままでは本当に華が母の作品のネタにされてしまいそうなので、航汰はため息と共に腰を上げた。 「母さんの仕事にあんまり口出したくないけど、真面目に頑張ってる人を軽率にネタにすんのは、どうかと思う」  空いた皿を持ってキッチンへ向かった航汰の言葉に、母が意外そうに目を瞬かせた。 「……熱くなっちゃって、珍しい。もしかして、真波だけじゃなくてアンタまで『ハナセンセー』に惚れちゃった?」 「───っ、だから! そういうこと軽々しく言うなって! 惚れてない」  キッパリ言い切った途端、チクリと微かに胸が痛むのを感じて、航汰は小さく首を傾げた。  母に向けた言葉は航汰の本心なのに、どうして胸が痛むのだろう。華のことを、否定してしまったみたいだから……?  考え込む航汰の頭に、ポン、と突然何かが乗っかってきた。いつの間に隣へ来ていたのか、母の手が航汰の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。 「ゴメンゴメン。修羅場明けで、可愛い息子につい意地悪したくなっちゃったんだよ」  自分でも理由のわからない胸の痛みを、母には見抜かれているようで、航汰はそれ以上何も言い返せなかった。 「片付けくらいやっとくから、アンタもそろそろ上がりな。明日も学校だろ」  さりげなく航汰の手から皿を奪って、母が欠伸を零しながら手早く皿を洗う。 「あ、そうだ。明日、朝起きる自信ないから、また真波送ってってやってくれる?」 「締め切り明けは、いつも二日くらい寝てんじゃん。バイトのある日は迎えに行けないけど、それ以外なら学校行くついでだし、真波の送迎くらい俺やるよ」  正直、話の流れ的に航汰の方から「やる」と言い出しづらかったので、母の方から依頼してくれたのは有難かった。航汰自ら買って出たら、またなんて揶揄われるかわからない。  ならお願いしよっかな、と答えた母が意味ありげに口許をニヤつかせているのは、見て見ぬフリを決め込んだ。 「おやすみ」と互いに挨拶を交わして、航汰は自室へ上がった。  華は見かけに寄らず真面目で良い先生だから、気になっているだけだ。そのはずなのに、ベッドに入って眠りに就くまで、航汰の胸は華を想ってしくしくと痛むばかりだった。   ◆◆◆◆◆  真新しい制服に身を包んだ航汰は、地元駅から二つ先にある駅の改札を潜った。  駅からほど近い場所に、航汰の通う都立K高校はある。その為、駅から学校まで続く道は、航汰と同じ制服姿の学生で溢れていた。  五分も歩かない内に、K高の正門が見えてくる。門の前には、入学してから毎日そこに立っている生徒指導の井上が、この日もいつもと同じジャージ姿で仁王立ちしながら、門を潜る生徒の姿を逐一確認している。  彼は体育教師でもあり、華ほど長身ではないものの、ガッチリとした体つきでいかにも体育会系といった風貌だ。太い眉を吊り上げて鋭く目を光らせている彼の前だけは、どの生徒も制服を着崩すことなく通り過ぎていく。目をつけられると、漏れなく生徒指導室へ連行されることを、皆わかっているからだ。  航汰はまだ一度も捕まったことはなかったが、シャツのボタンを外していたり、だらしなくネクタイを緩めている生徒が容赦なく呼び止められているのは、入学してまだ二週間程度の間にもう何度も見てきた。 「おはようございます」  特別目立つタイプでもない航汰は、井上に軽く会釈をして門を潜る。勿論今日も、航汰は厳めしい顔をした井上から「おはよう」と挨拶を返されただけで、すんなり門を通過出来た。  そのまま教室に向かうべく、渡り廊下から校舎へ入ろうとした航汰の背中へ「瀬戸内!」と聞き慣れた声が飛んできた。  振り返った視線の先で、明るい茶髪の生徒が猛ダッシュで駆け寄ってくる。その向こうに「待たんか、染谷(そめや)!」と鬼の形相で追って来る井上の姿が見えて、航汰はギョッとする。  嫌な予感を覚える前にガシッと染谷に腕を掴まれ、そのまま校舎に飛び込んですぐの男子トイレへ連れ込まれた。 「ちょい匿って!」  小声でそう訴えて、染谷は呆然と立ち尽くす航汰を残してトイレの個室に籠城した。少しして、バタバタと賑やかな足音と共に井上が「染谷ぁ!!」と野太い声を上げてトイレに駆け込んでくる。しかし、一見するとそこに居るのは航汰一人だ。 「ん……? お前一人か?」  狐に抓まれたような顔で、井上が目をしばたたく。  なんで自分がこんな面倒事に…と航汰はげんなりしたが、個室の中から「上手くやれよ」と染谷の声が聞こえた気がして、航汰は静かに頷いた。 「確かに染谷がこっちへ来たように見えたんだが……茶髪にピアスの一年生を見かけなかったか?」  なんか向こうの方に走っていきましたけど…、と航汰は教室とは逆方向の廊下を指差す。怪訝そうに首を捻った井上は、「すばしっこいヤツめ」と吐き捨てて、染谷が居るはずもない方へと走り去った。 「……行ったよ」  コン、と爪先で個室のドアを蹴る。少しの間を置いて個室からヒョコッと顔を出した染谷は、確かに井上の姿が無いことを確認すると、ハーッと疲れた様子で息を吐いた。 「ったく、毎日毎日しつこすぎんだろ、井上の野郎」 「そう思うなら、その目立つ格好どうにかすればいいだろ」  呆れた声を返す航汰に、染谷は悪びれた様子もなくヒョイと肩を竦める。  航汰も染谷もこの四月に入学してきたばかりの新入生であるにも拘わらず、井上が染谷の名前だけを覚えているのには訳がある。それは、彼の派手な見た目の所為だ。  染谷尚輝(なおき)とは、航汰は中学の頃から同じ学校だ。とはいえ、その頃から交流があったわけではない。むしろ、中学時代は多分一度も口をきいたことすらなかった。  いたって平凡な少年の航汰と違い、染谷は今より髪色も控えめだったとはいえ、中学時代から目立つ存在だった。美容師の父と元モデルの母を親に持つ染谷は、長身で顔立ちも整っている上に、人怖じしない明るい性格でいつも生徒の中心に居るような存在だった。自分とは対照的な染谷のことを、中学時代、航汰は勝手に「チャラチャラした軽そうなヤツ」だと思っていた。  けれど、偶然高校で同じクラスになり、出席番号が前後だったお陰で教室の席も前後になった上、高校に上がってすぐに面接を受けに行った地元駅前のコンビニでも、バイトが同じになった。  そんな奇妙な偶然が重なって親しくなった染谷は、春休みに開けたという両耳のピアスや明るい茶髪、ネクタイもつけずに第二ボタンまで外したシャツというチャラい見た目には拍車がかかっていたものの、話してみると意外と人情味のある男だった。  家の事情で週に二、三回しかバイトに入れずまだまだ不慣れな航汰に、染谷はシフトが一緒になると、いつもアレコレと丁寧に教えてくれる。  今も、無理矢理巻き込まれる形になった航汰に「お前が居てくれて助かったわ、サンキュ」と、染谷は懐っこい顔で笑い掛けてきた。家でも母の笑顔に弱い航汰なので、もしかすると航汰自身がお人好しなだけなのかも知れないが、今では染谷のことを見た目ほど軽い人間ではないと、航汰は思っていた。 「今時、髪の色だのピアスだの、妙なとこで煩すぎんだよな。その割には大人って、都合のイイときだけ『人は見た目で判断するもんじゃない』とか言うクセによ」  トイレを出て、教室へ並んで歩きながら、隣で染谷がうんざりした声を上げる。その言葉には、確かにそうかも、と航汰も華の姿を思い浮かべた。同時に、中学時代には染谷のことを見た目だけで軽視してしまっていたことを、密かに反省する。 「あ、そういや瀬戸内。お前、今日バイト入れる?」 「今日……?」  思い出したように唐突に問い掛けてくる染谷に、思わず航汰は足を止めた。  最近では母の仕事状況に拘わらず、バイトの無い日は、真波の保育園への送迎は航汰が引き受けている。真波以外にも多くの園児が居るので、華とそうゆっくり話す時間があるわけでもなかったけれど、送り迎えの僅かな時間の間でも、華が園児相手に奮闘している様子を見られるのが嬉しかったからだ。  「恐い」と泣きじゃくる園児を、あの見た目で懸命に宥めようとしている華の姿には、何度も「頑張れ」と心の中で航汰は声援を送っていた。  今日も、そんな華を帰りに見に行くつもりだったので、予定という予定もないのに、つい反射的に足を止めてしまった。 「なに、都合悪ぃ?」  立ち止まった航汰に気付いて数歩先で足を止めた染谷が、肩越しに振り返る。 「いや……予定があるわけじゃ、ないんだけど……」  航汰が曖昧に言葉を濁した理由を、別の何かと捉えたのか。染谷が困ったような顔で身体ごと航汰に向き直った。 「お前が家の都合であんまり入れねぇのはわかってんだけどさ。実は一昨日、T高のヤツが客と揉めたらしいんだよ」 「揉めた?」  染谷が『T高のヤツ』と呼んでいるのは、同じコンビニでバイトしているT高校の二年生だ。  この辺りの都立高校の中では相当偏差値の高い進学校であるT高に通う彼は、勤務歴は航汰たちより三ヶ月ほど先輩だが、声も小さくいつもオドオドしていて、航汰以上に不慣れ感がある。  見た目も小柄でヒョロっとしている上、少し大きめの黒縁眼鏡が一層『真面目でおとなしい勤勉学生』という雰囲気を醸し出している彼が、客と揉めたというのはちょっと想像し難い。客から怒られた、と言われた方が、よっぽど納得出来る。 「俺も店長から聞いただけだから、状況はよくわかんねぇんだけど……何でも、タバコ買おうとした生意気な中坊共に煽られて、いきなりキレて殴りかかったらしい。当然、タバコなんざ買おうとしたガキが悪ぃんだけどな。それでも先に手上げたのは店側だし、相手はクソガキでも中学生で、おまけに客だろ。幸い大事には至らなかったらしいけど、店としちゃ切らないワケにもいかねぇから、急遽欠員出ちまったんだよ」 「……あの人、自分から人を殴るようなタイプに見えなかったけどな」 「俺も意外だったけど、ガキ共もアイツの見た目で、『コイツならいける』って思ったんじゃね? それに、おとなしいヤツの方がキレると恐いっつーこと、よくあるだろ」  見た目はあんなに恐いのに、園児には優しい華が居るんだから、逆もまた然りか、と航汰は無言で頷く。 「まあ今回の件はともかく、中には厄介な客も居るから、瀬戸内も気ぃつけろよ。お前はいきなり殴りかかったりしねぇと思うけど」 「でも、仮に俺が同じ目に遭ってたら、まともに対処出来たかな……」 「店長が居ないときは、とにかく誰でもいいから助け呼べ。今日もホントなら俺が代わりに入れりゃ良かったんだけど、ちょっと単発のバイト入れちまってるから、どうしても入れねぇんだわ」 「単発? 染谷、バイト掛け持ちしてんの?」  航汰は家のことを考えて敢えて部活動はしていないが、同じく帰宅部の染谷はてっきりバイトの無い日は友人と遊んでいるのだと思っていた。意外に思って目を瞬かせた航汰の前で、染谷は苦笑交じりに頬を掻いた。 「俺、高校出たら専門行きてぇから」 「専門って、美容師とかそっち系?」 「親父みてぇに店持ちたいワケじゃなくて、プロ相手のヘアメイク、やりたくてさ。けど俺の場合は親が親だから、変にスネ齧ってるとか言われんのも癪だし、学費はなるべく自分で稼ぎてぇのよ」  少し照れ臭そうに、染谷が整った顔をくしゃりと綻ばせる。  ───なんだよ、全然チャラチャラなんかしてないじゃん。 「……染谷、なんか色々ゴメン。今日のバイト、入るよ」 「マジか、助かるわ。つか、『ゴメン』って何が?」  申し訳なさや後ろめたさから思わず謝罪の言葉を零した航汰を見て、染谷はポカンとした顔で首を傾げている。  航汰よりよほどしっかり将来のことを見据えている友人は、同い年のはずなのに今の航汰には随分と大人びて見える。同時に、華に会えなくなるという理由でバイトを引き受けることを躊躇った自分が、酷く邪な人間に思えた。  航汰のバイト先である駅前のコンビニは、その立地から時間帯や電車の到着時刻によって、客足に大きな波がある。  恐らく最も混み合うのは、平日の朝だ。通勤・通学で駅を利用する客たちが、朝の七時前後になると続々と押し寄せる。  そしてその次に多い時間帯は、航汰が平日バイトに入っている、夕方五時から九時頃まで。前半は学校帰りの学生の姿が多く、時間が進むにつれ、客層はいかにも仕事帰りといった社会人へと変わっていく。  時刻は夜八時半。  十五分ほど前に到着した電車から降りて来た客たちを捌ききって、立ち読み客以外に客の姿も無くなった為、航汰はすっかり空になった棚へ、ケースの中のおにぎりを並べていた。 「瀬戸内くん。店内空いてるから、ちょっと表の清掃行ってくるね」  一緒に入っていた大学生の先輩に声を掛けられ、航汰は「お願いします」と頷き返して作業に戻る。そうして全ての商品を棚に並べ終え、航汰が空になったケースを抱えて立ち上がったとき。  店内に、客の来店を知らせる入店音が響いた。  反射的に振り返った航汰は、入り口から入って来た客の姿を見るなり危うくケースを落としそうになった。  ドアのてっぺんに届きそうな長身に、鋭く吊り上がった細い目と眉。そして、傷だらけの顔。 「───華先生……?」  嘘だろ、という思いで呆然とその名を呟いた航汰を見て、七分袖のカットソーに細めのデニムという私服姿の華が、同じように驚いた顔をした。  エプロンを着けていないと、やっぱり華は『その筋の人』にしか見えない。実際さっきまで航汰たち店員の目も気にせず立ち読みに耽っていた客も、入って来た華の姿を見るなりそそくさと店を出て行ってしまった。この人が本当は子供思いの保育士だなんて、きっと誰も思わないだろう。  抱えていたケースを再び足元に下ろして、航汰は慌ててペコリと頭を下げた。 「こ、こんばんは! ……あっ、今は『いらっしゃいませ』か!」  突然バイトが入ったお陰で今日はもう華には会えないと思っていただけに、驚きと動揺が隠せない。そんな航汰を見て、華がほんの微かに表情を和らげる気配がした。 「……バイト、だったんですか」 「え?」 「今日の真波ちゃんのお迎えが、お母さんだったので」  気にかけているのは航汰ばかりだと思っていたが、華も航汰のことを気にかけてくれていたような物言いに、思わずドキリとする。  一体どんな運命の悪戯かはわからないけれど、何はともあれ今言いたいことは、今日バイトに入って欲しいと言ってくれた染谷と、それから邪な神様ありがとう!、ということだ。まさかこんな形で、華のプライベートを窺える機会がくるなんて思いもしなかった。  航汰の傍までやってきた華は、つい今しがた航汰が並べたばかりのおにぎりを二つ、手に取った。両方とも、定番の人気商品であるツナマヨネーズ味だ。それから、華はレジ脇のホットショーケースを指差した。 「あと、アメリカンドッグ一つ、ください」 「はっ、はい!」  急いでレジカウンターの向こうへ回り、航汰は華が置いたおにぎりとアメリカンドッグを袋に詰める。  これが、彼の今日の夕飯なんだろうか。いつもはどうなのか知らないが、これだけ見ると、栄養バランス的にはどうなんだろうと余計な心配をしてしまう。 「……華先生、この辺に住んでるんですか?」  思わず問い掛けた航汰に、またしても華が軽く目を見開く。 「『あおぞら保育園』への雇用が決まってから、越してきたんです。……お兄さんは、ここでのバイトは長いんですか?」  航汰に問い返す前に一瞬言い淀んだ華に、そう言えば自分はまだ華に名前すら名乗っていなかったことを思い出した。おまけに、園の中ならともかく、今は航汰が店員で華は客だ。彼にとってはプライベートな時間なのだから、華が年下の航汰相手に畏まる理由もない。 「俺、この四月から高校入ったばっかりで、バイトも新人なんです。ていうか、今は華先生はお客さんなんで、敬語止めてください。俺の方がずっと年下だし……」 「いやでも、真波ちゃんのお兄さんですし───」 「航汰、です。瀬戸内航汰」  真波の兄、ではなく、瀬戸内航汰として見て貰いたくて、航汰は華の言葉を遮って名乗っていた。自分でも、どうしてそこまで踏み込みたいと思ったのかわからない。けれど、運命的なこの遭遇を、単なる偶然で終わらせてしまいたくなかった。いつもは不器用に園児とふれあっている華の、普段の姿を見てみたかったのだ。  黙り込んでしまった華に事務的に会計金額を告げながら、もしかして引かれただろうかと内心ドキドキする。大きな手でそっとカウンターへ千円札を置いた華が、フッと吐息だけで笑って、航汰は咄嗟に顔を上げた。 「……新人ってことは、俺と同じだな」  初めて聞く華のくだけた口調と共に、恐い顔が精一杯微笑む。いつも保育園で複数の園児相手に向けられているものとは違う。今目の前に居る航汰にだけ、向けられている笑顔。  ギュッ、と思いきり、心臓を鷲掴まれたような気がした。呼吸も脈拍も時間でさえも、全てが一瞬止まってしまったようだった。  ああ、恋に落ちるってこういうことか、と航汰はその意味も考えられないまま、漠然と思った。 「また来る。バイト、頑張れ」  何も考えられないまま無心でお釣りを手渡した航汰に、受け取ったレジ袋を軽く掲げて見せて、華はゆっくりと店を出ていく。航汰は次の客が入ってくるまで、ただ呆然とその背中を見詰めることしか出来なかった。 「───い、おい! 兄ちゃん!」  不機嫌な怒鳴り声によって、航汰は半ば強引に現実へと引き戻された。  我に返った航汰の目の前で、明らかに酔っ払いだとわかるスーツ姿の中年男性が、腹立たしげにガン!、とカウンターへ缶ビールを二本叩きつけてきた。 「ったく、呆けっとしてんじゃねえよ! これだからガキのアルバイトは……」 「も、申し訳ありません……!」  華との出会いの余韻にすっかり浸ってしまっていた航汰は、慌ててバーコードをスキャンする。華が去った直後に入って来た客がいつの間にかレジにやって来ていたことに、すぐには気付けなかった。突然怒鳴られたお陰で、何だか夢でも見ていたような気分になる。 「あの、こちら年齢確認が必要な商品ですので、そちらの画面にタッチして頂けますか」  航汰がおずおずとレジに備え付けられたタッチパネルを示すと、男性は「あぁ?」とカウンターに寄り掛かって航汰を睨みつけてきた。 「てめぇ、こっちが呼んでんのに散々待たせやがって、その上俺が未成年に見えんのか?」 「いえ、そういうワケじゃ……! 年齢確認が必要な商品は、全てのお客様に同じ操作をお願いして───」 「ごちゃごちゃ言ってねえでさっさと会計しろや! こっちは早く帰りてえんだよ!」  華より余程チンピラみたいな口調で捲し立てた男に、グイッ、と店の制服の胸元を掴まれて、航汰は思わずヒュッと息を呑む。  先輩に助けを求めたかったが、清掃に出た後恐らくそのままゴミ出しもしているのだろう。彼女が店内に戻って来る気配はない。  店の中には他の客の姿も無いし、昼間染谷に忠告されたように、助けを呼ぼうにもその相手が誰も居ない。警察、という単語も頭を過ぎったが、携帯はロッカーに置きっぱなしだし、それ以前に男に胸倉を掴まれたこの状態では、下手に動くことも出来ない。  それに何より、目の前の男は相当泥酔状態だ。迂闊な発言や行動は却って男の怒りを煽るだけだろうし、そうなったら相手がどんな行動に出るのか、まだ高校生の航汰に想像出来るはずもない。  ───どうしよう。どうしたらいい?  焦りと緊張と恐怖でドクドクと心臓が脈打ち、全身にじわりと冷たい汗が染み出してくる。  誰か、と渇いた喉から声を絞り出そうとした、そのとき。  ニュッ、と突然視界に長い腕が伸びてきて、男の腕を掴んだ。 「!?」  航汰と中年男性が同時に息を詰める中、長い腕が男の手を軽々と捻り上げる。痛みに呻いた男の手が、やっと航汰の制服から離れた。  視界に映った七分袖のカットソーに、まさか…と辿るようにしてゆっくりと視線を滑らせる。辿り着いた先で、華が無表情のまま男を見下ろしていた。 「未成年に掴みかかってる暇があるなら、さっさとパネルにタッチしろ。早く帰りたいんだろ」 「何だ、おま…───」  お前、と言いかけた男は、自分の腕を掴む華の顔を見るなり、ヒッ!と短い悲鳴を上げた。それはそうだ。二メートル近いヤクザみたいな風貌の人間にいきなり腕を掴まれたら、普通の人間は大抵目の前の男と同じ反応をするだろう。航汰だって、これが華との初対面だったら、きっと同じように今度は華に対して怯えていたに違いない。  ───けれど、航汰は知っている。その腕が、ただ航汰を助ける為だけに男を捕らえているのだということを。 「すっ、すいませんでした……っ!」  何故か華に対して謝罪の言葉を吐き、男は自分が買おうとした缶ビールもそのままに、転びそうになりながら大慌てで店から飛び出していった。 「……大丈夫か?」  華の声にハッとなった航汰は、慌ててカウンターの中から飛び出した。 「華先生、なんで……!」  もう帰ったはずじゃなかったのか。  見上げる航汰に「食パン、買い忘れた」と呟いた華の身体が、不意にグラリと大きく傾いだ。えっ?、と思うと同時に、華の巨体が航汰の肩へ圧し掛かってくる。 「ちょ……華先生!?」  驚く航汰の肩へ顔を埋めた華が、そのまま航汰に抱きついてきて、何がなんだかわからなくなる。すぐ傍から香る華の匂いに、触れた箇所から感じる華の体温。  けれど次の瞬間、航汰は愕然となった。 「……ごめん、航汰。ちょっとだけ、こうさせてくれ」  初めて航汰の名を呼んでくれた華の声は、酷く震えていた。  声だけじゃない。  航汰の背中に回された腕も、大きな背中も、華の全身が震えている。首を捻って覗き込んだ横顔は、血の気が引いて青褪めていた。 「……華、先生……?」  まるで何かに酷く怯えているような華の広い背を、航汰は混乱する頭で、そっと抱き締めることしか出来なかった。

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