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第3話

「華先生、コレどうぞ」  コンビニの駐車場の片隅。  車止めに腰を下ろしていた華へ、航汰はバイト上がりに店内で買ってきた、ミネラルウォーターと食パンの入った袋を差し出した。  航汰の声に気付いた華が、気怠げに頭をもたげる。その顔には少し血の気が戻っていて、思わずホッとする。 「……ありがとう。いくらだ?」  デニムのポケットから財布を取り出そうとする華を、航汰は慌てて制した。 「お金はいいです。助けてくれたお礼に、俺が勝手に買ってきただけだから」 「いや、さすがに、高校生に奢ってもらうのは……」 「じゃあ救急車呼びますよ」  航汰の言葉にほんの少し瞳を見開いた華が、参ったとばかりに息を吐いて、出しかけた財布をポケットへ押し戻した。  ありがとう、ともう一度繰り返して、華は航汰が差し出したコンビニ袋を遠慮がちに受け取る。一瞬だけ触れ合ったその指先は、まだ微かに震えていた。  ───さっきの『アレ』は、何だったんだろう。  十五分ほど前。航汰に絡んできた酔っ払いを撃退してくれた直後、突然航汰に縋るように寄り掛かってきた華は、暫く真っ青な顔で震え続けていた。  清掃から店内に戻ってきた先輩が、その光景を見て悲鳴を上げるまで、ずっと。  正直航汰もパニック状態だったので、先輩と二人で救急車を呼ぼうとしたのだが、華は「大丈夫だから」と血の気の失せた顔で頑なに拒んだ。そんな華の様子は、航汰の目には到底「大丈夫」とは思えなかった。  結局、震える華に少しだけ駐車場で待っていて欲しいと告げて、慌てて帰り支度を済ませた後、華が買い忘れたと言っていた食パンと、念の為水も購入し、飛び出してきた。  航汰が店から出てきたときには、華の様子はだいぶ落ち着いたようだったけれど、それでもまだ彼の大きな手は小刻みに震え続けている。  華の隣にしゃがみ込んで、航汰は彼の顔を覗き込んだ。  いつもは吊り上がっている眉が、今は少し下がっている。その表情は、時々夜中に怖い夢を見てぐずっている、真波の顔を連想させた。 「……ホントに、病院行かなくていい?」  思わず真波を宥めているときのような口調になってしまい、航汰は慌てて「いいんですか?」と言い直す。それを聞いた華の顔が、漸くほんのちょっとだけ和らいだ。  まだ力無くではあるけれど、少しでも華が笑ってくれたことに安堵する。笑うと、華は左目の横にある縫合痕に一本皺が出来ることに、間近で見て初めて気付いた。 「航汰も、もうバイト終わったんだろ。だったら別に、敬語じゃなくていい」 「いや、今のは…───」  真波と間違えて、と言うのもそれはそれで失礼な気がして、航汰は途中で言葉を呑み込んだ。  さっきは華の具合の方が心配でそれどころではなかったが、改めて華の口から「航汰」と呼ばれると、勝手に胸が煩くなる。口調も園での華とは全く違う所為で、もう一人の華と話しているような気分だった。 「なんか、却って迷惑かけたな」  ごめん、と華が苦笑する。 「迷惑なんか……!」  華が来てくれなかったら、航汰一人ではあの酔っ払いに対処なんて出来なかった。園で見慣れている華とは随分雰囲気は違うけれど、保育士で居るときの華も、プライベートでの華も、優しいところは変わらないんだと実感する。  そして同時に、やっぱり心配になった。  酔っ払いが店を出て行った直後、航汰に寄り掛かってきた華の震える声と青褪めた横顔が、脳裏に焼き付いている。  理由はわからないけれど、華は航汰を助けた所為で、具合が悪くなったんじゃないんだろうか。  そんな心の声が顔に出ていたのか。航汰の顔を見た華が、自嘲気味に笑った。 「俺のことなら、ホントに心配しなくていい。さっきのは、精神的なモンだから」  ゆっくりと言葉を区切りがちに話すのは、いつも小さい子どもを相手にしているからなのか、それとも彼自身の癖なんだろうか。訥々とした口調で華は言った。  ───精神的なもの?  益々、航汰は混乱する。  自分でそう言い切るということは、華は時々さっきみたいな状態になるということだろうか。だとしたら、一体何が原因なのだろう。  一体何が、この強面な華を、あんなにも怯えさせてしまうのだろう。  航汰の背中には、縋るように抱き締めてきた華の腕の感触が、まだハッキリと残っている。  一人だったら、彼はどうしていたんだろう。航汰以外の誰かが居たら、華はその誰かにもああして縋りつくんだろうか。  ズキ、とまた一つ、胸の奧が鈍く痛んだ。  この痛みは、何に対して……?  何かに怯えている華が、痛々しいから?  それとも、怯える華が航汰以外の誰かにも、助けを求めているかも知れないから?  答えのわからない疑問を蹴散らすように、けたたましい音を立てて、すぐ傍の高架の上を電車が通り過ぎていく。それを合図に、華がゆっくりと腰を上げた。 「あんまり遅くなると、家の人が心配するぞ。コレ、ありがとうな」  航汰が渡したコンビニ袋を軽く掲げて見せて、華がゆっくりと歩き出す。航汰より余程大きなその背中が、何故かとても儚く見えて、航汰は慌てて立ち上がった。 「華先生!」  数メートル先で、華が肩越しに振り返る。 「あの……俺の方こそ、ありがとうございました! また明日……!」  ペコリと頭を下げた航汰に一瞬目を瞬かせた華が、「また明日」と答えて、目尻の傷にまた皺を寄せた。  華のことを、航汰はまだ何も知らない。  妹の通う保育園にこの春から入った保育士で、見た目は恐いけれど心は優しい人。彼について知っていることといえば、これくらいだ。  けれどそれでも、航汰は明日も明後日も、華の元へ行くのだと彼に伝えたかった。  自分に何が出来るのかなんてわからないけれど、華が何かに怯える時間を、少しでも減らしたい───何故か強くそう思った。  航汰が見送る中、華の大きくて寂しい背中は、夜の街へ静かに消えていった。  翌日。  学校から帰宅するその足で、航汰は保育園へ真波を迎えに行った。  そんな航汰を真波と共に待っていてくれたのは、エプロン姿の華だった。  今朝、真波を送り届けたときは担任の先生が出迎えてくれたので、華と顔を合わせるのは昨夜ぶりだ。具合はもうすっかり良いのか、この日の華は顔色も良く、いつも通り、悪人顔の優しい保育士だった。 「にーちゃん、おかえり!」  いつものように飛びついてくる真波を抱きとめる航汰に、華がいつも園に提出する連絡帳を差し出してきた。 「今日は担任が所用で早退したので、連絡帳は代わりに記入させて貰いました。何か不備があったら、言ってください」  他の保護者の目もある為か、華が昨夜とはうって変わって丁寧な口調で告げる。昨日の夜、コンビニで航汰を助けてくれた華は、本当に別人だったのではと思ってしまうくらいだ。 「ありがとうございました。真波も、華先生に挨拶」 「ハナせんせー、さよーなら!」 「真波ちゃん、さようなら。気をつけて」  相変わらず律儀に腰を落として真波と視線を合わせ、華がヒラリと手を振ってくれる。そんな華に真波も嬉しそうにブンブンと手を振って、航汰も華に一礼してから園舎を出た。  たった今、華が手渡してくれた連絡帳を、何とはなしに開いてみる。今日の日付のページには、園からの連絡事項に、少し角張った文字でビッシリとこの日の真波の様子が記入されていた。 『午前中は、登園してからずっとお絵かきをしていました。絵を描いているととても楽しそうで、お父さん・お母さん・お兄さんの絵を描いて、見せてくれました。午後は園庭で遊びましたが、鬼ごっこをしているときに転んでしまい、少し膝を擦りむいてしまったので、傷口を洗って絆創膏を貼っています。自宅でも念の為様子を見てあげてください。ケガをしても泣かず、その後三歳児クラスの子に滑り台の順番を譲ってあげていました』  いつもは担任が記入している連絡帳の他のページを捲ってみたが、華ほど枠いっぱいに記入されている日はまず無かった。  一人一人の園児の様子をこんなにも細かく見て、皆にこうして書いているのだろうか。華は本当に保育士という仕事に熱意を持っているのだと、改めて思い知る。 「真波、今日膝擦りむいたのか?」  問いながら傍らの真波の膝を覗き込むと、確かにそこには絆創膏が貼られていた。 「うん。でもハナせんせーが『よしよし』してくれたから、泣かなかった!」  得意げに、真波が胸を張る。  真波が泣かなかったのは華のお陰だったのか、と彼の思いやりと優しさに胸がじわりと温かくなった。 「滑り台の順番も譲ってやったんだって? 偉いじゃん」  繋いだ真波の手をキュ、と握りながら航汰が園庭を通り過ぎようとしたとき。 「……やっぱりあの見た目、いくら何でも保育士としてどうなのって思うよね」  ふと耳に飛び込んできた話声に、航汰は思わず足を止めた。声の主は、子どもたちが遊具で遊んでいる傍らで世間話に花を咲かせている、若い母親二人の内の一人らしかった。  もう一人の母親が、同意を示して大きく頷く。 「ただでさえ男の保育士って、やっぱ親として不安もあるのに、おまけにあの見た目は無いわー。あの顔の傷、過去に何やってきたのって感じ」 「うちの子、未だに毎朝見かけただけで大泣きなんだけど。顔だけで園児泣かせてどーすんだって話だよ」 「なんで園長も、あんな人雇ったんだか」  その遣り取りを聞いただけで、彼女たちが誰の話をしているのかは明確だった。  華がどれだけ子どもたちを熱心に見ているかを知りもしないで、彼の上っ面しか見ていない彼女たちの心無い言葉に、言いようのない悔しさが込み上げてくる。  ───アンタらに、あの人の何がわかるんだよ。  そう思ってもさすがに食って掛かるわけにもいかず、歯痒い思いで航汰が拳を握り締めていると、ふと園舎から華が出て来るのが見えた。母親たちは華に背を向けているので、気付かずに華の見た目について「絶対まともな経歴じゃないでしょ、アレは」などと好き勝手に盛り上がっている。  まずい、この会話を華には聞かせたくない、と思った航汰は、真波に少しだけ遊具で遊んでいるように告げてから、咄嗟に華に駆け寄ってその腕を掴んだ。 「っ、瀬戸内さん……?」  昨日は「航汰」と呼んでくれた華が、よそよそしい呼び方と共に驚いた顔で航汰を見下ろす。また少し胸が痛んだ気がしたが、航汰は気にせず華を殆ど人が居ない園庭の隅へと引っ張ってきた。 「……どうかしました?」  とにかく華を彼女たちから引き離すことで頭がいっぱいだった航汰は、怪訝そうに問い掛けられて答えに困った。勢いだけで華の手を引っ張ってきてしまったが、まさか本人に事実を伝えるわけにはいかない。 「あー……え、っと……」  どうしよう、と口籠る航汰を暫く黙って見詰めていた華が、苦笑交じりに息を吐いた。 「……もしかして、気遣ってくれたのか」  不意にプライベートモードに変わった華の口調にドキッとして、反射的に顔を上げる。口調にも驚いたのだが、何よりも華自身が事態に気付いていたらしいことに驚いた。 「華先生、ひょっとして、知ってた……?」 「別に、珍しいことでもない。もう慣れてる。自分の見た目が、子どもにも保護者にも受け入れられないことくらい、承知の上だ」  何でもない風に華は言ったけれど、航汰は華にそんなことを言わせてしまったことが、酷く悔しかった。  本当は、恐い人じゃないのに。  大きな身体で一生懸命、子どもたちに視線を合わせてくれているのに。  子どもと同じ目線になって、遊んでくれているのに。  連絡帳の記入欄が足りないくらい、子どもの様子をよく見て伝えてくれているのに。 「……でも、あんな風に言われたら、俺は悔しい。華先生が毎日保育士として頑張ってくれてるの、知ってるから」  ぐっ、と両手の拳を握り締めて、悔しさに震える声を零した航汰の頭を、華の大きな掌がポンと一度だけ撫でた。 「ありがとう。たった一人でもいいから、そう言って貰えるようになるのが、今の目標だ」  一つ目標が達成出来た、と目を細める華に、航汰の胸がまた締め付けられて苦しくなる。  俺で良ければ幾らでも応援するのに。  俺で良ければどんな華でも受け止めるのに。  華は、理不尽な声をぶつけられても尚、保育士としてどうしてそんなに頑張れるんだろう。 「……華先生は、なんで保育士になったの」  気付けば言葉が勝手に口から零れていた。  突然そんな質問を投げかけられたからか、華が一瞬面喰らったような顔になる。きっとさっきの母親たちは、華の微妙な表情の変化なんてわからない。だって華は、基本どんな表情をしていても悪人顔だ。  だけどその内にある彼の不器用さや真面目さ、優しさに気付いている航汰には、華は思った以上に表情豊かだと感じた。  暫く答えに迷っていた華が、ポツリと口を開いた。 「───親孝行、だと思う」 「親孝行……?」  思いがけない言葉に、きょとんと航汰は問い返す。  親孝行で保育士になるというのは、どういうことだろう。彼の親が、保育士だったりしたんだろうか。  どういう意味なのかを聞きたかったが、遊具から「にーちゃん!」と呼ぶ真波の声が聞こえて、結局航汰はその言葉の真意を聞くことは、叶わなかった。   ◆◆◆◆◆ 「三点で、496円です」  スキャンした商品をビニール袋に詰めながら、航汰は目の前の華へ金額を告げる。  初めてバイト先で顔を合わせて以降、華は頻繁に航汰の働くコンビニへやって来るようになっていた。  この日華が購入したのは、やっぱりおにぎりが二つ。今日はどちらも具材は焼肉で、それに加えてレジ脇にある唐揚げを一パック注文してきた。  肉ばっかりで、野菜が全くない。  航汰がバイトに入っている日がたまたまそうなのかも知れないが、少なくとも航汰が居るとき、華が買うのはいつも同じ具材のおにぎり二つと、ショーケースの中にある揚げ物一品。一度たりとも、サラダなどの野菜類を買っているのは見たことがない。  さすがに毎日コンビニで夕飯を済ませているわけではないと思う…というか、思いたいのだが、航汰がバイトに入っている週二、三回の内、華がやって来たときは決まってそのメニューを購入しているのだから、かなりの頻度で栄養の偏った食事を摂っていることになる。  華先生、自炊とかしないんですか?  もうちょっと野菜も摂った方がいいですよ。  言いたいことは色々あったけれど、さすがに高校生の自分がそこまで口を出すのも躊躇われて、航汰は何も言えなかった。 「じゃあコレで」  華が、カウンターに千円札を置く。 「504円のお返しです。ちょっと五百円玉切らしてて、細かくてスミマセン」  華の広い掌に、航汰はレシートと一緒に釣り銭を載せた。  会計のとき、大抵華は千円札で支払う。小銭を出すのが面倒なのか、それとも毎回たまたま切らしているのか。どちらにしても、釣り銭を渡すのにほんの少し華の手に触れる一瞬でさえ、航汰には嬉しかった。 「ありがとう。───お疲れ」  最近では、決まって華は去り際に航汰に労いの言葉をかけてくれる。悦ばしい反面、それは踏み込んだ会話をやんわりと拒む言葉でもあった。  考えてみれば、いくらこうして偶然プライベートでも顔を合わせるようになったとはいえ、航汰と華では歳も離れているし、華にとって航汰はあくまでも自分が受け持っている園児の家族だ。  それに加えて、先日の酔っ払いの一件以降、何となく華は航汰に一定以上踏み込ませないよう、敢えて距離を取っているような気がしてならなかった。  あの一件を、航汰は迷惑だなんて、微塵も思っていないのに。  けれど所詮まだ高校生になったばかりの自分は、大人である華には到底頼って貰えるような存在ではないことも自覚しているので、航汰は日々悶々としたもどかしさを覚えていた。 「あれ、百円玉多くね?」  今日はシフトが同じだった染谷が、少なくなっていた百円玉を補充するべくレジを開けて首を捻った。ん?、と航汰も隣からレジの中を覗き込む。 「さっき残り十枚だったから足そうと思ったけど、お前今の客に釣りで五枚返してたよな? なら残り五枚のはずなのに、六枚あんぞ」 「えっ、マジで? ……もしかして、五枚返したつもりが四枚だった……?」  サッと顔を強張らせる航汰の腕を、染谷が肘で小突いてくる。 「あの極道面の兄ちゃん、お前がシフト入ってるときよく来るけど、もしかしてカモにされてんじゃねぇの?」 「華先生はそんなことする人じゃない!」  思わず声を張った航汰に、染谷だけでなく、店内に居た客たちの視線が一斉に注がれる。気まずさに俯いた航汰の手に、染谷が百円玉を一枚握らせた。 「冗談だって。つーか、『先生』ってなに。あの客、お前の知り合い?」 「妹の、保育園の先生」 「保育園の先生!? あの顔で!?」 「………」  無言でジロリと睨む航汰に、染谷が「悪ぃ」と顔の前で手を合わせる。けれど驚くのも致し方ないとは航汰も思うので、むしろ謝ってくれるだけ染谷はまだ理解があるのかも知れない。 「取り敢えず、ダッシュで追っかけりゃ間に合うだろうから、渡して来いよ」 「ごめん、染谷。ありがとう……!」  百円玉を握り締めて駆け出す背中に、「謝罪は客にしろよ」と染谷の声が飛んできた。  店を飛び出し、以前華が歩き去った路地を走っていると、視線の先にゆったりとした足取りで歩く華の姿が見えた。長身な華は航汰とは比べものにならないほど逞しく見えるのに、不思議とそのまま闇に溶けてしまいそうな空気を纏っている。それを引き留めるように、航汰は無意識に声を張っていた。 「華先生……!」  ピク、と肩を揺らした華が立ち止まり、ゆっくりと航汰を振り返る。店の制服のまま駆けて来る航汰を見て、華は何事かというような顔をした。 「ハァ、ハァ……先生、コレ……さっきのお釣り。俺、百円少なく、渡してたみたいで……」  肩で息をしながら、航汰は握り締めていた百円玉を華へと差し出した。 「わざわざ、届けにきてくれたのか? 百円くらい、別にいいのに」 「俺が、困るんです。清算、合わなくなるし」  それに、染谷は冗談だと言っていたけれど、華が航汰を利用して釣り銭を誤魔化しているような人間だと思われるのは、絶対に嫌だった。  百円玉を受け取った華が、まだ息が上がったままの航汰を見て、少し困ったような顔をした。 「今日は俺が、水を買っとくべきだった」 「大丈夫。久々に全力疾走して、ちょっと疲れただけだから。それより、ちゃんと返せて良かった」  スイマセンでした、と深く身体を折った航汰に、華は「やっぱり『兄』なんだな」とふと呟いた。 「え……?」 「人が好いというか、世話焼きというか」 「……それって、褒められてるんですか?」  褒めてる、と華が元々細い目を更に細めて笑う。  恐い顔のはずなのに、誰よりも優しい笑顔に見えるのは、どうしてだろう。  華は見た目と違って恐い人じゃないんだと全ての人に訴えたい反面、自分だけがそれを知っていたい奇妙な独占欲が航汰の中で顔を覗かせる。 「……華先生は、一人暮らし?」  以前から気になっていた質問をぶつけた航汰に、華は戸惑いがちに少し先にある二階建ての古い木造アパートを指差した。 「あそこに、一人で住んでる」  華が住んでいるというアパートは、コンビニから通りを真っ直ぐ進んだ道沿いに建っている。恐らく距離では店から数百メートルくらいだ。  どうしてそんなことを?、と華の瞳が問うている気がしたので、航汰は華が提げているコンビニ袋を示した。 「いつも、おにぎりと揚げ物ばっかり買ってるから、毎日そういうもの食べてるのかなって」 「一人だと、つい食いたいものばかりになるんだ」 「食いたいものって……華先生、もしかして、野菜あんまり好きじゃない?」  華が黙り込んだので、どうやら図星だったらしい。だから野菜の入った弁当やサラダには見向きもしないのか、と航汰は苦笑した。 「……真波ちゃんには、黙っててくれ。真波ちゃんも、野菜嫌いだろ」 「そんなことも知ってんの?」  真波はとにかく野菜が嫌いだ。  ニンジン、ピーマン、玉ねぎに、葉物も自分からは決して食べたがらない。  そんな真波にどうにかして野菜を食べさせるべく、調理法や味付けを工夫することに、最近は父と二人で夢中になっている。真波にバレずに野菜を食べさせられたときの達成感は、なかなか清々しいものがあるのだ。 「給食のとき、野菜はいつも、眉間に皺寄せて食べてる。そんな園児の前で、自分は野菜嫌いだなんて、言えないだろ」  ひょっとすると華もまた、給食の時間は難しい顔で苦手な野菜を頬張っているんだろうかと思うと、何とも微笑ましくて航汰は思わず笑ってしまった。 「でも先生、もうちょっと栄養バランスとか考えないと、身体壊すよ。保育士って、体力勝負だろうからさ」 「それは、わかってるんだけどな……。わざわざ自分から、買おうと思えないんだ」  だったら、と航汰の頭にある考えが浮かんだ。  さすがに毎日ではないけれど、月に何度かは必ず航汰が夕食を作る日がある。どうせ家族の分を作るのだから、四人分も五人分も、そう変わらない。 「あのさ。俺、月に何回か晩飯担当してるんだけど、良かったら先生も、それ食べない? 毎日じゃなくても、せめてたまにはちゃんとした食事とった方がいいと思うし、ここならウチからでも充分届けられる距離だから」  航汰の提案に、華がこれまでで一番驚いた顔をした。切れ長の双眸が、目一杯見開かれる。 「……やっぱ、さすがに迷惑かな……?」  自分でも、出すぎた真似をしているとは思う。華が戸惑うのも無理はない。  ただ、華の意外に脆い一面を見てしまってから、航汰はどうしても華のことが放っておけなかった。子どもたちにはいつだって優しいけれど、反面華は、自分のことは蔑ろにしてしまっている気がして───。  華が、困惑した様子で首筋に手をやった。 「迷惑とは、思ってない。むしろ、ありがたいと思ってる。ただ……預かってる園児の、まだ高校生の兄に、そんなことさせられないだろ」 「俺は妹を預かって貰ってる先生が、倒れる方が困る」 「航汰……」 「それに俺、野菜嫌いの真波に野菜食わせるのには慣れてるから、先生にも食わせる自信はあるよ」  ニッ、と口端を上げて笑った航汰の前で、華は観念した様子で一つ息を吐いた。 「……ホントに、どこまでもお人好しだな。あくまでも、家族の迷惑にならないことと、無理はしないこと。それだけは、約束してくれ」  やっと少しだけ、航汰に対して扉を開いてくれた華に、航汰は満面の笑みで「約束する」と頷いた。  今はまだ、お節介でお人好しなガキだって構わない。  いつの日か、華が保育士を志した理由や、彼の精神を蝕んでいる何かを、話してもらえる日が来るといい。  そうしてこの日以降、航汰は華の不定期専属デリバリー担当になったのだった。

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