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第4話

  ◆◆◆◆◆ 「プリティーシャボン~~~アターック!!」  真波の大声と共に、突如リビングに大量のシャボン玉が舞い散る。  キッチンで華に届ける為のおかずをタッパーに詰めていた航汰の傍までそれはフワフワと飛んできて、航汰は慌ててタッパーを避けた。 「こら、真波! 部屋ん中でシャボン玉は駄目だって言っただろ!」 「だって、『プリティーシャボン』はどこでも敵をやっつけるんだよ」 「ここにはやっつける敵は居ない!」  航汰に注意された真波が、不満げに頬を膨らませて渋々ソファに転がった。その前にあるテレビでは、録画してあった真波のお気に入りアニメ『プリティーマジック』が流れている。真波くらいの歳の女児たちから絶大な人気を誇っている、魔法少女アニメだ。  真波の言う『プリティーシャボン』は、そのアニメで今週から登場した新しいキャラクター。真波の大好きなシャボン玉を大量に発射して敵を浄化する、『プリティーシャボンアタック』という技を使って戦うキャラクターで、真波はそんなプリティーシャボンに一目惚れしてしまっていた。 「ねえ、にーちゃん」 「なんだよ?」 「もうすぐ、『ごーるでんうぃーく』でしょ? プリティーマジックの映画、みに行きたい」  ソファから下りてきた真波が背伸びをして、カウンター越しに顔を覗かせてくる。その小さな手が指差すテレビ画面に視線を向けると、ゴールデンウィークに合わせて今月末から公開されるらしい、劇場版プリティーマジックの予告CMが流れていた。  平日あまりバイトに入れない航汰は、基本的に土日や祝日メインでシフトを組んで貰っている。  五月の連休も連日バイトに入る予定にしていたのだが、母の仕事が忙しいのはいつものこととして、最近は父も新商品の開発チームのリーダーを任されているらしく、連休中も出勤になりそうだと話していた。  ───一日くらいは休み貰って、真波に付き合ってやるか。  正直、男子高校生の自分が女児向けのアニメ映画を観に行くのはなかなか勇気が要る。けれど真波も航汰に強請るのが一番だと悟っているのか、見上げてくる目が期待でキラキラ輝いている。そして真波のこういう顔に、つくづく航汰は弱いのだ。  妹って要領いいよな、と降参の息を吐いて、航汰は「わかったよ」と頷いた。  やったあ!、と嬉しそうにピョンピョン跳び跳ねる真波の後ろで、母が仕事部屋から顔を出した。ようやく締め切りを抜けたかと思えば、もう次の仕事に追われている母は、本当に人気漫画家だったんだなと改めて感心する。 「賑やかだと思ったら、随分ご機嫌だね、真波。なんかイイことあった?」  崩れた団子ヘアを手早く直しながら、母がはしゃぐ真波を微笑ましそうに見詰める。そんな母に「へへっ」と嬉しそうに笑った真波は、不意に母に向かって開いた両手を突き出すと、 「プリティーシャボンアターック!」  本物のシャボン玉こそ今度は出さなかったものの、答えの代わりに再び大好きなキャラの必殺技を披露して見せた。  一瞬面喰らった母が、すぐに娘の意図を察して「うっ」と胸元を押さえながらヨロリと壁に寄り掛かる。 「な……なんだ、このピュアなパワーは……! 心が、浄化される……っ!」 「……いっそ本気で一回浄化して貰えば」  母の名演技を横目で見ながら、思わずボソリと呟く航汰を、母が眼鏡越しにギロッと睨んできた。 「ほう……随分可愛くない口利くじゃないの。真波、アイツやっつけちゃいな」 「悪いやつは、プリティーシャボンがキレイに浄化してあげる!」  すっかりキャラになりきった真波が再びシャボン玉のストローをくわえたので、航汰は慌ててキッチンから飛び出して必殺技の発動を防いだ。 「だから部屋では駄目だって! つか母さんもけしかけんなよ!」 「だーって、誰かさんが憎たらしいこと言うからでしょうよ。……そう言えば、父さんは?」  軽く航汰の額を小突いた母が、リビングに父の姿がないことに気付いて首を傾げる。  風呂、と航汰が答えたのと同時に、台所の壁に備え付けられたリモコンが浴室からの呼び出し音を響かせた。父が真波を呼んでいる合図だ。 「真波、呼ばれたぞ」 「お風呂なら、シャボン玉してもいい?」  いいよ、という航汰の返事に嬉々としてシャボン玉を抱え、真波は父の待つ浴室へと駆けていった。  その背中を見送って、母が食器棚からグラスを取り出しながらクスリと笑う。 「私より、すっかり母親みたいになってきたね、アンタ」 「お陰様で。でも、真波が一番言うこと聞くのは母さんだろ。アイツは、俺なら甘やかしてくれるってちゃんとわかってる」 「イイじゃないの。アンタは甘やかすの、好きでしょ?」 「……そりゃ、この家で育ったら嫌でもそうなるよ」  ニヤリと笑う母の言葉は図星だったが、素直に認めるのも癪で、航汰は敢えて素っ気なく答えた。  頭の中に、つい華の顔が浮かぶ。  真波のことも、母のことも、それから華のことも、ついつい手助けしたくなってしまう。  華に関しては別に頼まれたわけでも何でもないのに、 お節介なヤツだと思われていないだろうかと、今更少し不安になる。  そんな航汰の手元のタッパーに気付いた母が、「ん?」と眉を跳ね上げた。 「珍しい、夕飯そんなに残ったの?」  しまった、と内心焦りつつ、努めて平静を装ってさり気なくタッパーに蓋をする。  母に気付かれると誤魔化すのは難しいと思っていたので、仕事に没頭してくれている間に、こっそり華のところへ届けに行こうと思っていたのに。 「……染谷が、最近バイト掛け持ちしてるらしくてさ」  咄嗟に口を吐いて出た嘘に、心の中で「ゴメン、染谷」と勝手に名前を出してしまった友人に手を合わせる。 「染谷くんて、同じ中学だった、あの染谷くん? そういや、高校だけじゃなくバイト先まで被ってるんだっけ」  染谷には申し訳ないが、母がすんなり食いついてくれたので、航汰は「そうそう」と頷き返す。 「バイトの合間にいつもコンビニ飯ばっか食ってるから、どうせならおかずくらい分けてやろうかなと思って」  この日の夕飯は、父と一緒に作った煮込みハンバーグだった。すりおろしたニンジンと玉ねぎを混ぜ込んで作ってある。それから、キュウリやキャベツを混ぜたポテトサラダ。  どちらも野菜嫌いの真波が「おいしい!」と残さず食べてくれたので、これなら華も食べられるのではと思った。  後は華専用に、航汰はスマホでレシピを検索しながらニラともやしのナムルを作った。見た目は野菜そのものだが、ごま油や豆板醤を使って味付けに工夫したので、それほど野菜臭さは気にならない味に仕上がった……と思う。  それらを詰め込んだタッパーを紙袋に入れる航汰を見ながら、母はグラスに注いだブラックのアイスコーヒーを呷って「ふーん」と眼鏡の奧の瞳を細めた。 「……なに?」 「なんか、随分甲斐甲斐しいと思って」 「まあ、バイトでは染谷の方が仕事覚えるのも早いし、いつも世話になってるから」  これに関しては嘘じゃない。別に不自然さは無いはずだ、と航汰は自分自身に言い聞かせる。 「そういや、前に言ってた『ハナせんせー』だけどさ」  唐突に母の口から華の名前が飛び出して、航汰はギクリと反射的に顔を上げた。 「アンタがその筋の人みたいなんて言うから、どんだけ恐い顔してんのかと思ってたけど、さすがの私の想像すらも超えるビジュアルだね」 「───っ、見た目だけでそういうこと言うなよ!」  園で華の陰口を言い合っていた母親たちの言葉を思い出して、航汰は思わず声を荒らげた。そんな息子に驚いたのか、母が意外そうに目を瞬かせる。 「……でも見た目と違って超イイ先生じゃん───って、言おうとしたんだけど?」 「えっ……」  一体どうしたのよ、と言うような母の視線に居心地が悪くなって、航汰は「だから、前もそう言ったじゃん」とぎこちなく顔を伏せた。  少し考えれば母が見た目だけで人を判断するような人間ではないことくらい、航汰はよくわかっている。それなのに、華のことになるとどうしても感情が先走ってしまう。これじゃあ、何の為に必死で誤魔化しているのかわからない。 「……取り敢えず、染谷におかず届けに行ってくる」 「いくらアンタが男とはいえ、今のご時世色々物騒だから、気を付けなよ」  紙袋を提げて足早に玄関へ向かう航汰の背中に、母の声が飛んできて、航汰は返事の代わりに軽く片手を上げて応えた。  いよいよ色気づいてきたのかねぇ…、という母の呟きは、玄関でスニーカーに足を突っ込む航汰の耳には届かなかった。  航汰の家から駅前にあるバイト先までは、徒歩でも五分程しか掛からない。そのバイト先から僅か数百メートルしか離れていない華のアパートまでは、自転車なら三分ほどで辿り着くことが出来た。  事前に聞いていた二階の突き当たりの部屋の前に、航汰はやって来た。階段も廊下の手すりも錆びだらけの相当古いアパートには、インターホンも付いていなかった。  ───ここで間違いないよな?  扉の脇に掲げられた、色褪せた部屋番号を何度も確かめて、航汰は塗装がところどころ剥げ落ちている扉を控えめにノックした。 「あの、こんばんは……!」  航汰です、と名乗った直後。ギイッと重く軋んだ音を立てて、内側から扉が押し開けられた。扉の向こうから顔を覗かせた華が何だかいつもの彼と違う気がして、アレ?と航汰は一瞬首を捻る。 「ホントに来てくれたのか」  困ったような、照れたような、複雑な笑みを零した華の顔を見て、ああそうか、髪が下りてるんだと航汰はやっと気が付いた。  風呂上りなのだろうか、いつもは立てられている華の髪が、今はペタンと下ろされている。その所為か、目の前の華は普段より少し若く見えた。 「スイマセン、やっぱり俺、ちょっと出しゃばり過ぎてました……?」  航汰の申し出を、華は話半分で聞いていたのだろうかと思ったが、彼は「そんなことない」と首を振った。 「俺の方こそ、自分の立場も考えずに、甘えすぎだったんじゃないかと、内心思ってた。航汰が、家族に叱られたりしてないかも、心配だった」  図々しく夕飯を届けるなんて言い出したのは航汰の方なのに、そんな航汰のことを案じてくれていた華の優しさに、相変わらずこの人は…!と胸が詰まって息苦しくなる。染谷のところに行くなんて、母に嘘を吐いて出てきてしまったことが、今更ながら酷く後ろめたくなった。家族に迷惑をかけないと約束したのに……。 「狭いけど、少し上がっていくか? 茶くらい出す……って、家族が心配するか」  航汰を招き入れるように大きく扉を開いた華が、室内に促しかけてふと気づいたように眉を下げた。確かにもうすっかり辺りは真っ暗だが、バイトのある日なら今はまだ店に居る時間だ。それに何より、折角の華の誘いを断りたくなくて、航汰は咄嗟に「大丈夫!」と声を上げていた。 「あっ、いや……バイトだともっと遅くなるし、華先生が迷惑じゃないなら……」  上がらせてください、と言うのはあまりにも厚かましい気がして、歯切れの悪い物言いになる。そんな航汰にフッと吐息だけで笑った華が、今度こそ航汰が入りやすいように開いた扉を押さえて、「入れ」と誘ってくれた。  ただ華の元に夕飯を届けることしか頭になかった航汰にとって、この展開は想定外も想定外だ。まさか本当に、華のプライベート空間に足を踏み入れることになるなんて、思ってもいなかった。  華の自宅に入れて貰えることへの嬉しさと緊張で、心臓がドクドクと騒いで煩い。 「お、お邪魔します……」  遠慮がちに足を踏み入れた華の部屋は、彼の大きな身体とは対照的な、1Kのこぢんまりとした部屋だった。  部屋に入ってすぐのキッチンには、冷蔵庫と電子レンジがあるくらいで、調理器具や調味料などの類は目に見えるところには一切置かれていない。 炊飯器も見当たらないので、航汰はおかずしか持ってこなかったことを後悔した。白米くらいならあるだろうと思っていたけれど、華はいつもコンビニでおにぎりばかり買っていたくらいだから、米を炊く習慣だってないのかも知れない。  奧の八畳ほどの和室にはテレビがあり、部屋の中央には折り畳み式の小さなテーブル。そして部屋の隅には、畳まれた布団がそのまま置かれている。とても布団を敷くスペースがあるようには見えないので、恐らく寝るときはテーブルを畳んでいるのだろう。  正面に見える壁際には高さが一メートルほどの本棚が置かれているが、全体的に物が少ない印象の部屋の中で、唯一その本棚にはビッシリと保育関連の書籍が並んでいた。しかも、そのどれもが背表紙だけ見てもわかるほど、ボロボロになっている。恐らくもう何度も読み返されているのだろう。華がどれだけ保育士として熱心なのか、ここでも垣間見えた気がした。 「適当に座っててくれ。麦茶より、コーヒーの方がイイか?」 「あ、お構いなく! ホントはお邪魔させて貰うつもりじゃなかったし、華先生と同じので……」 「なら、折角届けてくれた晩飯に合うように、麦茶でいいか。ごめんな、大したモン、何もなくて」  言いながら、華はキッチンにある棚の中からグラスを二つ取り出している。  そんな華の背中を見ながら、航汰はテーブルの前に控えめに正座した。。  室内は男性の一人暮らしにしては綺麗に片付けられているけれど、華が自炊をしたりしない所為もあるのか、あまり生活臭が感じられない。航汰の家はいつも賑やかだから、余計にそう思うんだろうか。  唯一彼がこの部屋で日々の時間を過ごしていると感じられるのは、読み古された本棚の本くらいだ。改めて本棚に視線を向けた航汰は、その上に置かれた写真立てに気が付いた。  若くて綺麗な女性と、真波より少し幼いくらいの男の子が、幸せそうな笑顔を浮かべて顔を寄せ合っている。随分と色褪せたその写真に写る子どもが華であることは、その頃から変わっていない目許や細い眉からすぐにわかった。  けれど写真の中の華の顔には、まだ今のような傷痕は全く見られない。  一緒に写っている女性は、もしかして華の母親なんだろうか。顔立ちはそう似てはいないものの、笑ったときの優しくて穏やかな雰囲気は、華にとてもよく似ている気がする。  そしてそんな写真の隣にひっそりと置かれていたものに、航汰の目は思わず釘付けになった。  ───位牌……?  あまりにもさり気なく置かれたそれは、華の背中同様、どこか寂しげに見える。  古い写真と共に置かれた位牌。これらは、一体何を意味しているのだろう。 「俺の、母親だ」  突然頭上から降ってきた華の声に、航汰はビクリと肩を跳ねさせた。慌てて視線を戻した航汰の前に、華が麦茶の入ったグラスを置いてくれる。 「す、スイマセン。随分古い写真だったから、気になって……」  無遠慮に写真に見入ってしまっていたことを反省する航汰に、華は「謝らなくていい」と向かいに腰を下ろした。 「母親は、俺が高校の頃に亡くなってる。残ってる写真が、それしか無いんだ」 「え……」  ───じゃあ隣の位牌は、お母さんの?  前に華は、保育士になった理由は「親孝行」なのだと言っていた。それは、亡くなった母親の為、ということなんだろうか。  写真に写っているのが母親と華の二人だけということは、父親は?  高校の頃に亡くなったのに、こんなに古い写真がたった一枚しか残っていないのはなんで?  この写真の華の顔には傷なんて一つも無いのに、今の華が傷だらけな理由は……?  次々に疑問が湧いてくるけれど、さすがにそれを口に出す勇気は、今の航汰には無かった。軽々しく聞いて良いことではないということくらいは分かる。 「もう昔のことだから、気にするな」  黙り込んだ航汰の心中を察したのか、華が麦茶を一口含んでから笑う。どことなく哀しげなその笑顔に、気の利いた言葉一つ返せない幼い自分が情けなくなった。  華が見た目に反して時折とても儚く見えるのは、彼の背負った過去が関係しているのだろうか。だから華が暮らしているこの部屋も、無機質に感じられるのかも知れない。  そんな華に対して、航汰に出来ることがあるんだとしたら、この寂しい部屋に、せめて温かい食事を届けることくらいだ。 「華先生、コレ……!」  紙袋から取り出したタッパーを、航汰はテーブルの中央へそっと差し出した。 「何も考えずにおかずしか持ってこなかったんだけど、良かったら」  航汰の顔とタッパーを交互に見遣った華が、大きな手でそっとタッパーの蓋を開ける。まだ仄かに温かいその中身から漂う湯気に一瞬目を細めた華が、すぐにその瞳を驚いたように見開いた。 「凄いな……総菜屋の、おかずみたいだ。コレ全部、航汰が作ったのか?」 「ホントは何でも一人で作れるようになりたいけど、今日のは父親と二人で作ったんだ」 「煮込みハンバーグなんて、多分最後に食ったのは、小学生の頃だ。……本当に、食っていいのか?」  その為に持ってきたんだよ、と航汰が笑うと、華は航汰がタッパーと一緒に持参した割り箸を持った手を「いただきます」と丁寧に合わせた。  早速、華が煮込みハンバーグに箸を入れる。やっぱり最初は肉なんだ、と航汰は思わず口元を綻ばせた。そして同時に、華の箸の持ち方が少し変わっていることに気付く。食べ物を摘むときに箸が交わってしまう、クロス箸だ。  そういえば、航汰がバイトに入っているとき、華は一度も箸を使うものを買って帰ったことがない。唐揚げには爪楊枝が付いているし、アメリカンドッグやフライドポテトは手で食べられる。おにぎりだってそうだ。  もしかして、箸を使うのが苦手、というのも彼の偏食の一因だったりするんだろうか。だとしたら、やっぱりこの人は見かけに寄らず随分可愛らしい。 「……美味い。ハンバーグって、もっと玉ねぎの食感が、強いと思ってた」 「それ、実はすりおろした玉ねぎとニンジンが入ってるんだ。真波もみじん切りのまま入れると嫌がるんだけど、そうやってすりおろして混ぜると食べてくれるから、それなら華先生も大丈夫かなって」 「このポテトサラダも、野菜が入ってるのはわかるけど、ちゃんと気にならない味付けになってる」 「そっちも、真波が完食してくれたの確認済。ちなみに、隣のナムルだけは俺が華先生用に別で作ってみた」 「じゃあコレは、航汰が一人で作ったのか?」   華が、もやしとニラのナムルを箸で摘んで首を傾ける。 「見た目は野菜そのまんまだけど、なるべく野菜独特の青臭さとか消える味付けにしたから、多分大丈夫だと思うんだけど……」  さすがにこれは真波に食べさせていないので、航汰自身の舌だけが頼りだった。華の反応を、正座した足の上で思わず拳を握り締めながらジッと伺い見る。  ゴクリと喉仏を上下させてナムルを飲み込んだ華が、今日一番の笑顔を見せてくれた。  笑顔に見えているのは航汰だけかも知れないけれど、例えそうだとしても構わない。他の誰が華の容姿を非難したとしても、自分だけは華のどんな些細な表情の変化も、見逃したくはなかった。 「コレは、さすがに米が欲しくなるな。ご飯が進みそうな味だ」 「白ご飯の存在、すっかり忘れててスイマセン……!」  まるで土下座みたいな格好で頭を下げた航汰に、華は笑いながら「いや、いい」と首を振った。 「こんなに美味いおかず届けて貰えるなら、炊飯器と米くらい、買っておく」 「え……それって、これからも夕飯、届けに来てもいいってこと……?」  思わずポカンと問い掛けた航汰に、華が「それはこっちの台詞だ」と苦笑する。 「こっちこそ、本当にこんな凝った食事、届けて貰っていいのか?」 「別に毎日ってわけじゃないし、時々夕飯が一人分増えるくらい、どうってことないよ」 「そういえば、航汰はよく真波ちゃんの送迎も、担当してるな。ご両親、忙しいのか」 「あー……」  父はともかく、母のことをどう説明したものかと、航汰は一瞬宙を仰いで頬を掻く。さすがにBLというジャンルまでいきなり打ち明けるのは躊躇われたので、ざっくり話すに止めることにした。 「うちの母親、漫画家やってて……だから仕事も波が激しくて、特に締め切り前とかになると、家のことに全然手が回らなくなるから」 「漫画家? 凄いな。真波ちゃんを迎えに来たとき、何度か話したけど、小綺麗な人だから、てっきり外に勤めてるのかと思ってた」  小綺麗、という見慣れた母とはかけ離れた形容詞に、航汰の口許が軽く引き攣る。それは間違いなく、『余所行きモード』の母だ。  家で仕事をしているときは、ホラー映画の幽霊顔負けなズタボロ姿なのに、外へ出ていくときの母はきっちり髪を纏め、コンタクトにバッチリメイクという別人みたいな姿になる。その変貌ぶりは、真波がいつも「プリティーマジックの変身みたい!」と目を輝かせるくらいだ。  普段はヨロヨロで死にそうになりながら、部屋に篭って男同士の恋愛漫画を描いてます、とは到底言えず、航汰は曖昧に笑って誤魔化す。 「まあそういうワケだから、うちのことはホントに気にしないで。……正直、今日ここに来るまで、俺ちょっと強引すぎたかなって思ってたんだ。華先生優しいから、ホントは迷惑だけど断れなかったんだとしたら、申し訳ないなって……」 「迷惑だと思ってたら、受け持ってる園児の家族に、こんなことさせたりしない」  穏やかな声音で告げて、タッパーの中身を綺麗に平らげた華が、「ご馳走様」とまたしてもきっちり手を合わせた。  そんな風に言われたら舞い上がってしまいそうで、ギュッとTシャツの胸元を握り込んだ航汰に、華が更にトドメを刺した。 「美味かった、ありがとう。航汰さえ良かったら、また食わせてくれ。……園以外で、誰かと食事したのは、随分久し振りだ」  そう言ってホッとしたような笑顔を見せる華に、航汰はその場に倒れ込みそうになった。母がよく深夜アニメの録画を見ながら「堪らん…!」とソファで身悶えているけれど、今なら航汰もその気持ちが少しわかる気がする。言葉で上手く言えないけれど、航汰の料理一つでこんな顔をしてくれる華を、力一杯抱き締めたい気分だった。  まだまだ華の過去には踏み込めないが、華がこの部屋で過ごしている独りの時間を、ほんの少しでも埋められる存在になりたい。時々でも、せめて食事の時間くらい、温かい気持ちになって貰いたい。 「また絶対、華先生に美味しく野菜食べて貰えるおかず、作ってくるから……!」  航汰よりもずっと年上で、身体も大きい華を抱き締めてその広い背を撫で続けたい欲求を堪えながら、航汰は改めて力強く誓ったのだった。   ◆◆◆◆◆ 「瀬戸内、来たぜ」  レジの奧で唐揚げを揚げていた航汰の腕を、隣から染谷の肘が軽く小突いてきた。  誰が?、なんてことは、今では聞くまでもない。これは華がコンビニにやって来たとき、染谷が必ず航汰に送ってくる合図になっているからだ。  華は何せ見た目が目立つので、染谷はそんな彼が保育士と知って以来、いつも興味津々といった様子で華と航汰のやり取りを観察している。  店の入り口に視線を向けると、丁度華が店内に入って来たところだった。 「いらっしゃいませ」  声を掛けた航汰と目が合った瞬間、華が返事の代わりにほんの少し頭を下げる。  ゴールデンウィークを目前に控えたこの日は、まだ四月とはいえ随分と気温が高く、この日の華は半袖シャツ姿でもう初夏の装いだった。 「……柄シャツ着てると、マジで『その筋』の人間に見えるな、あの人」  いつものようにおにぎりを物色している華の背中を見ながら、染谷がヒソヒソと耳打ちしてくる。航汰も内心ちょっと思ったものの、敢えて口には出さなかったというのに、遠慮のない染谷に黙って肘打ちを返した。  この日、華が選んだのは新商品の炭火焼肉のおにぎりだった。やっぱり同じ味のおにぎりを二つ、レジカウンターに持ってきた華は、チラリと空のショーケースを見遣ると、レジの奧で航汰が揚げている唐揚げを指差した。 「アレ、もう揚がる?」 「あ、はい。あと一、二分待って貰えれば」 「じゃああの唐揚げも、一つ」  先に金払っとく、と華がカウンターへ千円札を置いた。そんな華の手に釣り銭とレシートを手渡しながら、航汰は呆れた息を吐く。 「華先生、俺がバイトのときの食生活は、相変わらずだね」 「やっぱり自分で選ぶと、同じものに偏るみたいだ」  最初に華のアパートへ夕飯を届けて以降、航汰はこれまで三回、華の元へおかずを差し入れに行った。  宣言通り、二度目に華の部屋を訪れたときには、真っ新な炊飯器と米が用意されていた。おまけに、お互い都合を確認出来た方がいいだろうということで、無料通話アプリの連絡先も交換し合っている。  また一歩、華に近付くことが出来た気がして、航汰はフレンドリストの中にある華の名前を見るたびに、胸が擽ったくなるような喜びを感じていた。  航汰が華と同じ社会人だったなら、もっと自由に華の部屋を訪れて食事の用意が出来るのに、それが叶わない現状が酷く焦れったい。 「……航汰は、ゴールデンウィークもバイトなのか?」  唐突に問い掛けられて、航汰は「えっ」と驚いた顔で華を見上げる。そんな航汰の視線が受け止めきれないといった様子で、華が項を擦りながら視線を泳がせた。 「いつも、俺が食わせて貰ってばかりだから、休みがあるなら、どこかに出掛けるついでに、俺が奢ろうかと」 「華先生……」  それは所謂、デートのお誘い、という解釈で良いのだろうか。男同士なのだから、華は『デート』なんて思っていないだろうけれど、航汰の方はどうしても期待に胸が高鳴ってしまう。  これまではずっと航汰から踏み込んでいくことの方が多かったので、こうして華の方から誘って貰えるのは初めてのことだった。恥ずかしながら、今までまともな恋愛経験のない航汰は、華と出掛けるという状況を想像しただけでも卒倒しそうだ。  喜んで!、と返事をしかけたところで、航汰の脳裏に真波の顔が過ぎった。そういえば連休中、唯一バイトの休みを貰った日には、真波と映画を観に行く約束を交わしていたんだった。  折角華が声を掛けてくれたのに…!、と内心ギリギリと歯軋りしながら、航汰はしょんぼりと項垂れた。 「……スイマセン。一日だけバイト休みなんだけど、真波から映画に連れてって欲しいってせがまれてて……」 「真波ちゃんから?」 「大好きなプリティーマジックの映画が、丁度ゴールデンウィークに合わせて公開されるみたいで」 「ああ……女の子たちは、みんなハマってるな」 「折角誘って貰ったのに、スイマセン……」  ガックリと肩を落とす航汰を見詰めて何やら考え込んでいた華が、「だったら」と声を上げた。 「迷惑じゃなかったら、その映画、俺に奢らせてくれないか」 「えっ!?」  信じられない申し出に思わず上擦った声が出て、航汰は咄嗟に口を押さえた。  それはつまり、華が航汰と真波と一緒にプリティーマジックの映画を観に行く、ということだろうか。 「いや、でも……思いっきり子ども向けの映画だし、華先生まで付き合わせるワケには……」 「俺は、別に気にしない。子どもがハマっているものには、保育士として純粋に興味がある。勿論、航汰が嫌じゃなかったらの話だけど」 「嫌なワケないじゃないですか!」  今ではすっかり華のことが好きになった真波が喜ばないはずはないし、何より航汰にとって、こんなにも嬉しい誘いはない。プライベートで、華と一緒に出掛けることが出来るなんて、夢みたいだ。  感情が抑えきれなかった航汰の返答に、華が少し驚いたように目をしばたたく。 「……でも華先生、ホントに退屈じゃない?」 「全然。真波ちゃんは、いつも園でもよく話してくれるし、航汰と真波ちゃん、二人同時に恩返し出来るなら、むしろありがたい」  ───この人、どこまでもイイ人過ぎる……!  悪人顔をした天使のような男を前に、思わず泣き崩れそうになりながら、航汰は「よろしくお願いします……」と声を絞り出した。  この華が、子どもたちに混ざってプリティーマジックの映画を観ている姿が、全く想像出来ない。彼は一体どんな顔で、女児向けアニメ映画を鑑賞するんだろう。場合によっては違う意味で、航汰の涙腺が崩壊してしまうかも知れない。  丁度ピピッとタイマーの音が響いたので、揚げたての唐揚げをおにぎりとは別の袋に入れて華に手渡す。 「それじゃ、また休みの日、連絡してくれ。───お疲れ」  他の客に聞こえないよう、控えめな声でそう言い残して店を出ていく華の背中へ「ありがとうございました!」と航汰は声を張った。  居心地の悪さを想像して気が重かった映画鑑賞が一気に楽しみになって、我ながら自分の単純さに呆れる。  真波がこのことを知ったら、どんな反応をするだろう。きっと航汰の心の中を代弁するように、真波は跳ねまわって喜ぶに違いない。  幸せの余韻に浸る航汰の耳許で、不意に「聞いちゃった~」と染谷が揶揄うような声で囁いてきた。耳を押さえてバッと振り返った航汰を、染谷がニヤニヤと笑みを浮かべて見詰めている。 「一緒に映画観に行くとか、随分仲イイじゃん」 「……先生、熱心だから、子どもに人気のものは知っときたいだけだって」  誤魔化すように言い返した航汰に、染谷は「どうだかなあ」と相変わらず口許をニヤつかせている。 「あの人、瀬戸内がバイト入ってるときしか来ねぇから不思議だったけど、今ので何となくわかった気ぃするわ」 「……どういうこと?」 「アレ、知らねぇの? お前がバイト入ってないとき、少なくとも俺が居る日はあの人一回も来たことないぜ? だから俺、前に言ったじゃん。お前の居る日狙って来るから、カモにされてんじゃねぇかって。けど単純に、お前に会いに来てんだろーな、多分」  あんな強面の兄ちゃんまで手懐けるとかやるじゃん、と揶揄ってくる染谷の声は、殆ど耳に入ってこなかった。  ───俺がバイトに入ってる日だけ、店に来てる?  どうしてわざわざ?  華がこの店で買うのは、いつも同じ味のおにぎりが二つと、ショーケースの中の揚げ物。航汰が他の客のレジ対応をしているときは、華は決まってレジが空くのを待ってから、航汰のレジにやってくる。そして、支払いは必ず航汰が釣り銭を手渡さなければならない千円札。  ……もしもこれらが全て意図的で、それに加えてさっきの映画の誘いもそうだったなら───。 「……ヤバイ。どうしよう、可愛い」  思わず両手で顔を覆って、航汰はその場にしゃがみ込んだ。  誰もが怯むような強面の大男なのに、あんなにも不器用で可愛くて愛おしい人を、航汰は他に知らない。  惚気んのは仕事終わってからにしろよ、と染谷が後頭部を軽く叩いてきたけれど、航汰は暫くその場から立ち上がることが出来なかった。

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