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第5話
「プリティーシャボン、かっこよかったね!」
映画館を出た後、併設されているショッピングモール内のレストランでお子様ランチのジュースを啜りながら、真波がもう何度目かわからない感想を漏らした。
五月の三連休初日ということもあって、映画館もレストランも、どちらもほぼ満席状態という混雑具合だったが、真波は朝からご機嫌だ。
「今日は真波ちゃんも、プリティーシャボンみたいだ」
向かいの席でカレーを掬う華に言われて、真波がはにかんだように顔を綻ばせる。その弾みで、高い位置で結んだ真波の髪が揺れた。
今日は映画に備えて「プリティーシャボンと同じ髪型がいい!」と真波からリクエストがあったので、母がポニーテールにした真波の毛先をキャラそっくりにくるんと巻いてくれていた。
それだけでも真波は気分上々だったのだが、家を出た後、待ち合わせ場所に現れた華の姿を見た途端、そのテンションは更に跳ね上がった。
電車で五駅先にある映画館に着くまでの間、真波はずっと航汰と華に挟まれる形で二人と手を繋いでいたので、すれ違う人たちには何度もチラチラと横目で見られた。
自分達が周りから、どんな目で見られているのかはわからない。兄弟にしては、航汰と真波はともかく華は全く似ていないし、親子というには華と航汰は歳が近すぎる。
そして何より華の見た目が、周囲の目を悪い意味で引き付けてしまっていることは、航汰もわかっている。華本人だって、自覚しているはずだ。
だからこそ最初、華は敢えて航汰たちと少し離れて歩こうとしていたのだが、「ハナせんせー、手つなご!」という真波の訴えが、華の殻を上手く破ってくれた。
今だって、両サイドのテーブルからは時折華の顔を窺い見るような視線を感じる。
けれど、航汰や真波にとっては、そんなものはどうでも良かった。華のことを何も知らない他人の視線なんて、どうだっていい。
むしろ、華は日頃いつもこんな視線を一人で受け止めているんだろうかと思うと、せめて今くらいは、航汰がその盾になれればいいと思った。悪いことなんて何もしていないどころか、華がどこまでも優しい人間だと知っている自分が、ほんの少しでも華を守れる存在になりたかった。
手を繋ごう、と躊躇いもなく言える真波が、いっそ羨ましいくらいだ。航汰だって出来ることなら、華の大きな手を握って、「何があっても俺は先生の味方だから」と伝えたい。これ以上、華が理不尽な目を向けられなくて済むように───。
子供向けの映画鑑賞ではあったけれど、この時間で僅かでも華の心が穏やかになっていればいいと航汰は切に思う。
真波の隣で生姜焼き定食を食べている航汰の正面で、華はカレーを口に運びながら、微笑ましそうに真波の姿を眺めている。その顔は、休日とはいえ保育士の華の顔だ。でもやっぱり外では箸を使うものは食べないんだな、と航汰は口許が緩むのを誤魔化すのに必死だった。
「にーちゃん、映画館でもらったシール、開けていい?」
華の前だからか、普段は残しがちなサラダまで綺麗に食べ終えた真波が、航汰の服を軽く引っ張ってきた。
「いいよ。俺の分も真波にやるから」
バッグの中から、航汰は二人分のシールを真波に手渡した。来場者特典として、プリティーマジックの主要キャラクターのシールがランダムで貰えたのだが、シールの中身は開けてみないとわからない仕様になっている。
航汰の分も貰って上機嫌な真波だったが、ワクワクした顔で封を切ったのも束の間。中から出てきたシールを見るなり、その顔があからさまにどんよりと沈んだものになった。
「……プリティーシャインだった……」
「プリティーシャインって、主人公だろ? 充分当たりじゃん。もう一枚は?」
「……どっちも同じ。プリティーシャボンが良かったのに……」
「こればっかりは、みんな何が出るかわからないんだから仕方ないだろ」
「でも、プリティーシャボンがイイんだもん……っ」
一転して泣きそうな声を出す真波の前で、華が「あ」と声を上げた。揃って顔を向けた航汰と真波の前で、自分が貰ったシールをいつの間にか開封していた華が、中身をこちらに掲げて見せた。
「俺の、プリティーシャボンだった」
「え、マジで!?」
思わず身を乗り出す航汰の横で、真波も華の手の中のシールを食い入るように眺めている。そんな真波に、華は「はい、あげる」とシールを差し出した。
「……くれるの!?」
涙で潤んだ目を輝かせて、真波が華の顔を見詰める。
「一緒に映画、観させてもらったお礼。真波ちゃんが好きな、プリティーシャボンが出て良かった」
「ハナせんせー……ありがとう!!」
受け取ったシールを宝物みたいに胸に抱え込んだ真波の顔が、パアッと明るくなった。それから何度も何度も、キラキラ光るプリティーシャボンのシールを嬉しそうに眺めている。
そんな真波を横目で見ながら、航汰はテーブル越しに華の方へ顔を寄せた。
「華先生、ありがと。先生のお陰で、真波に泣かれずに済んだ」
真波に聞こえないよう、ヒソヒソと華に耳打ちする。航汰の言葉に耳を傾けていた華が、「どういたしまして」と目を細めた。
「たまたま、運が良かっただけだ。むしろ、当たりが来て良かった」
華は謙遜気味にそう言ったが、航汰にはこれこそ、日頃の行いというものじゃないのかと思えた。
プリティーマジックのシールなんて、華にとっては特に執着するようなものでもないだろうけれど、それでもこの状況で一人だけ真波のお目当てを引き当ててしまうのが凄い。きっと真波は、益々華のことが大好きになったに違いない。
「にーちゃん、ハナせんせーとお友達なの?」
いつの間にか、航汰と華が顔を寄せ合ってやり取りしている様子を見ていたらしい真波が、不思議そうに首を傾けた。ギクリとなった航汰は、慌てて椅子に座り直す。
「いや、ほら……華先生、いつも真波のこと気にかけてくれてるだろ。今日も真波が映画に行きたがってるって知って、先生わざわざ一緒に来てくれたから、園のみんなには内緒な」
さすがにこっそり夕飯を届けに行っている仲で、そのお礼に今日の映画も本当は華の奢りなのだとは言えない。
「内緒なの?」
どうして?、と聞きたそうな真波に曖昧に笑い返す航汰を見て、微かに笑った華が、口許で人差し指を立てた。
「俺と、航汰と、真波ちゃん。三人だけの秘密」
守れる?、と優しい口調で華が問う。
真波の前で初めて名前を呼ばれて内心ドキッとしている航汰をよそに、真波は「三人だけの秘密」という言葉に特別なものを感じたのか、「守れる!!」と力強く頷いた。
「にーちゃん、いつもママのお手伝いしててお友達居ないから、良かったね!」
「別に友達居ないワケじゃないって! ……多くはないけど」
昔は学校から帰って宿題もせずに友達と遊び回ったりしていたし、今も学校へ行けば普通に話す友人は何人も居る。けれど真波が生まれてからは、家事の手伝いに加えて真波の面倒もみなければならないので、どうしても遊びの誘いを断ることが多くなってしまった。だから言われてみれば、改まって『友達』と呼べる相手は、最近は染谷くらいしか居ない気がする。
そのことを、まだ五歳の妹に指摘された上に慰められてしまったのは、さすがにちょっと悲しい。
華の手前、というのもあって必死で弁解した航汰だったが、それを見詰める華の瞳は、どこか嬉しそうに見えた。
どうしてだろう?、と疑問を口にする前に、華がサッと伝票を取って席を立った。
「あっ、華先生、俺が───」
払う、と言おうと慌てて立ち上がった航汰を、華が長い腕でやんわりと制する。
結局映画だけでなく、レストランでの昼食代と、更に帰り際には航汰と真波にクレープを、華はご馳走してくれた。
「なんか……結局全部奢ってもらっちゃって、スイマセン」
帰りの電車の中。
結果的に交通費以外の全てを負担してくれた華に、航汰は申し訳ない気持ちで謝罪の言葉を零した。
今も華は、はしゃぎ過ぎて眠ってしまった真波をおぶってくれている。車窓から見える空は、鮮やかなオレンジ色に変わりつつあった。
「気にしなくていい。俺も、今日は楽しかった」
そこそこ腕を上げなければいけない航汰と違って、顔の真横にある吊革を片手で握っている華が、航汰を見下ろして笑った。華が表情を和らげるたびに目尻に刻まれる皺も、航汰の中ではすっかり彼のチャームポイントになっている。
「先生、ホントに退屈じゃなかった? 真波は喜んでたけど、丸一日こっちに付き合ってもらっただけだったし」
「いや、全然。楽しそうな真波ちゃんが見られたのも、嬉しかったし、何より航汰が本当に、真波ちゃんを可愛がってるのがわかって、見てて微笑ましかった」
「……俺、そんなに真波のこと可愛がってるみたいに見える?」
「少なくとも、俺にはそう見えた。真波ちゃんが、あんなにずっと笑ってるところ、初めて見たから」
「それは多分、華先生が一緒だったからだよ。真波、華先生のこと大好きだから」
───好きなのは、俺もなんだけど。
口には出せない言葉を飲み込んで、華の背中で気持ち良さそうに寝息を立てている真波の顔へ視線を向ける。広い背中に身体を預けて眠る真波が羨ましいと思ってしまう自分は、強欲だろうか。
「……航汰は?」
不意に問い返されて、航汰は「えっ?」と狼狽えた声を上げる。心の中を見透かされてしまったのかと思ったからだ。
けれど、そうではなかった。
「俺が一緒で、ちゃんと楽しめたかと思って。……俺が居ると、嫌でも目立つだろ」
苦い笑みを浮かべる華に、航汰は思わず「楽しかったよ!」と力強く答えた。思いの外その声が車両内に響いてしまい、一斉に乗客たちの視線が航汰に注がれる。むしろ航汰の方が目立ってしまって、恥ずかしいやら申し訳ないやらで、「スイマセン……」と小さくなって俯いた。
だって華が目立つのは、華が悪いわけじゃない。周りが勝手に見てくるだけで、華は何もしていない。それなのに、まるで自分が悪者みたいに華に言わせてしまったことが、悔しくて堪らなかったのだ。
「華先生が一緒に来てくれたから、真波もプリティーシャボンのシール貰えてご機嫌だったし、俺一人だったら、多分映画観てさっさと帰っておしまいだった。正直、真波に映画観に行きたいって言われたとき、そこまで気乗りしなかったんだ。でも華先生が『一緒に』って言ってくれて、今日が凄く楽しみになった」
航汰の言葉に少しだけ目を見開いた華が、やがて何かを思い出したようにフッと吐息で笑った。
「そういえば航汰、友達居ないって、本当なのか?」
問い掛けてくる華は、数時間前にレストランで見た笑顔を浮かべている。何となく嬉しそうな、安心したような笑顔。
「……さっきも思ったけど、華先生なんでちょっと嬉しそうなの」
「航汰は、友達多そうなのにと思って」
「全く居ないってことはないけど、今日みたいにこうして一緒に出掛けたりするような友達は、居ないかも。今は特にバイトもあるし、休みのときは真波が居るから、連れてくワケにもいかないし」
「やっぱり、妹思いだな、航汰は」
電車が線路を走る規則的な振動音と、華のゆったりした口調が、耳にとても心地好い。
この時間がずっと続けばいいのに。
このまま電車が駅に着かなければいいのに。
航汰がそんな願望を抱いているなんて知らないであろう華が、静かに言葉を続ける。
「……俺も、誰かと出掛けるなんて、日頃は無いから、実は嬉しかった」
「え……」
───それは、俺と出掛けるのが嬉しかったってこと?
航汰に友達が居ないと聞いて嬉しそうな顔をしていたのも、そこに親近感を抱いてくれたから?
舞い上がった疑問が湧いてくる中、航汰たちを乗せた電車が駅のホームへ滑り込んだ。楽しい時間や幸せな時間は、残酷なくらいあっという間だ。
名残惜しい気持ちと共に、航汰は華と並んでホームへ降り立った。真波はまだ起きる気配がない。
「真波、よく寝てるなあ……。先生、そろそろ俺交代するよ」
「いや、迷惑じゃなければ、このまま送っていく。折角よく寝てるのに、起こすの、可哀想だろ」
「でも疲れない? 店出てからずっとおぶってくれてるし」
「真波ちゃんくらいなら、余裕だ。多分航汰でも、充分背負える」
「お、俺はさすがに……」
さっき真波のことを羨ましいと思っていたことを見抜かれている気がして、航汰は慌てて首を振った。
冗談だ、と笑う華と並んで階段を下り、改札を抜けたところで、ふと耳障りな怒鳴り声が響いてきた。
「運休って一体どういうことだあ!? こっちはもう切符買っちまってんだよ!」
改札を行き交う人々も、皆声のする方へ視線を向けている。一体何事かと航汰も顔を向けた先で、中年の男性が駅員に食って掛かっていた。彼のすぐ傍には、航汰たちが乗ってきたものとは逆方面の列車が、車両トラブルの為一時運転を見合せる旨が書かれたホワイトボードが立っている。男性は、どうやらそのことに腹を立てているらしい。
連休中ということもあり、早い時間から飲んでいたのだろうか。オロオロと対応している若い駅員に、「いつになったら動くんだって聞いてんだろうが!」と人目も憚らず怒鳴りつけている男性は、片手にカップ酒を持っている。その顔は耳まで赤いし、足許もフラついていて、一目で酔っ払いなのだとわかった。
航汰自身も少し前に酔っ払いに絡まれて、華に助けてもらった経緯があるだけに、対応している駅員が気の毒でならない。
「……ああいう客、ホント困るよね。華せんせ───」
眉を寄せて隣の華を見上げた航汰は、青褪めたその横顔を見て、言葉を失った。
その顔にはハッキリ見覚えがある。酔っ払いから航汰を助けてくれた後、急に具合が悪くなった、あのときの華と同じだ。
───なんで……!?
あのときは航汰を助けたせいで華の具合が悪くなったのかと思ったが、今回酔っ払いが絡んでいるのは、航汰でも華でもない、他人だ。それなのに、あのときと同様、華の大きな身体が何かに怯えて震えている。
「華先生、大丈夫!?」
「……悪い、航汰。真波ちゃん、お願いしていいか」
弱々しい声で航汰に真波を託した華の顔からは、今にも倒れてしまいそうなほど、血の気が失せていた。
真波の身体を背負って、航汰は華の震える腕にそっと片手を添えた。
「先生……取り敢えず、どっかで休む? それとも、やっぱり病院……」
「いや、いい。……二回も情けないとこ、見せたな」
力なく笑う華が痛々しくて、航汰は「そんなのいいから!」と語気を強めた。自分が辛いときくらい、人のことなんて気にしなくていいのに───。
「送るって言ったのに、ごめんな。俺は大丈夫だから、真波ちゃん、連れて帰ってあげてくれ」
どう見ても大丈夫とは思えない顔色で、華が言う。その額には、さほど暑くもないのにびっしりと冷や汗が浮かんでいた。
航汰一人なら華に付き添っていられるけれど、今は真波が居る。いくら駅から自宅までそう遠くないとはいえ、さすがにまだ眠っている真波を叩き起こして、一人で家に帰すわけにもいかない。
どうしよう、と焦る航汰の心中を察したのか、華が震える手で一度だけ航汰の頭を撫でた。
「……前にも言っただろ。俺のことなら、心配要らない。送ってやれないけど、気を付けて帰れ」
「華先生こそ……!」
「ありがとう。……それじゃ、また園で」
青白い顔で軽く片手を上げ、足を引き摺るようにして華がアパートの方へ歩き去っていく。
その背中はやっぱり儚くて、そのままフラリと地面に倒れ込んでしまいそうで、航汰は華の姿が見えなくなるまで、その場で見送ることしか出来なかった。
「ただいま……」
背中で寝ている真波を起こさないよう、控えめな声で帰宅の挨拶をして、航汰は自宅の玄関を潜った。
「おかえり、お疲れ様───って、なんだ、真波寝ちゃったの?」
仕事が一段落したのか、迎えに出てきた母が、「大変だったね」と真波の身体を抱きかかえて引き取ってくれる。
「こんなにぐっすり寝てるなんて、真波よっぽど楽しかったんだ。ありがとね、航汰」
一先ず真波をリビングのソファに寝かせて、母が航汰を振り返った。遅れてリビングに入った航汰は、「うん」とだけ短く答える。
別れ際の華の姿が、頭から離れない。華は航汰よりずっと大人なのだとわかっていても、本当に一人で大丈夫なんだろうかと、気になって仕方がなかった。
電車を降りる直前まで、一緒に出掛けられたことを「嬉しかった」と笑ってくれていたのに。何が華を、あんなにも追い詰めてしまうのだろう。
航汰を助けてくれたあの日と共通していることと言えば、酔っ払いの存在……くらいしか思い当たらない。
でも酔っ払った人間を見かける機会なんていくらでもあるし、航汰のバイト先の近くには、駅前ということもあって居酒屋も何軒か建ち並んでいる。夜ともなれば、酒に酔った人間は必ず駅の付近を行き交っているけれど、普段店にやって来る華は、特に変わった様子はなかった。
なら、一体何が引き金になっているんだろう。
もう一度、航汰は自分が華に助けられたときと、ついさっき駅で見た光景を思い比べてみる。
一度目は、航汰が酔っ払いに掴み掛かられていた。
二度目の今日は、酔っ払いが駅員を怒鳴りつけていた。
繋がりがあるとしたら、酔っ払った男と、理不尽で耳障りな怒鳴り声───。
「ちょっと航汰、大丈夫?」
母の声に、航汰はハッと我に返った。リビングの入り口で立ち尽くして考え込んでいた航汰を、心配そうに覗き込む母の顔が、気づけばすぐ目の前にある。
「さすがにアンタも疲れちゃった?」
「いや、そういうワケじゃ……」
ないんだけど、と歯切れ悪く答えて、航汰はダイニングチェアに腰を下ろした。
今日は母が夕飯を担当しているらしく、キッチンからはカレーの匂いが漂ってきている。昼間、シールを貰って喜ぶ真波を愛おしそうに見詰めながら、カレーを食べていた華の姿を思い出す。
航汰には、家に帰っても家族が居て、温かい食事だってある。この家にはいつも、当たり前のように賑やかで平和な時間が流れている。なのにどうして華は、そんな時間をずっと過ごすことが出来ないのだろう。
テーブルに頬杖を突いて無意識に重い息を吐き出した航汰の前に、コト、とマグカップが置かれた。航汰の好きなミルクティーだ。
顔を上げると、自分はいつものアイスコーヒーを飲んでいる母が、グラス片手に航汰の向かいに座った。
「難しい顔して、どうしたのさ」
別に無理には聞かないけど、と母が軽く肩を竦めてグラスを傾ける。こういうとき、適度な距離を保ってくれる母のサバサバした性格は、とても有り難い。
今でも古い写真を飾ってあったけれど、華の母親はどんな人だったんだろうと、また華の顔を思い浮かべてしまい、航汰はミルクティーを一口含んでから、チラリと目の前の母へ視線を向けた。
「あのさ……」
「うん?」
「……精神的な理由で、何かの拍子に具合が悪くなる人を助けたいときって、どうしたらいい?」
航汰の質問が予想外だったのか、母がグラスを持つ手を止めて、パチパチと目を瞬かせた。自分でもあやふやな質問をしていると思うけれど、どう相談していいのかも、航汰にはわからない。
水滴を纏ったグラスをテーブルに置いて、母は眼鏡を押し上げてから「うーん」と腕を組んだ。
「随分難しいこと聞くじゃない。周りに、そういう子が居るの?」
「その……友達が、そういう感じでさ」
「友達って、染谷くん?」
「あー……うん、まあ」
今日、華も一緒に出掛けていたことは両親にも話していないので、航汰は目線を泳がせながら頷いた。また一つ嘘を重ねてしまって、胸の奥がチクリと痛む。
「へえ……意外だけど、人って見た目じゃわかんないモンだからねえ」
名前は一切出していないのに、母の言葉はまるで華のことを言っているような気がして、マグカップを握る指先に、つい力が篭る。
「何かの拍子って、具体的にどういうときなの」
「それが、よくわからなくてさ。質の悪い酔っ払いが絡んでたっていう状況は似てるけど、その矛先が自分でも他人でも、関係ないっぽくて。でも、別に酒に酔った人間全部が駄目ってワケでもないみたいだし」
「ちょっと待った。あのコンビニ、そんなしょっちゅう質の悪い客来んの?」
「いや、何もバイト中に限った話じゃないっていうか、今の論点そこじゃないから」
「だって、ひょっとしたらアンタも絡まれるかも知れないってことでしょうが。親なら心配にもなるよ」
実はもう既に絡まれました、とは言えず、航汰はズズ…と誤魔化すように紅茶を啜る。
「まあ、状況を見たワケじゃないから断言は出来ないけど、アンタの話を聞いてると、PTSDとかの類なのかもね」
「PTSD……って、事故とかのトラウマで発症するヤツ?」
「そう。普通の酔っ払いを見ても何とも思わないけど、絡んでくるような質の悪い酔っ払いは苦手ってことは、過去にそういう酔っ払いから、よっぽどトラウマになるような扱いを受けたとかさ」
過去…と母の言葉を反芻すると同時に、華の顔中に残された傷痕が思い浮かんだ。傷自体はそう新しいものには見えないから、きっと随分昔に負ったものなのだろう。
それに、華の部屋には一切無かった、父親の痕跡。
母親との写真は色褪せても大事に飾られていたのに、華は父親のことは何も話さなかった。
あれだけの傷を負ったなら、華は心にだって同じくらい───もしかしたらそれ以上に、深い傷を抱えていても不思議じゃない。
沢山の傷痕と、華の発作のような症状。それらが、何らかのトラウマによるものなんだとしたら……。
「……俺に、何か出来んのかな」
カップの中身を飲み干して、ポツリと呟きを落とす。今日のミルクティーは、いつもよりほろ苦い。
知らない内に皺が寄っていた眉間へ、不意に母の人差し指が伸びてきた。
「人の心は複雑だからね。血の繋がった家族だって、お互いの考えてることがわかるワケじゃない。私たちは超能力者じゃないんだから、アタシの考えてること、アンタにはわかんないでしょ?」
「……次の作品のネタ」
「やだ……なんでわかんのよ。アンタ、もしかしてエスパーだったの?」
「いつもの事じゃん」
コノヤロウ、と笑った母が、航汰の額をピンと指先で弾く。その後、テーブル越しに身を乗り出してきた母の手が、ぐしゃぐしゃと航汰の髪を掻き回した。
「折角のゴールデンウィークだってのに、息子に妹の面倒任せちゃって、駄目な母親だなあって、これでも思ってんだよ」
きっと毎日遅くまで作業しているのだろう。薄らとクマが出来た顔で、母が苦笑する。疲れた顔をしていても、母は家族の前ではいつも明るい。
華は親孝行で保育士になったのだと言っていた。それが母親の為なのだとしたら、航汰にとっての親孝行は、日々仕事に励んでいる母の力になることだ。
「……俺は別に、真波の面倒みるのも嫌だとは思ってないし、母さんを駄目な母親だと思ったこともないけど」
「航汰……アンタ、父さんに似て男前になってきたじゃん。アンタみたいに包容力のある受けは、需要あるんだよ」
「それ、後半要る?」
呆れた溜め息を零す航汰の頭をもう一度だけ撫でてから、母が空いたグラスとマグカップを持って立ち上がった。
「人の心を理解するのはそう簡単なことじゃないけど、アタシたちをいつも手助けしてくれてるみたいに、航汰がその『友達』を大事にしてあげることが、一番だと思うよ。想いってのは、それなりに伝わるものだからさ」
友達、の部分を妙に強調された気がするが、航汰は気のせいだと思うことにした。
───想い、か。
今頃、華はどうしているだろう。
あの古くて寂しいアパートの部屋で、一人苦しんでいるんだろうか。
それこそ超能力者にでもなって、今すぐ華の傍へ飛んでいけたらいいのに。そんなに頼もしい腕ではないけれど、震える華を抱き締めて、「大丈夫」と声を掛けてあげたかった。
こうして華を想い続けていたら、いつかそれが叶う日が来るだろうか。まだまだ頼りない航汰でも、華の支えになれる日が来るだろうか。
そんなことを考えていると、ソファで眠っていた真波がようやく目を覚ましたのか、ムクリと起き上がった。
「……あれ? ハナせんせーは……?」
まだ少し眠そうに目を擦りながら、真波が寝惚けた声を上げる。
キッチンでグラスを洗っていた母が「ハナせんせー?」と首を傾げたので、航汰は慌てて真波の元へ走った。
「真波、ここ保育園じゃないから!」
「……? でも、プリティーシャボンのシール、貰ったよ?」
「そっか、いい夢見たな! 今日の映画、面白かったもんな!」
必死に声を張る傍ら、真波に「華先生との約束!」と素早く耳打ちする。そこでやっと思い出したのか、真波が航汰の顔を見詰めてコクリと一つ、頷いた。
ホッと胸を撫で下ろした航汰は、キッチンに立つ母が意味ありげに微笑んでいたことには、全く気づかなかった。
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