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第6話

 またあの夢か───。  夢の中だというのに妙にハッキリと、華はそう思った。  発作の後は、いつも決まって同じ夢を見る。  酷いアルコール臭。  泥酔した父の怒鳴り声。  食器が割れ、そこかしこの物が倒れる音。  泣き叫ぶ母。  そして、生温い血に濡れた自分───。  華の中にこびりついた記憶は、何年経っても薄れることがない。  夢だとわかっているのに、五感が酷く冴え渡っていて、父が降り下ろした酒瓶が幼い華の頭で砕ける感覚も、現実との区別がつかないほど生々しく感じた。  血だらけの華を細い腕に抱き込んで、母が何度も「やめて!」と悲鳴を上げる。そうすると、今度は母が殴られる。  何度も、何度も、何度も。  殺される、と何回思っただろう。  恐怖が勝ると、不思議と痛みは感じなかった。幼かった華は、大好きな母が奪われてしまう気がして、ただ必死に母の身体にしがみつくことしか出来なかった。  地獄のような体験を否応なしに思い出さされて、華はようやく悪夢から目を覚ました。  空気もカラリとしていて気温も過ごしやすいはずなのに、着ているTシャツはじっとりと汗で湿っていた。  不快感に顔を顰めながら、華は濡れたTシャツを脱ぎ去る。あちこちに残った、もう痛むはずのない古傷がじくじくと疼いている。  どうせならいっそ、父そっくりなこの顔が変わるくらい傷つけてくれれば良かったのにと、華は汗の浮いた額を押さえた。指先の震えが、まだ治まっていない。  誰もが「恐い」「まともじゃない」と遠巻きに眺めるこんな見た目で、悪夢にうなされているなんて、端から見ると滑稽だろうか。今の自分を、園児やその保護者たちが見たらどう思うだろう。  未だに華の心を恐怖で支配している父に、年々似てくる容姿。その父の夢を見るたびに、華の内面まで父に侵食されていくような不安が襲ってくる。  声を荒らげる酔っ払いの姿は、父を連想させるので元々苦手だったが、母を亡くしてからは、それが一層酷くなった。酒に溺れて誰かに絡んでいる人間を見ると、どうしても父の姿と重ねてしまい、同時に当時の記憶も鮮明に甦ってきて、華はいつも激しい動悸と息苦しさに襲われる。全身から血の気が引くと同時に冷や汗が吹き出し、震えが止まらなくなる。  素面のときは至って普通の優しい父親なのに、酒が入ると父は豹変した。  最初からそうだったわけじゃない。父が変わってしまったのは、華が丁度真波くらいの歳の頃、リストラされて職を失い、次第に酒に溺れるようになってからだ。  仕事は母に任せきりになり、父の酒の量は日に日に増えていった。そして酒が入るたび、華や母に手を上げるのだ。  何度も父に大怪我を負わされた華は、そのたびに施設に保護された。だがそうなると、父は必ず泣きながら訴えてきた。 「こんなことは、もう二度としない。すまなかった」  親に求められれば、華はまた親元へ返されるしかなかった。  そして戻った華を待っているのは、変わらない父による暴力。  素手で殴る・蹴るなんて軽いもので、酒瓶で殴られ、手当たり次第物を投げつけられ、身体のあちこちに煙草の火を押し付けられた。  普段は顔以外の傷は服で隠すようにしているが、華の背中や足にも、未だに父に刻まれた傷痕がいくつも残っている。  結局、堪りかねた母がある日華を連れてこっそり家を飛び出し、母子生活支援施設へ駆け込むまで、地獄の日々は続いた。  ろくでもない父とそっくりな顔をした華に、母はいつも愛情を注いでくれた。今思えば、変わってしまう以前の父への想いも、そこにはあったのかも知れない。  母と二人の生活が始まり小学校に上がると、華は元々人相が悪い上、傷だらけの顔が原因で、案の定クラスでも浮いた存在だった。友達が居た記憶なんてない。  中学に上がった頃には、妙な因縁をつけられることが多くなった。母に迷惑をかけるような揉め事は極力避けたかったので、華から喰って掛かることはしなかったが、しつこい連中に絡まれれば仕方なく応じた。それがあらぬ噂の種になり、何故か毎回華の方から喧嘩を吹っ掛けていると囁かれるようになって、益々周囲から人が離れていった。  高校に進学しても状況は変わらず、売られるというより強引に押し付けられる喧嘩を渋々受ける日々。  父から逃れても尚、少なからず傷を増やして帰ってくる華を、母が心配してくれていた事に、そのときは気付けなかった。───気付いた頃には、もう手遅れだった。  華が高校二年に進学した夏のある日。珍しく仕事を休んでいた母が、華に言った。 「恭介。母さんね、病気が見つかったの。癌ですって。転移もあって、冬までもつかわからないって、お医者さんから言われちゃった」  梅雨が明け、蝉が鳴き始めた季節だった。エアコンもなかった六畳一間の部屋の窓辺に吊るした風鈴が、場違いに清々しい音を立てていたのを覚えている。  ……癌ってなんだ?  よりによって母が?  冬までもつかわからないって、どういうことだ?  母は───死ぬのか?  人一倍苦労しながら華をここまで育ててくれた母が、どうしてそんな目に遭わなければならないのか。母の言葉が受け入れられず、呆然とする華を見詰めて、母は困ったように笑った。 「自分の身体より、恭介のことが心配で仕方ないわ。あなた、しょっちゅうケガして帰ってくるんだもの」  母に迷惑はかけまいと思っていたのに、そんな状況でも華のことを案じさせてしまっていたことを、激しく悔やんだ。  母にこんなことを言わせるくらいなら、くだらない喧嘩になんて手を出すんじゃなかった。相手をした時点で、既に母に心配させてしまっていたのだと、どうしてこれまで気付けなかったのだろう。  母は、華が傷つけられることに誰より敏感だということは、父から逃げてきた時点で知っていたはずなのに───。  バチが当たった、と華は思った。  唯一華に愛情を注いでくれる母の存在に、漠然と甘えていた報いだ。  父から華を守り、どんなときも華の為に尽くしてくれていた母に、華は何も返してこなかった。それどころか、相手から吹っ掛けられたものにしろ、暴力に暴力で応えてきた自分は、父とそう変わらないのではないのか。そんな華を、母はどんな気持ちで見ていたのだろう。  それ以降、華は誰に絡まれようと一切相手にしなかった。殴りたい連中には、気が済むまで殴らせた。  どちらにしても華の傷は増える一方で、そんな華を最期まで心配したまま、母は冬を待たずに亡くなった。医療費を気にして母は一度も入院しなかったが、母の命を縮めてしまったのは自分だと、華は今でも思っている。  何の恩も返せないまま、母は逝ってしまった。文字通り、華を命懸けで守り続けて───。  母から受けた愛情をせめて誰かに返したくて、華は保育士の道を目指した。  人相が悪い上、顔にいくつも傷痕のある華は、いつだって周囲から煙たがられてきた。自身の見た目が他人に受け入れられないものだということは、子供の頃から自覚していたし、今では向けられる冷たい視線にもすっかり慣れてしまっている。  そんな自分が保育士になるなんて、相当ハードルが高いことだというのは、最初から覚悟していた。  例えどれだけ拒まれたとしても構わない。ただ、母だけは華を愛して続けてくれたように、華も誰かに愛情を注ぎたかった。母のような大人になることが、遺された自分に出来る最大の親孝行だという気がしたのだ。その裏には、父のような人間にだけは絶対になりたくないというエゴも、少なからずあった。  けれど、どれだけ母を目指しても、華はなかなかそこにたどり着くことが出来ない。今でも事あるごとに、父の記憶が華を苦しめてくる。  半裸のまま布団から這い出した華は、キッチンに立つとグラスに水道水を注いで一気に飲み干した。視界の隅に、真新しい炊飯器が映り込む。  ───華先生、大丈夫?  ふと耳の傍で心配そうな航汰の声が聞こえた気がして、華は無意識に振り返った。  シンと静まりかえった殺風景な部屋には、当然航汰の姿はない。時間はもう深夜1時を回っているのだから、航汰がこの場に居るはずがない。  だが、別れ際にずっと華のことを気に掛けてくれていた航汰の顔を思い浮かべると、何かがつかえているみたいだった胸の奥が、スッと軽くなった。手の震えも、いつの間にか止まっている。  華一人なら、きっと買うことは無かったであろう炊飯器。健康面でも経済面でも、自炊をした方が良いのはわかっているが、料理の腕前が全く上がらないのも、どうやら父に似てしまったらしい。  そんな華の部屋にやって来た炊飯器は、まるで航汰との約束の証のようだ。ずっと一人だったこの部屋へ、航汰がまた訪ねてきてくれるという証───。  保育士の資格は無事取得出来たものの、数えきれないほど多くの保育園から面接で拒絶され、丸一年かけてようやく雇ってもらえたのが、『あおぞら保育園』だ。  保育士として無事に就職出来ただけでも華にとっては奇跡的だったが、そこで初めて、華は一人の人間として、自分を慕ってくれる相手に出会った。  瀬戸内航汰。  預かっている園児の家族で、おまけにまだ高校生。そんな航汰に甘えるなんて、保育士としても大人としても、情けないことだとは思っている。プライベートで連絡先を交換したり、一緒に出掛けたり、挙げ句夕飯まで差し入れて貰う仲になっているなんて、園に知られたらクビになってもおかしくない。  それでも航汰は、初対面で華を初めて『保育士』として、『人』として、認めてくれた。航汰が認めてくれたお陰で、真波も華に懐いてくれるようになった。  園児たちには顔を見るだけで泣かれ、保護者からの信頼もなかなか得られない。保育士という仕事に早くも大きな壁を感じていた華に、喜びややり甲斐を与えてくれたのも航汰だ。  母を亡くして以来、もう二度と味わうことは出来ないだろうと思っていた温もりを、航汰は会うたびに感じさせてくれる。何気ない会話から、華の夕飯の世話まで。母の死後はずっと抜け殻のようだった華の生活が、航汰に出会ってから、少しずつ色を取り戻し始めている。  航汰の前では、華の中に流れる忌々しい父の血を、ほんの一時忘れられる気がした。  全ての園児や保護者に認めてもらいたいなんて、贅沢なことは望まない。航汰と真波だけでも構わないから、自分を『華先生』で居させて欲しい。  初めて航汰の前で発作を起こしたとき。華よりずっと小柄で年下の航汰に、縋りつかずには居られなかった。航汰なら───航汰だからこそ、見た目とかけ離れた情けない自分を、受け止めてくれるような気がしたから。  自身の立場を考えれば、これ以上航汰と関係を深めてはいけないと、頭ではわかっている。  面倒見の良い航汰のことだ。別れ際の華の様子を見て、きっとまた心配してくれているに違いない。  心配要らない、俺は大丈夫だと答えていつも通り保育士の顔をするのが、本来華が取るべき行動だ。これ以上情けない姿を見せて、航汰を心配させるべきじゃない。頭ではそう理解しているのに、もう何年も前から渇いたままの華の心が、差し伸べられる手を求めようとする。  母以外に、こんな華に向き合ってくれる相手が居るなんて、思ってもみなかった。目指していた保育士になっても、自分はこの先ずっと一人なのだと思っていた。  悪夢にうなされた翌朝は大抵心身共に疲れきっているのに、航汰の顔や声を思い浮かべるだけで、華の心が穏やかに鎮まっていく。  初めて航汰を抱き締めたときもそうだった。あのとき、航汰が黙って背を撫で続けてくれたお陰で、華の発作は随分と楽になった。  けれど、航汰はまだまだ年頃の高校生だ。このままいつまでも、華の都合で彼を縛り付けて良いはずがない。それに航汰だって、これからの学校生活の中で、様々な出会いを経験するはずだ。  一緒に出掛けるような友達は殆ど居ないと航汰は言っていたが、華と違って人当たりの良い航汰のことだから、気の合う相手が現れれば、きっと人間関係だって上手く築けるだろう。  今は真波が華の務める保育園に通っていることもあって顔を合わせる機会も多いが、その真波も来年の春には小学生だ。そうなれば、航汰が保育園へやって来ることはもう無くなる。  そのときが来ても、航汰は華に、変わらず接してくれるだろうか。  母が亡くなった後、一気に何も無くなってしまった寂しさと虚しさを思い出す。  知ってしまった温もりを失うのは、怖い。もう二度と、あんな思いはしたくなかった。  航汰が差し伸べてくれる手に救いを求めたい自分と、『保育士』と『園児の家族』という関係を崩してはならないと警告する理性が、華の中でぶつかり合っている。 「航汰……」  ここには居ないその名を呟いた華の声が、静かな室内に溶けていく。 「華先生、どうかした?」と柔らかく微笑む航汰の顔が、隣で華を見上げているような気がした。 「今日、まだ来ねぇな」  客が途切れたタイミングで、店内にモップをかけながら染谷がチラリと店の入り口に視線を向けた。  誰のことを言っているのかなんて聞くまでもなかったけれど、航汰は敢えて「なにが」と揚がったばかりの唐揚げをケースに並べながら答える。  昨日、またしても突然具合が悪くなった華を駅で見送ってから丸一日。  本当なら夕飯の差し入れがてら華の様子を見に行きたかったが、生憎今日は昼過ぎから夜までバイトなのでそれが叶わない。携帯でメッセージを送ろうかとも思ったのだが、きっと華は航汰を気遣って「大丈夫」としか返してこないだろうと思い、断念した。  染谷が、航汰がバイトに入っているときを狙って華が来店していると言っていたので、もしかしたら今日も来てくれるのではと内心待ち侘びていたのに、日が落ちても華はまだやって来ていない。連休中なので、いつものように保育園で華の様子を見ることも出来ていないし、本当に大丈夫なんだろうかと、航汰は心配で仕方がなかった。 「瀬戸内、昨日映画館デートしてきたんじゃねぇの?」  しらばっくれる航汰を無視して、染谷はモップの柄に顎を乗せて問い掛けてくる。 「……デートってなんだよ。妹も一緒だったし」 「でも、向こうは多分そのつもりだろ」  デート、という単語に一瞬手を止めてしまった航汰に反して、染谷は何でもないことのように続ける。  同性なのにそんな言葉に反応してしまうのは、華に対して申し訳ないような気がした。 「先生は、俺と妹に気を遣ってくれただけだと思う。優しいから」 「優しい、ねぇ……。だとしても、フツーは保育士がわざわざ園児の兄貴を休日に誘ったりなんか、しねぇと思うけど?」 「それって、華先生がフツーじゃないってこと?」  思わずムッと眉を顰めた航汰に、染谷が「そうじゃないって」と肩を竦めて苦笑する。 「お前だって、散々あの強面の兄ちゃんのこと『可愛い』って惚気てたじゃん。俺、てっきりお前らもう付き合ってんのかと思ってたんだけど」 「……は?」  思いがけない染谷の言葉に、航汰の手から唐揚げのパックが零れ落ちた。バラバラと航汰の足元で散らばる唐揚げたちに、「うわ」と更に動揺する航汰を見て、染谷が呆れたような笑い声を上げた。 「それ、お買い上げな」 「うるさい、わかってるよ」  ジロリと染谷を睨みつけて、航汰は売り物にならなくなった唐揚げを拾い集める。最後の一個を拾い上げたとき、いつも揚げ物を買っていく華の姿が脳裏を掠めた。  これまで、航汰は純粋に華の人柄に惹かれて、自分なりに彼の力になれればと、ただそのことで頭がいっぱいだった。だから華との距離が縮まるたびに、彼が航汰に対して心を開いてくれたような気がして嬉しかった。  けれどよくよく考えてみれば、航汰と華の関係は、一体何なのだろう。  友達、と呼ぶのは、少し違和感がある。  誤魔化す為に母の前で勝手に名前を出してしまっているが、友達である染谷の夕飯の世話をしたいなんて思ったことはないし、ましてや抱き締めたいと思ったことなんて、一度もない。冗談でもそんなことをしたら、多分自分も染谷も苦い気持ちになるだろう。  それなのに、初めて華に抱き締められたとき、驚きこそしたものの、嫌悪感なんて微塵も湧かなかった。辛そうな華をどうにか救いたいという思いしか、航汰の中には無かった。染谷と比べて、華と接した時間の方が遥かに短いはずなのに……。  ───こういうの、どこかで見たことある気がする。  高校に上がった航汰に、母が見せてくれた自身の作品。それらの中に、正に今の航汰と同じような葛藤を抱えるキャラクターが何人も出てきていた。  マズイことに気付いてしまったかも知れないと、顔の火照りを感じる航汰をカウンター越しに覗き込んできた染谷が、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべた。 「ふーん。両片想いって、こういうことか」 「りょ、両片想いってなんだよ!? 俺は別に───」  そういうんじゃない、という言葉は、喉につかえて出てこなかった。  華の為に、染谷の名前を使って嘘まで吐いたくせに、華への想いは嘘でも否定出来ない。自身の身勝手さと華への感情を同時に自覚して、航汰はしゃがみ込んでカウンターに突っ伏した。 「……俺、最低だ。ごめん、染谷」 「なんだよ急に?」 「……うちでは俺、先生んとこじゃなくて、染谷のとこ行ってることになってる」 「はあ? ……親に隠れて悪いことしてる中学生かよ。そんな誤魔化し方してる時点で、お前充分惚れてんじゃん」  顔を伏せたままの航汰の頭を、染谷の持つモップの柄がコツンと軽く小突いた。 「ホントにごめん。ていうか染谷、さっきからなんでそんな平然としてんの」  染谷は「両片想い」なんて言ったけれど、実際のところ華の気持ちは航汰にはわからない。ただ、母の仕事のお陰で若干感覚が麻痺している航汰はともかく、染谷も航汰と華が男同士だということを全く気にしている様子がない。不思議に思ってチラリと顔を上げた先で、染谷はあっけらかんと答えた。 「俺の親父の知り合いに、何人かそういう人居るんだよ。俺にヘアメイクの面白さ教えてくれた人も、その一人」 「え、マジで!?」 「まあその人は俺にとって師匠って感じだから、俺は別にその人とどうこうってワケじゃねぇけどさ。でも人として素直に尊敬してるし、誰かを好きだと思うのは、全然悪いことじゃねぇだろ」  だから俺を言い訳にしないで堂々としてろよ、と笑って、染谷はモップを片付けに行った。  ───やっぱり、少しもチャラチャラなんかしてない。  染谷の背中を見詰めながら、航汰は懐の広い友人に心から感謝する。  やはり人は見た目じゃわからない。華だってそうなのに、周りはそれをわかってくれない。  どうして皆、華の内面を見てくれないのだろうと思うけれど、そこでふと航汰の胸に、黒い感情がポタリと落ちた。  ……華が本当は優しい人間なのだと誰もが気付いたら。そうしたら、華にとって航汰の存在はどうなるんだろう。  たった一人でも保育士として認めて貰うことが目標なのだと、華は言っていた。今は、そのたった一人が航汰だ。  けれど、それが航汰一人ではなくなったとしたら……?  華が子供思いの良い保育士だということを、周りに知ってもらいたい気持ちは確かにあるのに、そのことを不安に思う自分も居る。  不器用だけど優しい華を知っているのは、自分だけがいい。時折見える華の脆さを支えるのは、自分でありたい。  小さな雫のようだった黒い感情が、水面に垂らしたインクみたいに、じわじわと航汰の胸の奧に広がっていく。  誰かを好きだと思うのは悪いことじゃないと言われたが、こんな後ろめたい感情を抱いてしまうことは、正しいことなんだろうか。これじゃあまるで、好きなオモチャを独占したがる子供みたいだ。  華はどんな気持ちで、航汰を映画に誘ってくれたのだろう。今の航汰の胸の内を知ったら、華はどう思うだろうか。  互いの気持ちをぶつけ合えたらいいのに、華は心の奧を見せてはくれない。助けを求めるみたいに航汰を抱き締めてくれたのに、大丈夫じゃない顔をして「大丈夫」としか言ってくれない。  今頃、華は何を思って過ごしているんだろう。  会いたい、と小さく呟いたけれど、結局この日、華が店にやって来ることはなかった。  三連休明けの金曜の朝。  航汰は真波の手を引いて、『あおぞら保育園』の門を潜った。  連休初日に映画に出掛けて以降、航汰は華に会えていない。残りの二日間はバイトだったが、両日とも華は店には来なかった。  具合は大丈夫だろうか。ちゃんと食事はとれているんだろうかと気掛かりだったけれど、園舎の玄関に入ると普段通りエプロンを着けた華が「おはようございます」と出迎えてくれた。 「華先生……」  いつもと変わらない顔色の華を見て、航汰は思わずホッと息を吐いた。隣で「ハナセンセー、おはよーございます!」と挨拶する真波に応えるように身を屈めた華が、航汰の耳許へ素早く顔を寄せた。 「心配かけて、悪かった」  次々と子供を園に送り届けにくる保護者たちの目を盗んで、華がボソリと囁く。思わず大きく跳ねた心臓を服の上から押さえる航汰の前で、華は何事もなかったように真波に「おはよう」と笑いかけている。  たったこれだけのことでも、航汰が華にとって特別な存在なのだと勘違いしてしまいそうで、胸が苦しくなる。無邪気に笑って、華と夕方まで一緒に過ごせる真波や他の園児たちが羨ましい。  どうやら華の体調は問題なさそうだし、今日はバイトも休みなので、華の都合が良ければ今日は夕飯を差し入れに行こう。  本当はこの場で約束したいけれど、さすがに朝のこの時間は人の出入りも激しいので、後で携帯にメッセージを送ることを決めて、航汰は「今日もよろしくお願いします」と華に頭を下げた。  真波と並んで「いってらっしゃい」と見送ってくれる華に、名残惜しい気持ちで手を振って、航汰は園庭に出た。  園庭を突っ切って、門へと引き返す。その途中、不意に甲高い声が聞こえてきた。  声のした方に目を向けると、園庭の端にあるジャングルジムの天辺を、二人の園児が取り合って言い争っていた。その二人を、数人の園児が下からハラハラした様子で見上げている。  あんな場所でケンカなんて危ないな…、と航汰は思わず足を止めた。慌ただしい時間帯だからか、傍に保育士の姿はないし、園児の母親と思しき人たちは少し離れた場所で輪になってスマートフォンを覗き込んでいる。その中に見知った顔を見つけて、航汰は眉を寄せた。以前、華の陰口を零していた母親の一人だ。 「……華先生のこと、どうこう言えた口かよ」  スマホより子ども見てろ、と吐き捨て、気付く気配のない母親たちに代わってせめて子供たちに注意だけでもしてやろうと、航汰がジャングルジムの方へ踏み出しかけたとき。  ケンカがエスカレートし始めた園児二人が、とうとう取っ組み合いになった。危ない!、と航汰が声を上げるより先に、二人の身体がぐらりと大きく傾く。  このままでは二人とも地面に真っ逆さまだ。助けないと…、と思うのに、二人の園児をどうやって助ければいいのかわからず、足が竦んで動かない。目の前の光景がスローモーションに見える中、立ち竦む航汰の視界を背の高い影が横切った。  ───え?  呆然と目を見開く航汰の前で、園舎から飛び出してきた華が、落下してくる園児を一人は身体で、一人は長い腕でしっかりと受け止めた。  衝撃で華はその場に倒れ込んだが、落下した園児たちは泣いてはいたものの、二人とも自分の足でしっかり立っていて、見たところケガをしている様子もない。そこで漸く事態に気付いたらしい母親たちが駆け寄って、園庭は一気に騒然となった。  誰もが園児たちに駆け寄る中、航汰は一人、華の元へ走った。 「華先生、ケガは……!?」 「こう…───瀬戸内さん」  まだ航汰が居たことに驚いたのか、一瞬「航汰」と呼び掛けた華が、咄嗟に言い直した。 「俺より、子供たちだ」  傍で母親に抱かれて泣いている園児たちの無事を真っ先に確かめた華が、立ち上がる拍子に一瞬顔を顰めるのを、航汰は見逃さなかった。 「……どっか痛むの?」 「いや、大丈夫だ」  言いながら、華がさり気なく右手首を覆い隠す。直前にチラリと見えたそこは、不自然なほど腫れ上がっていた。 「先生、その腕……!」  声を上げる航汰を目線で制して、華が「みんな、ケガしてないか」と傍にいた園児たちに声を掛けた。落下した内の一人は、陰口魔の子供だったらしい。まだ泣き続けている我が子を庇うように抱き込んで、母親はキッと華を睨みつけた。 「ちょっと! ただでさえ恐い思いしたのに、その顔で余計に怯えさせないで!」  信じられない発言に、航汰の中でプツリと何かが切れる音がした。 「……何だよ、その言い方」  一部始終を見ていながら、航汰は身動き一つ出来なかったのに、華は身を挺して二人を守った。本来守るべき母親は、誰も我が子を見てすらいなかった。  結局ケガをしたのは華一人で、しかも本人はそれを隠して子供たちのことを心配している。  なのに感謝どころか、どうしてそんな物言いが出来るんだと、掴み掛かりたい衝動が腹の底から込み上げてくる。 「航汰、よせ」  腕の痛みからなのか、それとも航汰の様子に動揺したからなのか、華の口調が素に戻っていることにも気付かなかった。 「一番子どもを見てなきゃいけないのは、アンタたちだろ!? スマホに夢中でろくに見てもいなかったクセに、なんでそんなこと───」  声を荒らげる航汰の腕を、宥めるように華の左手が掴んだとき。航汰の言葉を遮るように、突然目の前に大量のシャボン玉が飛んできた。  その場に居た全員が、思わず目を瞬かせる。泣いていた園児たちも、ポカンとして泣き止んでいる。  まさか…、と航汰と華だけが気付いて振り向いた先で、真波が咥えていたストローから再びシャボン玉を噴き出した。 「『ありがとう』を忘れちゃダメって、ママがいつも言ってるよ! ハナせんせーに意地悪したら、プリティーシャボンが浄化しちゃうんだから……!」 「真波……」  人見知りな真波が、大勢の前で声を上げるなんて滅多にない。現に力強い言葉とは裏腹に、今度は真波の方が泣き出しそうな顔になっている。  さすがに五歳児からも説教されたことが効いたのか、「な、何なのよ……」と母親がたじろぐ。そんな母親の腕の中から抜け出してきた園児が、ゴシゴシと涙を拭ってから、華のエプロンを軽く引っ張った。 「……ハナせんせー、ありがとう」  一人が言ったのをきっかけに、周りにいた園児たちが口々に「ありがとう」と華の元へ集まってくる。暫く目を丸くしていた華が、やがて身を屈めて「どういたしまして」と目尻の傷に一際深い皺を刻んだ。  ───ああ、そうか。こんな顔をするから、俺はこの人が好きなんだ。  強面なのに、不器用に、でも精一杯園児に笑いかける華の姿。何かに怯えている華じゃなくて、いつもこうして笑っている華で居て欲しいのに、独占したいなんて思ってごめん、と航汰は華の横顔を見詰める目を細めた。 「華先生、腕は……?」  園児に笑顔を向けながらもひたすら右手首を庇っている華に、航汰は小声で問い掛けた。 「これくらい、どうってことない。それより、学校遅れるぞ」  華はそう言ったけれど、既に片手で隠しきれないほど、華の手首の腫れは酷くなっている。でも…、と食い下がる航汰に、華は「大丈夫だから」と笑ってみせた。  ……大丈夫じゃないときに限って、「大丈夫」って言うんだ。  こんなときに気付いてしまった、華の悪い癖。  華にはいつも笑っていて欲しい。だからこそ、せめて航汰の前では弱音くらい吐いて欲しい。それで華がまた笑えるのなら、いくらでも受け止めるのに。  真波たちのように華に寄り添うことも、他の保育士たちのように傍に居ることも出来ない、大人と子供の境目にいる自分が酷くもどかしい。  どうしてこの場に留まれないのだろうと思いながら、既にいつもの電車を逃してしまっている航汰は、後ろ髪を引かれる思いで園を後にした。

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