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最終話

     「───はい。明日の午前中に、また受診するように言われたので、午後からの出勤になると思いますが、問題なければ、それ以降はいつも通り、出勤出来ると思います。ご迷惑、お掛けしました」  病院の正面玄関を出たところで、園長への電話連絡を終えた華は、ガッチリとギプスで固定された右手首に視線を落とした。  航汰が去った後、入れ替わりで駆けつけた園長に促され、華は園を早退してその足で病院へ向かった。園児を受け止めた華の右手首は、レントゲンの結果、素人目でもハッキリわかるほど見事に骨折していた。  その場で日帰り手術を受け、術後の経過観察や今後の治療方針の説明などを受けてやっと解放されたが、時刻はもうすぐ午後三時だ。  いつから降り出していたのか、病院を出ると外は結構な雨で、華は傘を買うために病院の向かいにあるコンビニへ向かった。  いつもの癖で、利き腕の右手でビニール傘を一本取ろうとして、その手が使えないことに気付く。  改めて左手で掴んだビニール傘をレジに持っていったが、そこでも財布から金を出すのに一苦労で、結局華はパートらしい中年の女性店員に手伝って貰ってどうにか会計を終えた。  彼女の視線が、華の手首に嵌まった真新しいギプスと、顔の古傷をチラチラと行き来していることには、いつものように気付かないフリをした。そういえば、ケガの経緯を説明したとき、医者も「まさか」と言いたげな顔をしていた。到底保育士に見えないことくらい、自分が一番よくわかっている。  父に植え付けられたトラウマに比べれば、骨折くらい何てことはない。それより、自分は一体どこまでケガを繰り返せば気が済むのだろうと、ここまでくると笑いたくなる。  園児を守れたことは幸いだが、最後の最後まで自分より華のことを心配してくれていた母を亡くしても、少しも変わっていない。今朝の騒動の際、あの場で唯一華のケガに気付いていた航汰の、心配そうな顔が蘇る。  結局華は、母だけでなく、航汰にも心配させてばかりだ。おまけに今日は、本来自分が守るべき園児の真波にさえも庇われてしまった。  あの後、その場に居た園児たちは少し華に心を開いてくれたし、例の母親も渋々ながら感謝の言葉を口にしてくれた。  だがそれは、航汰や真波の存在があったからだ。華一人なら、あの場で母親に言い返すことも、パニックで泣きじゃくる園児たちを宥めることも、きっと出来なかった。  どの園でも採用を断られてきた華を唯一迎えてくれた園長は、今回の件を労ってくれたが、他の保育士や保護者の中には華を敬遠している人間の方が、まだまだ圧倒的に多い。それでもこれまでは、男手がない園の中で力仕事では多少役に立てていた。  けれど、片腕が使い物にならないこの状態では、それも不可能だ。  要領が悪い所為なのか、それともそういう宿命なのか。昔から、何をやっても空回っている気がする。  雨足が次第に強くなり、風も出てきた。ザアッと雨風が吹き付けてくるたびに、傘が持っていかれそうになる。  病院で処方された痛み止めの入った袋を提げている上、片手でしか傘を支えきれないので、足元は既にずぶ濡れだった。普段何気なく使っている腕が一本使えないというだけで、こうも不自由だとは思わなかった。  どうにかアパートに帰り着いたときには、最早傘をさしていたとは思えないほど、華は濡れ鼠だった。  取り敢えず服を着替えようと思っても、そこでまた満足に動かせない右手が邪魔をする。やっとのことでシャツを脱ぎ去り、水を吸って重くなったジーンズのポケットから、壊れてないだろうな…、と取り出したスマートフォンが、短い通知音を響かせた。無事だったらしいスマートフォンの画面には、航汰からのメッセージが表示されていた。 『華先生、ケガの具合どう?』  あと三十分ほどで、いつも航汰が園に真波を迎えにくる時間だ。恐らく朝からずっと気にかけてくれていたのだろう。放課後になってすぐに連絡をくれたらしい航汰に、安堵を覚える自分が居る。  大丈夫じゃない。服の脱ぎ着もまともに出来ない。いつも見ている園児より、今の自分の方がよっぽど手がかかると、素直に甘えてしまえたらどんなに楽だろう。  けれど華が甘えれば、間違いなく航汰はそれに応えようとしてくれる。華のろくでもない食生活を見かねてわざわざ夕飯を届けてくれたり、こうして華の身をいつも案じてくれる航汰なら、きっと。  親の仕事の関係で、家の手伝いや妹の世話をすることを、航汰は全く不満に思っていない。航汰の年頃なら、友人たちと遊ぶことを優先したいと思っても不思議ではないのに、当たり前のように家のことを優先している。それは航汰の両親が、充分な愛情を航汰に与えてくれているからなのだろう。航汰の家庭環境が良いのは、彼や真波を見ていればよくわかる。  ただでさえ自分の時間を犠牲にしている航汰に、華は更に自分にも時間を割かせようとしている。───いや、夕飯の差し入れなんていう申し出を受けてしまった時点で、華はもう既に航汰の限られた時間を奪ってしまっているのだ。  航汰の純粋すぎる優しさにつけ込んでしまったようで、自分が酷く汚い大人に思えた。  華の中に確かに流れる父の血を、航汰なら忘れさせてくれる気がするのに、そんな航汰に縋ろうとする自分は、父同様情けない男になっていく。もう誰からも何も奪いたくはないのに、母の人生を奪ってしまったように、このままでは航汰の人生も奪ってしまうような気がしてならない。 『腕なら、大したことないから、大丈夫だ』と、ケガの程度も曖昧に誤魔化して、華は敢えて短い返事を返した。本音を零してしまわない為には、それが精一杯だった。  今日、真波を迎えに来るのが航汰なら、園に華の姿がないことをどう思うだろう。どのみち、航汰はきっと心配する。  案の定、すぐにまた通知音が鳴った。 『今日、バイト休みなんだけど、夕飯届けに行ってもいい?』  華の返事に深く突っ込んでこない航汰の察しの良さに、心が揺らぐ。  こういうところは、航汰の方が華より余程大人だ。高校生の航汰にそんなことは頼めないとわかっているのに、ずっと隣に居てくれと、いつかの夜のように抱き締めて引き留めたくなる。  あの温もりに、触れてはいけなかった。  何も無いこの部屋に、航汰の存在を刻んではいけなかった。 『痛めた腕が、しばらく使えない。茶も出せないから、俺の夕飯は、もう気にしなくていい』  送り返したメッセージにすぐに既読マークは付いたが、そこで航汰からの返信が途切れた。  航汰が今、携帯を見詰めてどんな顔をしているのか。ディスプレイにその顔が浮かんでくるようで、華はテーブルの上にスマートフォンをそっと伏せた。  ───拳を振るわなくても、俺は傷つけてばっかりだ。  今日折ったばかりの腕はもう全く痛まないのに、華からのメッセージを見た航汰の顔を想像すると、華の全身に刻まれた古い傷が、一斉に鈍く疼いて堪らなかった。  航汰の手から零れ落ちた、洗ったばかりの皿が、ガシャン、とキッチンの床の上で派手に砕け散った。  音に驚いたらしい真波がビクッとソファの上で身を竦ませて、「どうしたの?」というように大きな目を瞬かせながら顔を向けてくる。 「……ごめん。手、滑った」  抑揚のない声で言いながら、飛び散った破片を拾い集めようとした航汰の腕を、母の手が素早く掴んだ。 「危ないから、アタシが片付ける。アンタは向こうでちょっと座ってな」  ごめん、と素直にその場を母に任せて、航汰はフラリとキッチンを出ると、ダイニングチェアへ腰を下ろした。  放課後、華からの最後のメッセージを受け取って以降、頭が上手く働かない。 『もう気にしなくていい』という言葉の意味が、よくわからなかった。……わかりたくなかった。  華はまた『大丈夫だ』と言っていたけれど、真波を迎えに行ったとき、園内に華の姿はなかった。近くに居た保育士にさり気なく聞いてみると、今朝のケガが原因で早退したのだと教えてくれた。  ───全然、大丈夫じゃないクセに。  その後園に戻ってこられなかったり、お茶も出せないくらい腕が使えなくなっているのに、華はケガに関して具体的なことは何も言わなかった。  苦しいときに限って、どうして華は離れていこうとするんだろう。『大丈夫』という華の言葉より、航汰を酔っ払いから助けてくれたあの夜、航汰を抱き締めた震える華の腕の方が、よっぽど彼の本心を表していたような気がする。  それなのに、あんなメッセージ一つで、航汰は簡単に拒絶される。  毎日華と過ごせる幼い園児でも、何でも一人で決められる大人でもない航汰には、背を向けてしまった華を振り向かせる方法がわからない。 「航汰、何かあったのか?」  真波の隣で一緒にテレビを見ていた父が、何もないテーブルの一点を見詰めて黙り込んでいる航汰へ、心配そうな顔を向けてくる。そんな父に、皿の破片を回収し終えた母が「心配ないよ」と笑った。 「航汰もそういう年頃だってこと」  母が笑っている理由が航汰自身にはわからなかったけれど、父は母の言葉から何かを察したらしく、「そっか」と頷いてソファから立ち上がった。 「真波、先にお風呂入っちゃおう。今日は新しいシャボン玉セットがあるよ」 「ホント!?」  新しいシャボン玉と聞いて、真波がピョンとソファから飛び降りる。 「遊びすぎてのぼせないようにね」  母の言葉に「はーい」と元気よく返事をして、真波は父と一緒にリビングを出て行った。  今は真波の相手をする余裕も無かったので、静かなリビングが有難い。  拒まれなければ、この時間、航汰は華の元へ夕飯を届けている予定だった。もしかするとまた華からメッセージが来るかも知れないと、淡い期待を抱いてずっとテーブルに置いたままのスマートフォンにチラリと視線を向けたが、着信音が鳴る気配はまったくない。  無意識に溜息を吐いた航汰の向かいに腰掛けた母が、「ねえ航汰」と不意に自分のタブレットを航汰の前に差し出してきた。画面には、何ともSNS映えする華やかな料理の写真と、そのレシピが表示されている。 「……なにコレ」 「そのブログ、アンタ知らない?」  適当に画面をスクロールさせてみたが、その内容にも、『LISAレシピ』と書かれたブログタイトルにも、航汰は覚えがない。そもそも料理は基本父と母に教わってきたし、自分で調べるとしたら精々レシピサイトを見る程度なので、個人のブログまでチェックしたりはしていない。  緩々と首を左右に振った航汰に、母は「やっぱりね」と肩を竦めた。 「このブログ書いてるLISAさんって、料理研究家なんだけどさ。いつもブログにアップしてる料理が見栄えもいいし、おまけに栄養バランスもちゃんと考えられててヘルシーだから、かなりの人気ブロガーなんだよ」  華に拒絶される前の航汰なら、届ける料理の参考にしようと思えたかも知れないが、むしろ今はレシピなんて見たくなかった。 「悪いけど、今そんな気分じゃ……」  タブレットから目を逸らした航汰に、「まあ聞きなって」と母はマイペースに続ける。 「ちなみにこのLISAさん、元ファッションモデルなの。本名は、『染谷理佐』」  ───染谷?  突然馴染みのある名前が飛び出して、止まっていた航汰の思考がようやく少し動き出す。 「染谷ってまさか……」 「そう。アンタの『友達』、染谷くんのお母さん。中学のとき、アンタの授業参観で何度か見かけたけど、全っ然オーラが違うの。すれ違うお母さんたちがみーんな振り向いてたくらい。アタシもその一人だったから、違うクラスだったけど今でもよく覚えてる」  懐かしそうに笑う母の前で、航汰は黙ってタブレットに視線を戻す。  染谷の母親が元モデルだというのは知っていたけれど、今は料理研究家になっているなんてまったく知らなかった。  航汰の前からタブレットを引き取った母が、それをテーブルの隅に置いて「あのさ」と航汰に向き直る。 「ヘルシーレシピで人気の、料理研究家のお母さんが居る染谷くんが、毎日コンビニ弁当なんて食べてるワケないんだよ。それにアンタ、アタシや父さんがどれだけ言っても、いっつも友達より家族を優先するでしょ。そんなアンタがわざわざ夕飯持ってくなんて、よっぽどのことじゃない」 「………」  まさか最初から航汰の嘘が見破られていたとは思わず、返す言葉もないまま俯いた航汰の前で、母が苦笑交じりに息を吐いた。 「まあ、アンタがその相手をあくまでも『友達』だって言うなら、構わないけどさ。でも親ってのはね、自分が疲れてたって平気だけど、子供の元気がないと物凄く心配になるモンなんだよ」 「……っ」  母の言葉を受けてようやく、華に拒まれて消沈している自分を自覚した航汰の目頭がじわりと熱くなる。母の前で涙を零したくなくて、慌てて手の甲で目許を隠した。  染谷に言われたみたいに、初めから嘘なんか吐かずにいたら、何か違っていたんだろうか。  落ち込んでいる航汰には、心配して寄り添ってくれる家族が居るのに、華に寄り添うことは許されないんだろうか。  家族でも友達でもなく、こんな風に誰かを好きになったことがないから、何が正しいのかもわからない。 「……相手に拒絶されたら、どうしたらいい?」  隠しきれない涙声で問い掛けた航汰の前に、母がさり気なくティッシュの箱を滑らせてくれる。 「拒絶って、嫌われたってこと?」 「……わからない。嫌いって言われたワケじゃないけど……」 「もしかして、夕飯のデリバリーの話? アンタ、今日バイト休みなのに出掛けて行かないから変だなとは思ったけど」 「もう、気にしなくていいって言われた」 「気にしなくていい、かぁ……」  母に渡されたティッシュで鼻をかむ航汰の前で、母はテーブルに頬杖をつくと、何かを思い出すように宙を仰いだ。 「───アタシさ。父さんからのプロポーズ、実は三回断ってんのよね」 「え? 三回も……?」 「だって父さんと付き合ってた頃から、アタシはバリバリに同人活動とかしてたしさ。そもそも父さんとの出会いも、たまたまサーファーが描きたくて海に行ったら、好きなキャラにイメージぴったりなサーファーが居て、その人が父さんだったってのが最初だしね。アタシがあんまりガン見して父さんを描きまくってたモンだから、向こうも気付いて声かけてくれたのがきっかけ」 「……それ、父さん知ってんの」 「勿論、付き合うって話になったときに全部話したよ。後ろめたいままなのもイヤだし、何よりあの人、昔からホントに良い人だったから。でも父さんは、どんなアタシを知ってもまったく気にしないで受け入れてくれんの。そんなだから、結婚しようって言われたとき、戸惑っちゃったワケよ。アタシは絶対いい嫁になんかなれないってわかってたし、修羅場になると生活リズムなんかぐちゃぐちゃだしさ。アタシよりいい相手なんかいくらでも居るだろうし、結婚したってきっと後悔させるから、アタシのことは気にせずもっといい人探しなよって三回断ったんだけど、結局全然引いてくれなくて、アタシの方が根負けしちゃった」  航汰と真波の名前を考えた父が海好きで、最近でこそ仕事や家事で忙しくて海へ行くことは殆どないけれど、部屋にサーフボードがあるからサーフィンが趣味なのだということは知っていた。だからこそ、完全にインドア派の母とどうやって出会ったのか気にはなっていたが、まさか母のセクハラめいた行為がきっかけだったなんて。  おまけに父が何度も母から結婚を断られていたことにも驚いた。逆ならまだしも。 「結婚した当初は、ホントに良かったのかなーなんて思ったりしてたけど、今じゃ可愛い子供が二人も居て、好きな仕事もさせて貰って、こんなに幸せなんだから人生って不思議だよ」  噛み締めるように言って、母が目を細めて笑う。心底幸せそうな、航汰も真波も、恐らく父も大好きな笑顔。 「……俺もそんな顔、してもらいたい」  思わず航汰の口から零れた本音に、母が一瞬目をしばたたく。その後小さく噴き出して、母は「親子って凄いねぇ」と肩を揺らした。 「アンタは父さんそっくりだから、自信持ちなよ。それに、前にも言ったでしょ。想いってのは、伝わるものだって。心から相手を大事に想ってれば、それはきっと相手にも伝わる。アンタ、その大事な気持ち、ちゃんとぶつけた?」  母の言葉が、萎れかけていた航汰の胸に刺さる。  拒まれて、突き放されたような気になっていたけれど、考えてみれば航汰も華も、互いに本音を伝えていない。  もしも結果は同じだとしても、このまま何も言わずに終わってしまうくらいなら、華に全てをぶつけたい。華が隠そうとしている弱さも、全部引き摺り出してやりたい。  父は母から三度断られても諦めなかった。航汰はまだ一度だってぶつかっていないのだから、まだまだ立ち上がれる。 「俺、ちょっと出掛けてきていい?」 「結構雨降ってるよ?」 「別にいい。今行かないと、後悔する気がするから」 「止めてもどうせ行くんじゃない。その代わり今日の話、ネタに使っても───」 「却下」  母を遮って即答した航汰に、「なによケチ」と冗談めかして口を尖らせる母に見送られて、航汰は家を飛び出した。  玄関を出た瞬間、強い風に乗って雨が叩きつけてきた。却って邪魔になりそうな傘はドアの前に捨て置いて、航汰は華のアパートまでの道のりを全速力で駆け抜けた。 「航汰……」  台風でもないのに酷い暴風雨の中。傘もささず、びしょ濡れでやって来た航汰を、華が驚いた顔で出迎えた。  けれど、驚いたのは航汰も同じだ。ドアを開けて呆然とする華の右手の、痛々しいギプス。  ───やっぱり、大丈夫じゃない。  キュ、と一度唇を噛み締めて、航汰は華の顔を見上げた。 「先生、その手……やっぱり折れてたの?」 「このくらい、何でもない。大丈───」 「ストップ!」  またいつもの言葉を紡ごうとする華を、航汰は声を張って制した。また華に嘘を吐かせる為に、やって来たわけじゃない。  ジッと華の目を見据える航汰を見下ろして、華が困ったような顔になる。 「……酷い天気なのに、なんで来たんだ。夕飯なら、気にしなくていいって言っただろ」  改めて華の口から言われると、やっぱり胸が痛んだ。お前はもう必要ないのだと言われているような気がして、怯みそうになる。  だけど父はそれでも引かなかったんだと自分に言い聞かせて、航汰は拳を握り締めた。 「わかってる。だから、見ての通り手ぶらだよ」 「でもずぶ濡れだ。取り敢えず、中に入れ。そのままじゃ風邪ひく」  左手でドアを押さえて、華が航汰を部屋の中へ促してくれる。航汰が足を踏み入れた狭い玄関に、全身から滴る水滴であっという間に水溜まりが出来た。こんな状態の航汰を部屋に入れたらあちこち濡れてしまうのに、お茶も出せないと言っていた華は、洗面所からバスタオルを持ってきてくれた。 「どうする、シャワーだけでも浴びるか? 俺の服で良ければ、貸すから」  今朝腕を折ったばかりだというのに、華は航汰のことばかり気遣ってくれる。そんな華の様子に、航汰は思わずホッとした。 『もう気にしなくていい』なんていう華の言葉が、彼の本心ではないことが確信出来たからだ。  いつだって、周りを気遣ってばかりいるのは華の方だ。 「華先生」  玄関に立ったまま呼び掛けた航汰を、風呂の用意をしようとしたのか、洗面所に引き返しかけた華が振り返る。 「俺が夕飯届けにくるの、迷惑だった?」 「そうじゃない。ただこれ以上、航汰に甘えるわけにはいかないと、思っただけだ」 「俺は、もっと甘えて欲しい。真波も最初そうだったみたいに、何も知らない人は華先生を恐がるのかも知れないけど、ホントに恐がってるのは、華先生じゃん」  これまで触れてはいけないのではと、敢えて避けてきた箇所へ航汰が踏み込んだ瞬間、華が目を見開いて息を呑んだ。  華が一体何に怯えているのか、教えて欲しい。華が一人で抱え続けている苦しさを、ほんの少しでも分けて欲しい。  暫しの沈黙が流れる中、航汰の髪から滴り落ちた滴が、玄関のコンクリにまた新たな染みを作った。じわりと滲んでいくそれを見ていた華が、観念したように小さく息を落とした。 「……やっぱり、お前は恐いな」 「俺が? なんで?」 「そうやって、いつも俺に、手を差し出してくる」 「だから、俺は先生にもっと甘えて欲しいって───」 「俺は、お前に何も返せない」  珍しく強引に、華が航汰の言葉を遮る。今度は、航汰が思わず言葉に詰まった。  何かを返して欲しくて、華が好きでいるわけじゃないのに。むしろ航汰にあげられるものがあるなら、全部差し出しても構わないのに。  なのにどうしてこんなにも、上手くいかないんだろう。  もどかしく思う航汰の手から、いつまでも畳んだままのバスタオルを取った華が、少し扱い辛そうに片手で広げて濡れた頭に被せてくれる。その優しい行為とは裏腹に、華は苦しげな顔をしていた。震えてこそいないものの、その顔は突然具合が悪くなったときの華を思い起こさせた。 「……先生?」  苦しいの?、と問う航汰に、華は肯定も否定もしないまま、躊躇いがちに口を開いた。 「……あちこちに残ってる俺の傷は、殆どが、父親につけられたものだ」 「え……」  今まで決して華の口から出なかった、父親の話。おまけに華の傷痕の原因がその父親だったという衝撃に、言葉が出てこない。そんな航汰の反応を予想していたのか、華が自嘲気味に唇を歪めた。 「職を失って、酒に溺れて……飲むたびに、俺と母に手を上げる男だった」  脳内に、バイト先で掴みかかってきた酔っ払いの姿が蘇る。それから、駅員に絡んでいた酔っ払い。  ───そうか。自分や母親を傷つけた父親みたいな、酒癖の悪い人間が苦手だったんだ。 「母は俺を連れて、父の元から逃げ出した。その母も、俺が高校の頃に、亡くなった。俺は、母にも心配をかけるだけで、何一つ返せなかった」 「でも、先生は親孝行で保育士になったって言ってた。それって、お母さんのことじゃないの?」 「母みたいな人間になりたくて、俺は保育士になった。でも、俺は年々父親に似てくる。見た目だけじゃない。周りを怯えさせて、お前のことも傷つけた。そんなことしか、俺には出来ない。───だから、保育士の仕事も、もう辞めようと思う」 「っ、なんで!?」  辞める?  保育士を?  いつも園児のことを一番に考えていて、園児たちが心を開いてくれたらあんなに嬉しそうな顔をしていたのに? 「元々、保育士として、俺は満足に仕事も出来てない。おまけに、腕がこの状態じゃ、益々役にも立てない。結局俺は、あの男と同じだった」  ギプスで固定された右腕を軽く持ち上げて、華が笑う。目尻の傷に皺がない。張り付けただけの、偽物の笑顔。  また本心を隠して、華は背中を向けようとしている。航汰が見たいのは、華のこんな哀しい笑顔じゃない。無理矢理笑って欲しくなんかない。  航汰の頬から顎へ、雫が伝う。  ───泣くな。今辛いのは俺じゃない。  伝い落ちてくる生温かい水滴を雨の所為にして、航汰は一層強く拳を握り込んだ。 「……華先生は、誰も傷つけてない。もしも先生が傷つけてる相手が居るとしたら、それは他の誰でもない、先生自身だ。周りを傷つけたくないから、先生はいつも一人で自分を傷つけてる」 「航汰……?」  震える声を振り絞って、航汰は濡れた顔で真っ直ぐに華を見上げた。背丈も年齢も、航汰は華に届かない。けれど、そんな航汰にも、届けられるものはある。 「俺は先生から見たらきっとまだまだ子供で、頼りないと思う。だけど、先生より料理の腕は上だし、真波が居るから小さい子の面倒みるのも得意だよ。……それに、頼りない俺の腕でも、先生が苦しいとき、抱き締めることくらいは出来る」  ようやく靴を脱いで玄関から一歩踏み込んだ航汰は、目の前の華の背中に、そっと腕を回した。ピクリと華の身体が強張るのが、触れ合った箇所から伝わってくる。華の身体も濡れてしまうし、部屋だって汚してしまうけれど、そんなものは後でどうとでもなる。  それより今は、まだ全身の傷から血を流し続けて苦しんでいる華に、航汰の想いの全てを届けたかった。 「航汰、お前……」 「先生、ホントは保育士辞めたいなんて、思ってないくせに。大事なお母さんの為に選んだ仕事なのに、そんな簡単に辞めたいなんて、先生が思うワケない。それに先生、園児が懐いてくれたら凄く嬉しそうな顔するじゃん。ちょっと不器用で、でも園児たちのことちゃんと大事にしてくれる華先生が───俺は好きだ」  やっと伝えることが出来た航汰の胸が、スッと軽くなった。華にも抱えた痛みを吐き出して楽になってもらいたくて、航汰は華の背を抱く腕に力を込めた。  今なら、何度断られても母にプロポーズし続けた父の気持ちが、少しわかるような気がする。  ───俺が、この人を幸せにしたいんだ。 「……先生。俺、保育士になる」 「は……?」  唐突な航汰の宣言に余程呆気に取られたのか、華が初めて聞く声を上げた。 「保育士って、お前何考えてるんだ。そんな大事なこと、簡単に……」 「先生も、大事なお母さんへの親孝行で、保育士になったんだよね? だから俺も、大事な人の為に保育士になる。俺、ちゃんと華先生を支えられる後輩になれるように頑張るから、だからそれまで、先生には『華先生』で居て欲しい」  航汰の言葉を暫く唖然として聞いていた華が、やがて「参った」とばかりに笑みを零した。今度は目尻に、ちゃんと一本、皺が出来ている。 「航汰は俺を、抱き締められるって言ってくれたけど、知ってたか?」  問い掛けた華の左腕が、グッと強く航汰の腰を抱き寄せた。抱きついたのは自分の方が先だったのに、不意打ちを喰らって息が詰まる。 「……本当はずっと、こうして抱き締めたいと思ってたのは、俺の方だ」  ピッタリ密着している所為で、気付けば華の服まですっかり濡れてしまっている。お互い冷たいはずなのに、初めて抱き締められたときよりも、互いの熱をハッキリ感じた。 「俺は、こんな見た目で、弱くて情けない。いいところなんて、何もないぞ」  航汰の身体を抱き寄せたまま、肩口で華が言う。そんな華だから抱き締めたいと、航汰は思うのに。 「弱くて情けない華先生が、俺はもっと見たい。苦しいときとか辛いときくらい、甘えてもいいじゃん。だから先生、俺の前ではもう『大丈夫』って言わないで」 「……本当に大丈夫なときは?」 「それでも『大丈夫じゃない』って言って。俺が抱き締める口実になるから」 「航汰は、男前だな」  微かに笑った華が、甘えるように航汰の首筋へスリ…と控えめに額を摺り寄せてきた。 「じゃあ、大丈夫じゃないから、もうしばらく、こうさせてくれ」 「どうぞ。先生の気が済むまで」 「……不思議だな。お前が居るだけで、部屋の空気が、変わる気がする」 「そりゃそうだよ。一人って寂しいから。……だから、俺これからもまた夕飯届けに来てもいい?」  アイツも可哀想だし、と航汰はキッチンに置かれたままのピカピカの炊飯器を指差す。 「それに先生、利き手使えないんじゃ色々不便じゃない? 俺に出来ることなら、手伝うよ」 「そう言えば、着替えが物凄く不便なんだが、それも手伝ってくれるのか?」 「き……着替え……」  確かに片腕をギプスで固定された状態での着替えは大変そうだと思う反面、いきなり自分が華の服を脱がせるのかと良からぬ想像までしてしまい、ついカッと顔が熱くなる。そんな航汰の反応を見た華が、少しだけ意地悪く笑った。 「だから、航汰は人が好すぎて、危なっかしい」 「……今の、冗談?」 「いや、不便なのは本当だ。ただ、ちょっとだけ、下心もあった」  そう告げた華の唇が、チュ、とほんの一瞬、航汰のそこを掠めた。何をされたのかすぐには理解出来ず、目を見開いて固まる航汰の濡れた髪に、華は今度はしっかりと唇を押し当てた。 「やっぱり、危なっかしい」  そこでやっと口づけられたのだと気付いた航汰は、恥ずかしいやら少し悔しいやらで、華の胸元へ顔を埋めた。こういうところは、やっぱり華は大人で自分はまだ子供なのだと思い知らされる。 「……先生。俺たちって、両想いだって思ってもいいの」 「航汰が先に、抱き締めてくれたくせに」 「だって、何か俺が一方的に言っただけだったし……」  気恥ずかしさで段々語尾が小さくなる航汰の頭上で「ああそうか」と思い出したような声を上げた華が、身を屈めてコツ、と航汰と額を合わせた。 「俺は、初めて園で会ったときから、航汰が好きだ」 「~~~~~っ」  目尻に皺を刻んだ航汰の大好きな顔で、躊躇うことなく告白の言葉を寄越されて、胸が詰まって倒れそうになる。華が航汰目当てにコンビニに来ていると言っていた染谷の言葉は間違いではなかったことがわかって、今更ながら胸の奧が嬉しさでムズムズしてくる。  この人を恐がっている人間は、間違いなく人生の大半を損している。勿論、華のこんな顔を知っているのは、本当は自分だけでありたいのだけれど。  こんなにも愛おしい人を、航汰は知らない。  いつか華と一緒に働ける日が来ますようにと胸の内で願いながら、航汰は濡れた身体で、華と温もりを分かち合った。   ◆◆◆◆◆ 「ハナせんせー、おはよーございます!」  園舎の玄関で出迎えてくれた華に、今朝も真波が元気よく挨拶をする。  身を屈めて「真波ちゃん、おはよう」と返した華が、航汰にも「おはようございます」といつものごとく、丁寧に挨拶してくれる。  もうすぐ梅雨が明け、暑い夏がやってくる。  すっかり手首の骨折も完治した華は、変わらず『あおぞら保育園』で保育士を続けていた。  他の保育士や保護者たちの目があるので、園での航汰と華の接し方も相変わらずだ。  けれど、少し変わったところもある。 「ハナセンセー、おはよー!」 「こら! 『おはようございます』でしょ!」  元気よく玄関に飛び込んできた真波と同じクラスの園児が、まるで友達みたいに華に挨拶をして、母親に窘められている。そんな園児に「今日も元気だね、おはよう」と華は笑顔で答える。  最近少しずつ、こうして華に声をかけてくる園児が増え始めた。そして園児が懐き始めたことで、保護者たちの目も、徐々にではあるけれど、確かに変わりつつある。 「どうして保育士になったのかわからない」なんていう評価ばかりだった華は、今では「見た目は恐いけど、そう悪い先生でもないみたい」と評されるようになっていた。  プライベートでは、再び航汰が数日おきに夕飯を届けに行くようになり、休日には時々一緒に出掛けることもある。真波がセットのときもあれば、二人きりのデートも何度か経験した。  今でも華は性質の悪い酔っ払いが苦手で、見かけると必ず発作を起こす。けれどその理由を今は航汰も理解しているので、人通りのない場所で暫くジッと華の身体を抱き締めていると、最近では比較的すぐに症状が和らぐようになってきた。  航汰と華の関係も、『恋人』と呼ぶにはまだまだ浅いお付き合いだが、それでも何かが少しずつ、二人の周りで変わり始めている。  何より嬉しいのは、華が心から笑う時間が増えたことだ。  園に居るときも、航汰のバイト先に立ち寄ったときも、それから二人で過ごしているときも。  華は「何も返せない」と言っていたけれど、華の笑顔を見るだけで航汰がどれだけ満たされているか、きっと華は気付いていない。  そんなところも愛おしいんだけど、と次々にやってくる園児の対応に追われる華を見詰めながら、航汰は苦笑する。 「それじゃあ先生、今日もよろしくお願いします」  いつもの挨拶をした航汰に、華は「また後で」と口の動きだけで伝えてきた。  これも、変わったことの一つだ。  夕飯を届けに行けない日は、必ず華とメッセージでやり取りをするようになった。だから、華は朝航汰を見送るときに、いつも「また後で」と二人だけの約束をくれる。  あともう少ししたら、航汰の高校も夏季休暇に入る。保育園は夏休み中も保育はあるが、それでも交代で休暇は貰えるのだと華は言っていた。  夏休みになる頃には、また航汰と華の関係も何かが変わっているのだろうか。  そんな楽しみを胸に仕舞って、航汰は「いってきます」と華と真波へ手を振った。  数年後には、華と並んで保護者を見送る日が来ることを夢見ながら───。

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