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第1話
「…ん」
カーテンから覗く光に起こされた少年は、ぱちりと目を開ける。若干ぼやけた視界の中、壁に掛かった時計は9:00を少し過ぎており、今日は土曜だったことに安心した。
ぼさぼさの髪を掻きながら、薄い毛布から起き上がり伸びをすると、ベッドから降り立った。
緑色のカーテンを勢い良く引くと、眩しいくらいの太陽の光が全身を包みこむ。少年はこの瞬間が、何よりも好きだった。
もう一つあくびをすると、一階の洗面所へと足を運ぶ。冷水で顔を洗い、鏡に映った自分を見る。異常なし、と呟いて、メガネをかける。髪を軽く梳かしてリビングルームに入った。
質素なリビングルームの中心にダイニングテーブルがある。そこにはもう見慣れてしまった置き手紙。
『叶人 へ
急用ができたので出かけます。20時までには帰ります。お昼代はいつものところに。母』
(急用、ね)
叶人は心の中で呟く。母が言う休日の『急用』は、彼氏とのデートか仕事の呼び出し。多分、前者が割合を占めているだろう。幼い頃からのそれは、もうどうとも思わなくなった。
手紙の横にあるコンビニのサンドウィッチを見やる。賞味期限間近のものだということはもう気にしなくなっていた。冷蔵庫から水のペットボトルを出してゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
テーブルに着くとサンドウィッチの封を開け口に入れる。パサパサのパンにむせて水を飲みそのまま流し込んだ。
「ごちそうさま」
誰もいない空間に向かって呟いて、手紙と袋をゴミ箱に捨てた。
歯を磨いて制服を着る。天気予報では一日晴れということだったので、半袖のシャツにする。母親が置いていった千円札を財布に入れて、それをカバンの中に入れた。
(うわ、思ったより暑いな)
ドアを開けると、秋入りとは思えない熱が叶人の身体を包んだ。じっとりしていて、不快感がすごい。
(行くのやめようかな…)
そう思ったその時、近くの交差点からこちらに向かってくる一台のバスが見えた。あのバスに乗る予定だったので、思わず急いで鍵を占めて停留所へと歩いた。小学生の時からお世話になっているバスなので、もう運転士の田中さんとは顔見知りとなっている。
「今日は暑いね、坊っちゃん」
「おはようございます、田中さん」
こういった挨拶を交わすだけの仲だが、とても親しみやすい人だ。
(めっちゃ涼しい…生き返る…)
乗客は叶人の他にはいない。いつも通りだ。
(いつも通り…今日もあの人、乗ってくるかな)
次の停留所で乗ってくる男の人。話したことはないけれど、斜め前に座る背中を気づいたら目で追っていた。停留所で本を片手に待っているのを見るのが、叶人にとっての一日の始まりだと言ってもおかしくはない。
(…別に約束してる訳じゃないけど)
バスがゆっくりと減速して止まる。あの人がいた。本を閉じてバスの中へと入ってくる。さすがに顔を見つめる勇気はない為、その人の靴のあたりを見ていた。
だが、いつもはすぐに斜め前の席へと赴くはずの靴は、何故か叶人の座っている後ろの席へと向いている。
(あれ…なんで…?)
怪訝に思った叶人は、恐る恐る顔を上げた。黒髪を後ろへ流した端正な顔に見つめられているのを知らずに。目があった瞬間、ドクン、と心臓が鳴った。
「あ、の…なにか…」
ドクドクと心臓が鳴るのを抑えつつ、キレイな目を見つめ返すのが恥ずかしくなって目を逸らす。やっと、それだけを口にして黙った。
長い沈黙だった。いや、本当はなんてことのない数秒間であったのだが、叶人にとってはとても長く感じられた。
「君、綺麗だね」
「…え?」
低く、これまた綺麗な声で発せられた言葉。聞き返す前に、次の言葉が発せられる。
「ここ、座ってもいいかな」
「あ、はい、どうぞ」
ゆっくりと隣に座る「あの人」。でも叶人の思ってたよりも背が高く、肩幅が広い。そして何より、格好いい。
そんな人にジッと見つめられている。
(な、何なんだ?お、落ち着け自分!)
バックンバックンとうるさい心臓に喝を入れるが変化はない。
「毎日一緒だよね」
「へ!?あっ、そう、ですね」
「俺、宇佐美優太朗 。君の名前は?」
「え、と…桜叶人 、です」
「かなとって、どう書くの?」
「えっと、叶うに、人です」
叶人か、素敵な名前だ、と頷く彼に叶人はもう目が離せなくなっていた。今日は開襟シャツに細身のパンツで顔の美しさによく合っている。
(夢みたいだ、この人と話せるなんて…)
「迷惑かなと思ってあまり見ていなかったけど。君、凄く綺麗な人だ。何故今まで遠慮していたんだろうって後悔するくらいだ」
「あ、えっ?」
(ご自身に言ってるんですよね!?)
「僕、男ですけど…」
「関係ないよ。俺は綺麗なものに綺麗って言う主義なんだ。これから学校かい?」
「はい…図書室に本を返しに行こうと思って」
「そうか。そのあと時間はあるかな」
「予定はないですけど…」
「君、俺のモデルにならない?」
「えっ!?」
『次は〜○○高校前です』
「あ、田中さん俺たち降ります!さぁ、君が降りるところだ、行こう」
「あ、え!?」
腕を引っ張られてジン、と頬が熱を帯びる。
(初めて触られた…!)
バスを降りると、叶人は本を返しに校舎内へと消えた。そんな様子を見ながら宇佐美はどこかへ電話をかけてニヤリと笑った。
無事に図書館へ本を返したのはいいものの、あの宇佐美さんはどこへ行ったのだろうとあたりを見渡す。
「あれ、叶人じゃん!」
不意に後ろから聞きなれた明るい声がかかった。
「慧介 !」
一年生の野球部を連れた慧介が、叶人の元へと走ってくる。
「何しに来たん?」
「本返しに来てた。慧介は部活?」
「そ!いま休憩中〜」
ニカッと笑う友人に、叶人も思わず笑みが溢れる。
叶人のクラスメイトである田上慧介は一言で言うと『女子にモテそうな奴』である。
勉強はそこそこだが野球部の時期エースと噂されるほどのスポーツマンで、見た目もいい方だ。面白いし他の男子より口が悪くないのが長所だ。
この男子高に進学してから、地元の友達が少なかったことから叶人は友達が減り、移動教室や弁当なども一人でいたところ真っ先に話しかけてきたのはこの慧介だ。それが切っ掛けで友達が増えたのだから、慧介には感謝してもしきれない。
慧介の声を聞いた部員たちが二人にわらわらと近づいてくる。
「お、噂の桜ちゃん?」
「そ、オレの友達一号!」
えっへんと誇らしそうに胸を張る慧介を見た彼らは口々にずるいぞ、と小突く。叶人もこういう運動部独特のノリは好きだ。
「えー、俺とも友達になってよ」
「俺も俺も!」
「俺とも友達になってくれるかい、叶人君」
わいわいと騒ぐ彼らの声とは一際低く澄んだ声が、叶人の背後から聞こえた。叶人はドキッとして振り向くと、さっき探していた人物がニッコリ笑って佇んでいた。
「う、宇佐美さん」
「勝手にいなくなってごめんね、アトリエの鍵持ってきたんだ。ついでに車も」
宇佐美の視線を追って見ると一台のクーペが停まっている。これ名刺ね、と叶人へ一枚の白いカードを渡した。普通の紙とは違う、少しざらついた面に、"宇佐美優太朗"とだけ箔押しされている。
肩書きの明細がない。
「画家をやってるんだ。…まだ信頼できない?」
宇佐美のしゅんとした様子に叶人は絆されそうになる。大丈夫です、と頷きそうになったとき、グイッと肩を引っ張られる。
「誰ですか?叶人にナンパ?」
手の主は慧介だった。肩を掴む手にグッと力が篭り、明らかに警戒心剥き出しの表情に、周りの部員も宇佐美を睨む。確かにこの状況だけを見ると男子高生をナンパしているようにしか見えなくもない。宇佐美はそんな彼らをつまらなそうに見やり、ため息をつく。
「キミらの意見を訊いてるんじゃない。叶人君の意思を訊きたいんだよ。ねえ叶人君。俺のものになって?他の画家に盗られる前に!君の!美しい姿を残したいんだよ、俺に描かせて?」
(宇佐美さん、言い方!!それは変態にしか聞こえない!普通にモデルになってって言って!!)
慧介たちもこの発言には引いたようで、何だこいつ…とたじろぐ。叶人はこのままついて行ってしまったらどんな目に合うかもしれないかを悩みに悩み、そして答えをくだした。
「モデルになるかどうかは別として…僕、美術に興味があるんです。今度宇佐美さんの絵を見に行かせてください」
話はそれからです、と。叶人が美術に興味があるのは本当だった。昔から絵を描くのは好きだし、小中学生のときは毎年、絵画コンクールで賞をとっていた。それらは全部机の引き出しにしまってある。
「わかった。必ず君を落としてみせよう」
では暇があったら電話してくれ、と踵を返すと車に乗って去って行った。しばらく一行はポカーンとしたまま門を見ていたが、野球部顧問の一年生を呼ぶ声で我に返った。
「叶人、あれただの変質者だからな。絵を見に行くだけなら俺も連れてけよ、危ないからな」
タオルと水筒を持って、慌ただしく帰って行った慧介たちにバイバイと手を振る。
(今日は色んなことがありすぎて頭が追いつかない…あの人…宇佐美さん、やっぱり格好良かったな…ちょっと変な人だけど…)
宇佐美の麗しい姿を悶々と思い出しながら、母が勝手に買ってきた細いフレームのメガネを外して汗を拭う。周りにはコンタクトの方がいいと言われるが、母はそれを許してはくれないだろう。
(自分で買えばいいかな?バイトしようかな…)
そんなことを考えながら、叶人は家に帰るためにバスの停留所へと戻った。
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