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第2話
―あれから一週間後。
「今日は来てくれてありがとう、桜くん。バイトは初めて?」
「こちらこそよろしくお願いします。はい、初めてです」
叶人は今日、バイトの面接に来ていた。地元の人や知り合いの出入りが多いコンビニやスーパーでは少し抵抗があったため、隣駅の近くにあるケーキ屋のバイトをすることにした。ここのケーキ屋は有名ではないものの老舗のお店で、普段来店するのはご婦人や紳士が大半である。そんな店の求人が出ていたことに叶人 は驚きを隠せなかったが、掃除やケーキの包装、会計など、素人でも歓迎するものであったから、ドキドキしながらも電話をかけた。
スーパーなどで地元の人に見られたら困るのは、母に知られることを恐れているからでもある。余計な面倒ことを増やしたくはないのだ。
幸いなことに、面接の相手は経営者である優しそうな老夫婦であった。もっと強面な男の人を想像していた叶人は、ほっと胸を撫で下ろした。
「バイトの動機はある?」
「ケーキが好きなので…」
そっかそっか、嬉しいなあと微笑む老夫婦に思わず笑みが溢れる。本当は大好きってわけじゃないけれど、この他に気の利いた動機の言葉なんて出ては来なかった。
履歴書は叶人自身で用意した。印鑑は卒業式に貰ったものがあったのでそれを使用したが母の名前を借りるのが不安だったため、近くで暮らす祖父の名前を借りた。ダメ元で電話をしたのだが祖父は叶人に優しかったため、喜んで署名をしてくれた。
「こんなかわいい子が来てくれるなんて嬉しいわァ。本当にうちで大丈夫なの?」
若い時は美しかったのであろう、いや今でも上品さが漂うご婦人が、叶人を惚れ惚れとした顔で訊く。
「とんでもないです、僕をここで働かせて下さい!」
言ってから某有名アニメ映画のシーンを思い出して、あの女の子とは違う境遇だけれども、『働く』ことに対して挑戦するということを身にしみて感じた。
改めて仕事内容、賃金、勤務時間などを説明され、叶人はそれぞれよく確認してから了承した。
叶人を気に入った二人は、すぐにでも働いてほしいといった様子だった。
その後簡単な計算のテストや挨拶の練習などをさせてもらい、無事に採用が決定した。
「では失礼します」
「はァい、来週からよろしくね」
「待ってるぞ〜」
ぺこりとお辞儀をして、裏口から出る。表の道に出た途端に肩の荷が下りる感じがした。
「思ってたより緊張してたみたいだ…」
(でも無事に合格してよかった)
ホッとしながら駅に向かおうとすると、急にお腹が鳴り出した。今日は土曜日。いつものように母は『急用』で家にはおらず、手紙と一緒に朝食とお金が添えられていたが食欲がなくそのままにして来てしまったのである。道路の向かいにあるコンビニに入り、叶人が何を食べようか品定めをしていると、ねえ、君。と声が掛かった。
見ると30代くらいの中肉中背の男が立っている。叶人に見覚えはない。全くの他人である。
「何ですか?」
「いきなりごめんねェ、君さ、モデルに興味ない?」
「特にないですけど…」
(またか)
ハァーっと溜息をつく。今の今までいい気分であったのに鬱陶しいスカウトに捕まるとは。
「マジ?ちょっとメガネ外してみてよ」
「ちょっと、やめてくださいっ」
「騒がないでよォ、ちょっとだけだってェ」
ぐいぐいと腕を引っ張られコンビニの外へ、路地裏へと引きずり込まれる。店員に助けを求めたが、我関せずと言った感じでスルーされる。こんなことは初めてで、男の人の力に圧倒されて引きずられてしまう。
「ぅあっ」
壁に押し付けられた拍子に頭を打ち、ふらりと身体がよろめいた。それを太い腕で支えながら強引にメガネをとる男をぶん殴りたい気持ちで睨みつける。
「やっぱりイイじゃん」
興奮気味の男はメガネを投げ捨て、叶人の体に触れようとする。その気持ち悪さに吐き気を催した時、ゴン、と鈍い音が響き、同時にグフッとうめき声を鳴らして男は倒れた。
「オイ、俺の叶人君に何してくれてんだ豚野郎」
「宇佐美、さん…?」
凛とした声に顔を上げる。おっとと、大丈夫かい?と訊きながら体を支えてくれるのは間違いなくあの宇佐美優太朗である。
「どうしてここに…」
「たまたまさ。ひどい顔色だ。可哀想に、頭を殴られたのかい?」
宇佐美さん、と消え入るような声を残して意識を手放した叶人を大切に抱きかかえると、宇佐美は伸びている男の頭を蹴り飛ばしてこう言った。
「次 姿を現したら海に沈めてやる」
まあ聞こえてはいなかっただろうが。
「ン…」
「おはよう、大丈夫?」
「わっ!!」
目が覚めると、知らない天井――ではなく、宇佐美の顔がドアップで迫っていた。叶人が寝かされていたのは宇佐美の私邸、その中の一つのゲストルームである。洒落た洋風のその部屋は、あの生活感のない自宅とは比べ物にならないくらいだ。
ふかふかのクッションから叶人はゆっくりと体を起こし、寄りかかる。体がひどく重い。宇佐美は叶人の長く伸びた髪を撫でて、ベッドに座る。
「あの、ありがとうございました」
迷惑をかけるつもりは無かったんです、と消え入りそうな声で謝る。そんな叶人の姿を見て驚いたように目を見開く。
「…叶人君が謝ることじゃないよ。あの男が元凶さ。メガネは無事だったよ」
メガネを渡されてホッとする。宇佐美をクリアに見えることができる。
水の入った透明なコップを手渡され、ひと口、またひと口飲んだ。飲み干してコップを返すと、ホテルで見そうなワゴンを引いてきて、何が食べたい?と微笑んだ。
遠慮している叶人がなかなか選ばないものだったから、宇佐美は自身が好きなステーキはどうかと訊くと、恥ずかしがりながらもそれでお願いします、と下を向いた。宇佐美はそんな様子の彼を抱きしめたい衝動に駆られたが、辛うじて我慢する。落とすまでは自制しなければならない。
(それにしても)
高校一年生にしてこの美しさ…メガネを外したので素顔が見れたが、これまで見てきた美しさとはまた違う、まだ幼さと可憐さを持ちながらも大人になりつつある眼差しに先が楽しみと言いたいところだが、先程のような下衆な輩に襲われることが増えるのではという不安の要素も持ち合わせている。それほどに魅力的な原石だ。
気道確保のためにシャツのボタンを外している時も、なんとも言えない背徳感に襲われた。すうすうと寝息を立てる少年に、本当は天使かも知れないと本気で思った。
(こんなに余裕のないのは初めてだな)
この宇佐美優太朗は勢いのまま行動するティーンエイジャーとは違うのだ、と自分に言い聞かせ、料理が盛り付けてある皿を一つずつテーブルに並べて声をかける。
「俺も昼食がまだなんだ。一緒に食べよう」
「とても美味しかったです、ご馳走さまでした」
「それは良かった」
久しぶりに食べたステーキは、叶人の細い体に染み渡るのがわかるくらい美味しかった。
(こんな格好いいのに料理もできるなんて…いい旦那様になるんだろうな。父さんとは違って…)
叶人の実父は今やどこにいるのか分からない。小学校高学年になったあたりから行方不明である。
妻子がいるにも関わらず女癖が悪かった父。家に帰らないなんて事はしょっちゅうで、たまに帰っきてたと思ったら酔っ払って幼い叶人に絡み、体を執拗に撫で回す。当時は戯れているだけだと思っていたが、今思えば性的虐待の一歩手前である。手を出されなくて良かったと心底思う。
母もそれを止めても自分に被害が及ぶのが嫌だったのか、それとももう諦めていたのか、その現場を見てもスルーする一方だった。
その時から他の男を見つけていたのだろう、母も家に帰らなくなった。父が離婚届を置いて消えた日も、母は何も言わずに記入して役所に持っていった。十中八九どこかの女と駆け落ちでもしたのだろうと叶人は勝手に解釈している。借金を作らなかったことだけは感謝している。
(こんなに差があるもんなのか…)
叶人はおもむろに目の前に座っている人を見る。ハーフの様な綺麗な顔を引き立たせるようにセットされた黒髪。清潔感あふれる白いシャツにベスト。口元を丁寧にナプキンで拭い、それを畳んで脇に置く。たったそれだけの動作が、より一層宇佐美の美しさを引き立たせる。
「俺の顔に何かついてるかな?」
ボーッと眺めていたのに気づかれて、叶人はしまった、と目を逸らす。じんわり赤くなる頬が憎い。
「可愛いね」
「っ!」
ふわり、と大きい手が叶人の左頬をなぞる。そのまま顎を持ち上げられて、否が応でも宇佐美を見ることになり、ボッと赤面する。
そんな様子を見て楽しんでいるのか唇に親指を押し付け、ゆっくりとなぞる。そのまま宇佐美は立ち上がり、テーブルを挟んで近づいてくる。
(な、なにこれどういう状況!?)
鼻と鼻がくっつきそうになった時、宇佐美は不意にニッコリ笑って軽く頬にキスをした。
「食事のお代だよ」
「なっなっっ!」
触れられた所がたちまち熱を持ち、火が吹き出そうなくらいだ。アハハ、と楽しそうに笑う彼は、
「そうだ、ついでに俺のアトリエに招待するよ」
とまた笑った。
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