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第3話

「わ、すごい…!」 「フフ、ありがとう」  すっかり体調を立て直した叶人がつれて来られたのは、宇佐美邸とは別の、少し古びたアトリエだった。 (家も凄いけど、こんなアトリエまで…本当に画家なのか!?随分若いし御曹司とか?)  と、若干引き気味で中を見渡す。外から見た目通り、明るい木目を基調とした壁、天井から吊るされたいくつものアンティークな電球。所々に恐竜や鳥のオブジェもある。シンプルで使い込まれた作業台には様々な色の石が散りばめられ、窓から差し込む大陽光に反射して輝いている。壁には宇佐美が描いたらしい色とりどりのキャンバスがそこらじゅうに立て掛けられていた。もう一つの机には絵の具や、ステンペンディングナイフなど絵を描くのに必要な物がきれいに並べられている。その側には画架が置かれ、制作途中であろうキャンバスが立てかけられていた。  油絵の具の独特な匂いがツンと鼻をつく。  こういう、整頓されているんだかいないんだかよく分からない、でもすごく魅力的な空間が好きだ、と叶人はしみじみと思った。 「随分、気に入ってくれたようだ」 「はい…とても。」 「今、制作中の絵があるんだが。見てくれないかな」 「本当ですか!是非見たいです」  こちらにおいで、と手を引かれ、画架に掛けられたキャンバス見て、目を見張った。  油絵。自然豊かな森の中で佇む、一人の少年が描かれている。本を片手に、こちらを振り返って、きょとんとしているような、それともこちらを静かに見据えているような。鬱々しているような、軽やかであるような。そんな不思議な顔をした少年だ。それはどこか… 「君だ」 「あ、え…」 「すまない、勝手に描いてしまって。どうしても我慢できなくてね」  ごめんね、怒らないでおくれよ、と顔を覗きこまれて、とうとう叶人は赤面し、狼狽した。 「そんな、怒りませんけど、えっでも…僕、こんな…」 「うん?」 「こんな、…僕じゃないです」 「…え?」  ぽそりと、僕はこんなに綺麗じゃないです、とつぶやいた叶人の瞳に、大粒の涙ができている。 「か、叶人くん?」 「あ、いえ、これはっ…」  すごく、嬉しくて。    自分自身をこんなに美しく描いてくれた感動に涙しながら、そう吐露した。その様子を呆気にとられた様子で見ていた宇佐美は、 「……あ、ああ…駄目だな、描き直しだ」  そう、さも当然のように返した。 「え?」    「記憶の中でしか描けなかったからか…こんなことなかったのに……君がここに来てくれて良かった。君の美しさをこれっぽっちも表現できていなかったよ…」 「え?え?」 (どういうこと!?この絵の僕すでにゴリゴリに美化されてると思うんだけど!!)  新しいキャンバスを用意するから待っていてね、と言うがいなや、壁に立てかけられていた油絵用の画布の、叶人の身長のうちの半分以上あるサランラップのようなロールから紙を出し、ぢょきぢょきと切っていく。母の化粧台の鏡くらいのそれを流れるようにキャンバスに張り、さあ出来た。と笑顔を向けた。 「まずは君の顔を描きたいな。いいかい?」 「でも…」  本当に僕でいいんでしょうか、と出かけた言葉を飲み込む。それを何と思ったのか、画架にキャンバスをセットした宇佐美は、部屋の奥からアームチェアを担いできた。どすん、と叶人の隣に置いて、布で拭き始める。フレームが金のロココ調の豪華な椅子である。背もたれと座面にはワイン色の革が張られ、座り心地が良さそうだ。はてなマークが離れない叶人を横目に心の中で君は特別だから俺のお気に入りの椅子に座ってもらう、と呟いた。座面をぽんぽんと叩いてここに座るよう促す。 「さあできた。ここに座ってくれ」 「緊張しないで、ただジッとしていろって訳じゃないから。話しながら描く」 「…分かりました」  叶人は観念した様子で、慎重に腰を掛けた。ふかふかだ、と呟いたことに満足げに頷いて、パレットに絵の具を出し始める。 (よくよく考えてみたら何を話せば…) 「…宇佐美さんはおいくつなんですか?」 「ん?んー…内緒。幾つに見える?」 「えー?見た目は…二十…二歳くらい…?」 「嬉しいなあ」  宇佐美は愉快そうにフフフと笑って叶人を見遣り、そしてキャンバスに視線を戻す。ペタ、ペタ、と筆がキャンバスを叩く音が心地よい。 「あの日…いきなり話しかけてごめんね。怖かっただろう?」 「あ、いえ…気にしないでください」 (超超超嬉しかったので!!!) 「…ありがとう」  そのまま他愛のない話をしながら、宇佐美は筆を進めていった。そしてようやく夕日が地平線に沈み始めた頃、絵が完成した。 「俺の我儘に付き合ってくれてありがとう。おかげで満足いくくらいの絵が描けた」 「いえ、画家さんに自分の肖像画描いていただけて光栄なかぎりです…」  乾いたらまた見せるね、とさり気なく[次]の予定を約束してくれる。  暗いし危ないから、と遠慮する叶人を押し切り、あのクーペに乗り込んだ。途中、宇佐美のお気に入りのレストランで食事をして、家の近くの公園まで送ってくれた。空はすっかり暗くなって、キラキラと星が瞬いている。  宇佐美は車窓から頭を出して、 「俺が払うつもりだったのに」  と拗ねた顔をするので 「お昼も頂いたのにそんなことできませんよ。送っていただいてありがとうございました」  と微笑んだ。それではおやすみなさい、と続けようとしたとき、後ろから声がした。 「叶人(かなと)?」 「!?…なんだよ、慧介(けいすけ)か。びっくりさせないでよ」  そこには慧介がいた。部活帰りなのだろうか、制服を着ていて、肩に野球部のリュックサックを引っ掛けていた。慧介はちらりと宇佐美を見遣り、顰めっ面で睨む。 「別にさせてねぇけど…てか、何でコイツいんの?ついにストーカーか?おい」 「ハァ…?」 「ちょっと、慧介ッ?やめてよ、これには事情が…」 「それは後で訊くけどな、こんな夜まで未成年連れ回してんじゃねえよ。叶人お前何もされてないだろうな?」  慧介にガッと肩を掴まれた叶人はその言動に驚きつつ、やんわりと押し返した。 「宇佐美さんはされそうになったとこを助けてくれたんだよ。僕が落ち着くまで介抱してくれたの」  ですよね?と同意を求められ、そうだ、と答えた宇佐美はどうもこの野球少年が気に入らない。まるで番犬のように宇佐美を警戒し吠え、叶人には指一本触れさせないといった態度が実に不愉快である。  叶人に出会ったあの日、大人げなくこの慧介という少年に反論してしまったことを格好悪く思って引き摺っているので、今は何も言わないが。 「ふうん…まあ今はそういう事にしといてやるよ。ほら、帰るぞ」 「あ、うん。それじゃあ、おやすみなさい」 「おやすみ。また今度ね」  にこやかに手を振り返し、宇佐美は去っていった。 「最初から最後まで格好良かったな…宇佐美さん…」  と、うっかり内心を零すと、ギョッとしたように慧介が頭を小突いた。 「お前、少しは警戒しろよ…」 「宇佐美さんはへんなことしないもん。慧介こそ、年上に対してあの口のききかたはないだろ」 「あんな胡散臭いやつに敬語なんか使うか。明日、今日のことちゃんと話聞くからな。全部話せよ」 「わかったわかった。もー心配しすぎでしょ」 「フツーだろ。…じゃ、またな」 「うん、またね。バイバイ」  気づいたら自分の家に着いていた。リビングの明かりはついていないので、まだ母は帰ってきていないのだろう。  ひらひらと手を振る慧介を見えなくなるまで見送った。玄関のカギを開けて中に入り、カギを掛ける。 「…濃い一日だったな」  真っ暗のリビングを素通りしシャワーを浴びてから歯を磨いて自室のベッドに倒れ込む。夜でも湿度の高い日本の夏にうんざりしながら、緊張が解けて疲れ果てた体を起こして窓を半分くらい開ける。少しだけ快適になった、気がする。 (そういえば、バイトがんばらなくちゃ…ちゃんとできるかな…)  宇佐美でいっぱいになった頭の隅から、優しいケーキ屋の老夫婦を思い出して、そう思う。眼鏡を外してサイドチェストに置いた。部屋の白いLED照明を消して、月明かりのぼやけた視界のなか、卓上カレンダーにバツをつける。  叶人は毛布を胸まで掛けて、窓を背にして眠りに落ちた。

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